豊が経営するダイニングバー『スムーズ』は北千住駅西口から徒歩二分という好立地だが、いかんせん風俗営業が近場ではびこっているからか客層も荒々しい雰囲気を醸し出す人が多い。私も何度か足を運んだ。ファンデーションを塗りだくり、つけなくてもいい桃色の口紅を塗った。「今日はどうしたんだ?気合い入って」と豊が素っ頓狂な声をだしたときは、「たまにはいいじゃない」と私は切り返す。ホント、男という生き物は〝女〟という生態系を理解できないんだから、なんて歯がゆい思いを抱いた。それでも酔態を晒した常連がバーカウンターに座っていた私に絡んできたときは、ハハハ、と笑いながら豊が手を払いのけてくれた。そういうところが魅力的。さあ、私を大事にしなさい。
 前日に〝上客〟と豊から聞いたこともあり、上等な男、と勝手にレッテルを貼り、粗相のないようにしようと身なりをシックにまとめた。だからといってドレスコードではない。お尻を強調させたタイトな紺のワンピースに、カーキのカーディガン、足下は踵が高すぎて痛いけど我慢しているハイヒール。首元には天使の羽をあしらったネックレス。でも、そのネックレスはどこか今のコーデには不釣り合いな気がしないでもない。さらにはドレスコーデではない、とか言っときながら、ザ・ドレスコードに近しい服装だから笑えない。歩く度に視線を感じる。大学生風の男からの視線をスコープで狙いを定めている米兵のように感じる。若いあどけない感じは嫌いではないが、若さ、というのは得てしてせっかちな印象を抱いているため、こっちから狙い下げ。その大学生風と目が合った。柔和な笑みを返され、私も返し、彼はマックに吸い込まれた。しかし私に見惚れていたのか自動ドアに激突していた。あら、可愛い。そういう隙を見せる年下の男は嫌いではないが、自動ドアに激突、って。それはよして。漫画の世界じゃないんだから。
 私は、なんだか愉快な気持ちになった。新しい服に身を包み、女でいられる喜びを実感しているからかもしれない。耳元にはイヤホンを装着し、iPodのクリックホールを回す。朝、化粧をしていたら鏡台の上に豊の直筆の手紙が添えてiPodが置いてあった。
〝とりあえず聴いといて〟
 とりあえず、はいらなくない?聴いといて、だけでいいと思う。強制的文言が時には重要だと思う。だって、あなたのビジネスのためじゃない。聴くわよ。絶対、絶対、に。
 で、今聴いてるのだが、じっくり聴いてみると身体の内奥から興奮の火柱があがる。演奏については知識はないが、素人が聴いても文句無しに耳の奥深い井戸の底をほじくる。電撃が走る音楽に出会うと、今までこんな素晴らしく、心躍る音楽を知らなかったのか、と自己嫌悪に陥ってしまう。演奏もそうだが、なによりボーカルがいい。おそらくのど自慢コンテストで優勝するかは微妙だが、バンドの音域に合っている。だからこそ化学反応が起こり、多大なファンを獲得する(インターネットで調べた限りでは)に至っているのだろう。これを機に私もファンになりそうだ。事実、ファンになっている。洋楽というのはどこかとっつきにくい印象があった。英語だし、ジャカジャカうるさいし、性欲強そうだし、と思っていたが、実際に聴いてみると、芸術的音楽、ましてや長期的続いて認知されているアーティストというのは、内面は繊細で純粋に音楽一つを追求しているのだな、といことが伝わって来る。『Under The Bridge』を聴いて、ああ人間って孤独なんだ、て思わされる。いくら愛する人がいても、いくら実り多き人生や仕事を謳歌しても、結局一時の果実は萎み、また孤独という種を撒くことになる。そして果実が実り、種を撒く。人間は複雑で、ダークで、奥深い生き物だ。それを音という分野で切り取った感情を表現する彼らは見た目よりも心の中は複雑なのかもしれない。
 ダイニングバー『スムーズ』に辿り着いた。年季の入った木製の看板が右側に立て掛けられている。店の門構えは看板にしかりウッド調をベースにしている。足立区千住には不釣り合いな店構えだが、ぱっと見は、ほっと一息つけるオアシス的空間を彷彿とさせる。私は腕時計を確認し時間を見る。午後十九時三十分。
 扉を開き私は店内に入る。店内にはスーツを着たサラリーマンや大学生風のひょろい男性、私綺麗ですよ、とあからさまに誇示するメイクを施した女性など、それぞれカウンター、テーブル席で賑わっていた。たしかに繁盛しているらしい。活気がある。錆びれた店ならば活気もなく、どことなく従業員に覇気を感じられないが、『スムーズ』に至ってはそんなことはなさそうだ。暗照明の店内はアルコールを飲むには最適で、四方八方からは眠気を誘うようなやさしいジャズの音色が店内を席巻する。
「おい。美沙!」
 でました。家では〝おい〟だけなのに一歩外に出ると名前で呼ぶ男の自尊心砲火。その加速熱はベッドの上だけと思いきや、外では〝この美人は俺の嫁だから〟と鼻高々なのには見え透いている。まあ、夫だから、仕方がない。
「ごめん。早めに着いちゃった」
 豊が私を上から下まで低速なエスカレーターのように仔細に眺める。彼が興奮するときはよくわかる。喉仏が、ごくり、と打撃するからだ。ほら、今も。ごくり。
「二十時には来るみたいだから」
 卑猥な表情から経営者の顔になり彼は冷静に言った。
「おい豊ちゃん。まさかこんなべっぴんさんがいるとは聞いてねえぞ」
 カウンターに座っている加齢臭が漂いそうな中年の男が言った。彼は私の胸を見て、舌をペロペロと蛇のように出している。さらには、隣に座りなよ、と右手で椅子を軽く叩く。ごめん、無理。それが率直な私の感想。臭い人って苦手。もちろんまだそうとは決まってないけど。
「勘弁してくださいよ。桂さん」
 豊が困惑し、ビールでいい?と私に訊き、頷く。私はカウンターに座る。もちろん桂と呼ばれる人物から席を一つ分あけて。
「いやいや、本音を言ってるだけだよ」桂は私の胸にびっしりと視線を合わせ、腰回りに視線を向け、最後は目を合わせた。「神は一つの顔で作られたけど、でも奥さんはもう一つの顔を持つ」
「なんですかそれ?」
 思わず私は訊いた。その間に、豊がカウンターにコースターを敷きグラスビールが置かれる。私の質問を無視し桂が、まずは乾杯しよう、と声を掛けた。
 乾杯、桂の見た目に似つかわしくない甲高い声を上げる。オペラ歌手にいそうな声だ。高くも太い。髪はふさふさで、意図的に無造作にしているように見える。芸術家にいそうなタイプだ。眉太く目には強い光が宿っていた。服も質の良い黒のテーラードジャケットにインナーは白のVネック。そしてブルーデニム。体型は意外にも筋肉質なのが手首から浮き出る血管を見るとそれとなくわかる。
「で、奥さん。さっきの質問なんだけど、とくに意味はないよ」と桂は白い歯をのぞかせ、「主観的に奥さんを見たときに、僕に降ってきたビジョン」と手に持っていたロックグラスを高く掲げた。
「桂さんは、こう見えて画家なんだ。銀座で個展も出してる」
 豊は学生が知合い自慢をするように言った。なるほど、私の見る目もあながち間違ってないじゃない。微かにほくそ笑む。
「凄いですね」私の感嘆に桂が髪を搔き上げる。わかりやすい男だ。社交辞令ということをわかっていない。芸術家という人種は己に自信があるタイプと鬱屈した風情を醸し出している人種がいるが、桂に至っては前者だ。それもかなりの自信家。煽ててお酌でもして少しボディタッチでもすればコロッと札束を出すに違いない。ん?ちょっと待って!豊の妻だということを忘れるな。私は思わず自分の太腿をつねる。そのせいで黒のストッキングが軽く電線しているかもしれない。まあ、そうなったらそうなったで暗照明の力を借りるしかない。
「今度是非、お二人で観に来てよ」
 桂の軽い口調が妙に艶めかしい。
「是非、足を運ばせてもらいます」
 はたからみていて、わかりやすく、妻として滑稽なほどに豊が桂に媚を売る。まあ、世知悪い時代だ、これも営業手法の一つなのかもしれない。昔からある紺着。
「是非、期待してるよ。まあ、期待は無言の脅迫でもあるがな」
 ガハハハ、と桂が笑う。それを見て何がそんなに面白いのか私にはわからなかった。そう思った矢先に豊と桂の視線が扉の方に向かう。私も振り返り、思わず息を呑んだ。なにかしらの禍々しいオーラを放っている人物が扉をくぐってきたからだ。
「伊勢閣下のご到着」
 桂がぼそっと言う。言葉とは裏腹に彼の目からは笑みや感情は消えていた。なにやら緊張している面持ちでもある。
 伊勢と呼ばれる人物が私の前を通過し、豊と対峙し、「シャンディーガフ、辛口」と低音を響かせ言った。その声に私は胸がどきりとする。好きな音域の声だったからだ。思わずベッドシーンを思い描いてしまう。
「では僕は退散しましょうかね」桂はロックグラスの中身を一気に飲み干し帰り支度を始めた。
「君の役目は終わった」
 映画に出来そうなセリフを伊勢は放つ。彼の全身から〝危険〟なオーラが滲み出ている。ダークでもありブルーでもあり、正と悪が混在してるような色が。
 桂は私に、〝じゃあね〟という意味合いを込めたウィンクをし手を振り、一秒後には扉から消えた。どうやら画家である桂に至っては加齢臭でないことが今確認できた。
「お待たせしました。シャンディーガフ辛口になります」
 豊が幾分か丁重に伊勢をもてなす。そして伊勢が私を見る。こちらは、という一言を添えて。明らかに私の正体を知ってるのに合えて儀礼的に尋ねている節が見て取れた。
「妻の美沙です」 
 本日の二回目の豊から私の紹介。一年で二回妻の名前を呼ぶなんて、不吉。
 伊勢が強面の顔を崩し、柔和な笑みを見せる。歳は四十代後半。額に刻まれた皺が相応の苦労を物語っている。穏やかな目をしているが『スムーズ』に入ってきたときに見せていた鷹のように鋭い目つきは、常に誰かに命令を下している者特有の威厳を漂わせていた。上下グレーのスーツに、薄いピンクのワイシャツが嫌らしい。それでノーネクタイと遊び心も持っている。風情から余裕が感じられ、落ち着きを放っている。
「よろしく、伊勢です」
 私に握手を促し、それに応じた。大きい手、太い指が私の細く白い手を包み込む。ビリ、と全身を静電気のようなものが走る。握手をした時間はわずか一秒。ほんとうに一秒?彷徨っていた記憶が別の記憶同士が結びつき共振するように手と手の相性が良かった。これほど自発的で自然で斬新な握手を体感したことはない。
「大丈夫かな?」
 伊勢が私の顔を覗き込む。私は彼を見る。はっとした。彼は気づいているのだ。私の共振に。わずか一秒から感じ取った、なにかを。彼の一瞬垣間見せた笑みからそれが伺える。底の深い空洞の闇奥から微かに見える仄かな光の笑み。
「だ、大丈夫です」
 私は落ち着き払って言った。
「さすがに伊勢さんを前にして平静を保てる人物なんていませんよ」と豊が言い、「ちょっと待っててください。おつまみ出しますね」と奥へ引っ込んだ。
 さて、伊勢と二人きりはどこか気まずい。店内のミュージックはジャズからクラシックに変わった。その変遷が伊勢の到来をより一層強めた。トビウオのように鍵盤が跳ねるピアノ音。効果的なバイオリン。作曲家はわからないがピアノソナタ三重奏だろう。伊勢は微かな音を目を瞑り、小刻みに首を揺らし、リズムに乗っている。
「そういえば音楽がお好きなんですよね。とくに、『レッド・ホット・チリペッパーズ』、が」
 私は訊いた。今のタイミングで訊いてよかっただろうか。内心は不安で一杯だ。雰囲気は穏やかさを保っているが彼の表情から何を考えているかわからない。
 伊勢は目をゆっくりと開き、「そのとおりです」と簡潔に言った。
「『Under The Bridge』って素敵な曲ですね。でも、どこか孤独に感じる」 
 私の解説に伊勢が目を大きく開く。瞳が闇夜に煌めく満月のようだった。
「人は誰しも孤独を抱えています。満たされた人間でも。必ず孤独はやってきます。とくに死となって。これからはそれがビジネスとなりうるでしょう」
 彼は淡々と言った。
 うん。この人は一体何を言っているのだろう。と思わず私は首を傾げる。死がビジネスになるだとか、『Under The Bridge』の曲解説はどうしたのよ、と怒気を飛ばしたい気分だ。私はビールを一口飲む。上品に粗相のないようにエロティックに舌を垣間見せながら。
「あとで会いましょう。あなたに会いたかったんです。ホテルは予約してあります」そう言って伊勢は立ち上がり、私に一枚の名刺を差し出した。そこには会社名と代表取締役としての伊勢の肩書きがあった。裏面を見ると、Rホテル三〇三と記載されていた。
「え、ちょ、これはどういうことでしょう」
 私は突然の出来事に戸惑った。
「私がご主人に近づいたのは、あなたが欲しいからです。全てを知りたい。それに――」と伊勢は効果的な間を置き、「あなたは私に似ている。必ずあなたは来ます。遊びましょう」と言った。
 そして伊勢は消えた。圧倒的な存在感は夜風に流され、クラシック音楽に掻き消えた。そのタイミングを見計らったかのように豊が、「できました、特性・・・・・・」と目の前の現状に絶句する。それはそうだろう。伊勢がいないのだから。
「帰ったわ。用があるとかで」
 私は手に持っていた名刺をさりげなくカーディガンのポケットにしまう。そして豊と目が合う。ちょっとわざとらしかったかしら。それでも彼は尋ねてこない。
「ふーん。珍しいな。いつもは一時間はいるのに。まさか、伊勢さんの機嫌を損ねるようなことをしてないだろうな」
 なぜか豊の怒りの矛先が私に向かう。すこぶるめんどくさい。どうやらあなたの愛しの伊勢さんは、あなた目当てじゃなく、私目当てらしいわよ、という言葉が喉仏まで迫る。
「いきなり電話が掛かってきて、終わった後に、『急用が出来ました。ご主人によろしくいっといてください』とか何とか言ってあの木製の扉が出て行きましたよ」
 と私は捲し立てる。私の声と呼応としてか、店内にピアノソロが鳴り響く。
 グッドタイミング。
 しかし豊の目は細められ、どこか納得がいってないようだ。それにしても私はいつからこんな嘘がつけるようになったのだろう。人は嘘をつく生き物だ、とよく言われるが、でもこれは優しい嘘だと思う。まあ、嘘には変わりはないが。嘘は嘘。
「じゃあ、帰っていいよ」
「えっ!」
 私は思わず身を乗り出す。
「子供達が心配だ」
「大丈夫よ。あの子達は。慣れてるわ。一人で食事したりすることは」
 私はしれっと言う。
「それもある意味問題だけどね。家族のあり方として」
 突然父親面する、あんたに問題がある、と私は思ったが顔に出さず、「そうね。なら家に帰るわ」と決意を固める。些細な夫婦喧嘩は日常茶飯事かもしれないが、伊勢、という得体の知れない人物に出会った後では、尚更決意は固い。オリファルコンのように。てか、オリファルコンってなんだっけ?昔、息子がロールプレイングゲームを夢中になっているのを眺めていて、「ママ、あれ固いんだよ」と嬉々としいた深淵の記憶を呼び覚ました。
 なるほど、固いらしい。
「気をつけて」
 そう彼は言ったが、既に私に背を向けていた。店内は一体いつまで流れてるのだろうと思われるほどピアノソロが延々と続いていた。伊勢が立ち去った後の『スムーズ』は、だからじゃないだろうが、お客は私含め一人しかいなかった。これが本来の店の姿とでもいうように。