「黙祷!」
号令をかけた交番の巡査である横溝にならい、そこにいるもの全員が目を閉じた。
大阪市北島区にある北島商店街の一店舗で亡き人を想う会が開かれた。赤いレンガの建物は喫茶店『TIME』。
とはいっても、誰かが催そうと企画したものではなかった。誰が何を言うでもなく、何となくいつものように常連客が『TIME』に集まった。入り口から三番目のカウンター席に座り、皆の意見に微笑み、彼女は静かにコーヒーを飲んでいた。享年八十二歳。泉佐野佳津江《いずみさのかずえ》は生涯を終えた。死因は心臓発作だったという。三番目の席には湯気の立つコーヒーが置かれた。
三代目店主である阿倍野斗樹央《あべのときお》も目を閉じ腕組みをしてカウンターの中で立っている。大きくゴツゴツとした左手の甲には刺青。斗樹央いわく『若気の至り』だ。誰にも隠してはいない。
「寂しなるなぁ。あっちゅうまに皆あの世に行ってしもうて。斗樹央が大きなるぅいうことは、ワシらがあの世へ行くんが近うなるぅいうことやな」
花屋の綾辻は白髪の髪を掌で撫でつけて溜め息をついた。三十にもなる男に「大きくなる」と言えるのはこの店の常連客くらいだろう。斗樹央は苦笑したが、平均年齢六十二歳の常連客から見ると斗樹央はいつまで経っても子供なのだろう。
「大きなったどころかいな。マスターの真似か知らんけどその無精髭、なんとかしなさい」
薄くピンク色が入ったレンズの眼鏡を掛け直して化粧品店の美紗は言う。すでに、斗樹央は『TIME』の三代目マスターだが、ここの常連は斗樹央をマスターだとは言わない。ただの「斗樹央」だ。マスターとは前マスターの斗樹央の父親である登紀弥《ときや》を指している。そして、髭は一応、顎で整えている。けっして無精ではない。
「ホンマにお前は年だけ食ったな。やんちゃせえへんようなったぁ思たらオッサンや」
横溝は懐かしそうにコーヒーを飲む。横溝が誰よりも斗樹央の「やんちゃ時代」を知っている。
「言うときますけど、三十歳はオッサンと違います。せいぜい死なんように、そやな、あと五十年は通ってくださいよ」
「わしらが爺さん婆さんや。お前もオッサンやで」
オッサンだとは自分でも思わないが、大台を超えてしまうと若いとも言えない。そんな複雑な感情をこの常連客に話したところで、どうなるものでもなかった。
 カランカランとドアの上部に取り付けてあるベルが鳴り、一人の男が入ってきた。
「すみません。阿倍野さんはいらっしゃいますか?」
高校生くらいか、中折れハットをかぶった男はキョロキョロと店の中を見ている。透き通るほど肌が白く、華奢な体躯にはズルズルと引きずりそうな赤いシャツコート。首に巻いている黒系のチェックのストールはお洒落なのか、斗樹央にはよくわからなかった。
「俺やけど。いらっしゃい」
「あっと、お客じゃないんです。探し物をしてて」
店主を指名しての探し物とは何なのか。
「探し物って何や?」
威圧的に聞いたつもりはなかったが、どうも斗樹央の顔が威圧的なのだろう。男は少し背筋を伸ばし、最初の声は裏返ってしまった。
「ぅあの、僕は泉佐野佳津江の孫です。祖母が阿倍野さんに僕の物を預けていると言っていたもので」
緊張を滲ませた言い方で語尾が消えてしまいそうになっていた。あまりにも可哀そうに思ったのか、美紗は男に加勢するように言った。
「そんなかしこまらんでも相手は斗樹央や。おばちゃんが助けたろ。ここ座り。ほら斗樹央、ココアでも入れたげなさい」
そうか、泉佐野さんのお孫さんか、と横溝も目尻を下げた。
「お前、金持ってんのか?」
斗樹央が男に聞くとまた怯えさせてしまったようだった。美沙が目を吊り上げ斗樹央を睨む。
「ココアぐらい私が払ったるわ。さっさと入れたり。ほんまにアンタは商売向かへんわ」
「その顔は恐喝してんのと同じやぞ」
横溝は斗樹央の顔に文句を付けた。顔だけで恐喝とは、どうにもならないことを責められたものだ。斗樹央は渋々、牛乳を鍋に入れて温めた。
「名前は何て言うの?」
斗樹央に話す声音とは別人かと思うような優しい話し方で美沙は男に聞いた。どう見ても男は高校生くらいの年齢だ。小学生じゃあるまいし、と斗樹央は言うが誰も聞いていない。
「森之宮涼聖《もりのみやりょうせい》です。自分で払います。あの、ここあ、ですか?」
「え。ココア知らんの?」
「ココアいうんはチョコレート味のミルクや。美味しいで」
大雑把な言い方をしたのは綾辻だ。
「ミルク……ミルクは好きです」
そうか~と美紗は、カウンター席の自分の隣に涼聖を座らせた。
「いい匂いがします」
目を閉じて匂いを嗅いでいる涼聖は嬉しそうに微笑んでいる。
「はい、ココア。熱いからヤケドせえへんように気ぃつけや」
斗樹央は大袈裟に優しく話しかけ、生クリームをたっぷり乗せたココアを涼聖の前に置いた。
「うわーっ。本物」
涼聖は小さな声で驚いている。
「混ぜて飲みや。甘くなるから」
美紗に言われて涼聖は恐る恐るスプーンでカップの中を混ぜた。フーフーと息を吹きかけながら口をつけると、こぼれんばかりの笑顔で「初めて飲みました。美味しいです」と言う。
「私にもココア入れて」
「わしも飲むわ」
美紗と綾辻に「糖尿に気をつけてくださいよ」と言ってから斗樹央はまた牛乳を鍋に注いだ。
「んで、探し物って何なん?」
涼聖に聞くと、
「これくらいの袋に入ってて。預かってもらってるからって」
手を顔の前まで上げて、指で手のひらサイズを示した。
「いや、知らんぞ」
「嘘や! 預かってるはずです」
どうしたものか、斗樹央にそんな記憶はなかった。
「泉佐野さんが何か勘違いしてたんちゃうか。俺は何にも預かってないで」
涼聖は怪訝そうに斗樹央を見ていた。疑われても知らないものは知らない。斗樹央も困っている。
「大事にしてるものを斗樹央に預けるとは、わしも思わへんけどなぁ。いったいどんなものなんや?」
横溝が聞くと、涼聖は何も言わず俯いてココアを飲んでいる。美沙と綾辻の前にココアを置いて斗樹央は溜め息をついた。
「泉佐野さんは自分から話すような人でもなかったからなぁ。何かを預かるような仲でもなかったんや。いつもその席に座ってコーヒー飲んでたわ」
涼聖は椅子の背の縁を撫でた。斗樹央に何か言いたそうな顔をしたけど、俯いてまたココアを飲んでいる。
「おばあちゃんが亡くなって寂しいんよ」
美紗が涼聖を庇った。
斗樹央は腕を組んで考えたが、それでも思い出せないし記憶にない。
涼聖はココアを飲み干し、顔を上げた。
「ここは何時までですか?」
「朝七時から夕方五時までや。日曜日は午前中だけ。不定休ていうとこや」
「……また来ます。いくらですか?」
「今日はええから、お父さんやお母さんと話してこい。何か泉佐野さんが勘違いしてるかもしれへんから」
斗樹央は優しく言い聞かせた。涼聖は俯き「ごちそうさまでした」と店を出て帰っていった。
「もうっ、アンタ! ホンマに何も憶えてないんか? えらい哀しそうやったやんか」
美紗にそう問いただされても斗樹央はわからない。
「そんなもん預かってるわけないやんけ。大事なもんやったらなおさらですわ」
カップを片づけながらそうは言ったけど、森之宮涼聖の俯いた表情が気になった。ショックで哀しいというよりも、「そんなはずはない」と諦めてはいない顔だった。
「もしかしたら、マスターが預かってたんかもしれんで」
横溝は腕を組んで偉そうに言う。
「親父が……ありえるかもしれんな」
三年前に譲り受けた『TIME』には、まだ前マスターである父親の片鱗が残っている。片づけていない、斗樹央が把握していない棚や収納庫なんかもあった。
「片づけるぅ言うて片づけへんからや。ええ機会やから二階から全部片づけてみなさい。マスターもあの世で笑ってはるわ」
「ホンマやで。きっと情けない息子やいうて笑ってるで」
「やんちゃしかしてへんからな、斗樹央は」
三年前に亡くなった父親を思い出すように、斗樹央は上を向いた。家は売ってしまい斗樹央に残されたのは『TIME』だけだ。その二階の部屋を片づける理由は今まで何度もあった。
「まぁ、今回はジジババの言うこときいとくわ」
明日は日曜日。時間があれば片づけてみるか、と思ってみたが、予定は未定であった。

 その日の閉店前。
ドアベルが鳴り、涼聖は再び来店した。ハットを被ってはいない、少し跳ねたマッシュルームカットの黒い髪がこれまた可愛らしい。
「なんや? どうしてん?」
斗樹央は少々荒っぽく応対した。今の涼聖は小学生のように接しなくてもいい部類の男だった。
「ホンマはあるんやろ?」
昼にココアを飲んでいた可愛らしい高校生のような涼聖ではない。低い声で目を吊り上げて話した。斗樹央はニヤリと笑う。
「俺は知らん。死んだ親父が知ってたかもしれんけどな」
ドアに背中をあずけて涼聖は大袈裟に息を吐いた。
「探してもいいか?」
「あぁ? 今からか?」
「僕は急いでるねん」
なるほどな、と斗樹央は言う。
「外のシャッターを半分閉めとけ」
涼聖はドアを開けて外に出て、言われた通りに店のシャッターを半分下ろした。屈みながらまた店に入ってくる。意外と素直だ。この辺りではやんちゃ坊主だと言われた過去を持つ斗樹央にとっては、昼間の涼聖よりも今の涼聖のほうが相手にしやすい。
「どこでも好きなとこ探せ。あ、レジは触るな。元に戻しててくれたら明日も朝から営業できる」
中のものは何を触ってもいいらしい。
「二階は?」
「二階は、俺が片づけなアカン領域や」
「僕も手伝う」
「アホかー。二階片づけるんやったら明日や。いや、また今度や」
予定は未定だ。斗樹央はカウンターテーブルを拭いていく。
「見つかれへんかったら明日も探します。僕は明日も忌引きで休みもらってるんです」
「お前、仕事してるんか? 学生やと思ってたわー」
斗樹央は喫茶店に相応しい落ち着いた明かりから最大限に明るくした。隅々の埃や汚れが目立つ。椅子をカウンターテーブルの上に逆さまにして上げていく。掃除をするためだ。モップを持ってくると「一緒に探してくれないんですか?」と涼聖が言い、「好きに探したらええ言うてるやろが」と斗樹央は面倒くさそうに言う。はっきりと何かを言わないのだから斗樹央が関与しない方がいい。本当に店の中にあるのかどうかもわからない。
涼聖がカウンターの中に入り、奥の裏口の方へ行った。奥から順番に探すようだ。棚の物を一つずつ取り出し、中を確認している。コーヒー豆の容器まで中を確認している。そんなところに預かっている物を入れるわけないやろうと思うが面倒くさいので斗樹央は何も言わなかった。
いつもよりもゆっくりと掃除をして、少ない売り上げを計算する。手を洗って明日のモーニングサービス用の仕込みをする。斗樹央がしていることは、のんびりでもルーティンだ。
「……無いです」
「お母さんに聞いたか?」
「阿倍野さん、僕の事いくつやと思ってるん?」
「高校生? 阿倍野さんはやめろー。斗樹央さんて言え」
「はっ、成人してるわ。僕にお母さんもお父さんもいませんよ。おったのは……ばあちゃんだけです」
「そうかー。泉佐野さんは生涯独身やったって聞いたで。お前、葬式の日ぃはどこにおったんや?」
斗樹央は責めないように聞いた。何の理由があって泉佐野の孫だと言うのかわからないが、葬式には斗樹央も出席している。生涯独身で過ごした泉佐野佳津江の唯一の肉親だという姪が葬式を取り仕切った。四十代の姪も未婚だと言っていた。『TIME』の常連客は皆、違和感が無いのか涼聖が孫だと信じて疑わない。
涼聖は溜め息をついてからカウンターの椅子を一つ下ろして座った。
「斗樹央さんの家って神社ってホンマ?」
なんでそんなことを知っているのか。泉佐野が話していたんだろうか。
「親父の実家が神社や。叔父が継いでるんやけどな、こっちもあっちも跡取りがおらん」
「もう継がへんのですか?」
「そうやな。お客がおらんようになったらやな。五年後か十年後か、もしくは俺が爺さんになったらや」
神道科の大学を卒業し、父の実家である阿部神社《あべじんじゃ》に奉職したが、父親が亡くなったため『TIME』を継いだ。商店街もお客が寄り付かず、客足が減っている。この北島商店街近くにできた大手スーパーは、年寄りには意外にも買い物しやすいようだった。いつまでも喫茶店を続けることができないことは斗樹央もわかっていた。
「僕が孫やって言ったら皆信じたんです。ここのお客も信じてました。葬式に来てくれてたのに」
「そうやな。すんなり受け入れてたな。何でやと思う?」
斗樹央が聞くと涼聖は「そんなん知りませんよ」と拗ねている。斗樹央も隣の椅子に座った。
唇を尖らせた涼聖の頭を斗樹央がガシガシ撫でると意外に「手にフィットする」ことに驚いた。斗樹央の目線から少し下の頭はちょうどよい高さだった。
「やめろや」
手を退けようとする涼聖だけど、斗樹央はやめなかった。
「ええ頭してるな、お前」とぐりぐりと撫でた。よく見ると、その髪は黒に染められている。毛髪の根元は白い髪だ。
「あー、もうっ、うっとうしいねん」
涼聖は斗樹央の腕ごと払って避けた。
「わざわざ黒に染めなアカンのか?」
「関係ないやろ」
「将来禿げるぞ」
脅したつもりはなく、ただ予想がつくことを言っただけだったが、涼聖は慌てて両手を頭の上に置いた。
「……禿げるん? マジで?」
ニヤニヤ笑ってしまうのを斗樹央は抑えたが、堪えきれずにブッと噴いて笑ってしまった。
涼聖は俯いてテーブルを見た。
「割れもんなんです」
敬語で話すあたり、偉そうにしゃべることはやめたようだった。
手のひらサイズの袋に入った割れ物。斗樹央はニヤリと笑う。どこにあるかわからないが、その割れ物の正体はすでに予想はついていた。
「どれくらいの大きさや?」
これくらいと涼聖が指で表現したのは鶏の卵くらいの大きさだった。
「俺は知らんなぁ」
「明日、また来ます」
涼聖は静かに立ち上がり、真ん中まで下ろされたシャッターを避けて帰っていった。
涼聖には無いと困るもの。親父か、もしかすると祖父が預かったのかもしれない。
斗樹央の祖父も父も亡くなっている。母も十年前に亡くなった。
「神社なぁ」
斗樹央は店の角にある神棚を見て、こみ上げてくる感情を堪えきれずに笑った。