やっぱりお酒を飲みながらっていうのが楽しいのよね。バーカウンターのような場所に腰を下ろしていたエイミーが、僕に向かってそう言った。
 気がついた時には、エイミーの顔がこっちに向いていた。いつから見られていたのか? 妙な気恥かしさを感じながら、エイミーの隣の席に腰を下ろした。カウンター席でエイミーと並ぶ日が来るとは想像もしていなかった。しかも、二人きりで。
 そうなんだ。僕は腰を下ろしてようやく気がついた。雄太と昭夫がいなくなっていることに。いつからだろうかと、落ち着きなく辺りを見回していると、ここに入って来た時からよ。とエイミーが言った。あいつらは別の場所に向かって行ったみたいだね。あっちのプールで泳いでるのかもね。
 確かに雄太と昭夫ならそうしているかも知れない。あの二人は本になんて興味もないし、可愛い子がいそうな方に足を運ばせるのがらしいっていえばらしい。けれど、未知の場所で僕を一人置いていくなんて薄情だと思ったよ。
 ウィスキーでも飲むかい? エイミーにそう言われ、キョロキョロするのをやめた。あの二人なら、探さなくても大丈夫だと思った。すぐに僕を探してこっちに来るだろうって勝手に安心していた。
 お酒は好きなようだね。まぁ、そんな酔っ払いの本を読むくらいだから、当然なんだろうけれどね。
 好きは好きだけど、死ぬほどには飲まないよ。僕がそう言うと、エイミーは歯をむき出して笑った。
 そいつはいい心がけだよ! そう言いながら僕の肩に手を乗せた。それでもどうしようもなくなることがあるんだよ。あなたにもきっと、分かる日が来るわよ。きっとね。
 エイミーの言いたいことは分かるけれど、僕は同意も否定もしなかった。ただ運ばれてきたスコッチをストレートで口に運んだ。そして一口で飲み干す。
 ここが楽しいのはね、お酒が飲めるからってわけじゃないのよ。色んなものが揃っているってこともあるけれど、それだけでもないのよね。あなたをここに連れてきたのはね、理由があるってことよ。
 エイミーはそう言いながらグラスにウィスキー注いだ。あなたはそっちが好みなの? 僕の前にはまた、スコッチがワンショット置かれていた。
 私はアメリカ産のウィスキーが好きなのよね。水で割ったこの香りに恋をしているの。何故だろうかね? スコッチは肌に合わないのよね。私には、故郷の味とは呼べないのよね。
 エイミーは、グラスを僕の視線に差し出し、あなたがこの世界に来たことに! そう言いながらグラスをゆらゆらと回した。さぁ、あなたも飲みなよ。
 どうやらエイミーにとっての乾杯のようなものだったらしい。僕も真似をして、憧れのあなたに出会えたこの日に! なんて言ってグラスをゆらゆらと回した。
 静けさの中の騒音は、耳に纏わりつく。聞きたくもない言葉が聞こえてきたり、物音に会話や妄想を邪魔されたり、なんだか少し落ち着かない。
 あなたにはまだ分からないようね。落ち着かない理由はなにかしら?
 エイミーは僕には視線を向けずに、グラスを持ち上げて琥珀色のウィスキーを見つめている。
 ここはね、こういう場所なのよ。洒落た空間ではあるけれど、余計な演出は一切ない。慣れると妙に心地がいいのよね。田舎の夜道を散歩している感覚よ。
 そうか? 僕の知っている田舎はこんなに騒々しくはないけれどな。
 それって、人が少ないからよね?
 人が少ないから田舎なんじゃないの?
 そうかしら? 人は少なくても、虫や動物なんかは一杯いるわよ。時期にもよるけれど、結構騒々しいのよね。それもまた、いい心地なのよ。
 それと人間のとは違うんじゃないの? 僕はそう言うとスコッチに口をつける。そこはとても不思議なバーカウンターだった。僕が次の一杯を欲するタイミングで、自然と新しいグラスがやってくる。しかも、その時にあった好みのスコッチが注がれている。スコッチといっても、種類は様々で、その味には違いがある。その他のウィスキーも同然なんだけれど、やっぱりスコッチに偏ってしまう自分がいる。
 あなたのそういう考えは好きになれないわね。人間ってそんなに特別なの? 虫ケラとの違いってなぁに? あなたが感じる騒音なんて、所詮は虫ケラの囀りなのよ。
 エイミーは至極当然なことだとでもいうようにそんなことを言った。今の僕はそれを至極当然だと思っているけれど、この時は違っていた。
 とにかく今を楽しんでみたら? ここになにが足りないのかは分かってるんでしょ?
 エイミーのそんな言葉を聞いて、僕は改めて考えた。この静けさの原因を。
 僕は鼻歌を奏でた。そして気がついた。
 音楽がない!
 僕たちの世界では、常に音楽が流れている。街を歩いていても、駅のホームでも、どこからともなく微かに聞こえてくる音楽がある。ショッピングモールではそれぞれの店から別々の音楽が聞こえてくる。
 それはとても自然なことで、風や虫の音色を感じるのと同じように聞こえてくる音だった。車や工場などからの騒音だって自然な音楽としてこの耳は捉えていた。僕たちにとっては、それが自然だった。
 エイミーの言葉を聞くまでは、そうだった。けれど、生まれて初めての音楽のない空間は、初めはとても耳に痛かったけれど、次第にそれが本来の自然な環境なのかも知れないと感じるようになった。
 人間だって、自然の一部なのよ。エイミーはそう言う。この騒音も、鳥の囀りみたいなものよ。
 だったら音楽だって、自然なんじゃないかって、僕は感じた。僕たちの世界は音楽に溢れていたけれど、それを止めることは可能だった。公園では静かな音楽がそれと知らずに流れていることもあるけれど、住宅街では知らずに漏れてくる音楽が溢れているけれど、人気の少ない夜道や個人の部屋では、音楽を消すことが出来るし、実際にもそんな環境は多く存在している。
 音楽って、物凄く自然なものなんだけど、物凄く不自然でもあるのよね。なんていうか、自然の模倣なんじゃないかな? 情景や感情を表現しているんだから、そう考えると当然なんだけどね。いざこうやって音楽を無くした空間にいると、なんだかとても落ち着くのよ。
 少しずつだけど、僕は音楽がないことを受け入れ、周りの騒音が鳥の囀りの如く心地よく感じ始めていた。
 私たちはね、どんなに偉そうにしていても、所詮はこの世界の一部ってことよ。ここだって、異世界ではあるけれど、人間のための異世界ってわけじゃないのよね。
 エイミーの微笑みの理由は分からなかったけれど、僕は頷き、そうだよね、なんて言ったんだ。
 なんだかいい雰囲気じゃんかよ!
 背後からそう声をかけられた。誰だよ! なんてことを言ったけれど、それが誰かなんてことは明らかだった。その声、その空気、雄太と昭夫しかいなかった。というか、この世界で僕を知っている人間なんて限られている。その時点では。
 なんかさ、やっとこの場所のよさに気がついたんだ。僕はエイミーに顔を向けたままそう言った。
 これがね、私たちにとっての自然なのよ。はっきり言うけれど、作られた音楽は雑音でしかないの。私の音楽だって、ここでは耳障りよね。ジョンが作る曲だって、自然にはなれないのよ。
 ジョン? それって、プールで泳いでいたあのジョン? 雄太が身を乗り出してそう言った。エイミーに向けて顔を近づけながら。
 あら、ジョンに会えたの? 初日から会えるなんて、とてもラッキーなのよ。ここには多くのロックスターが顔を出すんだけど、ジョンは滅多に来ないのよね。来ても大抵はプールで泳いでいるから、なかなか誰にも気がつかれないのよ。よく分かったじゃない? ジョンのあんな姿、普通はちょっと想像がつかないんじゃない? エイミーの言葉に、雄太が頷く。
 後にだけど、プールで泳ぐジョンの姿を見たときは驚いたよ。ジョンにそんなイメージはないからね。ジョンが水泳が得意だってことは噂では聞いたことがあるけれど、誰も信じていなかった。まさかジョンがバタフライをするとは驚きを超える衝撃だった。
 あなたもちょっとばかりお散歩してみる? ここではね、ふらふら散歩するのも楽しいものよ。音楽が邪魔をしない分色んな音が耳に入ってくるし、色んなものが目につくのよ。あなたがお望みの出会いだって多いはずよ。
 エイミーにそう言われ、僕は席を立った。代わりに雄太が空いたその席に座った。するとエイミーが立ち上がる。両手にビール瓶を持ちながら。
 あれ? 行っちゃうんですか? なんて雄介が間抜けな声を出す。そりゃあそうでしょ! 兄貴と飲んでも楽しくないからね。なんて言いながら昭夫はエイミーが空けた席に腰を下ろした。
 ちょっと散歩してくるから、そこで待っててよ。エイミーはそんなことを言いながら笑みを浮かべ、雄太と昭夫に手を振った。
 僕とエイミーは、その広い空間を散歩した。そこには音楽以外の楽しみが全て詰め込まれていた。完全なる音楽のない映画は、その内容が直接脳に叩き込まれていく。伴奏は時に物語を豊かにするけれど、観る側の思考を奪い、見せる側のエゴを投げつける。
 ただ歩くだけで楽しい空間だった。
 エイミーは、僕が飲み干すタイミングでビールを手渡す。どこから手に入れているのか、いつもその手に二本の瓶をぶら下げている。
 歩きながら飲むビールは最高に美味しい。夜風に当たりながらだとお腹が痛くなることもあるけれど、ここではその心配がない。僕は辺りを見回しながらビール瓶に口をつけ、時折エイミーと言葉を交わす。
 今すれ違ったのがジャニスよ。なんて彼女の言葉に振り向くと、確かに後ろ姿だけでもそれと分かるジャニスがいた。その他にも多くのロックスターとすれ違ったり遠くに見かけたりしたけれど、ジョンとは出会えなかった。
 この世界では、外からの見た目になんて意味がない。僕たちが楽しんだこの建物を外から見ると、とてもじゃないけれど同じ空間に存在しているとは思えなかった。その大きさだけでなく、外と中とでは、見える景色までまるで違う。
 ただ歩いているだけでも楽しいと感じるのは、初めての体験だった。公園を散歩していると、気持ちが良くなることがある。身体の奥から自然と溢れ出てくるメロディーと言葉。僕って天才なんじゃないかと感じる。けれどそれは、大間違いだったと知る。溢れ出てくるメロディーは、そこで耳にする音楽からの影響を受けている。その言葉もまた、自然と目や耳に入ってくるなにかからの影響を受けている。
 けれどここには、音楽がなかった。自然の音はあっても、作られた音楽は存在しない。その代わりに、多くの言葉が入り込む。ここを歩くだけで、僕にはいくつもの物語が書けるんだと感じていた。
 私もね、以前は沢山の曲を書いていたのよ。向こうの世界で煮詰まると、ここに来ては曲のアイディアを得ていたの。ここに来るとね、その世界じゃ得られない音を見つけられるのよ。あなたも今、そんな気分になっているんじゃないかしら? さっきから素敵なメロディーが漏れているわよ。
 確かに僕はいい気分で、新しいメロディーを口ずさみながら、そこに合う言葉たちを探していた。同時刻に起きていた出来事なんて知りもしないで。
 僕たちの常識は、ここでは通用しない。
 向こうでこういうのを身体に入れると、おかしくなっちゃうのよね。
 エイミーはちょっとばかり哀しみの表情でそう言った。
 不思議だけれど、こっちだと定期的にこれを吸い込まないと生きていけないのよね。水と同じって言うと大袈裟だけど、糖分みたいなものね。足りなくなると身体が悲鳴をあげるのよ。
 あなたも吸いなよと勧められたけれど、僕は断った。確かに感じた高揚感が思い込みとは思えなかったからだ。しかも、加速していったメロディーが、凄くつまらないとも感じていた。
 天才的な発想は、退屈でしかない。
 なんだか嫌な臭いが混じってるわね。
 突然にエイミーの表情が岩のようになった。それってこの煙のことじゃないのかって思ったけれど、口にはしなかった。
 そろそろ戻った方がいいかも知れないわね。厳しい表情を作ったエイミーがそう言った。
 あれって・・・・ スティーヴじゃない? すれ違いざまに、ほんの少し肩がぶつかった男の顔を見て驚いた。僕たちの世界を根本からひっくり返したのは、今のところはスティーヴが最後だ。
 あの男には騙されちゃダメなのよ。と言っても、今更手遅れなんだけどね。
 歩きながら振り返ってその背中を見つめる僕に、前を向いたままのエイミーが声をかける。あの男が生きている間にした本当の功績は、もう少し先にならないと見えてこないのよ。あなたたちの世界は、一度滅びることになっているんだから。
 まるで未来を見てきたかのように、エイミーがそう言った。
 やっぱりいなくなってるわね。突然足を止めて、エイミーがそう言う。ここがどこかは覚えているわよね?
 そこは僕とエイミーがウィスキーを楽しんでいた場所だった。入れ替わりに雄太と昭夫が座っていた椅子には誰もいなかったけれど、どこかをほっつき歩いていたとしても不思議じゃない。僕はちっとも心配していなかった。
 ここにいた二人、誰に攫われたか分かる?
 カウンターの向こうでグラスを拭いていた店員にエイミーがそう聞いた。店員は、真顔でこう言ったんだ。聞かなくても分かっていますよね?
 エイミーはゆっくりと頷き、僕に顔を向けた。やっぱりあなたがそうなのね? この世界を救うのは、あなたってことよ!

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