姉が以前勤めていた会社をやめたのは、およそ一年前のことだった。私の二つ上の姉、由加里。大学を卒業してからとある中堅企業で働いていた。昔から”そこそこ”の学業成績、”そこそこ”の範囲の交友関係、5段階評価でいつでも3.5は安定して叩き出せる姉。彼女の優れている点を挙げるなら、その安定感だった。
安定していて地味な女。決して人を攻撃しない女。目立たない人生を送ってきて、それでいて容姿も十人並みの女。彼女は勤め先の、特に年の離れた男たちによく好かれた。拒絶しない、与しやすい女として。
そんな姉が、他部署の係長とやらと不倫関係に陥り会社を辞めたのは、私にとって衝撃の出来事だった。幸いにも係長殿の奥様はいたって冷静だったようで、様々な人間を巻き込んだ話し合いの結果、姉が会社を辞めることで決着がついたそうだった。食卓に置かれた覚書を前に地蔵のようになった姉を見つめながら、私は心のなかでつぶやいた。まさかそんな暴挙に出るとは、と。同時に、わたしのなかのもう一人の私もつぶやいた。それこそ非凡を求める凡庸な女のすることだ、と。
会社を辞めてからの姉は、ほとんど部屋から出てこなかった。父も母もそんな姉を心配しつつ、食事や排せつ、最低限の生活はしていることを確認できているのだからと、しばらくは好きにしていればよい、と楽観的でもあった。部屋で何をしているかは私も知らなかった。気に留めることもなく、私はそれまで通り大学に通い、授業を受け、友人と笑い、過ごしていた。
もともと私たちは、特別仲の良い姉妹というわけではなかった。穏やかで目立たない姉と、気が強くて奔放な妹。私たちはよくそう評された。決して仲が悪かったわけではない。少なくとも姉は、私に対して感情のしこりはなかったはずだ。今までも、これからも。
私が姉の生活に寄り添うようになり、姉がその間何をしていたか知ったのはここ最近だった。部屋にいる間、彼女は一日パソコンの画面とにらめっこをしていた。インターネットで何かの記事を読み、アニメを観て、何やら掲示板サイトに書き込みをする。同じ繰り返しを一年間、よく飽きもせず続けられるものだ。あきれ顔の私を見て、姉はバツの悪そうな顔をしつつ、言った。「そのうち、前向きに頑張るから」。
その「そのうち」が今日来たということか。