演奏中の僕たちは、その顔は客席に向いていたけれど、まるでその様子は目に入らなかった。
僕たちは曲間を開けずに五曲を演奏した。そしてドラムの昭夫が立ち上がると同時に三人で深くお辞儀をした。観客からは大きな拍手が起こると思ったけれど、まばらなパチパチしか聞こえてこなかった。
ジャカジャーンッ!
ステージ裏から聞こえてくるアコギの音色に、客席の雰囲気が変わった。僕たちはゆっくりと頭を上げながら振り返る。
するとそこにギターをぶら下げて仁王立ちのエンケンの姿が見えた。そしてエンケンは、大声で叫んだ。幼い頃の記憶にはない情景が思い出される。
これこそがロックだ。この人は真のロックスターだと感じた。それは僕だけではなく、雄太と昭夫だけでもなく、そこにいた観客みんなが感じていた。
僕たちはそれぞれのその場にしゃがみ込み、エンケンのステージを眺めた。僕たち自身は観客と一体になっているつもりだったけれど、観客からしてみれば、ステージ上の邪魔な置物とでも言ったところだろう。僕たちの存在は、その程度だったんだ。
エンケンは余計な会話を挟まず、演奏を続ける。そのスタイルは僕たちと同じだったけれど、間の取り方が上手で、観客の興奮を引き寄せる。曲間にも歓声が上がる。置物と化した僕たちは立ち上がることも声を上げることも出来なかったけれど、そのショーを誰よりも間近で感じられることが出来、最高に幸せで、最高に感動をしていた。
エンケンは時にギターを抱えたままドラムセットの椅子に座り、ドラムを叩く。バスドラを踏み鳴らしながらギターを掻き回し、肩からぶら下げたハーモニカを演奏する。時に空いた手でスティックを持ってスネアでリズムに緩急をつけて、時にはハイハットで賑やかさをプラスさせる。すぐ側でしゃがみ込んでいた昭夫が目を丸くさせ、口も丸く開かせていた。
今日のこいつらはダメだったけれど、いつかきっとロックスターになれるはず。だからは今は、そっとしておいてくれ。こいつらはきっと、成長する。だから今日は、オイラの歌を聞いてくれ。そんな言葉を、エンケンはメロディーに乗せていた。そしてその後も数曲をただひたすらに弾き続けていた。
ステージから去る際に、また会おう! なんて叫んでいた。背中を向けながら。
僕たちは、エンケンの背中が見えなくなった頃、そっと立ち上がった。正直僕は、客席に背を向けたまま背中を丸めてそそくさと退場するつもりでいた。けれどそうはしなかったのは、昭夫が立ち上がった途端にそのままの格好でドラムを叩き始めたんだ。一定のリズムなんてなく、子供が遊んでいるかのように自由に叩く。けれど不思議だった。僕の身体が、動き出す。なにかをしたくて我慢が出来ない。じっと突っ立っていることなんて出来ない。逃げ出すことも出来ない。となれば、やることは一つしかない。
僕は昭夫の叩くドラムに合わせることはなく、ただ自由にそのドラムの音を感じながらベースを弾いた。そして思いつくままにメロディーを口にした。
盛り上がってきた僕は、バスドラムの脇に置いておいたタンバリンを足に引っ掛け、空高く舞上げた。そしてそれを左手で受け取り、ベースの弦を叩いた。なんとも言えない雑音が混じり、僕の気分は上がっていく。
昭夫のドラムセットには、ハイハットの下から横に突き出た棒にトライアングルがぶら下がっていて、そのトライアングルの中には一回り小さなトライアングルが、その中にもまた、それが五つ繰り返され、ど真ん中にぶら下がっている四角いガラスが揺れると、その音が全てのトライアングルに共鳴をする。その時々によって違う音色が、僕の耳には心地いい。
ふと横を見ると、いつの間にか雄太がギターを弾きながら裸足になった足の指に挟んだマレットで鉄琴を叩いていた。布で包まれたマレットが叩き出す鉄琴の音は、柔らかい気分を与えてくれる。
僕の放つメロディーには、自然と言葉が混じっていく。その時感じたことや目に映った感情やら情景やらが自然と言葉に変換される。楽しい! こんなに楽しいライブは初めてだった。
そしていつしか、観客たちが笑顔になり、好き勝手に身体を揺らしていた。曲間やちょっとした間には歓声も飛んでくる。
そろそろ終わりにしようかーと、ギターを掻き鳴らしながらエンケンが大声で歌いながらステージに戻ってきた。一際大きな声援が上がり、僕たちはエンケンと一緒に即興で一曲を楽しみ、ギターを掻き鳴らしながら歩いて去っていくエンケンの後に続いた。それぞれの楽器を抱えて。
これでこの世界のことが少しは分かっただろ? エンケンがいきなりそう言った。
ステージ裏からは、少し前に来た道を戻らず、というかそんな道はどこにも見当たらず、普通に会場の脇からグルッと表玄関から外に出た。会場といっても、僕たちがよく出演していたような狭くてなにもない空間ではなく、いつかは出演したいと夢に思っているグリーングリーンのような洒落た空間だった。立ち見席とテーブル席に別れていて、テーブル席では食事も楽しめる。客として何度か通っているけれど、本当の意味での全盛期を迎えているアーティストしか出ることが出来ない。テレビで持て囃されているバンドやら歌い手にも以前は出演経験がある人もいるけれど、今では本人が望んでも叶わない夢になっている。
グリーングリーンを出てからのエンケンは無言でどこかに向かって突き進んで行く。僕たちはその背中を追いかけて行くのに精一杯だった。けれどまさか、突然足を止めて振り返るとは思いもしなかった。僕は足を詰まらせてその場に尻餅をついた。その際に両脇を歩いていた雄太と昭夫の腕を引っ張り、道連れにする。
オイオイ! 危ねぇじゃんかよ! そんな叫び声など気にもせずに、エンケンが放った言葉は、何故だか三人の身に染みていった。
この世界のことが、確かに僕には見えていた。少なくとも、そんな気がしていた。ステージから感じるこの世界が、全てじゃないのは分かる。けれどやっぱり、そこには全てに繋がる感情が流れていた。
この世界は今、退屈に襲われている。
僕たちは、その退屈を打ち破るために連れてこられたんだ。しかもそれは、僕たちの殻を、もっと言ってしまえば、全ての世界の壁をぶち壊すことにもなるのかも知れない。
ここから先は、自分たちで考えるんだな。おいらは手伝ってやることが出来ないんだ。あんたたちと違って、おいらはこの世界の住人だからなぁ。こいつはちと珍しいんだが、その説明は、今は意味がないからやめておこう。ってなわけで、ここでサヨナラだ。
エンケンはそう言うと、背中を向けて足を進めながら両手を空高く上げて、振った。僕たちはただ、その姿を呆然と見つめることしか出来なかった。
エンケンの姿が見えなくなると、僕たちは突然の不安に襲われた。これからどうしよう・・・・ 三人が同時にため息交じりの声を出す。
まぁ、いっか? そう言ったのは昭夫だった。僕たち自身にはとても長く感じた間を破る。そういった空気感を読めないのが、というかもしかしたら一番読めているからこその発言をするのが昭夫らしい。
とにかく、歩こうか? 僕がそう言った。それしかないな、と雄太が続く。
すると少し歩いた先の十字路を超えたところに空色の車が止まっていた。カナブンのような形はどこかで見たことがあるようでどこにもない形をしている。きっと僕たちの世界で流行っていたその車は、この世界の模倣なんだと思う。そう感じずにはいられないほど洗練された格好良さを身に纏っている車だったんだ。
なんとなく僕は、その車の中を運転席側から覗き込んだ。誰もいない? ように見えたけれど、なにかの気配を感じもした。
すると、助手席側の窓の向こうにすっと人影が浮かんできた。なんだ! って思った瞬間に、驚いた。その顔には見覚えがあったんだ。実際には会ったことがないけれど、写真や映像では何度も見ていた。エイミー! 本当に君なのかい?
面識がないにも関わらず、僕は馴れ馴れしい言葉で叫んだ。物心つく前から大好きだったんだ。子供受けするような音楽ではなく、酒場の似合うその音に、何故か僕の心は動いた。父親の影響もあるんだろうけれど、車でも家でもほぼ毎日聞いていた。エイミーが死んでからだって、聴き続けている。
おやまぁ、私を知っているの? そいつは嬉しいねぇ。けれどまぁ、こっちはあなたたちを知らないんだ。
エイミーは普通に日本語で話しをしていた? ように聞こえていたけれど、本当は英語だったのかも知れない。僕たちが日本語のつもりで話しているこの言葉も、英語が混じっている歌も、誰の耳にも伝わっている。エイミーが日本語を話しているとは思えない。僕たちの耳には、英語も普通に聞き取ること出来ている。この世界では、それが普通のようだ。英語も日本語も、ベトナム語だって関係がない。普通に言葉が通じ合う世界は、とても楽しい。
けれどねぇ、頼まれちまったんだから仕方がないよ。この車、あなたたちに譲ってやれってさ。エンケンちゃんに頼まれちゃあ、断れないのよねぇ。
エイミーはそう言いながら助手席側のカナブンのドアを開けて中に入り、運転席側の窓を開けて僕の目の前にグイッと顔を突き出した出した。
この車はあなたたちにあげるけれどね、その代わりに私を楽しませてちょうだいよ。あのエンケンちゃんが認めているんだったら間違い無いわよね? ニコっと笑いながらそう言うと、運転席側のドアを開け、外には出ずに後部座席に移動した。
早く中に入りなよ。取り敢えず今晩は大いに楽しむわよ。なんていうエイミーの言葉に僕たちは顔を見合わせて苦笑いを浮かべるのがやっとだった。
車を運転するのは昭夫だった。僕たちの中で唯一の免許持ちだ。まぁ、この世界には必要にない免許ではあるんだけれど。
あなたたちの家は決まってるのよね? というか余所者のロックミュージシャンはあそこって決まってるんだけどね。それより今日は、もっと楽しいとこに連れて行くわよ!
カナブンを走らせること十分、果てしなく続いているかのような都会を抜け出すことは出来なかった。
僕は後部座席でずっと、左側の外を眺めていた。本来なら物思いにふけって窓にもたれて景色を眺めていたかったけれど、そうは出来ない事情があった。何故だか誰も助手席には座らず、決して広いとは言えない後部座席に中身はガキンチョでも体格は立派な大人が三人の並んでいた。真ん中にはエイミーがいて、僕はエイミーにそっぽを向くなんて真似は出来なかった。
エイミー越しの外の世界は、なんとも汚かった。エイミーの存在がそうさせるわけではなく、建物やそこを歩く人の雰囲気が汚いんだ。僕の故郷だって、都市部は汚らしい。テレビなんかでは綺麗な部分しか映さないけれど、現実の目にはその他の方が多く映るんだ。この世界は、案外普通なのかもと感じた。
街を歩く人々は、みんなが疲れた顔をしている。そして何故だか、年寄りが多い。街を見た感じでは、エイミーは飛び切りの若者だ。
この世界の建物には特徴がない。まるでレゴブロックのようでもあるし、フランスやソーホーの匂いもするし新宿や明洞の雰囲気も感じる。中国系も混じっているってことは、古き良き日本っぽくもあるってことだ。つまりはベトナムっぽいって言うのが僕の率直な感想だった。
この世界もね、昔は良かったんだよね。エンケンちゃんのような楽しい大人が多くてね。それがいつの間にか、つまらなくなっちゃったのよ。街の雰囲気もだいぶんと違ってたのよ。なんて言うかさ、私もだけど、感化されちゃうのよね。ロックスターで居続けるのは、難しいのよ。
エイミーの言葉に、僕は落ち込んだ。エイミーもそうなの? あの頃とは違うの? そんな言葉を飲み込んだ。
そこに車を停めてちょうだい。お楽しみの場所に到着よ。
エイミーの言葉に従って、昭夫は車を停めた。なんだか大きな門型の建物がそこにはあり、車を止めるとすぐに防寒着を着た年寄りが近付いてくる。
この世界は基本的にほんのりと肌寒い。それでもエイミーのようにノースリーブ姿の女性は多く、その上に革ジャンやコートを羽織ってはいるが、短いズボンやスカート姿がよく目立つ。男性に関しても似たようなもので、基本は薄手にジャケット、ズボンは穴が空いていることが多い。
防寒着姿の年寄りは、僕たちにチップを求めた。手持ちのお金はあったけれど、この世界でも通用するのかと困り顔を見せていたら、横からエイミーがどこの国のだか分からないお札を年寄りに差し出した。すると、代わりにナンバーの入った名刺のような顔写真入りのカードを手渡された。
どういうこと? そんな思いを込めた表情を浮かべてエイミーに視線を向けた。
彼はここの駐車係なのよ。お金を払えば車を守ってくれる。それだけよ。あなたたちの国にもいるでしょ? 交通警察? それと同じよ。
なるほど、と感じた。だから防寒着を着ているんだと納得をする。基本的にこの世界の人たちが薄着な理由は直ぐに理解出来ていた。ハートが熱いんだよ。常に燃えている。ただそこにいるだけで体温が上昇していく。このほんのりとした肌寒さは、火照った身体にはちょうどいい。
どこの世界でも同じだけれど、冷たい人間は存在する。そんな人間は、その冷え切った身体を温めるために防寒着を着るんだ。彼らのようにね。
車から降りた僕たちは、荷物置きの空間に無理矢理積み込んでいた楽器を取り出そうとしていた。するとエイミーが、今はそれ、必要ないわよ。なにもロックミュージシャンの楽しみはそれだけじゃないでしょ? そう言った。
僕たちはその言葉に従って荷物ごとの車を防寒着の彼に預けて歩き出した。その建物に入るのかと思っていたら、違っていた。
ここは単なる駐車場よ。目的地はその隣。
そう言ってエイミーが顎で指し示した場所は、まるで交番のような地味な色の箱型の小さな建物だった。入り口はあるけれど、窓がない。なんだかとても無機質だと感じる。その点も交番とよく似ている。まさかここに
好きなだけ楽しんでいいわよ。
入り口に足を踏み入れながらエイミーがそう言う。なにをどう楽しむのか、すぐには分からなかった。
エイミーは私は向こうだからと、右側の奥へと向かって行く。後で合流しましょうね。中に入れば一緒だから。背中越しにそんな言葉聞こえた。
僕たちは訳が分かっていないにも関わらず、取り敢えずはエイミーとは反対側の、左側の奥へと向かった。なんだか暗い空間ではあったけれど平坦な道で、あっという間に明るい光が見えてきた。外から見た建物の外観と、中に広がる空間の大きさが矛盾していることは無視することに決めている。この世界では、そういった常識は通じないと既に学んでいた。
辿り着いた先が脱衣所だとは思いもしなかった。いつそこにやって来たのかは知らないけれど、つい先程来たばかりっていう先客が二人いて、着ていた服を脱ぎ、棚から取り出した水着のような身体にぴったりサイズのズボンとシャツを身につけていた。
僕たちも取り敢えずそれを真似して服を脱いだ。そして目の前の棚を開けてみる。そこにはなにも入っていなかった。仕方がなく脱いだ服を入れて、棚を閉じた。
先客の二人は、その格好で更に奥にある別の空間へと繋がっている入り口向かって行った。僕たちもその後を追おうとしたら、その二人がゲラゲラ笑い出す。
おいおい! その格好で行くのか? 流石にそれはないよ! なんて腹を抱えてその場に膝をつき、床をバンバン叩いた。
ここは銭湯だろ? 裸でもいいじゃんか! 雄太が勝手な想像を元に口にした言葉だったけれど、当然のように僕もそうだと思っていた。
ここが銭湯? まぁ、似たようなものだけど、裸じゃちょっとなぁ? 服をしたっまた棚があるだろ? もう一度開けてみな。それに着替えてからこっちに来るんだな。まぁ、とても楽しいから期待することだよ。
二人は立ち上がり、お互いの顔を見合わせながら時折僕たちに視線を向けてそんな会話をしながらその入り口を超えて行った。
僕たちは自分たちがそれぞれ閉まった棚を開けてみた。するとそこには先客の二人が着ていたのと同じデザインのズボンとシャツが置いてあった。手にしてよく見ると、デザインは同じでも、サイズが人によって違うことが分かる。その色もまた、違っていた。
先客の二人は、明らかに僕たちより背が高く、身体つきも大きかった。自然に会話が出来ていたけれど、きっとエイミーとも違う国の出身なんだと思われる。
先客の二人のシャツとズボンは黒を基調としていた。模様のような箇所がいくつかあり、そこの色が違っていた。一人は濃い灰色で、一人は薄い茶色だった。
僕たちのは三つともがネイビー基調だった。サイズはどれも似ていたけれど、ほんの少し大きさが違う。三人それぞれにピッタリ合うようになっているようだった。色の違いは、僕がエンジで、雄太と昭夫はほんの少しの色味が違う薄い黄色だった。
シャツとズボンを身に纏った僕たちは、ようやく入り口に入ることが出来た。
足を踏み入れた途端に、目の前の景色が広がった。足を踏み入れる前には薄ぼやけてしか見えていなかったその景色に色がつくようにパァッとその世界が浮かび上がったかのように感じられる。
僕は思わず踏み出したその一歩を引いてしまった。
三人が横並びに足を踏み入れていた。雄太と昭夫がどんな行動を取っているかは分からなかったけれど、きっとそうだとの予感はあった。そうなんだ。三人は同じ反応を見せていた。同時に踏み入れた足を、同時に引き戻していた。
真ん中にいた僕は、左右を忙しく見回した。雄太も昭夫も、僕と同じように足を引っ込めていた。そして雄太は左を、昭夫は右を向いていた。
どうする? なんかすっごく楽しそうな場所だったぞ! 三人が同じ内容の言葉を同時に吐き出した。
その一歩を引いた瞬間にその景色が消えてしまったことに、僕たちはどういうわけか驚かなかった。そういうものだと思っていたんだ。この世界に少しずつだけど馴染んでいたということだよ。
再び三人揃って足を踏み入れた。広がるその世界は、大浴場のようでもあり、リゾートビーチのようでもあり、図書館のようにも映画館のようにも感じられた。つまりは最高の癒しの空間だったんだ。しかも、巨大なバーの雰囲気も兼ねていた。
僕は迷わず、本で埋め尽くされている棚が立ち並ぶ一角に近寄ろうとした。
あなたの趣味はそっちかい? 私はあまり得意じゃないんだよね。文字を見ていると、目がチカチカしちまうんだよ。そう言いながらエイミーが近づいて来た。
エイミーの服装も僕たちと同じだった。そのサイズが女性用に変わっているだけで、基本的には同デザインだ。エイミーの色は艶無しの黒だった。
ピチピチの服装は、何故だかいやらしさを少しも感じなかった。身体のラインがくっきりと感じられるけれど、大事な部分は保護されている。赤ん坊の裸以上に自然な姿に感じられた。
好きな本を選んでからでいいから、こっちに来なよ。こっちでゆっくり話でもしよう。
エイミーにそんなことを言われ日が来るとは想像もしていなかった。僕はもっとゆっくり本を選びたかったけれど、適当な一冊を手に取り、エイミーが待つ場所に向かった。
心は急いでいたけれど、足はゆっくりと動かした。時折手に取っていた本に視線を落としながら。
僕は本が好きだ。その体裁がどうであれ、そこに物語があればそれでよかった。その日手にしていたのは、アメリカの酔っ払い郵便配達員が書いた短編集のような詩集のような日記のようなちょっと意味不明な私的な物語だった。しかもそれは、英語の原文だった。けれど僕には難なくその意味が読み取れた。しかも、日本語としてね。
不思議な感覚だけれど、英語は英語にしか見えない。だから僕はその文字を目で追いかける。すると僕の頭には日本語が浮かび上がる。文字としてではなく、音としてでもなく、単なる言葉として。
いい趣味しているじゃない! 僕が手に持っていた本に視線を向けて、エイミーがそう言った。
やっぱりお酒を飲みながらっていうのが楽しいのよね。バーカウンターのような場所に腰を下ろしていたエイミーが、僕に向かってそう言った。
気がついた時には、エイミーの顔がこっちに向いていた。いつから見られていたのか? 妙な気恥かしさを感じながら、エイミーの隣の席に腰を下ろした。カウンター席でエイミーと並ぶ日が来るとは想像もしていなかった。しかも、二人きりで。
そうなんだ。僕は腰を下ろしてようやく気がついた。雄太と昭夫がいなくなっていることに。いつからだろうかと、落ち着きなく辺りを見回していると、ここに入って来た時からよ。とエイミーが言った。あいつらは別の場所に向かって行ったみたいだね。あっちのプールで泳いでるのかもね。
確かに雄太と昭夫ならそうしているかも知れない。あの二人は本になんて興味もないし、可愛い子がいそうな方に足を運ばせるのがらしいっていえばらしい。けれど、未知の場所で僕を一人置いていくなんて薄情だと思ったよ。
ウィスキーでも飲むかい? エイミーにそう言われ、キョロキョロするのをやめた。あの二人なら、探さなくても大丈夫だと思った。すぐに僕を探してこっちに来るだろうって勝手に安心していた。
お酒は好きなようだね。まぁ、そんな酔っ払いの本を読むくらいだから、当然なんだろうけれどね。
好きは好きだけど、死ぬほどには飲まないよ。僕がそう言うと、エイミーは歯をむき出して笑った。
そいつはいい心がけだよ! そう言いながら僕の肩に手を乗せた。それでもどうしようもなくなることがあるんだよ。あなたにもきっと、分かる日が来るわよ。きっとね。
エイミーの言いたいことは分かるけれど、僕は同意も否定もしなかった。ただ運ばれてきたスコッチをストレートで口に運んだ。そして一口で飲み干す。
ここが楽しいのはね、お酒が飲めるからってわけじゃないのよ。色んなものが揃っているってこともあるけれど、それだけでもないのよね。あなたをここに連れてきたのはね、理由があるってことよ。
エイミーはそう言いながらグラスにウィスキー注いだ。あなたはそっちが好みなの? 僕の前にはまた、スコッチがワンショット置かれていた。
私はアメリカ産のウィスキーが好きなのよね。水で割ったこの香りに恋をしているの。何故だろうかね? スコッチは肌に合わないのよね。私には、故郷の味とは呼べないのよね。
エイミーは、グラスを僕の視線に差し出し、あなたがこの世界に来たことに! そう言いながらグラスをゆらゆらと回した。さぁ、あなたも飲みなよ。
どうやらエイミーにとっての乾杯のようなものだったらしい。僕も真似をして、憧れのあなたに出会えたこの日に! なんて言ってグラスをゆらゆらと回した。