梨々子の身体には真新しい痣が増えていた。
大粒の涙を伝える頬も腫れていて、唇の端も切れている。
髪も切られたのか、不揃いにまばらだ。
痛ましい姿に、大丈夫だと言う代わりに力いっぱい抱きしめると、後ろから声がした。
「そ、颯吾……。梨々子ちゃんも……これは……。どうしたんだ……?」
俺が割った窓こら、父親が入ってきた。
外には、母親と近所の池田小父さんが内部の惨状に戦々恐々としている。
「父さん、梨々子が……」
「助けてください!寝てたらこの男が突然窓を破って乗り込んできたんです!」
俺の言葉に声を重ね、ベビーシッターの女が四つん這いになって大人達の方へ声を張りあげた。
さっき二階から見ていたのが俺だと気付ていないらしい。
まるで被害者だと言わんばかりに、俺を泥棒だと指さし糾弾する。
「さぁ、りりちゃん。もう怖くないからね~。その男は危ないから、こっちへいらっしゃい」
猫なで声で囁き、梨々子に手を差し出してきた。
「いや……いやいや、いやいやいやいやいやーっ。そうちゃん!」
泣き腫らした瞼と、手足に残る痣。
女から逃げるように、俺の頭の先に駆け上る勢いでもがく梨々子を前に、俺が説明するより何が起こっていたかは火を見るよりも明らかだった。
女は父親達に取り押さえられ、母親が警察へ通報しようと携帯を取り出した。
「母さん、救急車も」
そう付け加えると、こんな状況なのに、母さんと呼んだその人は、一瞬はにかんだように笑った。
女は捕まり、病院へ駆け付けた黒川の小母さんは泣き崩れていた。
そんな間でも、小さな手に選ばれたのは実の親ではなく、俺の胸の中だった。
しっかり首に巻き付けられ腕は、暫く離れようとしなかった。
翌日。
リリーはベビーシッター事件の記憶を忘却の彼方へと葬り去っていた。
何を訊ねても、困った顔で首を傾げて「しらなーい」と繰り返した。
医者は、ストレス性記憶障害だと診断したらしい。
強い恐怖体験が原因で、脳が強いショックから心を守る為に本能的に記憶から消去してしまったんだろう。
誰も気づかない期間、よほどの恐怖を味わったに違いない。
大人に気を使い、身体の痣もあたかも自分の不注意かのように装う。
それがどれだけ心細かったか。
忘れたなら、そのままでいいと思った。