居間に出ると、母が震える声で、しかし興奮気味に電話をしている声がした。
「…そうなの、由加里がまさか出てきてくれるなんて。これから仕事も探すからね、って言って…ええ、そうなの」
電話の相手は父のようだった。社会復帰を決意した姉、世界と向き合うことを決意した姉。このところ暗いこと続きだった母にとって一筋の光といえるだろう。時折目元を抑える母の背中が目に入る。
母と姉はよく似ている。優しくて穏やかな母。家計を父の収入のみに頼る我が家の暮らし向きは決して豪華なものではなかったけれど、少なくとも家庭内の大きな諍いもなく、静かに生きてこられたのも、母の性格によるところが大きいだろう。平凡が一番難しいのよ、一番難しくて尊いの。母はいつもそう言って微笑んだ。
私はベランダに戻り、かつて大事に育てていたトマトの前にまたしゃがみこんだ。もう誰も手入れすることがなくなり、ベランダの片隅でひっそり朽ち果ててしまった私のトマト。茎というのだろうか幹というのだろうか、トマトのそれはすっかり茶へと変色し、プランターの土にへたり込んでいた。
かつてこの家は花がたくさんあった。食卓にはいつもささやかながら花が飾ってあって、母と姉が代わる代わる花屋で仕入れてきては飾り、楽しそうに花を愛でる母と姉を、父が優しく見守る。砂糖菓子のような、優しく繊細な家庭。私の育てていたトマトはそれに比較して現実だった。地に根を張り、確かに実がなり、食べることができて、栄養になる。私はいつもこの夢のような家庭に現実を持ち込む存在だった。そうありたいと思っていたからかもしれないし、砂糖菓子への抵抗だったのかもしれない。
「また植物とか、育てたいなぁ」
私のひとりごとは誰にも届くことなく、そよそよと流れる風だけが平然とさらっていった。