永遠に続く夏の恋の泡沫


冷たい。

寒い。

苦しい。

寂しい。

自分が今どんな形(なり)をしているのか。

人の形をしているのか、それともただの泡沫になり果てたのか。

それすら、確かめるすべもない。

『大丈夫だよ』

その手は、あたたかかった。

『もう泣かないで』

その瞳は、優しかった。

彼に救われてはじめて、私は孤独から解放された。
「……トントン、トントン」

虫の音響く窓を開け放ったままの部屋に、そんな声がおぼろげに聞こえたのは真夜中のことだった。

「うーん……」

ベッドを覆う蚊帳の中で、私は寝返りを打つ。

「トントン、トントン」

「……誰?」

今度ははっきりと声が耳に届いて、私はがばりとベッドの上に身を起こす。

出窓に、小さな人影が見えた。
蚊帳をめくって目を凝らせば、そこには七歳くらいの子供が座っていた。

裸足に紺色の絣の着物という時代錯誤な装いのその男の子は、どういうわけか狐のお面を被っている。

そして窓を手でたたくふりをして、「トントン、トントン」ともう一度言った。

まだ、夢の続きを見ているのだろうか。
不思議と怖いとは思わなかったけど、状況が理解できない。

暗闇に浮かぶ白いお面をぼんやりと見つめていると、狐の子がこてんと小首を傾げた。

「俺のこと、忘れちゃったの?」

なんだか、とても悲しげな声だ。

「あなた、誰……?」

「龍神様の使いだよ」

ぴょんっと、狐の子が出窓から飛び降りる。

「さあ、龍神様に会いに行こう」

次の瞬間、狐の子は出窓に手をついてくるりと窓を飛び越える。

「……えっ! ここ、二階なんだけど……!」

慌てて窓に駆け寄り下を見れば、地面からこちらを見上げている狐の子がいた。

狐の子は手招きをすると、面の下からかわいらしい声を出す。

「早くおいでよ」

やっぱり、ていうか絶対に、まだ夢を見ているんだろう。

夢であることを確信しつつ、階段を駆け下りる。そして虫の音ばかりが行き交う夜の田舎町を、狐の子の手招きに誘われるがまま、早足で歩いた。
辿り着いた先は、湖だった。

夜の湖は、やはり怖いほどに静まり返っていた。
まるで世俗の雑音を、その大きな口ですべて飲み込んでしまったかのようだ。

漆黒の水面には、夜空に浮かぶ満月が揺らいでいる。
生ぬるい宵の風が、夏の香りを運んでいた。

昼間はなかったはずの、美しい蓮の花が水面に咲いている。
暗黒の世界に灯る光のように、白く輝くその花は神聖なものに思えた。

「……優芽?」

よく見ればそれは蓮の花ではなく、日の光を浴びずに育った皐月の身体だった。

戸惑った声を上げた皐月は、ゆっくりと湖から地上へと姿を現す。
海パン姿の皐月が、体と髪から滴をしたたらせながらこちらへと歩んでくる。

「こんな夜中に、こんなところで何してるの?」

「皐月こそ、何してるの?」

「泳いでたんだ。覚えてるだろ? 子供の頃、僕が夜になってからしか泳げなかったこと。今でもその癖が抜けなくて、ときどきこうやって泳ぎたくなるんだよ」

皮膚が日光に当たると炎症が起こる特殊な病気にかかっていた皐月は、昼間はいつも、湖ではしゃぐ響たちを木陰から哀しげに見つめていた。

その姿を見るたびに、胸がぎゅっと苦しくなったのを覚えている。

「狐の子、見なかった?」

「狐の子?」

「狐のお面を被った、小さな男の子」

こんな時間に湖畔に来た経緯を話せば、皐月は面白そうに笑ってみせる。

「何だよ、その話。夢でも見てたんじゃないの?」

今となっては、確かにそう思う。
その証拠に、辺りを見回しても狐の子はもうどこにもいない。

いわゆる、夢遊病ってやつだろうか?

「なんか、恥ずかしい……」

顔を赤らめれば、皐月はいつもの人懐っこい笑みを浮かべた。

「でも、ちょうどよかった。優芽も、一緒に泳ごうよ」

「え? でも、水着ないよ?」

「そのままでいいよ。どうせ、誰も見てないだろ?」

皐月は、まるで王女を迎えに来た王子のように、私に向けてしなやかに手を差し出す。

「少しだけなら……」

魔力にかかったみたいに、差し出された手に自ずと手を重ねていた。
泳いでいたせいだろう、皐月の掌はすごく冷たかった。

私たちは手をつなぎ合ったまま、ゆっくりと湖に身を浸した。

「あれ、意外とあったかい」

「でしょ?」

「大丈夫? 怖くない?」

私がここで溺れた経験があるから、皐月は気を遣ってくれているのだろう。

「うん、大丈夫」

自分でも信じられないほどに、湖の中は心地よかった。

誰もいない夜の湖で、私たちは手を繋いだまま仰向けに浮かんだ。

夜空に星はなく、黄金色に輝く月だけが、水面を揺蕩う私たちを見下ろしている。

感じるのは、皐月の手の感触だけ。

まるで闇に覆われた世界に、二人だけが取り残されたみたい。

それでも、皐月が一緒なら怖いなんて思わなかった。

目を瞑り、水流に身を任せる。

心地よさから眠気に襲われた時、ふと掌から皐月の感触が消えているのに気づく。
「あれ……、皐月?」

急いで水中に身を浮かし、皐月の姿を探した。
だけど四方には真っ暗な湖が広がっているだけで、皐月はどこにもいなかった。

「皐月……っ!?」

その時、水中からぐっと何かに足を引っ張られる。

「……きゃっ!」

かろうじて悲鳴を上げることは出来たけど、次の瞬間には、私の身は水中に引き込まれていた。

白い泡が、上へ上へと昇っていく。

そこは、音の存在しない世界だった。
だけど不思議と淡い光に満ちていて、目の前で皐月が悪戯っぽい笑みを浮かべているのが、何となく見えた。

皐月が、私の体を自分の方に引き寄せた。そして強く抱きしめると、水をひと掻きして、私もろとも水面から顔を出す。

「ぷはっ!」

長い間水の中にいたから、私の息は切れ切れだったけど、皐月は余裕だった。そして肩で息をしている私を見て、面白そうに笑う。

「もう、びっくりさせないでよ!」

「前は、逆だったのにね」

「逆って、何が?」

「水中ではいつも僕の方が息が続かなくて、優芽は勝ち誇ったような顔してた」

「そうだった?」

「そうだったよ」

そう言った皐月の眼差しは、どこか大人びて見えた。

「ねえ、皐月」

「うん?」

「私ね、子供の頃、皐月と夜に一緒に泳ぐのがすごく好きだった」

「僕もだよ」

「それに、今も……皐月といるのがすごく好き」

期せずして、皐月に告白してしまったような状況になり、急に恥ずかしくなる。耐えかねて俯けば、皐月がそっと私の額に額を寄せて優しく言った。

「僕もだよ」

ああ、やっぱり私は皐月が好きだ。

できるなら、ずっとこのまま身を寄せ合って、皐月と一緒に永遠に湖に浮かんでいたい。
龍神祭の宵が来た。

普段は湖のさざめきと虫の声ばかりの町が、にわかに人の声で活気づく。

空が藍色に染まる頃、龍天神へと続く階段に吊り提げられた提灯に、橙色の明かりがぽつぽつと灯った。

浴衣を着た人々が下駄の音を響かせながら山上へと列を成し、夏の夜風が笛と太鼓の音を運ぶ。

人々の笑い声に包まれる竹林に囲まれた神社を、蜜柑色の月がじっと見下ろしていた。

「……きゃっ」

階段を駆け上がってきた小学生の集団に圧され、体がぐらついた。
草履には慣れていないから、バランスをとるのが難しい。

だけど、ひっくり返りそうになった私の手を、響の手ががっしりと捉えてくれた。

「大丈夫?」

「うん、ありがとう」

夕方に、私たちは石段の麓で待ち合わせをしていた。皐月は、少し遅れるらしい。

日方と彼方は、もちろんそれぞれの彼女と浴衣デートだ。

双子だから好みも似るのだろうか。
よく似た雰囲気の、ふんわりとしたかわいらしい女の子を連れた二人は、へへんと自慢げな視線を私と響に残して先に石段を登って行った。

どうにか体勢を持ち直し、隣にいる響を見上げる。響は安心したような笑みを浮かべたあとで、「ごめん」と慌てたように私から手を放した。

「助けてくれたのに、謝らないで」

響には、約束通り、今日告白の返事をするつもりだった。
だけど、この先も響とは友達でいたいって思う。

「だって、付き合ってもない男と手なんか握り合ってたら、やっぱマズいだろ」

「響は、別だよ」

カラン、カラン。足元で、草履が鳴り響く。

「響は、大事な友達だから」

そう言った瞬間に、妙な違和感が私を取り巻いた。

辺りの喧騒が遠のき、世界が停止したように錯覚する。

カラン、コロン、カラン……、

石段に掛けた足を止める。

あれ?

私、今響のこと”友達”って言った?

違うよ、響は……。

心の奥で、別の自分が何かを言いかけた。

「そっか」

響の声で我に返れば、寂しげにこちらを見ている彼と目が合った。

「やっぱり、俺じゃダメなんだな」

「え?」

「だって今、“大事な友達”って言っただろ。それが、優芽の答えだろ?」

今すぐ、響に告白の返事をするつもりではなかった。だけど結果としてそうなってしまい、一瞬言葉を失う。

「皐月が好きなんだろ?」

「……うん」

「ずっと知ってた。でも、自分の気持ちを伝えずにいられなかったんだ」

「ありがとう、響」

響は、子供の頃から真っすぐな人だった。それに周りを明るくする力を持っていて、いつだって彼の周りには人が絶えなかった。私にはないものを持っている、いわば憧れのような存在だ。

「皐月が来るまでは、俺といてくれるだろ?」

「うん、もちろんだよ」 

良かった。響とは、この先も友達でいられそうだ。
提灯の明かりだけが頼りの境内で、響と綿菓子を買っておみくじをして盆踊りを見た。

金魚すくいの屋台を眺めていると、響が「俺がとってやる」と言いだした。
だけど一匹も取れなくて、響は肩を落としていた。

そういえば、去年も同じようなことがあった気がする。
細かい作業が苦手な響は、金魚すくいが得意ではない。

「響、頑張ってくれてありがとう」

項垂れている響に声をかければ、響は少しだけ笑顔を取り戻してくれた。

その時。

『トントン、トントン』

不思議な声が耳もとで響き、私ははっと顔を上げた。

間違いない。前に聞いた声と、一緒だ。

『トントン、トントン』

必死に辺りを見回せば、人々であふれかえる境内の向こう、鬱蒼と生い茂る竹林の中に白い顔が見えた。

狐のお面にかすりの着物。いつかの晩の、狐のお面の男の子だった。

狐の子は私と目が合うと、手招きをして竹林の中へと走り去っていく。

「待って!」

気づけば、私は無我夢中で走り出していた。

人々の隙間を縫い、竹林の中へと入り込む。

竹ばかりの真っ暗な山の中で、ぼんやりと光が浮かび上がるかのように、奥へ奥へと駆けて行く狐の子の後姿が見えた。

「あなたは……、誰なのっ?」

息せき切りながら、声を絞り出すように叫んだ時。突如ぐらりと視界が変わり、お尻に強い衝撃を感じた。

「いったぁ……」

竹林の中、まるで誰かが細工したみたいに、突如ぽっかりと穴が開いていた。勢い余ってそこに落下した私は、穴の底で派手な尻餅をついたのだ。

せっかくお母さんに着つけてもらった浴衣が、土にまみれて乱れてしまった。
お尻をさすりながら、よろよろと立ち上がる。

穴は私の背丈よりも深く、簡単には登れそうにない。

どうにか土壁に手足をかけても、滑ってまたすぐに尻餅をついてしまう。

途方に暮れた私は、穴の奥底に座り込んだまま上空を見上げた。

境内からそんなに遠く離れてはいないはずなのに、ここには笛の音も人々の喧騒も届かない。

夜風にサワサワと揺れる竹の音だけが、まるで生き物の鳴き声みたいに響いていた。

辺りは信じられないほどに真っ暗で、見える明かりと言えば月の色だけだ。

湖に落ちたときの状況に重なって、胸の奥底から恐怖心が這い上がってきた。

怖くて、怖くて。

闇に、見えない何かに、今にも食べられてしまいそうで。

不安で、悲しくて……。
「優芽」

誰にも気づいてもらえない哀れな私を救ったのは、そんな優しい声だった。

「優芽、大丈夫?」

私は、この声を知っている。

子供の頃からそうだった。
あの夏も、この声を聞くと毎夜気持ちが安らいだ。

見上げれば、穴の淵から皐月の綺麗な顔が私を見下ろしていた。

「皐月……」

「上がって来れる?」

差し出された手をつかめば、さっきまでのことが嘘みたいに、穴から這い上がることができた。

サワサワと揺れる竹林の中で、皐月が優しく私に微笑みかける。

皐月がいれば、暗闇ですら尊いものに感じる。
皐月の綺麗な笑顔を、引き立ててくれるから。

だからもう、怖いなんて思わなかった。
それなのに、どういうわけか涙がとめどなく頬を伝う。

「優芽、どうして泣くの?」

こてん、と皐月が首を傾げる。

「そんなに、怖かった?」

「うん、そう。怖かった、でもあれ? もう怖くないはずなのに……。でも、なんか……」

皐月は、黒い浴衣を着ていた。まるで夜の湖のように、永遠に果ての見えない黒だ。

ぎゅっと、皐月の浴衣の袖を握り締める。

「皐月が、どこか遠くに行ってしまいそうで……」

可憐に微笑んだ後で、皐月は顔を近づけると、額をぴったりとくっつけてきた。

「大丈夫、ここにいるよ」

「……うん」

「どこにもいかないよ」

「……うん」

「ずっと、優芽のそばにいるよ」

「うん」

それから私の耳もとに唇を近づけた皐月は。

囁くように、好きだよ、って言った。
「私も、皐月が好き……」

すると皐月は、子供みたいな無邪気な笑みを浮かべた。

「それじゃあ、今夜から僕達恋人どうしだね」

いつの間にか、境内から響く笛と太鼓の音が耳に戻っている。
まるで湖の底から地上に戻った時のように、止まっていた世界が動き出す。

熱風が屋台の香りと楽しげな人々の声を運び、仄かに湖の匂いも漂わせる。
境内からの光に顔の半分だけを照らされた皐月は、「お祭り、行こっか」と私の手をきつく握りしめた。

「うん」

どうにか答えたけど、自分の顔にありえないほど熱が集まっているのがわかる。

もしもこの世で一番幸せな人は誰かと問われたら、迷いなく今の自分だと答えただろう。

皐月の手のぬくもりがあれば、もう他には何もいらないと思った。

そんな生まれて初めての満ち足りた気持ちを噛みしめながら、私は皐月とお祭りを楽しんだ。

お面屋でお面を買って、金魚すくいにリベンジする。

「皐月、すごい! 四匹もとれるなんて」

皐月のとってくれた金魚は四匹の赤い金魚だった。

「かわいい彼女に特別サービスだ」

そう言って、屋台のおじさんが黒い出目金を一匹加えてくれた。

透明のビニール袋の中で、四匹の赤い金魚と一匹の黒い金魚が、楽しげにゆらゆらと泳いでいた。
祭りの宵が、暮れていく。

盆踊りが終わり境内にいる人の数もまばらになった頃、拝殿の手前の石灯籠の辺りで数人の友達と話している響を見つける。

私に気づくと、響は怒ったような顔でこちらへと近づいて来た。

「優芽、お前どこ行ってたんだよ。急にいなくなるから心配しただろ」

そう言ったあとで、響ははたと視線を止める。
響の目線の先には、繋がれたままの私と響の掌があった。

「そっか」

呟いたあとで、ゆっくりと響は微笑んだ。

「お前ら、付き合うことになったんだ。雰囲気でわかるよ。良かったな」

「うん……」

申し訳ない気持ちで頷けば、「そんな顔するなよ」と響は私の不安を和らげるように笑ってくれた。

「おめでとう、皐月。やっぱお前はかっこいいよ」

皐月に顔を向け、響が言う。

「優芽。お前にさ、ひとつ言ってなかったことがあるんだ」

「言ってなかったこと?」

「小五の夏に、湖で溺れていた優芽を助けたのは、本当は俺じゃなくて皐月なんだ」

バツが悪そうに、響が頭をかく。

「えっ、そうなの?」

皐月を見上げれば、皐月は黙って響を見つめているだけだった。

「あの時、俺と皐月は同時に優芽を見つけたんだ。それでどっちが助けるって話になって、俺は怖気づいてしまった。でも皐月は、迷いなく優芽を助けるって奥深く潜って……。すごく、かっこよかったよ」

それなのに、と響は困惑したように言葉を繋ぐ。

「どうしてだろ。俺は自分が優芽を助けたなんて嘘を周りに言いふらしててさ。あー、はずかしい。ごめんな、皐月」

皐月に、頭を下げる響。

「でも、良かったよ。お前らふたり、すごくお似合いだ。優芽をよろしくな、皐月」

「うん、わかった」

「じゃあ、俺は先に帰るわ」

くるりと私たちに背を向けた響を、皐月が「待って」と呼び止めた。

提灯の明かりがひとつ、またひとつと消えゆく境内で、響がこちらを振り返る。

「ありがとう、響」

「おう」

響は小さく手を上げて皐月の声に答えると、再び私たちに背を向け、やがて人ごみに紛れ見えなくなった。

まるで名残を惜しむように、見えなくなった響に皐月はいつまでも手を振っていた。