公園を抜けて、右に曲がる。
 うちと同じ方向だ。

「ねえ、この辺りに住んでるの?」
「ああ。そうやで」
「ふーん」

 ということは、ご近所さん?

 公園の前の道には飲み屋さんなどの小さな店が立ち並び、その前を通って、次の信号で左に曲がる。
 それもうちと同じ。
 歩き慣れた道なのに、今は逆にそれが落ち着きをなくさせ、キョロキョロと周りを見てしまう。
 すると、男がいきなり振り返った。

「そういや、おたく、名前なんていうんや」
「わ、わたし?」
「そう。なんていうんや」

 名前まで知られるのは嫌だ。着いてきてしまったことを後悔している。
 どうしよう。
 迷った末、下の名前だけ教えることにした。

「……カスミ」
「カスミ? 可愛い名前やな。俺は誠司(せいじ)。誠実の誠に司るや」

 ――反則だ。
 誠司と名乗った男の顔を見て、思う。そんな顔をされると、嫌だと突き放すことができなくなりそうだ。
 彼は目を細めて嬉しそうに笑っていた。

 どうしてそんな風に笑えるんだ。苗字も漢字も教えない、ひらがなかカタカナでしか認識できないカスミなのに。本名かどうかもわからないはず。
 それでも、わたしはずる賢く、漢字を伝えない。
 会ったばかりの男に本名をそのまま教えると、わたしのすべてを知られてしまいそうで怖い。

 ぼそっと小さな声で、名前を褒めてもらったお礼を言うと、あとは無言で歩いた。
 やがて、わたしの住むマンションが見えた。

 茶色の外壁の5階建ての5階に部屋がある。エレベーターのない古くて安いマンションなので、毎日、上り下りが大変だ。運動をする機会があまりないので、ダイエットだと思って頑張ってる。
 そのせいもあって、ヒールの高い靴は履かない。今日は5センチだけど、普段はもっと低い。
 行きは下りだからいいんだけど、帰りはただでさえ疲れてるのに上りなんだ。くたくたの足で上るのは、わたしには重労働に感じる。

 そんなことを考えてるうちに、マンションのすぐ前まで来て、不安になった。
 まさか、同じマンションじゃないよね?
 ドキドキしながら誠司さんの動向を見守っていると、彼の足はマンションの玄関口を素通りし、わたしはホッと小さく息をついた。
 さすがに、そこまで偶然は重ならない。