金属バットを手に握りしめている。
 周りは砂浜だった。
 ビーチバレーならぬビーチベースボール? 視界も思考もはっきりしない。

「わけわからん!」
 飛び起きた時には夢の大部分は薄れていた。

 昨日の夜遅くにプールに行こうと麻衣夏から誘いがあった。
 十時に駅の改札口の前で待ち合わせということだったので、爽平はその十分前には到着する。
 ところが、待ち合わせの時間になっても彼女は現れない。時間にルーズなところもある性格なのでいつもの事だった。彼は改札口が見える場所にあるベンチへと移動する。
 そこで爽平の身体が固まった。
 ベンチには人目を惹くように一人の女性が腰掛けている。全身黒ずくめのゴスロリファッションだ。
 その顔立ちには見覚えがあった。
 麻衣夏に似た、麻衣夏ではない女性。
 長い髪の毛は、顔の輪郭をぼやかしている。が、露出した部分だけ見てもやはり彼女に似ていた。
 爽平は我を忘れて目の前の女性へ釘付けとなる。
 ふと彼女が彼に気付いて顔を上げる。そして、交差する視線。
 見れば見るほど麻衣夏とそっくりだった。
 爽平の額から一筋の汗が流れ出る。固まった身体はまだ動かない。まるで魔法をかけられたかのように。
 彼女は優雅に立ち上がり、彼に向かって歩いてくる。
 爽平のすぐ目の前で彼女が立ち止まった。視線はずっと彼を捉えている。逃げられない、五感の全てがそう叫んでいるようだ。
 艶やかな彼女の唇がゆっくり動く。
「あなたは私を知っているの?」
 綺麗なソプラノヴォイス。どこかのお嬢様かとも思える滑らかな喋り方だった。
 だが、彼女が麻衣夏でないのなら爽平には見覚えはない。彼はゆっくりと首を振る。
「じゃあ、あなたは人を殺したことがある?」
 一転して小悪魔的な口調に変わる。彼女が何を言っているか理解できなかった。微笑んでいるような、蔑んでいるような、邪気のない子供のような微妙な口元。
 その姿はまるで完成された人形のようにも感じた。麻衣夏のような人間くさい仕草はいっさい窺えない。
 呆然としている彼を見て、興味を無くしたかのように彼女の表情から色が消える。
「さようなら」
 そう言って彼女は通り過ぎる。
 爽平は声をかけようとして振り返り、彼女へと手を伸ばそうとした。
 だが、何を言えばいい? 爽平にはなぜ意味深な質問をされたのかすらわからないのだ。
 でも、もしかしたら、知らない男に言い寄られない為の防衛の言葉なのかもしれない。よくあるナンパや勧誘を躱すためだ。爽平はそう思い込もうとした。
 それでも彼女の言葉は心の奥底に突き刺さったまま。なにか気持ちが悪い。
 動くこともできず、しばらく彼女の後ろ姿を見送っていく。
 その時、ポケットに入れていたスマホが着信のために震える。
 あわててとったスマホの液晶には『麻衣夏』の文字が映し出されていた。
 深呼吸をして、通話をタップする。
「もしもし」
「ごっめーん! 寝坊しちった」
 緊張感のない麻衣夏の声が響く。脱力感が爽平を襲った。
「……」
「ね、怒ってる? ごめん、許して。今日は爽平のわがまま聞くから」
「麻衣夏……」
 口数の少ない爽平を怒っているのだと勘違いしたであろう彼女が、謝罪の言葉を並べ立てる。
 いつの間にか床を見ていた視線をあげ、先ほど去っていった彼女を捜そうと周りを見回すが、その姿はどこにも確認できなかった。彼女との邂逅がまるで夢であったかのように、現実からその気配は消え去っている。
「ね、悪いと思うけど、あと三十分くらい待てる? 今日、全部あたしのおごりでいいからさ」
「待つのは構わないさ。慣れてるし」
 それに考えたいこともあった。
「今日は優しいじゃん。じゃ、ソッコーで着替えて行くから」
 起きたばかりナノカヨ、との突っ込みを入れる気力はなかった。
 麻衣夏との通話を終えて爽平は吐息をつく。全身から力が抜けたようで、よろよろとベンチに向かって歩いていく。
 再び吐息をつきながらそこに座ると、なにやら右手に布のような感触が伝わる。
 見ると、白いハンカチーフが落ちていた。誰かの忘れ物だろうか、と爽平は思う。
 広げてみるとレースの縁取りがされた白い無地のものだった。
 駅員にでも届けようと思い、立ち上がろうとして、生地の隅に目立たないように刺繍された文字に気付く。

 『Karen.W』

 アルファベットでそう書かれていた。そして同時に気付く。この場所が、先ほど邂逅した女性が座っていた場所だということに。