健太郎先輩に姉への気持ちを真正面から問いただしたことは、一度もない。そして残念ながら、私が彼に、思いを言葉にして伝えたこともなかった。私たちの関係は微妙な均衡で成り立っていたのだ、と思っている。
それでも私には、彼には憎からず思われているという自負があった。自負というべきか、かすかな期待というべきか、今となってはわからない。もしかしたら告白すればうまくいくかもしれない、とすら思っていた。それでもごくたまに、姉の話題が出たときの先輩の様子に、私は気が付いてしまったのだ。彼から姉に向けられた好意に鈍感なままでいられるほど、私は立ち回りのうまい人間ではなかった。
一年前、姉の不倫騒動について「相談」という名目で私は健太郎先輩を呼び出した。私たちがふたりきりで出かけたのは、あとにも先にもあれきりだ。
姉の不倫を知ったときの私の気持ちは、形容しがたい。一緒に生まれ育った姉の知られざる一面への純粋な驚きと、不倫という行いへの軽蔑。その次に生まれたのは、この出来事を彼に知らせなければならないという使命感だった。今こそ彼の感傷とも偶像崇拝とも呼ぶべき姉への感情を正すべきなのだ。そうすることが先輩のためなのだ。
私は嬉々とした感情をひた隠しにしながら、健太郎先輩を渋谷の居酒屋に呼び出した。ふたりきりでお話ししたいんです。姉のことで。
我が家に起きた不倫騒動の顛末を黙って聞き終えた先輩はしかし、姉の肩を持った。押し切られたのかもしれないし、事情があったのかもしれないと、その場にいない姉を、まるで労わるかのようなトーンでかばったのだ。目の前の私ではなく、姉を選んだのだ。
カッとなって、不倫をかばうなんてサイテーと言い放った私に、健太郎先輩は少し面倒くさそうな目を向けて、ため息をついた。じゃあどう言ってほしかったんだよ、と。お前、どうしたいわけ?と。
姉じゃなくて私を見てください。私を愛して下さい。そうは言えず、私は黙って唇をかみしめた。
気まずい空気を抱えたまま店を出て、渋谷駅に向かう帰路の途中、私は周囲の喧騒を遠くに感じていた。ざわざわ、ざわざわと、焦る私の心の音しか聞こえない。ラブホテル街に入る横道の手前で、祈るような気持ちで、少し前を歩く彼の服の裾をつかんだ。ここで別れたら、もう二度と先輩を取り戻せないような気がした。
「ねえ」
先輩が立ち止まって振り返る。鬱陶しそうにも見える表情だった。
「キスして」
高校時代と変わらない身長差の私たちだったけれど、私はもうあのときのように上目遣いをするのをやめた。まっすぐに顔を向けて、じっと健太郎先輩の目を見つめた。
先輩は戸惑いの色を浮かべて、少し周囲の目を気にするように視線を動かした。この人が姉への微妙な気持ちを抱えながら、それでも複数の女性と遊んできたことを私は知っていた。この場所でこうやってねだることの意味が伝わらないほど愚鈍ではないことも。
健太郎先輩の手を握って横道に入り、自販機の影に引き入れた。もう一度顔を見つめると、先輩はどうすべきか迷っているような表情のまま、私の左頬に優しく触れた。
長い時間、そうしてただ見つめあっていたと思う。
しばらくして先輩はそっと視線を外し、私の頬から手を離して、ごめん、と言った。左頬のかすかな温もりが消えていくのと、人混みとラブホテルの悪趣味なネオンが視界の中で滲んでいくのを、絶望的な気持ちで知覚していた。
ばかじゃないの、あんな女なんて。私はそうつぶやいた。私のほうがずっと可愛いし、ずっと、ずっと。そこまで言っておきながら、「ずっと好きだった」とは言えなかった。しっかり終わりにされるのが怖かった。押し黙ったままうつむいて、健太郎先輩の両腕をグーでたたき続けた。もう一度、ごめんな、とだけ先輩は言った。どんな顔をしていたか、見られなかった。見たくなかった。
あの日以降、健太郎先輩と話すことは二度と無かった。