ーーーーーーそんなに友人と会いたいなら、一生帰って来るな。

僕はテレビを見ながら、そう思った。

テレビ画面には、お天気コーナーを報道していた。

「今日の全国のお天気をお伝えします。関東全域は、晴れ。関西は午前中は晴れますが、午後から雨が降るでしょう。外に出かける人は、雨具を忘れずに出かけましょう」

お天気お姉さんが、テレビ画面に映っているお天気モニターを指差しながらていねいな口調で言った。

「雨が降るのか……」

僕はリビングの窓から顔を覗かせ、空を見上げた。青ガラスのような澄み渡った空には、今のところ雨が降る気配は感じられなかった。

ーーーーーーパチッ。

そこで、僕は目をさました。

ーーーーーーどうやら、いつの間にか眠っていたらしい。

「………」

僕は天気予報通り、今にも降り出しそうな鉛色の空をバスの窓から見つめた。
雨粒が、アスファルトを叩く。

「やっぱり、降ってきたか………」

バスを四十分ぐらい乗って目的地の京都の繁華街、四条通りに着くと、空から激しく雨が降り出した。道路を走る無数の車は、ワイパーを左右に動かしている。アーケードの中を歩く人々の手には、傘が握られていた。

「………」

僕はアーケードの中を歩いて、美希さんが働いている店に向かった。

「いらっしゃいませ」

いつも通り松岡店長が、笑顔で僕を出迎える。そして、待合室に案内された。

「今日は、誰にしましょう?」

「佐藤利恵さんで」

「申し訳ございません。利恵は、本日休むことになったのです」

「えっ!」

松岡店長の衝撃的な言葉を聞いて、僕は驚きの声を上げた。

「ど、どうしてですか?ネットのホームページには、今日出勤予定でしたよね」

僕は怪訝そうな表情を浮かべながら、松岡店長にうわずった声で訊いた。

「はい。たしかにそうでしたが、急な用事のため、本日はお休みになりました。誠に申し訳ございません」

そう言って頭を下げる、松岡店長。

「急な用事って、なんですか?」

「それは本人のプライベートのため、お答えできません」

ーーーーーーまぁ、そりゃそうだ。

「美希さん………」

僕の不安な感情が、一気に込み上がる。



『5月4日《土》午後1時37分』


僕が彼女の勤務している店に着いたのとほぼ同時刻、美希さんは母親が入院している京都の総合病院にいた。

「お母さん………」

静かな病室の中、彼女の沈んだ声が聞こえた。美希さんは点滴につながれて病院のベッドで眠っている、自分の母親に声をかけた。

「美希………」

うっすらと細い目を開け、とても弱々しい声が聞こえた。

「うん、そうだよ」

私はうっすらと目に涙を溜め、母親の白い手をやさしく握った。

まだ年齢は四十五歳ぐらいだけれど、病気のせいか、それ以上の年齢に見える。

「美希………ごめんね。辛い、思いさせて………」

美希さんの母親の声が、弱々しくそしてか細くなっていく。

「そんなことない」

私はぶるぶると首を振って、否定した。

「私、辛くないよ。お兄ちゃんの学費も後少しだし、全然平気だよ」

できるだけ明るい口調で言った私だったが、顔はグチャグチャに泣いていた。

「美希、ありがとう」

それが、母親の最後の言葉だった。

「お母さん、お母さん」

私は泣きながら、同じ言葉を繰り返して言った。

「………」

もちろん、母親からの返事はなかった。

まだ温かい体温だけが、母親は生きてるのではないかと思わせてくれる。

「美希………」

後ろから病院に駆けつけた大学生の兄が、私の名前を呼んだ。

「お兄ちゃん………」

私は兄に寄り添って、号泣した。兄が、そっと私を抱きしめてくれた。



『8月1日《火》午前10時37分』


春が過ぎて、暑い夏を迎えていた。高校も夏休みの真っ最中で、家の中にいても蒸し風呂に入っているような暑さを感じる。

「美希さん………」

僕は、彼女の名前を口にした。

美希さんとは、しばらく会っていない。学校も最近はほとんど欠席だし、仕事に出勤している様子も見られなかった。学校の担任の佐藤先生の口からは、『しばらく佐伯さんは、お休みします』と、そうみんなに簡単に報告しただけだった。

「はぁ」

二階にある、六畳から八畳ぐらいの自分の寝室。そこから僕は窓を両手で開け、どこまでも広がっている夏の青空を見上げた。蝉の鳴き声があちこちからうるさく聞こえ、うだるような暑さが続いている。

「暇だなぁ」

今の僕は、ほんとうにそう思っていた。美希さんと会えない日は、楽しみがなかった。そう考えると、やっぱり僕は彼女に片思いをしているのだろうと思った。
「暑い」

そう言いながら僕は全開に開けていた窓を両手で閉めて、ベッドに横たわった。そして、クーラーを付けた。

エアコンから冷たい風がすぐに出て、狭い寝室全体を冷やしてくれる。体に流れていた汗もすぐに止まり、涼しく感じる。

「美希さん、仕事やめたのかな?」

そう呟いた僕は、美希さんの言っていた言葉を頭の中で思い出す。

『後、少しなんです。兄の学費代一年払ったら、私もこの仕事をやめれるのです』

「美希さん………」

その言葉を思い出しただけで、僕の胸が痛くなる。

僕は近くにあったiPadを手に持って、そこから美希さんが働いている店を検索した。検索すると公式ホームページが液晶画面に映り、そのまま彼女の出勤予定を確認する。

「やっぱり仕事も、休みか」

確認したけれど、今後の美希さんの出勤予定は未定のままだった。今まで継続されていた日記も更新されておらず、僕の顔が心配そうになる。
「外は、こんなに暑いのに………」

そう呟いたが、僕の心は寒かった。

「はぁ」

口からため息を漏らし、頭の中で美希さんのいない学校生活を振り返った。

友梨と裕也とは別になかよくするつもりはなかったが、向こうから話してきた。そのせいで、裕也たちとは話すぐらいの関係になってしまった。

ーーーーーー裕也とは、美希さんのことを思って話したくないのに………。

僕は複雑な気持ちを抱きながら、液晶画面を人差し指でスクロールした。

「ん!」

画面をスクロールすると、掲示板と表示された項目が僕の目に映った。

「掲示板………?」

僕は眉間にしわを寄せて、インターネット掲示板サイトをタッチした。

『坂口かな、今日出勤してるwww匿名』

『そいつ、男子大学生に被害受けた女子大生やろwww匿名』

『あれだけ被害受けたけれど、やっぱりこの仕事やめれないだろうなwww匿名』

『行きたいけど、外に出たくない。暑いwww匿名』

『それ以前に、金がないwww匿名』

『こんな不景気では、遊ぶ金がないwww匿名』

画面スクロールして閲覧して見ると、たくさんの書き込みがネットの掲示板サイトに書き込まれていた。
「なんだこれ………?」

低い声でつぶやきながら、僕は怪訝そうな顔をして画面に視線を落とした。

五百以上のスレッドの投稿数。すべて匿名で書かれており、誰が投稿したのかわからない。

『今日の京都の最高気温、四十度近くまで上がるらしい。なのに、仕事とか大変だなぁ』

また、ネットの掲示板サイトに書き込みされた。

「美希さんの書き込みは………?」

僕は美希さんもネット上で書き込みされているのではないかと思って、さらに画面をスクロールして掲示板サイトを閲覧した。

ざっと全部のスレッドの投稿数を見終えたが、彼女に対する悪口の書き込みは一切なかった。

「ふぅ、よかった」

僕は、安心した。それと同時に、ネットを使って陰湿な攻撃をしている人間に腹が立った。

「いいことなんかひとつも書いてないじゃないか」

すべてのスレッドは、悪口しか書かれていなかった。嘘かほんとうかわからないけれど、坂口かなさんという女性には彼氏がいることも掲示板サイトに投稿されていた。
「………」

僕の頭の中に、少し前にバスの中で話していた若いカップルの女性の言葉がよみがえる。

『でも、あの風俗で働いていた女子大生、かわいそうだよね』

ーーーーー確かにそうだ。

僕はiPadを閉じ、クーラーを消した。そしてリビングに駆け下り、タンスから夏服を取り出してそれに着替えた。

白い無地のTシャツと青色のハーフパンツを履いて、メンズの肩掛けカバンとサイフを持って家を出た。

「暑い」

やはり外は、うだるような暑さが続いていた。

今日は天気予報を見ていなかったが、あのインターネットの掲示板サイトの通り、四十度近くまで上がりそうだ。

「この前まで、春だったのに……」

僕は額に浮かんだ汗を右手の甲で拭い、カバンに入れていたペットボトルのジュースをゴクゴクと飲んだ。口の中に僕の好きな冷えた炭酸飲料水が駆け抜け、カラカラだった口が一瞬で潤う。
「ふぅ、おいしい」

せみの鳴き声と、僕の好きな炭酸飲料。この二つを体験すると、夏が来てるということを自然が教えてくれる。

「コンビニでも寄ろ」

ペットボトルに入っていた炭酸飲料水がなくなってので、僕は近くのコンビニに寄ることに決めた。

なだらかな坂道を降り、右に曲がる。そしたら、コンビニが見える。

「いらっしゃいませ」

自動ドアが開いて、中からコンビニ店員の声が聞こえた。

「涼しい」

店内に入ると、ほどよく冷房が効いていた。暑くもなく、寒くもない。ちょうど、涼しいぐらいの温度設定。それと同時に、人々の服装も夏らしくなっていた。

僕はコンビニの一番後ろに設置されている、冷蔵庫に歩いて向かった。冷蔵庫の中身は、たくさんの飲料水が冷たく冷やされている。

「あった」

たくさん冷やされている飲料水の中から、僕の好きな炭酸飲料水を手に取った。キンキンに冷えた感触が、僕の右手に伝わる。