愛している、という言葉を岸谷はよく口にした。ずっと君を愛していると言っていた。もっと早く君に出会いたかった、一緒に幸せになりたいと、陳腐なお決まりのフレーズを、今思えば馬鹿の一つ覚えのようなローテーションで放っていた。

大学を卒業してから、血球を分析する機器のメーカーに就職した。従業員六百人程度の会社で、私は研究開発工場内にある総務部に配属された。小さな会社だから、社員ひとりひとりと顔見知りになるのが容易だった。新卒で入社する社員も少なく、同期入社は私を入れてたったの五名、女性は私ひとりだった。
「若い女性」というだけで、特に中堅以上の男性社員は私によくしてくれた。工場内を巡回していても、深田ちゃん、深田ちゃんと、気さくに声をかけてくれる。飲み会にも「女の子が来たら僕たちが嬉しいから」と誘ってくれる。ある種のセクハラととらえられるかもしれないけれど、私は悪い気はしなかった。二十二年間生きてきて、初めて「女の子」として扱われていると感じた。

岸谷はその会社の研究部にいる係長だった。年功序列の染みついた会社の中で、三十二歳で係長というのは出世が早いほうで、自分は評価されているという強い自信のある男でもあった。浅黒い肌と涼しい目元がその自信を裏付けるかのようで印象的だった。
初めて岸谷と会話したのは、入社一年目に開催された会社の納涼会だった。みんなでお酒を飲み、楽しく騒いで、三次会のカラオケ店まで移動しようとしているところで、「深田さん、終電は大丈夫なの」と声をかけてきたのが岸谷だった。
「ええと、もうそろそろ失礼しようかなと思ってたんですけど・・・」
「僕もそろそろだから。一緒に出ようか」
ひとりじゃ出づらいでしょ、と優しく微笑んだ岸谷は、酔っ払い集団の背中に「僕たち地下鉄終電なので、失礼しまーす」と良く通る声で挨拶した。その姿を見て私は、助かった、とひそかに息をついた。大人の男の立ち振る舞いだな、とも思った。
どこに住んでいるとか、どこの大学を出たとか、あたりさわりのない会話をしながら、ふたりで並んで駅に向かう。夏の夜の空気は日中の暑さが嘘のように澄んでいて、静かだった。並んで歩くと、岸谷の背は私より頭ひとつ分以上高くて、あごから鼻にかけての輪郭がきれいだな、と思ったのを覚えている。隣を歩く岸谷の温度が、触れていないのに熱っぽく感じたことも。
地下鉄の改札はもうほとんど人が見当たらず、私たちより少し先に改札を抜けた見知らぬ女性が階段を降りる、こつん、こつんという音だけが響いていた。
私が改札を通り抜けようとしたら、「あ、僕はここで」と岸谷が言った。
「え、岸谷さんもこっち、なんですよね」
「いや、実はもう僕の終電、過ぎてて。タクシーで帰るよ」
「え・・・」
「深田さんが心配だったから、嘘ついちゃった」
こつんこつん、こつんこつん。
女性のハイヒールの音がだんだん遠くに聞こえる。私は目の前の岸谷を見上げ、その目に見つめられたまま、酔いのせいで動きが緩慢になっていたのか、なぜか動けなかった。岸谷は自然な動作で手を伸ばし、私のあごを持ち上げ、唇を重ねた。ほんの少したばこの香りがした。
ゆっくり唇が離れ、もう一度岸谷と目が合ったとき、ああ、この男が欲しい、と鮮明に思ったのだ。