その日の夕方、マンション下の小さな花屋で陳列された植物を物色していると、両手に紙袋を抱えた姉の姿が見えた。久しぶりの社会復帰による疲労のせいか、心なしか朝の姿より足取りは重い。
私の姿に気が付いた姉は、あ、と声を出し、想定より大きかった自分の声に驚いたかのように慌てて手で口を押さえた。
「今帰り?」
問いかけた私に、姉は両手の紙袋を持ち上げて見せた。「女性の就職フェア」とピンク色の文字が躍る紙袋には、多種多様なサイズの求人情報が無造作に突っ込まれている。この世の中には私が思うよりも仕事があったのだな、とぼんやり思った。
いいところあった?と尋ねると、姉は無言で首を振り、薄くため息をついて見せた。いいところもなにも、どこでもいいから働けよニートのくせに、と私は心の中で毒づく。
店先で立ちつくす姉に、何かお探しですか、と女性店員が愛想よく声をかけた。あ、ええと、と姉がまごつく。
私はさきほどの母の姿を思い返した。殺風景の続いた我が家に光を見つけた、母の嬉しそうな声。
「お花、家に買って帰ったら?」
そう姉に提案すると彼女は、花?沙織がそんなこと言うなんて珍しい、と言わんばかりに目を見開いてみせた。
「花。いいじゃん。わたしのお小遣いから出してもいいよ」
「花かぁ・・・」
ひとりごとのようにつぶやきながら、姉は考え込む。姉の前でにこにこと愛想よく微笑んでいた店員に、他の客が会計をと声をかけた。その姿を目で追いながら、姉が私に尋ねる。
「ね、沙織はどの花がいい?」
「どれでもいいよ。あ、でもひとつは私がお姉ちゃんに買ってあげる。貯金、結構貯まってるの」
「え、いいよ、そんな」
「そう遠慮しないで。ほら、就職祝い、かっこ仮、で」
ええー、と口元はさも不満げに尖らせながら、まんざらでもなさそうに姉の目元が和らいだ。無意識なのだろうが、姉はいつも「まんざらでもない」態度をするのがうまい。いいよいいよ、と遠慮しながら、いつだって深田家は姉の思うとおりに、静かな強制力を持って進んでいた。
姉は昔から花をよく飾っていた。高校生のころも早起きをして登校し、自発的に教室の花瓶に花を活けていたのだ、と語っていたのは健太郎先輩だった。安定していて地味な女、決して人を攻撃することなく、ひそかに生き、ひそやかに自分だけの楽しみを見つけ美しく生きることができる女。由加里はそこがいいんだよ、という彼の声が、まだ耳にしっかりこびりついている。
私は店内を見渡し、姉に贈るにふさわしい花を指さした。この花を抱えて家に帰る姉を、居間に用意されているのであろう三人分の温かい食事を、これからあらためて続いていく姉の生活を思いながら。
「スノードロップ。これにするよ」
指さした先にある白く清廉な花を目にして、すてき、と小さくささやいた姉に、私も微笑んでみせた。