あれが三年前か、と私は西新井にある高級マンションに辿り着く。このマンションの並びにRホテルがある。月日の流れを感じながら、『一五〇一』と部屋番号を押す。応答がない。もう一度部屋番号を押す。応答はないがオートロックが開いた。
 加賀美瀬理菜
 中学の同級生であり、グループに属さない私を嫌悪し、脅威に思っていた女。それでいて人一倍自尊心が強く、寂しがりやなのを私は知っている。私は中学時代、彼女に陰湿ないじめと公開いじめ両方の屈辱を味わった。上履きに画鋲が入れられ、通学鞄に給食が混在していた。修学旅行の時に私は陰毛が生えていなく、それはお前がオスだから、という意味のわからない筋の通らない解答をされ、学校の黒板に、
〝美沙 陰毛なし オスの疑いあり〟
 とピンクのチョークで書かれた。男のサル化した視線を三年間受け、精神的に塞ぎ込んだ時期もあるが、私は屈しなかった。そのときは思わなかったが、必ず私に辱めを行った張本人達に罰が下ると思ったからだ。若い時のツケは大人になってから払わなければならない。それが人生のルールであり、人生の最終地図だ。
 私は十五階まで広々したエレベーターで向かう。二十階建てのマンションの十五階部分に部屋を賃貸するなんていかにも加賀美瀬理菜らしい。究極の自尊心の塊。自分が一番じゃなきゃ気が済まない女。輪の中心でなければ、存在意義がないと思っている。裏を返せばだから精神的に弱い。あなたも殺しをやってみる?心が強くなるわよ。いや、麻痺するといった方がいいか。
 チン。
 エレベーターが十五階に着いた。私もいつか報いを受けるときが来るのだろうか。人を薬で殺し自殺に見せかけ、多額の報酬を得る。この三年間得た報酬はサラリーマンの生涯賃金の二分の一にも及ぶ。人の死がビジネスになる、というのは本物だった。そして確実に私の金銭感覚は狂い、北欧家具にしかり、高級車も実は所有している。ストレスが溜まっているときは豊でもなく、伊勢でもない、その辺のゆきずりの男と寝る。私の中にいる純粋なる精神を保つにはセックスか金を使うか、または主婦業を必死に営むしか方法はなかった。それでもどこが私の居場所なのかがわからない。豊とは口数も減り、伊勢との紺着をさすがに疑っている節もある。さらには見知らぬ家具が増え、「そのお金はどこから?」という事も訊かれた。返答は決まっている。「お隣の○○さんの主婦にネットビジネスで副業の仕方を教えてもらったの。数万円だけどね」
 だが、豊にとってはネットを巧み扱う私が面白くなかったらしい。彼は中卒でもあり、ある意味料理人として腕一本で生きてきたようなものだ。近代文明の遺物に頼らず、彼は自分の味で勝負し、自分の店でビジネスしてきた。それが女がネットという自分にとってよくわからないもので稼がれるのが嫌でも嫉妬を覚えているのだろう。しかし、私はネットで稼いでいるわけでもない。人を殺しているのだ。そのことを伝えられないジレンマもわかって欲しい。ああ、豊。罪深い妻を許して欲しい。なんて思ってる間に加賀美瀬理菜
の部屋の前に辿り着いた。
 加賀美。
 律儀にもネーププレートにピンク色の油性ペンで印字されている。ノックしようと思ったが、それはやめ、突然の来訪というサプライズで驚かせてやろうと思った。さすがに月日が経っているから容姿は多少変わっているが。
 ドアノブを捻った。鍵が閉まっていると思ったが、そんなことはなかった。お邪魔します、と私は小声で言い、土足で入った。わざわざ靴を脱ぐ必要もないだろう。実際にはハイヒールだが。どうせ加賀美瀬理菜は死ぬのだから。ゆっくりとした足取りでリビングへ向かう。全身を仄かに包み込むようなバラの香りが部屋中を席巻していた。奥の方では明かりがついていた。リビング前の最終扉を私は開けた。すると声が聞こえた。
「私の最後の鉄槌が美沙なんて皮肉ね」
 細く白い脚を組みながらチェアーに座り加賀美が言った。私は周囲を見回しながら、これはどういった偶然だろう、と思った。家具類が全てアルテックで統一されている。それもビンテージ品。彼女が座っているチェアはスツール60シリーズのビンテージ品。はじめてみる代物だ。やはり曲線美の滑らかさがこちらまで伝わり、脚ではなく頬を摺り寄せたい。
「ちょっと、脚じろじろ見ないでよ。あんたの気持ち悪い趣向というか性質は昔と全然変わってないね。でも、美沙綺麗になったじゃん」
 うざい。素直に褒めればいいのに、一言前置詞を据え置かないと気が済まないらしい。めんどくさい女であり、相変わらず孤独なのね、と目の前の加賀美を見ながら私は思った。
「久しぶりね、加賀美瀬理菜」
 私は不適な笑みを効果的に見せる。気持ち悪いと思っているなら、徐々に口角を上げていく時間差攻撃が有効だ。
「フルネームって」と加賀美はのけぞり、「ねえ、いつから殺し屋って合法的な職業になったの?」と落ち着いた口調で訊く。昔から美人と言われ続け現在に至るであろう彼女もさすがに老けた。しかし、ぱっちりとした目の睫一本、一本きれに上を向いている。すっと通った鼻梁が、作り物のように完璧なラインを形成している。そのはっきりとした顔立ちは、程度の低い男を寄せ付けるには申し分ない。利発そうで人に好かれなさそうな美人、その印象は昔も今も変わらない。
「合法かどうかはわからないけど、人の死が歴としたビジネスになることはたしかね」
 私は伊勢の意志でも継ぐかのようにドライな口調に乗せて言った。
「恐ろしい世の中。まさか、あなが来るとは思わなかったけど」
 加賀美は脚を組み直した。
「因果応報よ」
「私のこと恨んでるんだ?」 
 加賀美の問いかけに、過去のことは忘れた、と私は大人の対応を見せる。
「なんで私が死ななければならないか知ってる?」
「おおよそのことは」
 私は言った。
 伊勢から聞かされた話では加賀美の財政状態はすこぶる悪いとのことだった。しかし近年はぶりがいいらしい。加賀美が職業として生計を立てている音楽業界はCDが売れない。あの手この手でコンサートやグッズなど収益に貢献するプランを立てても移り変わりの早い昨今のビジネスでは飽きられる。飽きられ収益の基盤が崩れ尚かつ哀しみの印税が口座に振り込まれる。加賀美もその一人だ。ある程度まとまったお金が入っていた豪遊生活が徐々に衰退、焦り、心の余裕をなくし、そのダークで鬱積した闇の中、薬物に手を出し、心と体をより一層蝕み、犯罪に手を染める。薬物なしでは生きられない身体になった彼女は、とある業界の大物から麻薬のブローカーをやらないか、と持ちかけられ、薬物を横に流し多額の仲介手数料を手にする。かつての豪遊生活が始まる。が、上辺だけの人だけが彼女の周り集まり、お金と身体目当ての低俗な男が入れ替わり立ち替わり介入してくるだけだった。
「あの男が死んだ、って知ったとき、遅かれ早かれ私も消されるんだろうな、って思った」
 あの男とは、業界の大物のことだろう。おそらく別の殺し屋に消された。自然に誰にも悟られることなく井戸の底の闇を徘徊しながら。
 私は彼女を見た。
 彼女はタイトなロンTの左腕部分をするすると捲った。指先が震えている。薬物依存症に多い禁断症状の兆候だろう。裾をまくり上げた左腕には注射針の跡があり青紫色に変色し、人体というよりはゾンビのようだった。
「人の温かみの侵入を許さず、悪魔の侵入は許したわけね」
 私は皮肉を口にした。
 彼女はそれに対し首を斜めに傾け、すぐに戻し、「あなたには言われたくはないけど。殺し屋なんかに」と強気に出る。
「加賀美瀬利菜!あなたは昔から一人を恐れていた。だから私をも恐れていた。あなたの周囲にはたくさんの人間がいるようでいない。それはあなただけのことではなく、大方の人間が抱えている諸問題でもあるし、これといった解決策はないわ。でも、これだけは言える。あなたは私に言われたくないかもしれない、と罵声や怒声を振りまくかもしれないけど、人を大事に思ったり、なにか人と分かち合ったりすることを知らないから、ひとりぼっちなのよ」
 なるほどね、と溜め息混じりの声を漏らした。「それは自分に言い聞かせているようにも聞こえるけど」
 おそらく彼女の指摘は正しいと私は思う。程度の差こそあれ私と彼女は似た者同士なのだ。世の似た者同士だからこそ相手のことが手に取るようにわかり磁石のN極とN極のようにまたはS極とS極のように反発し、決して心が混じり合うことはない。なにかのきっかけで混じり合うかもしれないあ、それは稀なことだろう。
「そうともいえるし、そうじゃないともいえるわね」
「あなたも私と同じで素直じゃないわね」と加賀美は立ち上がり、キッチンに向いブランディーを取り出した。冷蔵庫からロックアイスを取り出し、ロックグラスにロックアイスを二個カランと響かせ、ブランディーを注いだ。私の分まで用意して。彼女がアルテックのチェアにロックグラスを二個持って座った。片方のロックグラスを私に差し出し、それを受け取る。
「ありがとう」その言葉に加賀美は目を見開いた。珍しい生物でも発見したかのように。
 私は彼女の真向かいにあったソファーに座った。贅沢にアルテックのビンテージのソファー。私が所有しているソファーより三万円高い。
「最後の乾杯といきましょう」
 彼女の言葉に導かれるように私はロックグラスをツァンと響かせ合わせた。その際に並々と注がれたブランディーがカーペットに垂れた。しかし彼女は気にしなかった。むしろ気にする必要もない。だって、死ぬんだから。
「結局私には何も残らなかった。たしかに周囲には誰かは必ずいた。でも長い目で見れば、結局私は一人だった。それも突然に。ブラックホールに吸い込まれたんじゃないかと思ったわよ」
 彼女の言葉に私は笑みをもらした。彼女も笑った。今更気づくのは滑稽だが、彼女の歯はところどころボロボロだった。修復不可能な夫婦関係のように。
「さっきもいったけど、多かれ少なかれ誰しも抱えている問題。あなたは〝数〟を求めた。本質はそこじゃない。どんなに周囲を飾りつけようと〝質〟が悪ければ、孤独に逆戻り」
 私はブランディーを一口、二口飲んだ。実はブランディーを飲んだことは初めてであり、頬が急激に熱くなる。だからといって高揚するよりは興奮したあとに急激に冷める心地よさがあり。誰もいない森にいるようだ。そう、安定をもたらす。
 ロックグラスを目元まで掲げ、この不思議な飲み物について思案していたとき、目の前ですすり泣きが聞こえた。一粒、一粒の涙の線がロックグラスに反射され、ゆらゆらと蜃気楼のように私の瞳に届く。この場所には音楽が必要だ。孤独な人間は音を求める。いや、求めなければいけない。再生し停止し再生し停止。この循環のメロディが人々に安定をもたらし、安寧な精神をもたらす。涙の音は私を浄化する。
「泣きたいときは泣いた方がいい。すっきりするから。涙を流すことは次への一歩」
 私は彼女の左腕に視線を向け、細い脚に視線を移し、目元の涙の跡を見つめた。彼女の心が清められていく。
 そして、心が洗われた。
 死への準備。
「もう、サヨナラよ」
 私はロックグラスを目の前のテーブルにやさしく置き、ポケットから小型のケースを取取り出し、そこからカプセルを一個つまみ、彼女に手渡した。
「これが伝説の『自然死カプセル』というやつね」
 彼女は受け取ったカプセルをダイヤモンドの指輪のように掲げ、涙声で言った。その涙声はダイヤモンドの輝きより神聖なるものが感じられた。
「もし違った環境で違った場所で出会っていたら、加賀美瀬利菜とは友達として、いや、それ以上に深い関係になれたかもしれないわね」
「瀬利ちゃん、って呼んでよ」
 瀬利ちゃんと彼女はもう一度言う。
「なんで?」
 苦笑しながら私は言った。
「〝ちゃん〟づけで皆から呼ばれたことないから。それに――」
 彼女はカプセルを手に握りしめた。
「それに?」
「実は凄く近くにわかり合える人がいたんだね。それが嬉しくて。私って大事なものをいつも見過ごす。私とあなたが似ているなら、あなたも孤独なのね」
 そう彼女は言い右手を差し出した。私はそれに応える形で同じく右手を差し出した。伊勢のときもそうだったが握手というのは繋がりを感じる。セックスではない、なにかが。手相、握り方、体温、それが緊密に細密に深密に私の体内を犯していく。彼女の苦悩も、孤独の葛藤も、寂しさからの逃避も。目の前にいる彼女が闇に呑み込まれ、私を取り巻く周囲は闇に包まれ、感情の映写機を通してスクーリンに高速で映し出される。そこには感情が具現化している動物がいる。牙を剥くライオン、ゆったりと心地よい風と草木に身を委ねる羊と牛の群れ。そこに加賀美瀬利菜は歩いてく、笑みを投げかける、そして泣いたと同時に泥沼と雨期が多感なアマゾン内部に身を委ね、凄惨で残忍な思考へと陥る。大蛇が蠢き、未だに発見されずその存在を隠す新種の生物達が彼女に囁きかける。そしてヒントを得た彼女の思考は鳥になり空へ向かう。白紙の思考の地図を広げ、一つひとつ埋め、塗り固めていく。地図が完成し光が届く。
 私は右手を差し出したままでいた。しかしもうそこには加賀美瀬利菜の右手は握られていなかった。アルテックのスツール60のチェアに座りながらカプセルを飲み、安らかに眠っていた。私は彼女に最後の言葉を掛けられなかった。叶わぬ夢であり、届かぬ思い。しかし彼女にどんな言葉を語りかければよかったのか。
 彼女の涙の跡を私は指先で拭い、それを舐め体内に取り込んだ。