岸谷は、現場の人と同じように安全服とヘルメットに身を包んで敷地内を巡回する私の姿を可愛いと言った。倉庫で遭遇してふたりきりになったときには、私の頭を優しく撫でて、物陰でこっそりキスをした。社内ですれ違いざまに目配せされただけで、心の奥がぎゅうと締め付けられるようだった。岸谷が既婚者なのは最初から知っていた。それでもただ私は、岸谷が欲しかった。愛していると言われれば胸が高鳴った。それだけだった。
それでも、岸谷と私の蜜月はたいして長く続かなかった。
一度だけ、仕事帰りに外で待ち合わせ、岸谷とホテルに入ったことがある。私にとっては初めての経験だった。コトを終えて岸谷がシャワーを浴びている間、彼のスマートフォンがメッセージアプリの着信で震えた。
何気なく覗き込むと、そこには岸谷の妻の名前があった。不意に魔がさし、私はそっとその通知を指でなぞる。画面にロックはかかっておらず、そのままアプリが起動された。
『うん、わかった~。今日も残業お疲れ様!祐実と卓は寝ました。私も先に休むかも・・・頑張ってね』
受信した妻からのメッセージの上をさかのぼる。20:05、私たちがホテルに入ってすぐの送信履歴。
『今日も遅くなりそう。子供たちはもう寝た?負担かけてすまない。愛してるよ』
愛してるよ。愛してる。岸谷にとっての愛は、ホテルで不倫相手をこれから抱こうとするその瞬間にも、平等に妻にも降り注げるものらしい。なんて価値のないものなのだろうか。
あの日の地下鉄で私は確かに、この男が欲しいと思った。あの文字の並びを見た瞬間、こんなに醜悪でくだらない生き物がこの世にあるだろうかと思った。
本当はわかっていたのだ。愛している、と言われるたび、そんなはずがない、と答える私自身がいることを。この男が愛しているのは私ではない。十歳も離れた若い女にも恋愛対象にされるという自分自身なのだと、ほかの誰でもない私自身が知っていた。岸谷に愛していると言われれば、私はそのすべての想いをぐっとこらえ、私も、と答えていた。本当に?と聞くことは一度もなかった。
一方で、その岸谷とすぐ別れることも、私にはできなかった。初めて私を必要としてくれた男。この男の愛がペラペラの薄さであることなんてとっくにわかっていたのに、顔を見るとそれでも、いつかは本当になるのではと思わずにはいられなかった。この男の醜さを含めて包むのが愛なのではないか、とすら思った。
体の関係を持ったのはあれきりだったが、悪いことはできないものだ。私たちの関係はその後社内で告発され、私は逃げるように会社を辞めた。愛していなかったのだからと自分に言い聞かせ、たいしてショックは受けていないつもりだったけれど、明日から、明日から頑張ろうと思い、だんだんと外に足が向かなくなった。そして、今に至っている。