フランス人との結婚:
Pはパリ近郊に就職したので、週末にそれぞれが、パリとクレルモン=フェランを列車で行き来する遠距離恋愛をしていた。その当時、咲は27歳になりそろそろ結婚したかった。かなり強引に彼をリードする形で結婚をした。結婚式は、市役所に行って手続きをして、咲のアパートで会食した。簡素だが、彼の母が手作りしてくれたウエディングケーキもあったし、純白のウエディングドレスも着た。急いだので咲の家族は妹のみだった。社会的に結婚している自分を見出すのがゴールの利己的な結婚だった。「他の人がしているからしてみたかった」巻き込まれた夫は本当に迷惑な話だ。

夫の出身地はヴィッシーと言う綺麗な街の郊外で、人口600人の村だった。咲を村の人が見た時、村に来た最初のアジア人だったかもしれない。家の前には牛が放し飼いにされており、人間より牛の数が多い村かもしれなかった。夫の母親が南フランスのアクセントだったことで、最初は苦労をしたらしく、それを考えると、咲はその村で暮らさないで良かったと心から思った。その実家に行くと、何もすることがなく、家の周りを散歩するか、近所の誰それが病気とか亡くなった話をするくらいしかなかったので、咲には息がつまる場所だった。シャワーも1週間に一回、トイレも何回かに一回流す生活で、窮屈だった。

パリに転職:
結婚後、咲もパリ近郊に転職できた。やっと、遠距離での行き来が終わった。咲と夫の住む町はブルジェ空港の近くだった。移民が多く、アラブ系、アフリカ系が多く住む、治安のあまり良くない地域だった。カラシニコフで撃ち合いがあったとか、物騒な話もあるほどだった。夫が市役所で働いていたので、公団住宅に住むことができたので、少々のことと目をつぶった。咲の仕事は新しい凱旋門のあるラデファンスより西の地域にあった。日系企業の損害保険の代理店で、フランス人営業の補佐をする仕事だった。咲は日本の保険会社で働く日本人の友人ができて、日本語のできるフランス人女性の友人もできたので、お茶をしたり、日本人のグループとは本を貸しあったり、楽しい日々だった。

夫との夫婦生活:
夫は仕事の話もしないし、家にいるときは、ヘッドホンでピンク・フロイドやザ・フーの音楽を聴くか、本を読む、テレビを見るので、話もしなくなり、毎年夏になると、3週間ほど日本でバカンスを過ごしてはいたが、カップルとしては、うまくいってはいなかった。夫の家族に会いに行く回数は少なかったが、咲は自分のことしか考えない性格で、そのことにあまり気がついていなかった。だんだん、夫と一緒にいると退屈だと感じるようになっていた。母はポールを紹介してしばらくして、「そのうち、この人を退屈だと思うわよ」と言っていたので、母には最初から分かっていたらしい。

パリ:
パリに住んでいるので、できるだけ、週末は美術館に行ったり、観光名所を訪ねることにしていて、夫も一緒に、ミシュランガイドを片手に出かけたりしていた。夫はラーメンやうなぎなど、日本料理も好きだったので、オペラ座界隈には、時々食事に出かけていた。付き合いの最初の頃のときめきは既になくなっていた。話すこともないのに、無理して一緒にいるような状況だった。

がっかりしたこと:
当時、ル・ペンの率いる極右の政党(国民戦線党)が力を持ってきていたので、咲は夫に尋ねた。「もし極右が政権を握って、外国人排斥が激しくなって私にも危険が及んだらどうする?」「君を飛行機に乗せて、日本に脱出させる。」という夫の言葉は、咲には物足りなく感じた。もっと一緒にいる努力、例えば屋根裏に咲を隠してかくまうとか、戦うとか、そういう返事を期待していたので、がっかりした。

不協和音:
二人は頻繁に喧嘩をするようになっていた。友達に赤ちゃんのいる人が羨ましく、子供が欲しいと咲が感情的になったことや、掃除や家事を咲がして、夫がしないことへの不満の爆発だったりした。犬も食わないような内容だったが、咲は泣いたり、自分が不幸なので別れたいと口にするようになった。実際、本当に別れたいのではなかったが、夫が咲と別れたいと告げた時、すでに弁護士に面談済みで、後戻りができない状況だった。別れた後、元夫はもし咲が感情的になっていなかったら、子供も作ったかもしれないとも言っていたが、気の合わない夫婦に子供が生まれていたら、さらに悲劇になっていたかもしれない。”セ ラ ヴィ”である。

人間はわがままで、フランスにいられなくなると思うと、咲はフランスにしがみつきたくなったが、離婚は成立した。同時に、仕事も見つからなくなった。失業保険をもらって、その場をしのいでいた。運命の新しい扉が開く時期が来ていた。

パリの憂鬱:
咲はスペイン人の友人がいたことや、偶然見たラテン・アメリカやスペイン映画に興味を持ったことから、チリの詩のクラスをナンテール大学で聴講したり、スペイン語を習い始めた。ラテン音楽を聞いていると、心が温まる気がしていた。ちょうど11月のパリは憂鬱で、ユトリロの絵のように曇った空が続いて、咲は死にたいような気分になって、日本にいる父に電話した。
「死にたい気分でとても苦しい。」
「僕も時々日本にいて鬱状態になるけど、そんな時は太陽がいっぱいあるカリフォルニアに行くと良いよ。」
父も勧めてくれたので、妹の住むサンディエゴに1週間行くことにした。妹は海の近くのパシッフィック・ビーチに住んでいて、メキシコ国境のメキシコ人の多い企業に勤めていた。そして、メキシコのティファナという町に食事に連れて行ってくれた。

スペイン語とメキシコ:
咲は、妹が流暢なスペイン語を使って食事をオーダーするのに驚いて、ますますスペイン語を話せるようになりたいと思った。フランスでは赤ワインを飲むと、すぐに体調が悪くなったり、眠たくなってぐったりしていたのに、メキシコで飲む、ライムを絞ったパシフィコ・ビールやテキーラは不思議と咲にあったようで、飲んでも平気だった。もちろん、沢山は飲まなかった。メキシコの人々は陽気で前向きだったので、すっかり嬉しくなった。妹の同僚が言った。「悩み事があっても、テキーラを飲めば、大丈夫」これが、咲にとって励ましのマジック・ワードとなった。

アメリカ留学準備:
咲はパリに戻ると、まずは、スペイン語留学でアメリカに行く準備を始めた。妹も家の一室を貸してくれると言ってくれた。アメリカの領事館での手続きがあったので、一度帰国した。この時引いたみくじが、「このみくじにあう人は、脈絡がなく、誰からも理解されない人生を送るが、本人は、楽しく満足のいく人生を送る。」と書いた冒頭のみくじだ。

メサ・カレッジ:
咲は、カリフォルニア州、サンディエゴのカレッジで手続きをしてスペイン語を学び始めた。このカレッジは社会人も少数だが在籍していた。咲のクラスにも、一人ジニーと言う占星術を生業にしているアメリカ女性がスペイン語を習いに来ていた。
咲は既にフランス語の文法が頭に入っていたので、スペイン語は似ているせいか分かりやすかった。

ドロドロの不倫劇:
授業を半年受けると最終試験はスペイン語を使っての発表だったので、4人グループでメキシコのドロドロした男女の不倫劇を上演した。内容が下世話なせいか、大成功で、大きな拍手で公演を終えた。

この劇の脚本は当時アメフトに夢中な彼氏に置いてきぼりにされた経験をしていた女生徒が実体験をもとに書いたものを、メキシコ人学生に添削してもらい、何度もグループでコーヒーショップで集まって作ったものだった。咲はロザリンダというテレビドラマをよく見ていたので、そこで使われるセリフをうまく織り込んで、なかなか生き生きした内容になっていた。

半年経つと、学校に通い続けるには、経済的に苦しくなっていたので、働く必要があったが、ビザは学生ビザで、アメリカでは働けなかった。

カンクン:
メキシコ人の友人で、パリ時代に知り合ったルビーという女性が、カンクンのホテルで働いていて、相談すると、「カンクンは日本人観光客が沢山いて、仕事なら紹介する。」との返事だった。ルビーは親切に、空港まで迎えに来てくれた。

フォックス大統領と青い珊瑚礁:
咲がカンクンの空港に降り立った日(2000年12月1日)は、偶然にもメキシコに新しい大統領が誕生した日だった。大統領はビセンテ・フォックスという名前で、「フォックス、フォックス」と叫びながら身体中で喜びを表している人々が街の中心の噴水で大騒ぎをしているのが目に入った。ルビーは美しい海岸の見えるハードロック・カフェに咲を連れて行ってくれたので、そこで二人は再会を祝してカクテルを飲んだ。

リゾートでの就職活動:
ルビーはリゾート高級ホテルの地図と担当者の名前を書いたメモをくれた。彼女の学生時代の友人3人でルームシェアをしているアパートに住めることになった。ルビー自身は、ディズニーワールドで働くことが既に決まっており、咲の面倒を見るだけ見ると、2週間後フロリダへと旅立った。ルームメイトは2人がホテル、1人が旅行代理店に勤めていた。全員マザトランの大学で観光業を専攻した卒業生だった。

高級ホテルで語学を教える:
ホテル関係の面接を3つ受けると、一つの高級リゾートホテルから従業員に英語と日本語を教えて欲しいと言われて、働き出した。ホテルの仕事は一日中ではなく、間に2時間開いたりしたが、その度にアパートに戻ることはせず、観光客に紛れ込んで、ホテルのビーチで日向ぼっこをしたり、ウインドー・ショッピングしたりして過ごした。

ビーチとカンクンの裏の面:
カンクンの海はエメラルドブルーで珊瑚の死骸からできているらしい砂浜は見事に真っ白で美しかった。太った中流のアメリカ人がよく歩いていた。アメリカでお酒を飲むことができない若者がやってきて馬鹿騒ぎをするとも聞いていた。咲はディスコや酒場に出かけることが殆どなかったので実際の現場に居合わせることはなかった。

メキシコ人の彼:
咲の日本語クラスはホテル従業員への福利厚生の一環で、日本人観光客を迎えるために接客用語を教えていたが、それほど真剣に勉強する生徒はいなかった。カルロスもそのうちの一人で一向に上達しないけれど、咲に会うために来ているらしかった。友達もいないので、誘われるまま、映画を見に行ったりするようになると、交際を申し込まれた。カルロスは21歳で、付き合うには年齢差が14歳もあり釣り合わないので、断ると、それなら二度と会わないと言ってきたので、他に友達のいない咲は、一人になるのが嫌で付き合いを始めた。

労働ビザとベリーズへの旅:
咲が労働ビザを取得する際、メキシコ入国のスタンプがパスポートにないことで、ビザが取れないことが判明した。そこで、急遽一番近い外国の元英国領ベリーズに行くことになった。
咲は、旅費を負担するから同行するよう、カルロスに頼むと、一つ返事で一緒に来てくれることが決まった。バスでの旅行だったが、2001年3月29日、ベリーズに着くと、その日の午後、ハリケーンが襲ってきた。咲とカルロスは四日ほどベリーズのホテルで足止めになり、スーパーから食べ物が消えていく様子を心細く体験したが、大事には至らず、カンクンに戻った。戻る途中、前のバスが川に落ちたとか、ガソリンスタンドのセメントの屋根が傾斜して壊れている様子を見てそのハリケーンがいかに威力を持っていたかを目の当たりにして、胸をなでおろした。メキシコ再入国のビザも押してもらえたので、労働ビザももらえた。

カルロス:
カルロスは、パーティー会場の設置の仕事を誇りを持ってやっているようだった。ベラクルースからやってきたとのことで、しゃべるとき発音が雑な印象を受けた。他のメキシコ人の話では、ベラクルースのなまりのようだった。例えて言うと、標準的に”ベラクルース”と発音する単語を、なまって発音すると、”ベラクル”と終わりの部分が端折られてしまうのだった。一般的には、ベラクルース人の特徴は乱暴な悪い言葉を喋ることらしく、カルロスも良く悪い言葉を発していた。

カルロスが咲に良く言ったのは、「本当に咲はマヤ人みたいだな。」だった。マヤ人はカンクンのあるユカタン半島の先住民族で、顔はアジア人だが、背が低い。イグアナを食べると言うのに咲は驚いた。マヤ人は頑固らしく、咲も頑固だったので、こう呼ばれていた。

マヤ文明と遺跡:
マヤ人は、公用語のスペイン語以外のマヤ語を話すが、草鞋のことを”ワラッチ”と言うらしく、親近感を感じた。今ではすっかり先住民と呼ばれ、見るからに貧しそうな様子のマヤ民族は、マヤ文明の栄えた時代には、かなり進んだ文化を持った民族だったそうだ。咲は観光客に混じって遺跡にも行ったが、大きな遺跡よりトウルム遺跡のように小さい遺跡に魅力を感じた。あまりに暑い気候のため、大きい遺跡は歩き回ると疲れてしまうことも理由の一つだった。

カンクンの様子:
最初の頃は、3週間おきにお腹を壊したが、体が現地の水に順応したのか、平気になってきた。一番困ったのは、扇風機を回し続けても暑くて眠れない暑いジメジメとした時期だった。ウールのスーツはカビが生えてダメになってしまった。スコールが突然やってくると、携帯電話やポータブルPCを持ち歩いていると水を被って壊してしまうとも聞いた。

咲の実体験は、道路の水はけが悪く、突然目の前の道路が川のようになってしまい、仕方がなく、靴を脱いで裸足で道路を渡ったことだった。その日働いている高級ホテルの厨房も浸水したと聞いた。今はアメリカとキューバが仲直りしたが、当時はキューバとの国交を失ったアメリカが、急にカリブ海に作った観光地がカンクンだった。漁港に過ぎなかったカンクンを急いで観光地化する際に、下水道にはあまり力を入れなかったのだろう。

カンクンでは、イグアナをよく見かけたし、サソリもよくいるらしかった。咲の住んでいる家でも出たので、ルームメイトが退治してくれたらしかった。雑学だが、サソリはつがいでいることが多いので、一匹殺しても、つがいの片割れがもう一匹いる可能性が高いとのことだった。氷河期が始まったきっかけも、隕石がユカタン半島に落ちたことにより、地表が冷え始め、そこから氷河期が始まったので、ユカタン半島はパワースポットの一つかもしれない。

子宮外妊娠:
カルロスと付き合ううち、咲は子宮外妊娠をしてしまった。2002年1月6日、咲は6週間の大豆の大きさの赤ちゃんを失った。一生のうち、この時ほど痛い経験をしたことはなかった。それは下腹部を横に一の字に切って手術をして、麻酔が切れた後に始まった。見回りの看護婦が親切にキリスト教のお祈りの言葉について祈ることを勧めてくれたが、この会もあって、この最大級の痛みを乗り越えることができた。

カルロスの家族:
咲が入院したので、カルロスは実家の両親を呼び寄せた。両親と兄、弟、養女の妹はベラクルースから車で駆けつけた。ご両親はともに見るからに善人で特に母親は養女と二人で2週間の間、チキンスープを作ってくれたり、掃除、洗濯をしてくれたり、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。

養女の妹は隣の村で死にかけていたのを、お母さんがもらった娘で、水以外もらっていなかったせいで、7歳になっても、言葉がうまく話せないようで、痩せた儚げな少女だったが、優しい子に育っているようで、咲の看病を彼女なりにしてくれた。咲はこの母親と可愛い痩せっぽっちのアジア人の顔をした娘が好きになった。やがて、咲が元気になると、母と娘はベラクルースに帰って行った。

エンセナダ:
病気が治ると、咲は知り合いのいるエンセナダに行きたいと思うようになった。妹の同僚の家族も住んでいて、大学でスペイン語を習っている間もクラスメートと遊びに行っていたので、土地勘があった。何より2時間ほどでアメリカに行けるので妹の住むサンディエゴも近く安心だった。カルロスは一緒に来てくれることになり、妹の同僚の経営するアパートにも住めることになったので、カルロスと咲はエンセナダに引っ越した。

エンセナダは漁業の盛んな町でちょっとした観光スポットもあるので、アメリカから車で2時間で来れる気軽さもあって、ホテルも幾つかあった。タイミングが悪く2001年9月11日の後、観光産業が打撃を受けていたせいで、カルロスの望むホテルでの仕事に空きはなかった。

日系企業への就職:
幸い日本企業の総務の仕事が決まり、生活のめどがついて、カルロスと咲は結婚した。しかし、相変わらずカルロスの求職活動は苦戦を強いられていた。カルロスは、大工仕事の手伝いをしたり、工場でエアバッグを作る仕事についたりしたが、誇りの持てる仕事ではなかったので、自然と二人の間はギクシャクし始めた。メキシコの諺にあるように、「入り口からお金が入ってこないと、愛が窓から逃げていく」状態だった。

ティファナ:
咲の勤めていた日系企業は工場閉鎖を決め、仕事に困っていた咲は、大学の語学学校で日本語/フランス語を教え、子供の英語学校で英語、日本人会で子供に日本語を教えることになった。フランス語を教えていて、生徒として知り合ったアルヒラと言う女性が離婚してエンセナダよりアメリカ国境に近いティファナに行くというので、咲もティファナの日系企業を受けると、運良く合格した。知り合いの歌詞家が借りれることになり、アルヒラと一緒に引越した。

その後、日本の大手自動車会社が新工場をティファナに作るとの情報をアルヒラからもらい、上司は後になって「競争相手に恵まれてここに入ることができた」と教えてくれた。競争相手に恵まれたと言うのは、良い意味ではなく、
「ここに入れたのは君が優れているからではなく、競争相手がそれほど低レベルな人しかいなかったから、勘違いしないように」
という意味で、咲にも自覚があったので、腑に落ちた。

実際、ワードやエクセルの知識もあまりなく、社長がグラフ作りを代わってやってくれたり、咲はコーヒーを入れたり、スケジュールを管理するなど大した仕事はしていなかった。その会社は居心地が良く、駐在員の人達も人柄の優れた謙虚な人ばかりで、そんなできない秘書の咲を我慢してくれたようだ。

新しい社長:
社長が引退して、新しい社長に変わると、偶然咲と同じ中学の卒業生徒のことだった。ある時、マネージャーがランチをミーティング中に取ることに決まり、社長が昼食を一人で食べる日が週に一度あるので、社長と一緒に食べてくれと頼まれた。毎週木曜日、会議の日、社長は「危険だから、早く帰国しなさい。」と毎週咲に言うので、咲は、当時は自分がどんなに危険な場所で暮らしているかに鈍感だったので、首をかしげていた。

カルロスとの離婚:
そんな中、咲はカルロスとの離婚を話し合い、アルヒラの元夫が弁護士なので、離婚手続きを進めていた。カルロスは、ある日警察沙汰に巻き込まれ、刑務所に入ったとの連絡があったので、保釈金を払い、弁護士同伴で刑務所に迎えに行った。カルロスが話したがらないので、咲は、理由を聞かなかった。酒の席で喧嘩にでも巻き込まれて入ったのではないかと想像していた。

先祖に呼ばれる?:
その正月日本に帰り、メキシコに戻ると、咲はなぜか名古屋に戻ろうと思った。社長にその旨を告げると、
「なんで帰ることにしたんだ?」と聞かれたので、咲は直感で
「先祖に呼ばれました」と答えた。
「馬鹿野郎!そんな風だから、心配なんだ。で、仕事は決まったのか?」
「まだ決まっていません」
すると、社長は、宿題を出した。
「履歴書を持ってこい。それと紙に、なくてはならないもの、あったらいいもの、実現可能な夢、実現困難な夢の4つを書き出せ。」という宿題だった。

咲は、無い頭を絞って考えた。

必要不可欠なもの
・仕事
・住むところ
・健康

あったらいいもの
・名古屋から通える仕事
・父親の家から近い住居
・健康のための運動をする機会

実現可能な夢
・歌を歌う
・映画を見る
・友人を作る

実現困難な夢
・中国語を習う
・旅行をする
・犬を飼う

社長はこのメモを見ると言った。
「知り合いが社長をしている会社が名古屋の近くにあるから、そこに履歴書を送るが、縁があれば入れるし、ニーズがなければ入れない。僕からプッシュすることはできないので、そのつもりでいてほしい。」
「お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」とお礼を言って、お願いしてみることにした。

日本帰国:
こうして、咲は名古屋に戻ることになった。2007年(平成19年)の春、咲は43歳だった。社長は紹介するだけとのことだったが、難なくパートとして働けることになった。咲は自動車関連のマニュアルを編集する会社の編集部で、自動車のオーナーズマニュアルを作成する係で入力することになった。最初、驚いたのは、紹介された人たちの声があまりに小さく、聞き取れなかったことだった。その他、夜中2時3時まで残業する女性たちが、ほとんど中座しないことだった。咲は今までの職場で製造工場へ行ったり、他の部署に用事があったりで、体を動かしていたので、一週間すると、肩がこって、腱鞘炎の始まりなのか、右手が変になってきた。

咲の席には、メキシコの社長の知り合いの役員たちが来て、近況について尋ねた。滅多に役員が1パートのところに来ることがないらしく
「咲さんは社長の愛人ですか?」と聞いてくる同僚もいたりして、咲はびっくりしすぎて、開いた口が塞がらなかった。

名古屋から働きに来ることを、やきもちを焼いて無視する人もいたが、愛知県の中で、尾張(名古屋)、三河(会社は三河みよし市だった)では、対抗意識(主に三河が尾張に抱いている)があることにも気づくきっかけになった。外国にいたり、外国語ができることは、あまり言わない方が安全だと悟ったのもここでの経験のお陰だった。日本で暮らすのには、英語は必要ないのに、できない人が想像以上にコンプレックスを持っているらしかった。

咲は、外国風を吹かせた自覚はなかったが、存在するだけで、そうだったようだ。「バブリー」とあだ名がつけられ、グループに溶け込もうと、お菓子をあげたりするのもお金持ちと誤解されて妬まれる元になったり、逆カルチャーショックに加えて、平成を知らない変な日本人で、周りもきっと衝撃を持って、この日本人形の形の西洋人との出会いにびっくりし、消化不良を起こしていただろう。

ある海外経験のある役員は、「君を見ていると可哀想だ。君が青い目で、金髪なら分かりやすいのに、日本人の行動を期待して一緒に仕事をする人たちは、中身が外人の君に衝撃を覚えている。」と的確に状況を説明してくれた。
「僕も過去に君と同じように海外から帰ってきた人と仕事をしたが、彼女は日本に馴染めずに、結局また海外に戻ったよ」とも言っていた。

このせいか知らないが、この会社に勤めた12年の間に、咲は何度となく、怪我や病気をした。腰を圧迫骨折して3ヶ月、甲状腺の病気(ストレスが原因とも言われている)で4ヶ月、症状精神病で6ヶ月と心が体を病気にしたのだった。友人には、なぜそんな風になってまで続けるのか、と咲に問うたが、咲は日本に馴染めない自分が嫌だったので、頑張ったとしか答えられない。意地でも続けたかったし、正直なところ、この職場を離れて、違う職場が見つかるほど自分に自信がなかったし、求職活動もしてはみたが、比較してより良い仕事にめぐり合うことはなかった。

平成最後の年:
2019年3月、咲は55歳を迎え、4月には元号の変わる時期が刻々と近づいている。咲は、この3月に自分なりの変化のきっかけを掴もうともがいていた。

精神世界についての講演会:
3/16土曜日、大阪でスピリチュアルの世界で有名な夫妻が、講演会を開くというので行ってみた。テーマは、『思ったことは実現する』だった。この前の晩夢を見た。知り合いの男性がティンカーベルと見合いをして、夜の生活はできるのかと、長生きするのかを確認する夢と、その後に、咲がペンギンを飼っていたら、ペンギンの言葉がわかるようになり、それを誰かに言いたい衝動に駆られている夢だった。

名古屋から大阪に着くと、女性がたくさん既に列を作っていた。会場の真ん中あたりで席を取ると、上品そうなエルメスのバックのご婦人が隣に座ってきた。列を作っている際話をした感じのいい人だったので、嬉しかった。

最初にご夫妻の旦那さんが元気の良い声で「こんにちは!」と入ってきた。しばらくすると、夫人も現れ、講演会が始まった。咲は、もしこの人たちが儲け主義の人だったり、上から目線の威張った人だったらどうしようと思っていたが、思いがけず、普通の謙虚で優しい人柄だったので安心した。
講演会を聞き終わると、先ほどまでの曇天がみぞれになっていたが、それまでが、有り難く、天からの祝福の印のように思えた。

リトリート:
家に帰って講演をした夫妻のサイトを覗くと、講演の二週間後、24日と25日に京都でリトリートがあると告知されていた。2日間で4万円とのことで、財布には痛いが、前から行ってみたかった鞍馬山にも登れるので申し込んだ。そこで、スピリチュアルに興味のある友人でもできれば幸運だと思っていた。

リトリートでは、参加者が22名、咲と同じ愛知県から来た人もいたし、東京、横浜、神戸などから女性ばかり参加していた。リトリート出発の前の晩、犬を預けた咲は、久々に一人で寝たが、夢に会社の人事部長と同僚の女性が出てきた。咲の家が火事になり、こっそり覗いている人事部長と、一緒にいる同僚の夢だった。

自己紹介:
最初は、瞑想から始まった。瞑想はヨガでしたことがあるが、慣れていないので、途中で何度も目を開けたり、瞑想の世界に浸ることができなかった。瞑想が終わると自己紹介が始まり、名前とどこからきたかを言うだけだと思っていたら、他の人々は長いスピリチュアルに至るエピソードを語った。
中には、背中から霊が出て行った気配を感じた人や、龍の映像が最近はっきりと目に見えるようになってきた人など、なかなか普段は聞かない自己紹介の数々だった。

咲も長めに自己紹介をした。
「大阪の講演会でお二人の人柄を知り、お二人について行きたいと思いました」と言うのが主な内容だ。加えて、「ここで同様の話題で盛り上がれる友人ができたら嬉しいです」と友達募集のアピールをした。のちに、あまり友人を作ることに興味がない人の連絡先まで聞いて迷惑がられていたと気づき、顔から火が出る思いがした。

見つめ合う練習:
次は、ペアになって目を見つめ合ったまま5分間過ごす時間が持たれた。この後、一人が自分について話し、もう一人は口を挟まず聞いて、それを一人ずつ、5分間行い、最後に感想を話し合った。
ペアを組んだ相手は霊感の強そうな眼光の鋭い女性だった。咲は長い間は見つめ続けられず視線をそらせたので、相手もそれにつられて視線が泳いだのでとても居心地の悪い5分だった。
「居心地が悪い思いのせいで見つめるのが難しかった」と言うと。相手もそうだったと明かした。
咲が最初に自分の経歴を話すと、相手は
「自分の状況とは違うものの、年代や悩みがとても似ていた」と言って、この偶然に感動したのか共感したのか、最後には抱き合って「ありがとう」と言ってセッションを終えた。

お参り:
昼食を取ると、ホテルのすぐ近くに弁天様があるので、散歩に行こうと、揃ってお参りに出かけた。咲は弁天様には参ったが、以前岐阜県の稲荷で買ったお土産が全て神隠しに逢うように無くなって以来、稲荷には関わらないようにしているので、稲荷だけは避けて帰ってきた。オーラの泉という番組で、稲荷は動物(下級)霊なので、お参りしてお礼に行かないと仕返しするとも聞いていたので、本当は、参って仕返しされることも怖かった。

部屋割り:
午後は部屋割りの発表があり、チェックインを済ませた。咲は、学校で事務をしている女性、看護師の女性、薬剤師の女性と同室だった。噂では、部屋割りもセミナーの内容も、参加者のリストを見て精霊が決めているとのことだった。嘘か本当かは定かでないが、このリトリートが終わった時に咲はこの部屋にいたお陰で学べた事がたくさんあったので、まんざら嘘でもない気がした。

瞑想クラス:
リトリートの後、同室の女性の紹介で、神戸にいるインド人女性の瞑想クラスを受けることにした。最初、呼吸法のクラスを受けようと連絡すると、瞑想のクラスが3月の29日から31日の3日間神戸であると聞いて飛びついた。インド人女性は、ニーラという名前で、素晴らしいパワーの持ち主とのことだった。

以前この先生の呼吸法クラスを受講した女性は、左目のドライアイが、インド人講師の呼吸法クラスを取っていたとき不思議なことが起こって治ってしまったそうで、その時持っていた人形の左目が、治ったあと黒くなったと言う。咲は好奇心が高まるのを感じた。自分で確かめるため、「飛び込もう」と思った。

止まった時計の針:
今回の咲の場合、まず京都のリトリートに行った時、持って行った腕時計の針は止まっていた。ただ電池が切れていたと言えばそれだけのようだが、この腕時計のように咲自身の人生も止まっているように感じた。リトリートから戻ると咲は止まっていた腕時計の電池を交換した。止まっていた”咲”という時計が再び時を刻めるように。

幸せって何?:
咲は、リトリートでの講義内容を思い出した。「人間は幸せになる為に、生まれてくる。」

瞑想体験:
瞑想クラスは、キャンセルが相次ぎ、咲とニーラ先生の個人レッスンになった。結局、咲の期待は外れて、体には何の変化も起こらなかった。
ニーラ先生は「人によってはがんの治った人もいます」と言っていた。咲は、このために、ホテル代、犬のペットホテル代、新幹線代を使ったことを思い出して、天を恨む気持ちを感じた。

「私には奇跡なんて、やっぱり起こらない」
がっかりして名古屋に戻ると、眠りについた。犬は寂しかったのか、咲から離れなかった。

昔、母が咲と妹の美里に言ったことを思い出した。「大輪の花を咲かせて」

咲の人生は、半ばだが、死ぬ間際「ああ、面白かった」と言えるだろうか?

答えは、天のみぞ知る。咲は、一歩踏み出したばかりだった。

咲は取り敢えず、リトリートで教えてもらった”モーニングノート”から始めようと思った。

まずは、一週間のモーニングノートだ。
第1日:
「仏様、おはようございます。今日は試しに仏様宛のモーニングノートを書いてみようと思いました」
「神との対話の仏版だね」

こうして咲はブッダに幾つかの質問を投げてみることにした。
「昨日、私は父のことが気になってメモで”お父さんは良くなるの?”と書いてみました」
「そしたら、どんな答えだった?」
「良くなるし、もう直ぐ介護施設から家にも戻れると、たぶん8月くらいに」
今4月18日だからあと3ヶ月ちょっとの我慢だ。

「仏様は神様のお弟子さんみたいなものなんですよね?」
「まあ、そんな感じかな」
「私の良く通る道にも沢山の仏像があります。
四国の巡礼をコンパクトにまとめてあるミニチュアなので、お年寄りとかも気軽に行けて良いですね」
「ああ、日泰寺のやつだな。最近降った雨で石が落ちそうになっているのもあっただろう」
「はい、何かのお告げではないかと疑ってしまいました」
「あまり、全てがメッセージと捉えようとすると、変に敏感になって、本当の大事なメッセージが受け取れなくなる」
「そ!そうですね。気をつけます」
「では、また明日」と1日目のブッダとの交信は終わった。

第2日:
「仏様、こんにちは。今日は朝忙しかったので、お昼間ですがお邪魔します」
「昨日は雨がひどかったし、寒かったね」
「はい、そのせいか鼻が少しグズグズしていますが、お許しください」
「人間は体を持っているから、いろいろあって大変だが、それも肉体があるゆえの経験だ。魂だけになると、病気や痛みを感じられたことが懐かしいから不思議なものだ」
「それは、興味深いです。では、風邪をひいたり、熱が出たりも、ありがたいことに思えますね」
「経験を通してしか学びはないからね」
「確かに痛みを知らないと、痛みを持った人に共感もできませんね」
「良く分かったじゃないか。その通りだよ」
「今夜は目の見えない天才ピアニストのコンサートののです。彼も音を敏感に感じることができるように視力を持たない体に生まれたのでしょうか?」
「それは、分からないが、結果ピアノを弾く才能を開花させたのだから、なるべき道を進んだと言えるだろう」
「彼は一度で良いからお母さんの顔を見てみたいそうですが」
「いつかその夢は叶うかもしれないし、見れなくとも母親の存在が知覚できるのだから、今回の人生に必要がないとも言える」
「そうですか。人にはいつも不足するものがありますね。彼の作り出す音楽の世界に連れて行ってもらえる私たちは幸せですね」
「では、コンサート楽しんでおいで」
「ありがとうございます。仏様も良かったら聞きに来てください」
「では、ご一緒させてもらうかな?」
ブッダもコンサートに行こうと決めたようだ。