令和元年の咲:
今朝、咲には嬉しいことがあった。携帯が鳴って、電話に出てみると
「G社の後藤です。加藤咲様のお電話でよろしかったですか?」と出版社からの電話だった。「いやあ、小説をお贈りいただきありがとうございました。」「え?読んでいただけたのですか?ありがとうございます」
咲は最近出版社に短編小説を書いてはせっせと送っている。まさかこんなに早く連絡があるとは思っていなかった。
「初めてですか?とても読みやすく面白いと思いました。」
出版させようと思って渾身のお世辞が窺われる。咲はお世辞と分かりつつも悪い気はしない。
「いやあ、そんな。お恥ずかしいです。それでどれを読んだのでしょうか?」
「『令和元年の咲』です」それは、咲が書いたものの中で最も長い2万字を超える本人的には”長編?”だった。
喜んだの束の間、出版するには250万円かかるとのことで、当然咲は断った。
咲は自分の作品を出版するためにお金をかける余裕はなかったし、出版して咲の人生が変わるようにも思えなかった。書き続けること、それこそが咲の目標だったのだ。誰が自分のように何の取り柄もない人物の自分史を手に取るだろう。でも自分の人生については書き留めておきたい。そうすることで自分を再発見し、そこをスタート地点として残りの人生を送りたかった。
まず、咲が描きたかったのは、フランスから離婚して一時帰国した際引いたみくじのエピソードだった。こののちの人生で何度もこのみくじの言葉に励ませられた。
犬山のみくじ:
2000年(平成12年)桜の季節、フランスから傷心で戻った咲は、犬山城に行った。元同僚のフランス人男性を案内した際に立ち寄ったのだった。犬山城は小ぶりの城だが、天守閣からの木曽川の景色はなかなか良い。這いつくばるようにして城の天守閣まで階段を登る。忍者気分になる、面白い城である。咲の住む名古屋からも比較的近いので、明治村を観光する際、時間があると来る場所だった。そこで引いたのは、「このみくじにあう人は、脈絡がなく、誰からも理解されないが、本人は、楽しく満足のいく人生を送る。」と書いたみくじだった。自分にぴったりだと、妙に納得してしまった。
咲は、時々みくじを引く。将来どうなるか占う気分で。当たり障りのない、読み取りが限定されない、具体性の低い内容だ。大抵、心に引っかかることが1つや2つはある。下手に占い師に見てもらうと、弱みにつけこまれたり、その人なしには生きていけなくなり、依存の危険もあった。みくじとなら、後腐れなく、程良い距離が保てる。気軽に引ける点が気に入っている。神社や寺に行くと精神的にも身体的にも清々しい。若い頃は日本のものにそれほど興味が無く、ましてや神社などをあまり丁重に扱っていなかったから、人間は勝手なものだ。スピリチュアルに詳しい友人は「”大吉”、”凶”などより、みくじの本文の内容が大事だ」と、教えてくれた。咲はこの時、一度目の離婚から立ち直るきっかけを欲していた。それがみくじを引いた理由だ。
咲:
2000年当時の咲は35歳だったが、生まれたのは東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)で、名古屋に生まれた。(令和元年の時点では55歳になっていたが)弟二人と妹が一人の長女で、初孫だった咲は、猫可愛がりされて、わがままな性格に育った。小さい頃、「鳩ぽっぽ、危ないよ。」と電線にいる鳩に話しかけたと言うから、親が心配で、「危ないよ。」を連発していたのを真似していた節がある。長男の弟が3歳で生まれて、一人っ子で無くなってから、猫可愛がりはされなくなったのは幸いだった。三年間でも十分に甘えっ子に育っていたからだ。
弟が生まれるまでの3年間一人っ子で育ったせいか?咲は、独占欲の強い子供だった。母が弟に乳を上げているのを横目で見ながら、母に呼ばれても、プイと横を向いて、なかなか素直に母への愛情(あるいは嫉妬心)を表すのが下手だった。後々、父方の祖母が咲を”ヒガミスト”と呼んだが、その言葉は最も咲の性格を表している。長女の咲にはどうしても他の人を仕切る癖があり、弟や妹はそんな姉の存在を疎ましく思い、その成果団結していた。小さい頃、弟たちとは、よく遊んだが、大人になると、疎遠になり、ほとんど行き来していない。同性の妹とは頻繁に連絡するから、咲は妹のいる自分はラッキーだと思っている。咲の母には姉妹がいなかったため、相談相手がいなくて、子供は最初から男二人、女二人生むことに決めていたようで、実際その通りになったから、驚きだ。母は3歳までだが、満州で生まれ育ったせいか、意志の力が普通の人以上強いようだった。母の計算通り咲と妹の美里(みさと)は、良く相談するようになった。
咲の父:
父は高身長(180センチは当時珍しかった)名古屋の繁華街を歩くと人が良く振り返る美男子だったらしい。アルバムの写真を見る限りでは、”ローマの休日”に出ていた頃の、グレゴリー・ペックに似ていた。祖父が共産党員だった影響で就職ができなかった。日系アメリカ人の祖母のつてで、日系メキシコ人の経営する貿易商社で働いていた。貿易相手は、メキシコやドバイだった。そこに日本の陶器を輸出し、メキシコからは、民芸品を買っていたようだ。そのせいか、家にはメキシコのソンブレロや見慣れない民芸品などが置いてあった。父はbone chinaと呼ばれる陶器も扱っていたので、お茶を飲みに行くと、ティーカップを裏返してブランドを確認する癖があった。
父は自身が小さかった頃、遊びに連れて行ってもらったことがないせいか、子供たちをよく公園に連れて行って遊ばせてくれた。おにぎりや卵焼き、ソーセージを持って日曜日はお出かけが、一家の過ごし方だった。おにぎりはシーチキンおにぎりに海苔を巻いたもの。卵焼きはちょっと砂糖の入った甘い味がする卵焼きだった。父は料理もできたので、日曜日には、パンダの形のホットケーキ(耳や目鼻をチョコレートクリームで塗る)、チーズパン(サンドイッチパンにチーズを挟んでフライパンにオイルをひいて焼く)、割った卵に牛乳を入れてそこに砂糖を混ぜて作るフレンチトーストに蜂蜜をかけたのなんて、絶品だった。ホットドッグも炒めたキャベツの千切りにウインナーでケチャップをかけて良く食べていた。
父の趣味は、高校時代ブラスバンド部から始めたクラリネットで、仕事に出かける前に練習すると、二軒隣の家に飼われているむく犬が遠吠えしたりしていた。月夜の狼に似た遠吠えだった。アマチュアオーケストラのコンサートにも父や叔父(フルート)が出る時はクラシック音楽を普段は聞かないくせに、咲も弟や妹も出かけていた。祖父はよくベートーベンの話を父としていた。クラシックが好きだったらしい。アメリカからやってきた祖母の兄(”スパッド”おじさんと呼ばれていた)がクラリネットを吹いていたから、父はクラリネットをアメリカから送ってもらい、始めたことを、咲も祖母から聞いていた。この楽器を弾く趣味を引き継いだのは、4人の子供のうち、弟だけで、今でもドラムスを趣味でやっている。咲は不器用だったし、ピアノの先生が厳しく、教室に通っても続いたことがなかった。歌だけは、小学校で合唱部に入って歌っていた。ただし、楽譜は読めずに耳で聞いたものを歌っただけだ。
父方の祖父母:
父方の祖父母は、遠い親戚同士で、名古屋生まれの祖父とカリフォルニア生まれの日系2世(祖母の父の代で和歌山県勝浦から入植)の祖母だった。祖母が20の時に名古屋にやってきた。最初はカトリックのシスターの元で日本語を勉強していた頃、シスター不在で会うことは許されていないはずなのに、結婚式の日付から計算すると、既にお腹に父がいたらしく、当時としては、なかなか進歩的だったことが想像される。祖父もいい加減なもので、許嫁は祖母だったかもしれないし、その姉だったかもしれないと、あまりロマンチックではないことを言っていた。
祖父は、暗いところで本を読んだからかもしれないが、メガネをかけていた。一浪してT大学の哲学科に入った。祖母に経済力があったので、そのあと、数学が苦手だからという理由でN大学の数学科に入ったというから、勉強は嫌いではなかったのだろう。祖母は、アメリカのカレッジでタイプができたのと、日系アメリカ人で英語が喋れたおかげで、米軍で働いて当時としては良いお給料をもらっていた。家にはお手伝いさんがいて、父の弁当には、毎日はんぺんが入っていたと言う。
祖父は共産党員(戦後から)、祖母は米軍ということで、双方からスパイではないかと疑われたと言うちょっとドラマティックな状況だったらしい。平和な時代には、想像もつかない冒険譚だ。一度祖父に「おばあちゃんも東京ローズだったの?」と馬鹿な質問をしたら、やはりそれは言ってはいけないことだったらしく、咲はそれを、今でも覚えている。
咲の母:
母は背が低く、エラが張っていて、美人ではなかった。世話好きで、愛嬌があり、お茶目な性格で、男心をそそるタイプだった。人懐こさが災いして勘違いした出入りの大工が、母にネックレスなど持ってきて父が怒ったという話を、咲もぼんやりと覚えていた。先が読めない、突拍子もない行動をとることもあった。ハラハラさせられる面も持っていた。
ある時は、母が運転する車で、Uターン禁止を無視し警官に止められた時、咲は助手席にいた。『この子が盲腸で病院に急いでいる」と母が咲の病気を口実にしたので、急にお腹が痛そうな演技をさせられた。その夜は、気分が悪くなって、お風呂で戻してしまった。後日、警官は咲の病状を心配して電話までかけてくれたらしく、母が「やはり、盲腸でした。ありがとうございました。」と言っているのを聞いて、咲は呆れた。
外国好きな人で、映画で母が最も好んだのが『風と共に去りぬ』だった。母と初めて見た映画が、記憶の中では、このスカーレット・オハラの物語だ。4時間ほどある長い映画なので、もう小学校3年くらいにはなっていたのだろうか?母は、スカーレットに憧れて、スカーレットばりのドラマのような人生を歩んだ。母の葬式で、やくざ者のような多数の男たちが泣き崩れているのを見た咲は、これほどまで惜しまれて逝く母に驚いた。でも、咲は母のようにはなりたくないと思って大きくなった。残念なことに咲は母にそっくりだと言われて育った。顔も性格もだ。
長い間、咲は母が許せずに苦しんだ過去があった。咲が33歳の時(偶然にもその年は咲にとって厄年だった)57歳という若さで世を去った。麻雀荘を経営していた母は夜働くので、寝不足がたたったのかもしれない。タバコも吸い、お酒も飲んでいた。死因は脳血栓だった。死ぬ前に掃除をしたそうで、人には無意識に死が近いと知覚するのかもしれない。座って祖母と話している最中、”ぱたっ”と祖母の膝の上に倒れたそうだ。祖母はふざけているのかと思ったらしい、いびきをかいて寝ている状態で、そのまま天に召された。咲は危篤と聞いてフランスから急いで帰国したが、間に合わなかった。母の死顔は、穏やかな顔だった。
咲がある時、突然母を許そうと思ったのは、それから2年ほどして、サンディエゴの妹の所に泊まりに行った朝だった。早朝、まだ誰も起きていない時間に目がさめると、「母を許そう」と思った。その時咲の肩に重くのしかかっていた荷物が無くなる感覚で、気持ちが軽くなった。同時に、涙が流れた。そのことを妹に話すと、ある時、咲が母に「お母さんを許す」と言っていたらしく(本人は忘れていたが)母は「咲が許してくれると言っていた」と嬉しそうに妹に語っていたらしい。生前に許すと伝えていたことが、咲にとって安らぎだった。
母方の祖父母:
母方の祖父母のうち、祖父は戦時中病死したが、機密のためアジアのどこで亡くなったか等詳細は定かでない。岩手県花巻出身と言うことと、石川県輪島で祖母を見初めての結婚ということを咲は母から聞いていた。祖母には太郎と言う兄がおり、その妻が輪島出身で輪島にいた。祖母の実家は、熊本の細川藩の京都家老を父に持つ裕福な家だったらしいが、祖母の父親が道楽者で、財産を食いつぶした挙句、膨大な借金を作ってしまい、貧乏だった。祖母は京都の折箱町と言う長屋に住んでいたらしい。小さい頃は東本願寺、西本願寺の境内が遊び場だったというから、京都に憧れを抱く咲にとっては羨ましいように思えた。
祖母は、兄の太郎を頼って輪島にいて、見初められ、その後満州に渡ったが、厳しい寒さと夫からの暴力が待っていた。夫は内向的で、株屋をやっていたが、余り上手く行っておらず、夜酒が入ると大変だった。祖母は何度も子供の手を引いて家から逃げ出した。その後、命からがら日本へ帰国し、北陸の温泉旅館の仲居になった。今思うと、もっと話を聞いておけば良かった。咲に分かるのは、かいつまんだ話しか無い。
祖母の兄、太郎は神田の古本屋街では”本の神様”と呼ばれていたらしい。若い頃、主婦の友社の社長から次期社長になってくれと言われたのに、「私には、親の残した借金があるので」と断ったらしい。神田神保町で”吾八書房”という本屋をやっていて、扱うのは希少本、豆本、骨董品だったらしい。
祖母の話では、叔父の葬式にはTの部屋と言う長寿番組をやっている女優さんや、四角い顔の国民的映画スターのTさん役の俳優が来ていたと言うから、まんざら嘘でもなかったらしい。
咲がどうしてこの叔父のことを書くのかと言うと、最近咲の守護霊になってくれている気がするからである。咲は現職編集部にいて、それが叔父の導きのような気がしてならないのだった。
父と母の出会い:
父と母との馴れ初めは、メキシコ人上司の囲っていた女の経営するバーに父が連れて行かれ、ホステスだった母を好きになったことだった。咲の母は、石川県で旅館の仲居をしていた祖母が、子供たち(母、その兄、弟)の面倒を見ることができなかったことから、東京の叔父の家に預けられていたが、叔母と相性が合わずに飛び出して、名古屋の今池にあるそのバーで働いていた。そこで両親は出会うが、父方の祖父母が反対し、駆け落ちして生まれたのが咲だった。
咲が生まれて結婚はしたものの、父方の祖父母と母が上手く行っていたかは疑問である。そのあと、母が浮気をしたことが原因で両親は離婚しているので、今となっては昔話の一つに過ぎない。
今池:
今池で生まれたせいか、咲は、映画を見に行ったり、あかすりに行ったりするだけなのだが、今池という生地のパワーをもらって充電される気がする。今池の地名は、”うまいけ”が変化したらしく(町の看板にそう書いてあった)、元々は、馬を洗う池があった場所のようだ。
名古屋では、風俗店や飲食店の多いちょっと寂しいうらぶれた繁華街だ。庶民的かつ、文化的な匂い(名作映画の小劇場があったり)もする個性的な場所だ。今池の街を歩いている人は、概して疲れていて、人生の悲しさを感じさせる人が多い気がする。母がそうだったように、流れ者が流れ着く風情がある。流れ者も受け入れる混沌と優しさも持ち合わせた人情がある町なのかもしれない。
両親の結婚と最初の家:
最初は、結婚に反対していた咲の祖父母も、両親が咲の妊娠を告げると結婚を許したらしく、めでたく両親は結婚した。白無垢のお嫁さんとスーツ姿のお婿さん、そんな両親の写真を咲はアルバムで見たことがある。結婚後、咲の両親と咲は小さな借家を借りて暮らし始めた。その家は4人の子供と両親が住むには、あまりに小ぢんまりとした家だったが、咲にとっては、懐かしい場所として心に刻まれている。
長女の咲は、二段ベッドの上で寝ていたが、そのベッドの壁には、並木道が描かれており、その蛇行して絵の中心部で小さく消えていく道に入り込むと絵の中に入っていくような気持ちにさせられる良い絵だった。白黒で描かれていたか、暗い色調の絵だったが、今でも咲は道が続いている、この絵に似た絵を見ると、このベッドに掛けてあった絵を思い出す。一度泊まりに来た従姉妹が二段ベッドから夜中に落ちて、下で布団で寝ていた母のお腹に運悪く落ちたこともあった。幸い誰も怪我はしなかった。小さい家で雑魚寝をしながら、”ゲバゲバ90分”や”8時だよ全員集合”を見て家族で笑っていたのも懐かしい。
家には小さな庭もあって、春には、チューリップが咲いていた。イチゴがなっていたこともあったし、かなり広い5畳分くらいの木のベランダが家の前方にあった。咲がまだ乳飲み子だった時、父が仕事から帰ってくると、裸のままの赤ちゃんがベランダにほうり出されていた話も聞いたことがある。母が、あまりに泣きわめく子に手を焼いて、ベランダに置き去りにしたらしい。
このベランダ横に父が作った犬小屋を置いて、拾ってきた黒い犬を飼った。父がダニを丁寧に採って洗ってやり、クロと名付けたが、雷のひどい夜、おびえたのか、犬はどこかにいなくなってしまった。母が買って、連れてきた三洲犬にブッチーと名付けて飼い始めたのも、この家だった。斑のない犬だったが、NHK教育テレビでやっていた”飛んでけブッチー”の主人公にあやかって咲が名付けた。本当はその頃好きだった男の子が滝渕(たきぶち)という名前で、その子の名前から付けたが、照れ屋の咲はそれを誰にも言わなかった。
その他にも、木製のお風呂に父と入ったことや、母が手作りで美味しいアップルパイを作ったこと、その時、卵黄を刷毛でパイ生地に塗って、テカリを出したこと、ひな祭りには小さい家にしては大きすぎる五段のひな人形を飾ってもらったことなど、暖かく仲の良かった頃の家族の思い出は、今でも輝かしい記憶になっている。”思い出のクリスタル化”と確かスタンダールが書いていたが、過ぎてしまうと、全てが懐かしく、美しい思い出になる。
幼稚園:
幼稚園では、早生まれで他の子より遅れていたのか、甘やかされて育ったのがたたったのか、咲は不器用で、よく泣いていた。郵便ポストを絵の具で赤く塗ることができなくて泣いたりしていたのを覚えている。幼稚園の伊藤先生は、咲の卒園式で、涙を流していた。よほど、可愛がられていたようだ。この手のかかる子が卒園かと思って、感極まったのかもしれない。
小学校:
小学校では目立たない小太りの女の子で、成績も、身長もクラスの真ん中辺だった。クラブは合唱部に入っていた。放課になると、カーディガンを鉄棒に巻きつけて、スカートの裾をパンツに入れて、片足をかけてくるくる回ったり、楽しかった。一番怖かった思い出は、靴を放り投げて天気を占って遊んでいて、校舎の窓を割ってしまったことだ。割ってしまってショックが大きいせいか、その後どうなったかの記憶は欠けている。
小学校五年の時両親は離婚し、父と祖父母と弟、妹と暮らすことになった。祖父母の住む大きな屋敷(小さな借家の家の隣にあった)に移り住んだ。この離婚のストレスからか、甲状腺の病気(バセドー氏病)を発症し、2年ほど通院し、薬を飲まなくてはならなかったが、母に会えないわけではなく、母が祖母と住む石川県の温泉街に、夏休みと冬休みは父に送ってもらって会いに行っていた。父も同時期、胃潰瘍になって、祖母が毎日ジューサーで、りんご、にんじん、キャベツのジュースを作って飲ませていた。
中学校:
中学に入ると、テニス部では腹筋や運動が激しすぎだったから、演劇部で、発声練習やテニス部ほど辛くない腹筋を頑張った。成績はいつも中の下だった。英語のH先生は、有名な広辞苑を作った人の娘で、教え方がとても上手だった。英語の歌(BINGOという名前の犬の歌)を教えてくれたり、生き生きした内容で、咲もこの先生になってから英語が好きになった。「先生の目を見ると成績が上がる。」と言っていたので、この先生の目を見るようにしたら、英語の成績は確かに上がった。
演劇部の同級生が、NHK名古屋制作の”中学生日記”というアマチュア俳優が出ているドラマのオーディションを受けるというので、咲も真似して付いて行った。両親の離婚の影響で、咲はその頃とても暗い目をしていたが、それが気に入って採ってくれたディレクターがいたらしく、咲は1エピソードだけセリフの多い役をやらせてもらった。演じたのは、率先して女生徒をいじめる主犯格の生徒だった。いじめられる生徒の顔写真をマジックペンで塗りつぶしたりするシーンがあったが、咲には、意地悪な面もあったので、当たり役だった。
その後は、セリフなしで、カメラの前を横切るだけの、その他大勢の役しか回ってこなかった。これは、まるでその後の咲の人生を暗示しているようで、面白い。演劇部の劇でも、”女の子2”を演じさせてもらっていた。
高等学校:
高校受験では、出来てから3年目の新設された県立高校に進んだ。家から遠く自転車で行ったり、バスと地下鉄を乗り継いで行ったりした。(バス停の名前が、植田一本松だったのが古臭くて面白かったが。)咲は、新設校の厳しい指導に耐えられず、登校拒否になり、父や先生を困らせた。もともと厳しい規則や、横柄に指導する高飛車な教師たちには反発を感じる性格だった。夢見がちな読書好きな少女でありながら、自分の意見は持っていた。
「先生を神様と思えなんて、絶対おかしい」と思っていた。この高校のような教育は現代では、通用しない。咲は軍隊のような理不尽さを残す教育を受けた最後の年代かもれない。
登校拒否は最初だけで、そのうち、きちんと学校に通うようになり、先生の中にも、威圧的でない謙虚で良い先生もいたので、勉強もしたし(好きな英語と国語を重点的にではあったが)、友達もそれなりにできた。高校は、実績を上げることに一生懸命な学校だったので、夏に合宿を開いたり、受験勉強をするにはぴったりの管理された高校でもあった。ただ、大学に入ってやっと居心地が良いと感じた時、幼稚園から高校までは、あまり楽しくはなかったことに気がついた。
大学:
大学の入試結果発表には、祖父が付いて来てくれた、張り出された合格者に自分の名前がない事にがっくりしながら、とぼとぼと家に帰ってきた。ところが、家に着くと、”合格おめでとう”と電報が届いていた。先輩の女性からだった。どうやら受験した英文科には落ちたが、第2希望枠でフランス語学科に合格していたようだった。なぜフランス語にしたかと言うと、高校2年の時、母が思い立って、咲と長男の弟をフランス、スイス五日の旅に連れて行っていたからだった。母と弟と韓国のソウル、アメリカのアンカレッジを経由して、キムチの匂いのする飛行機に乗って出かけた。
母はどこでも友人を作るらしく、身振り手振りでコミュニケーションを取り、パリの寿司屋で知り合ったスイス人の男性はわざわざアパルトマンを見せてくれた。手動の、古い、歴史のありそうなエレベータに乗って、石造りのアパルトマンを見に行った。母は多分どんな場所でもこうして人々に溶け込んでいける魅力のある人だった。お陰でスイスのレマン湖やルーブル美術館も見れた。予定していなかったフランス語やフランス文学まで勉強する道が現れたのだ。
入学すると、フランス文学は45人中4名が男子と、女子優勢の学科だった。中には、高校生でフランス留学をして、フランス語をペラペラしゃべる生徒もいた。この生徒の存在によって、不思議とファイトに火が付いた。咲の勉強にとっては、良い刺激になった。負けず嫌いの咲は、授業の後、LL教室に一人で通って、必死に勉強した。いつか、フランスに留学する夢も描いていた。
同級生の1割は夏休みにライオンズクラブの短期留学プログラムに入って、留学の夢を果たしていた。夏休みが終わると、一緒に留学した学生のグループが生まれ、夏休み前は仲良かった友人が他のグループの仲間に入っていた。アーティチョーク、クスクスなど、咲が知らない食材の話で盛り上がる彼女たちが、羨ましい気持ちもあったが、無意識に、咲は短期留学でなく、もっと長くフランスに住んで、現地に溶け込んで生活したいと望んでいた。
アルバイトを掛け持ちして(英語塾、子守、ブティック、ハンバーグ屋)お金を貯めていたが、拒食症で、食べ物を食べては吐くことを繰り返していたため、体調を崩し、2ヶ月入院した。退院すると、指導教員ではなかったが、東大出の助教授から呼ばれた。「あなたの年での一年は大したことがないから、無理して進級するより一年留年した方が良いですよ。」と助言をもらった。こうして大学には5年在学してしまった。後から思うと、このお陰で、英語塾のアルバイトで知り合った留学生のフランス人学生の父親に出会い、のちの留学のきっかけを作ったから、人生はラッキーとアンラッキー、表裏一体だ。一学年下のクラスに出たのでそこでの新しい友人もできた。
専門分野、フランス語の成績が良かったため、最後の一年(1987年)は返済不要の奨学金を二つもらえた。この奨学金で1年分の学費はまかなえた。予期せぬ奨学金は、大変ありがたかった。この年は、就職活動や卒論に集中する目的で授業のコマ数が少なく、余裕があった。そこで、ドイツ語の1年生の初級クラスに顔を出させてもらった。最後までは続けらなかったが、6ヶ月ほどで基礎的なことを少し勉強できた。授業料を一年余分に払っていると思うと、できるだけ多く勉強して元を取ろうという算段だった。ドイツ人の母を持つ女学生の家にクラスの皆と先生で行かせてもらい、ドイツ風ジャガイモサラダ(確かマヨネーズとヨーグルトを合わせたドレッシングのものだった)を作ったり、楽しい思い出もできた。
咲は、カミュやサン=テグジュペリが好きで、20世紀フランス文学専門のフランス人神父のゼミに入った。卒業論文はフランス語で書きたいと思ったからだった。有名な”星の王子様”を卒論テーマに選んだが、稚拙で恥ずかしい内容だった。運の良いことに、その卒論は手元にないので、多分この世から消滅してしまったことだろう。この神父様は生徒と時間を取って喫茶店でご馳走してくれる気さくな人だったので、フランス作家の逸話の話を聞いたり、日本の芸能人のスクープネタを交換しあうため、時々研究室に遊びに行って、フランス語での噂話に花を咲かせていた。
ゴシップ好きな神父様と神様の話はあまりしなかったが、なぜ神父になったか質問したことがあった。「初恋の人が若くして亡くなり、神父になった」とのことだった。その時代の教育では、そうすべきだったと説明された。
彼女の名前は確か、オディールと言った。先生がオディールにチョコレートをかじってと言ったら彼女は怒ったそうだ。フランス語でかじるは”クロック”それに”オディール”と続けると”クロコディール”、つまり、”ワニ”という意味になったからだった。多分、この名前のため、幾度となくこのギャグを言われていたのだろう。山登りで足を打って足が壊死して亡くなった。
就職(東京):
咲は地元、名古屋で就職活動をしたが、うまくいかなかった。父にフランス留学について相談すると、「一度は、就職してからにしろ」と言われた。確かに父は正しいことを言ったと今でも思う。結局、東京での就職が決まった。デパートで売っている有名ブランドの営業事務の職だった。意気地なしの同級生は「生き馬の目を抜く東京に行くなんて」と言っていたが、咲には今でも両目ともある。
父がアパート探しに付いてきてくれ、不動産屋の紹介で、埼玉県和光市のアパートに住むことになった。給与の三分の1を家賃に当てるという条件で探すと、東京は家賃が高すぎた。大家さんに指が欠けていたことと、父が愛人と間違えられた事、トラックが通るだけでアパートが揺れるような安普請だった事が記憶に残っている。大家さんの孫娘が時々咲宛の手紙を持ち出すような事もあった。
咲は、フランスデザイナーの部署に配属された。咲の月給の何倍もするニットのセーターが飛ぶように売れていて、いったい誰が買っているのか、理解しがたかった。一年働いて、お金を貯めてセールのセーターを買う人もいると聞いて、咲にはファッションのこだわりがないので、ますます不思議だった。魔力を持ったセーターらしかった。業務上、衣装を貸し出すので、芸能人の話もよく入ってきたし、先輩同僚には五十嵐淳子の従姉妹の五十嵐さんという女性もいた。ファッションショーの準備など面白いこともあった。
フランス留学:
咲はファッションに興味が持てないまま、一年は働いたが、バブルの日本に違和感を感じたのと、フランスに行きたい気持ちが抑えられなかった。ある日、休暇を取ってフランス領事館に相談しに行った。単刀直入に「お金がないけれど、留学したい。」と切り出した。お金がないのに無理と言われても仕様がない状況なのに、親切な男性の返事は、「日本の大学の学士の単位を書き換えて、編入できる。修士課程に留学しなさい」だった。フランスは生活費も学費も比較的安いとのことだった。勇気を出して求めれば、報われることもある。”アルケミスト”の主人公の羊飼いも、夢に向かって歩き始めたから、宇宙がそれを助けてくれた。そのノリである。
ルフロック夫妻:
早速、準備をしようと動き出すと、絶妙のタイミングで、大学時代のフランス人留学生の父親が出張で東京にやってきた。(毎年2回は東京に出張で訪れていた。)留学の意思を告げると、手伝うから自分の住んでいるクレルモン・フェランに留学しろと勧めてくれた。冬は寒く勉強しかすることがないから最高の条件だとのお墨付きだった。なかなか自分からは頼みにくいことだったので、願っても無いことだった。
ルフロック氏は奥さんのアメリカ人と共に、大学の手続きや寮の手配まで手伝ってくれた。彼の経営する会社(薬の特許関連)は韓国人留学生を定期的に受け入れていたので、慣れていたのも幸いした。ルフロック氏のアドバイスは、「フランス語が勉強したいなら、パリには絶対行くな。」だった。パリだと日本人が多く、日本語ばかり話すからだった。「フランス語ができる日本人はたくさんいるが、上手に話す日本人は少ないから、上手に話せるようになりなさい。」と励ましてくれた。
この夫妻は昔東京の上馬に11年住んでいたことから、親日家だった。大きなうちに住んで、咲の大学に留学していた息子のパトリックはアメリカの大学、長男は米軍で働いていて不在で、当時大学生だった娘のアンヌが咲を連れてクレルモン=フェランの街を案内してくれた。その後、長男はドイツ人と結婚し、パリ北部、次男はアメリカ人と結婚し、アメリカ、娘のアンヌもオーストリア人と結婚し、インつブルックに住むことになるので、国際的な家族だった。
留学生として:
フランスは、翌年1989年で革命の200年祭で盛り上がりを見せていた。言っていた通り、大学では、日本人には一人も出会わなかった。留学先の寮は女子寮で、アジア人は中国人(南京から来たフランス政府給付留学生で経済専攻だった)が一人、韓国人(済州島出身の自費留学生で、博士課程でパスカルの研究をしていた)が一人だった。フランス人は週末になると実家に帰ってしまうので、寮に残るのは外国人留学生だった。
寮の友人達:
隣の部屋がドイツ人だった。ラドカという名の彼女はチェコから亡命した両親がいた。活動的な女性で、彼女を通じてアンドレアという友人ができジョギングに連れ立って行った。また大学のコーラスで歌を歌ったり、いろいろなことをして過ごした。
中国人グループには、”メゾンシノワーズ”と言って、集える場所があったので、そこで一緒にご飯を作って食べたり、友好的に接してもらった。韓国人のグループにも入れてもらい、台湾人の絵描きカップルを紹介してもらい、絵を見せてもらったり、仲良くしてもらった。
クラスメートと先生:
咲はクラスメートのアルジェリア系フランス人、ナディアとナタリーの二人と仲良くなり、彼女たちにノートをコピーさせてもらって、なんとか授業について行けた。フランスでは、先生はほとんど白板に文字を書かず、授業中先生の言うことすべてを略語でノートしていくので、読めない箇所は教えてもらわなければならなかった。
担任の先生は言語学で有名な先生で厳しいことで有名だったが、咲は彼女によくしてもらった。咲は日本の大学では、成績がまずまずだったので、フランス語ができると勘違いしていた。担任から卒業間際に、「最近あなたのフランス語が分かるようになった。」と言われて、つくづく自分が過信していたことを自覚した。終了した修士は、通常一年で終了だが、咲はそれを二年に分けて、ギリギリで卒業した。
最初の彼氏:
咲は女子寮にいたので、男子生徒とは知り合う機会がそんなになかった。女子寮で電話の掛け方が分からず困っていたとき助けてくれたMという友人が兄のPを紹介してくれた。Pは咲と同じ年だったが、兵役から戻ってきたばかりで、友人が少なかったようで、コーヒーを飲みに行ったり、中華料理を食べに行ったりするようになった。当時、Pには別のガールフレンドがいたようで、最初付き合い出した時はPの家族も驚いていたようだった。
フランスでの就職:
卒業後は滞在許可証もなくなるので、咲はその当時付き合っていたPと別れるので悲しくて、抱き合って泣いた。ところが、運良く仕事が見つかった。咲にはキムという韓国人の知り合いがいた。この金は街を歩いていて、翻訳会社の人から声をかけられた。翻訳会社が探していたのは、日本人で翻訳のできる人だったので、キムは咲にその連絡先をくれた。
咲は翻訳会社を通じてあるタイヤ会社に就職した。この会社は日本のタイヤ会社と合併したところで、日本人の研修生が10人ほど勉強に来ていた。咲の仕事はこの研修生のために通訳をしたり、アテンドすることだった。咲以外にも2人初老のフランス人が日本語翻訳でいたが、この2人は読み書きは出来たが、しゃべることは得意ではなかった。
この部署には、翻訳を担当する外国人が他にもいて、アイルランド人(北アイルランド人)が2人、イギリス人が一人、ドイツ人が一人、フランス人が4人いた。フランス人でも外国に興味がある人が多かったせいか、とても温かく迎えられた。咲は中古のプジョーを買って、運転が好きではないにも関わらず、マニュアル車を運転して通勤していた。
今朝、咲には嬉しいことがあった。携帯が鳴って、電話に出てみると
「G社の後藤です。加藤咲様のお電話でよろしかったですか?」と出版社からの電話だった。「いやあ、小説をお贈りいただきありがとうございました。」「え?読んでいただけたのですか?ありがとうございます」
咲は最近出版社に短編小説を書いてはせっせと送っている。まさかこんなに早く連絡があるとは思っていなかった。
「初めてですか?とても読みやすく面白いと思いました。」
出版させようと思って渾身のお世辞が窺われる。咲はお世辞と分かりつつも悪い気はしない。
「いやあ、そんな。お恥ずかしいです。それでどれを読んだのでしょうか?」
「『令和元年の咲』です」それは、咲が書いたものの中で最も長い2万字を超える本人的には”長編?”だった。
喜んだの束の間、出版するには250万円かかるとのことで、当然咲は断った。
咲は自分の作品を出版するためにお金をかける余裕はなかったし、出版して咲の人生が変わるようにも思えなかった。書き続けること、それこそが咲の目標だったのだ。誰が自分のように何の取り柄もない人物の自分史を手に取るだろう。でも自分の人生については書き留めておきたい。そうすることで自分を再発見し、そこをスタート地点として残りの人生を送りたかった。
まず、咲が描きたかったのは、フランスから離婚して一時帰国した際引いたみくじのエピソードだった。こののちの人生で何度もこのみくじの言葉に励ませられた。
犬山のみくじ:
2000年(平成12年)桜の季節、フランスから傷心で戻った咲は、犬山城に行った。元同僚のフランス人男性を案内した際に立ち寄ったのだった。犬山城は小ぶりの城だが、天守閣からの木曽川の景色はなかなか良い。這いつくばるようにして城の天守閣まで階段を登る。忍者気分になる、面白い城である。咲の住む名古屋からも比較的近いので、明治村を観光する際、時間があると来る場所だった。そこで引いたのは、「このみくじにあう人は、脈絡がなく、誰からも理解されないが、本人は、楽しく満足のいく人生を送る。」と書いたみくじだった。自分にぴったりだと、妙に納得してしまった。
咲は、時々みくじを引く。将来どうなるか占う気分で。当たり障りのない、読み取りが限定されない、具体性の低い内容だ。大抵、心に引っかかることが1つや2つはある。下手に占い師に見てもらうと、弱みにつけこまれたり、その人なしには生きていけなくなり、依存の危険もあった。みくじとなら、後腐れなく、程良い距離が保てる。気軽に引ける点が気に入っている。神社や寺に行くと精神的にも身体的にも清々しい。若い頃は日本のものにそれほど興味が無く、ましてや神社などをあまり丁重に扱っていなかったから、人間は勝手なものだ。スピリチュアルに詳しい友人は「”大吉”、”凶”などより、みくじの本文の内容が大事だ」と、教えてくれた。咲はこの時、一度目の離婚から立ち直るきっかけを欲していた。それがみくじを引いた理由だ。
咲:
2000年当時の咲は35歳だったが、生まれたのは東京オリンピックの年、1964年(昭和39年)で、名古屋に生まれた。(令和元年の時点では55歳になっていたが)弟二人と妹が一人の長女で、初孫だった咲は、猫可愛がりされて、わがままな性格に育った。小さい頃、「鳩ぽっぽ、危ないよ。」と電線にいる鳩に話しかけたと言うから、親が心配で、「危ないよ。」を連発していたのを真似していた節がある。長男の弟が3歳で生まれて、一人っ子で無くなってから、猫可愛がりはされなくなったのは幸いだった。三年間でも十分に甘えっ子に育っていたからだ。
弟が生まれるまでの3年間一人っ子で育ったせいか?咲は、独占欲の強い子供だった。母が弟に乳を上げているのを横目で見ながら、母に呼ばれても、プイと横を向いて、なかなか素直に母への愛情(あるいは嫉妬心)を表すのが下手だった。後々、父方の祖母が咲を”ヒガミスト”と呼んだが、その言葉は最も咲の性格を表している。長女の咲にはどうしても他の人を仕切る癖があり、弟や妹はそんな姉の存在を疎ましく思い、その成果団結していた。小さい頃、弟たちとは、よく遊んだが、大人になると、疎遠になり、ほとんど行き来していない。同性の妹とは頻繁に連絡するから、咲は妹のいる自分はラッキーだと思っている。咲の母には姉妹がいなかったため、相談相手がいなくて、子供は最初から男二人、女二人生むことに決めていたようで、実際その通りになったから、驚きだ。母は3歳までだが、満州で生まれ育ったせいか、意志の力が普通の人以上強いようだった。母の計算通り咲と妹の美里(みさと)は、良く相談するようになった。
咲の父:
父は高身長(180センチは当時珍しかった)名古屋の繁華街を歩くと人が良く振り返る美男子だったらしい。アルバムの写真を見る限りでは、”ローマの休日”に出ていた頃の、グレゴリー・ペックに似ていた。祖父が共産党員だった影響で就職ができなかった。日系アメリカ人の祖母のつてで、日系メキシコ人の経営する貿易商社で働いていた。貿易相手は、メキシコやドバイだった。そこに日本の陶器を輸出し、メキシコからは、民芸品を買っていたようだ。そのせいか、家にはメキシコのソンブレロや見慣れない民芸品などが置いてあった。父はbone chinaと呼ばれる陶器も扱っていたので、お茶を飲みに行くと、ティーカップを裏返してブランドを確認する癖があった。
父は自身が小さかった頃、遊びに連れて行ってもらったことがないせいか、子供たちをよく公園に連れて行って遊ばせてくれた。おにぎりや卵焼き、ソーセージを持って日曜日はお出かけが、一家の過ごし方だった。おにぎりはシーチキンおにぎりに海苔を巻いたもの。卵焼きはちょっと砂糖の入った甘い味がする卵焼きだった。父は料理もできたので、日曜日には、パンダの形のホットケーキ(耳や目鼻をチョコレートクリームで塗る)、チーズパン(サンドイッチパンにチーズを挟んでフライパンにオイルをひいて焼く)、割った卵に牛乳を入れてそこに砂糖を混ぜて作るフレンチトーストに蜂蜜をかけたのなんて、絶品だった。ホットドッグも炒めたキャベツの千切りにウインナーでケチャップをかけて良く食べていた。
父の趣味は、高校時代ブラスバンド部から始めたクラリネットで、仕事に出かける前に練習すると、二軒隣の家に飼われているむく犬が遠吠えしたりしていた。月夜の狼に似た遠吠えだった。アマチュアオーケストラのコンサートにも父や叔父(フルート)が出る時はクラシック音楽を普段は聞かないくせに、咲も弟や妹も出かけていた。祖父はよくベートーベンの話を父としていた。クラシックが好きだったらしい。アメリカからやってきた祖母の兄(”スパッド”おじさんと呼ばれていた)がクラリネットを吹いていたから、父はクラリネットをアメリカから送ってもらい、始めたことを、咲も祖母から聞いていた。この楽器を弾く趣味を引き継いだのは、4人の子供のうち、弟だけで、今でもドラムスを趣味でやっている。咲は不器用だったし、ピアノの先生が厳しく、教室に通っても続いたことがなかった。歌だけは、小学校で合唱部に入って歌っていた。ただし、楽譜は読めずに耳で聞いたものを歌っただけだ。
父方の祖父母:
父方の祖父母は、遠い親戚同士で、名古屋生まれの祖父とカリフォルニア生まれの日系2世(祖母の父の代で和歌山県勝浦から入植)の祖母だった。祖母が20の時に名古屋にやってきた。最初はカトリックのシスターの元で日本語を勉強していた頃、シスター不在で会うことは許されていないはずなのに、結婚式の日付から計算すると、既にお腹に父がいたらしく、当時としては、なかなか進歩的だったことが想像される。祖父もいい加減なもので、許嫁は祖母だったかもしれないし、その姉だったかもしれないと、あまりロマンチックではないことを言っていた。
祖父は、暗いところで本を読んだからかもしれないが、メガネをかけていた。一浪してT大学の哲学科に入った。祖母に経済力があったので、そのあと、数学が苦手だからという理由でN大学の数学科に入ったというから、勉強は嫌いではなかったのだろう。祖母は、アメリカのカレッジでタイプができたのと、日系アメリカ人で英語が喋れたおかげで、米軍で働いて当時としては良いお給料をもらっていた。家にはお手伝いさんがいて、父の弁当には、毎日はんぺんが入っていたと言う。
祖父は共産党員(戦後から)、祖母は米軍ということで、双方からスパイではないかと疑われたと言うちょっとドラマティックな状況だったらしい。平和な時代には、想像もつかない冒険譚だ。一度祖父に「おばあちゃんも東京ローズだったの?」と馬鹿な質問をしたら、やはりそれは言ってはいけないことだったらしく、咲はそれを、今でも覚えている。
咲の母:
母は背が低く、エラが張っていて、美人ではなかった。世話好きで、愛嬌があり、お茶目な性格で、男心をそそるタイプだった。人懐こさが災いして勘違いした出入りの大工が、母にネックレスなど持ってきて父が怒ったという話を、咲もぼんやりと覚えていた。先が読めない、突拍子もない行動をとることもあった。ハラハラさせられる面も持っていた。
ある時は、母が運転する車で、Uターン禁止を無視し警官に止められた時、咲は助手席にいた。『この子が盲腸で病院に急いでいる」と母が咲の病気を口実にしたので、急にお腹が痛そうな演技をさせられた。その夜は、気分が悪くなって、お風呂で戻してしまった。後日、警官は咲の病状を心配して電話までかけてくれたらしく、母が「やはり、盲腸でした。ありがとうございました。」と言っているのを聞いて、咲は呆れた。
外国好きな人で、映画で母が最も好んだのが『風と共に去りぬ』だった。母と初めて見た映画が、記憶の中では、このスカーレット・オハラの物語だ。4時間ほどある長い映画なので、もう小学校3年くらいにはなっていたのだろうか?母は、スカーレットに憧れて、スカーレットばりのドラマのような人生を歩んだ。母の葬式で、やくざ者のような多数の男たちが泣き崩れているのを見た咲は、これほどまで惜しまれて逝く母に驚いた。でも、咲は母のようにはなりたくないと思って大きくなった。残念なことに咲は母にそっくりだと言われて育った。顔も性格もだ。
長い間、咲は母が許せずに苦しんだ過去があった。咲が33歳の時(偶然にもその年は咲にとって厄年だった)57歳という若さで世を去った。麻雀荘を経営していた母は夜働くので、寝不足がたたったのかもしれない。タバコも吸い、お酒も飲んでいた。死因は脳血栓だった。死ぬ前に掃除をしたそうで、人には無意識に死が近いと知覚するのかもしれない。座って祖母と話している最中、”ぱたっ”と祖母の膝の上に倒れたそうだ。祖母はふざけているのかと思ったらしい、いびきをかいて寝ている状態で、そのまま天に召された。咲は危篤と聞いてフランスから急いで帰国したが、間に合わなかった。母の死顔は、穏やかな顔だった。
咲がある時、突然母を許そうと思ったのは、それから2年ほどして、サンディエゴの妹の所に泊まりに行った朝だった。早朝、まだ誰も起きていない時間に目がさめると、「母を許そう」と思った。その時咲の肩に重くのしかかっていた荷物が無くなる感覚で、気持ちが軽くなった。同時に、涙が流れた。そのことを妹に話すと、ある時、咲が母に「お母さんを許す」と言っていたらしく(本人は忘れていたが)母は「咲が許してくれると言っていた」と嬉しそうに妹に語っていたらしい。生前に許すと伝えていたことが、咲にとって安らぎだった。
母方の祖父母:
母方の祖父母のうち、祖父は戦時中病死したが、機密のためアジアのどこで亡くなったか等詳細は定かでない。岩手県花巻出身と言うことと、石川県輪島で祖母を見初めての結婚ということを咲は母から聞いていた。祖母には太郎と言う兄がおり、その妻が輪島出身で輪島にいた。祖母の実家は、熊本の細川藩の京都家老を父に持つ裕福な家だったらしいが、祖母の父親が道楽者で、財産を食いつぶした挙句、膨大な借金を作ってしまい、貧乏だった。祖母は京都の折箱町と言う長屋に住んでいたらしい。小さい頃は東本願寺、西本願寺の境内が遊び場だったというから、京都に憧れを抱く咲にとっては羨ましいように思えた。
祖母は、兄の太郎を頼って輪島にいて、見初められ、その後満州に渡ったが、厳しい寒さと夫からの暴力が待っていた。夫は内向的で、株屋をやっていたが、余り上手く行っておらず、夜酒が入ると大変だった。祖母は何度も子供の手を引いて家から逃げ出した。その後、命からがら日本へ帰国し、北陸の温泉旅館の仲居になった。今思うと、もっと話を聞いておけば良かった。咲に分かるのは、かいつまんだ話しか無い。
祖母の兄、太郎は神田の古本屋街では”本の神様”と呼ばれていたらしい。若い頃、主婦の友社の社長から次期社長になってくれと言われたのに、「私には、親の残した借金があるので」と断ったらしい。神田神保町で”吾八書房”という本屋をやっていて、扱うのは希少本、豆本、骨董品だったらしい。
祖母の話では、叔父の葬式にはTの部屋と言う長寿番組をやっている女優さんや、四角い顔の国民的映画スターのTさん役の俳優が来ていたと言うから、まんざら嘘でもなかったらしい。
咲がどうしてこの叔父のことを書くのかと言うと、最近咲の守護霊になってくれている気がするからである。咲は現職編集部にいて、それが叔父の導きのような気がしてならないのだった。
父と母の出会い:
父と母との馴れ初めは、メキシコ人上司の囲っていた女の経営するバーに父が連れて行かれ、ホステスだった母を好きになったことだった。咲の母は、石川県で旅館の仲居をしていた祖母が、子供たち(母、その兄、弟)の面倒を見ることができなかったことから、東京の叔父の家に預けられていたが、叔母と相性が合わずに飛び出して、名古屋の今池にあるそのバーで働いていた。そこで両親は出会うが、父方の祖父母が反対し、駆け落ちして生まれたのが咲だった。
咲が生まれて結婚はしたものの、父方の祖父母と母が上手く行っていたかは疑問である。そのあと、母が浮気をしたことが原因で両親は離婚しているので、今となっては昔話の一つに過ぎない。
今池:
今池で生まれたせいか、咲は、映画を見に行ったり、あかすりに行ったりするだけなのだが、今池という生地のパワーをもらって充電される気がする。今池の地名は、”うまいけ”が変化したらしく(町の看板にそう書いてあった)、元々は、馬を洗う池があった場所のようだ。
名古屋では、風俗店や飲食店の多いちょっと寂しいうらぶれた繁華街だ。庶民的かつ、文化的な匂い(名作映画の小劇場があったり)もする個性的な場所だ。今池の街を歩いている人は、概して疲れていて、人生の悲しさを感じさせる人が多い気がする。母がそうだったように、流れ者が流れ着く風情がある。流れ者も受け入れる混沌と優しさも持ち合わせた人情がある町なのかもしれない。
両親の結婚と最初の家:
最初は、結婚に反対していた咲の祖父母も、両親が咲の妊娠を告げると結婚を許したらしく、めでたく両親は結婚した。白無垢のお嫁さんとスーツ姿のお婿さん、そんな両親の写真を咲はアルバムで見たことがある。結婚後、咲の両親と咲は小さな借家を借りて暮らし始めた。その家は4人の子供と両親が住むには、あまりに小ぢんまりとした家だったが、咲にとっては、懐かしい場所として心に刻まれている。
長女の咲は、二段ベッドの上で寝ていたが、そのベッドの壁には、並木道が描かれており、その蛇行して絵の中心部で小さく消えていく道に入り込むと絵の中に入っていくような気持ちにさせられる良い絵だった。白黒で描かれていたか、暗い色調の絵だったが、今でも咲は道が続いている、この絵に似た絵を見ると、このベッドに掛けてあった絵を思い出す。一度泊まりに来た従姉妹が二段ベッドから夜中に落ちて、下で布団で寝ていた母のお腹に運悪く落ちたこともあった。幸い誰も怪我はしなかった。小さい家で雑魚寝をしながら、”ゲバゲバ90分”や”8時だよ全員集合”を見て家族で笑っていたのも懐かしい。
家には小さな庭もあって、春には、チューリップが咲いていた。イチゴがなっていたこともあったし、かなり広い5畳分くらいの木のベランダが家の前方にあった。咲がまだ乳飲み子だった時、父が仕事から帰ってくると、裸のままの赤ちゃんがベランダにほうり出されていた話も聞いたことがある。母が、あまりに泣きわめく子に手を焼いて、ベランダに置き去りにしたらしい。
このベランダ横に父が作った犬小屋を置いて、拾ってきた黒い犬を飼った。父がダニを丁寧に採って洗ってやり、クロと名付けたが、雷のひどい夜、おびえたのか、犬はどこかにいなくなってしまった。母が買って、連れてきた三洲犬にブッチーと名付けて飼い始めたのも、この家だった。斑のない犬だったが、NHK教育テレビでやっていた”飛んでけブッチー”の主人公にあやかって咲が名付けた。本当はその頃好きだった男の子が滝渕(たきぶち)という名前で、その子の名前から付けたが、照れ屋の咲はそれを誰にも言わなかった。
その他にも、木製のお風呂に父と入ったことや、母が手作りで美味しいアップルパイを作ったこと、その時、卵黄を刷毛でパイ生地に塗って、テカリを出したこと、ひな祭りには小さい家にしては大きすぎる五段のひな人形を飾ってもらったことなど、暖かく仲の良かった頃の家族の思い出は、今でも輝かしい記憶になっている。”思い出のクリスタル化”と確かスタンダールが書いていたが、過ぎてしまうと、全てが懐かしく、美しい思い出になる。
幼稚園:
幼稚園では、早生まれで他の子より遅れていたのか、甘やかされて育ったのがたたったのか、咲は不器用で、よく泣いていた。郵便ポストを絵の具で赤く塗ることができなくて泣いたりしていたのを覚えている。幼稚園の伊藤先生は、咲の卒園式で、涙を流していた。よほど、可愛がられていたようだ。この手のかかる子が卒園かと思って、感極まったのかもしれない。
小学校:
小学校では目立たない小太りの女の子で、成績も、身長もクラスの真ん中辺だった。クラブは合唱部に入っていた。放課になると、カーディガンを鉄棒に巻きつけて、スカートの裾をパンツに入れて、片足をかけてくるくる回ったり、楽しかった。一番怖かった思い出は、靴を放り投げて天気を占って遊んでいて、校舎の窓を割ってしまったことだ。割ってしまってショックが大きいせいか、その後どうなったかの記憶は欠けている。
小学校五年の時両親は離婚し、父と祖父母と弟、妹と暮らすことになった。祖父母の住む大きな屋敷(小さな借家の家の隣にあった)に移り住んだ。この離婚のストレスからか、甲状腺の病気(バセドー氏病)を発症し、2年ほど通院し、薬を飲まなくてはならなかったが、母に会えないわけではなく、母が祖母と住む石川県の温泉街に、夏休みと冬休みは父に送ってもらって会いに行っていた。父も同時期、胃潰瘍になって、祖母が毎日ジューサーで、りんご、にんじん、キャベツのジュースを作って飲ませていた。
中学校:
中学に入ると、テニス部では腹筋や運動が激しすぎだったから、演劇部で、発声練習やテニス部ほど辛くない腹筋を頑張った。成績はいつも中の下だった。英語のH先生は、有名な広辞苑を作った人の娘で、教え方がとても上手だった。英語の歌(BINGOという名前の犬の歌)を教えてくれたり、生き生きした内容で、咲もこの先生になってから英語が好きになった。「先生の目を見ると成績が上がる。」と言っていたので、この先生の目を見るようにしたら、英語の成績は確かに上がった。
演劇部の同級生が、NHK名古屋制作の”中学生日記”というアマチュア俳優が出ているドラマのオーディションを受けるというので、咲も真似して付いて行った。両親の離婚の影響で、咲はその頃とても暗い目をしていたが、それが気に入って採ってくれたディレクターがいたらしく、咲は1エピソードだけセリフの多い役をやらせてもらった。演じたのは、率先して女生徒をいじめる主犯格の生徒だった。いじめられる生徒の顔写真をマジックペンで塗りつぶしたりするシーンがあったが、咲には、意地悪な面もあったので、当たり役だった。
その後は、セリフなしで、カメラの前を横切るだけの、その他大勢の役しか回ってこなかった。これは、まるでその後の咲の人生を暗示しているようで、面白い。演劇部の劇でも、”女の子2”を演じさせてもらっていた。
高等学校:
高校受験では、出来てから3年目の新設された県立高校に進んだ。家から遠く自転車で行ったり、バスと地下鉄を乗り継いで行ったりした。(バス停の名前が、植田一本松だったのが古臭くて面白かったが。)咲は、新設校の厳しい指導に耐えられず、登校拒否になり、父や先生を困らせた。もともと厳しい規則や、横柄に指導する高飛車な教師たちには反発を感じる性格だった。夢見がちな読書好きな少女でありながら、自分の意見は持っていた。
「先生を神様と思えなんて、絶対おかしい」と思っていた。この高校のような教育は現代では、通用しない。咲は軍隊のような理不尽さを残す教育を受けた最後の年代かもれない。
登校拒否は最初だけで、そのうち、きちんと学校に通うようになり、先生の中にも、威圧的でない謙虚で良い先生もいたので、勉強もしたし(好きな英語と国語を重点的にではあったが)、友達もそれなりにできた。高校は、実績を上げることに一生懸命な学校だったので、夏に合宿を開いたり、受験勉強をするにはぴったりの管理された高校でもあった。ただ、大学に入ってやっと居心地が良いと感じた時、幼稚園から高校までは、あまり楽しくはなかったことに気がついた。
大学:
大学の入試結果発表には、祖父が付いて来てくれた、張り出された合格者に自分の名前がない事にがっくりしながら、とぼとぼと家に帰ってきた。ところが、家に着くと、”合格おめでとう”と電報が届いていた。先輩の女性からだった。どうやら受験した英文科には落ちたが、第2希望枠でフランス語学科に合格していたようだった。なぜフランス語にしたかと言うと、高校2年の時、母が思い立って、咲と長男の弟をフランス、スイス五日の旅に連れて行っていたからだった。母と弟と韓国のソウル、アメリカのアンカレッジを経由して、キムチの匂いのする飛行機に乗って出かけた。
母はどこでも友人を作るらしく、身振り手振りでコミュニケーションを取り、パリの寿司屋で知り合ったスイス人の男性はわざわざアパルトマンを見せてくれた。手動の、古い、歴史のありそうなエレベータに乗って、石造りのアパルトマンを見に行った。母は多分どんな場所でもこうして人々に溶け込んでいける魅力のある人だった。お陰でスイスのレマン湖やルーブル美術館も見れた。予定していなかったフランス語やフランス文学まで勉強する道が現れたのだ。
入学すると、フランス文学は45人中4名が男子と、女子優勢の学科だった。中には、高校生でフランス留学をして、フランス語をペラペラしゃべる生徒もいた。この生徒の存在によって、不思議とファイトに火が付いた。咲の勉強にとっては、良い刺激になった。負けず嫌いの咲は、授業の後、LL教室に一人で通って、必死に勉強した。いつか、フランスに留学する夢も描いていた。
同級生の1割は夏休みにライオンズクラブの短期留学プログラムに入って、留学の夢を果たしていた。夏休みが終わると、一緒に留学した学生のグループが生まれ、夏休み前は仲良かった友人が他のグループの仲間に入っていた。アーティチョーク、クスクスなど、咲が知らない食材の話で盛り上がる彼女たちが、羨ましい気持ちもあったが、無意識に、咲は短期留学でなく、もっと長くフランスに住んで、現地に溶け込んで生活したいと望んでいた。
アルバイトを掛け持ちして(英語塾、子守、ブティック、ハンバーグ屋)お金を貯めていたが、拒食症で、食べ物を食べては吐くことを繰り返していたため、体調を崩し、2ヶ月入院した。退院すると、指導教員ではなかったが、東大出の助教授から呼ばれた。「あなたの年での一年は大したことがないから、無理して進級するより一年留年した方が良いですよ。」と助言をもらった。こうして大学には5年在学してしまった。後から思うと、このお陰で、英語塾のアルバイトで知り合った留学生のフランス人学生の父親に出会い、のちの留学のきっかけを作ったから、人生はラッキーとアンラッキー、表裏一体だ。一学年下のクラスに出たのでそこでの新しい友人もできた。
専門分野、フランス語の成績が良かったため、最後の一年(1987年)は返済不要の奨学金を二つもらえた。この奨学金で1年分の学費はまかなえた。予期せぬ奨学金は、大変ありがたかった。この年は、就職活動や卒論に集中する目的で授業のコマ数が少なく、余裕があった。そこで、ドイツ語の1年生の初級クラスに顔を出させてもらった。最後までは続けらなかったが、6ヶ月ほどで基礎的なことを少し勉強できた。授業料を一年余分に払っていると思うと、できるだけ多く勉強して元を取ろうという算段だった。ドイツ人の母を持つ女学生の家にクラスの皆と先生で行かせてもらい、ドイツ風ジャガイモサラダ(確かマヨネーズとヨーグルトを合わせたドレッシングのものだった)を作ったり、楽しい思い出もできた。
咲は、カミュやサン=テグジュペリが好きで、20世紀フランス文学専門のフランス人神父のゼミに入った。卒業論文はフランス語で書きたいと思ったからだった。有名な”星の王子様”を卒論テーマに選んだが、稚拙で恥ずかしい内容だった。運の良いことに、その卒論は手元にないので、多分この世から消滅してしまったことだろう。この神父様は生徒と時間を取って喫茶店でご馳走してくれる気さくな人だったので、フランス作家の逸話の話を聞いたり、日本の芸能人のスクープネタを交換しあうため、時々研究室に遊びに行って、フランス語での噂話に花を咲かせていた。
ゴシップ好きな神父様と神様の話はあまりしなかったが、なぜ神父になったか質問したことがあった。「初恋の人が若くして亡くなり、神父になった」とのことだった。その時代の教育では、そうすべきだったと説明された。
彼女の名前は確か、オディールと言った。先生がオディールにチョコレートをかじってと言ったら彼女は怒ったそうだ。フランス語でかじるは”クロック”それに”オディール”と続けると”クロコディール”、つまり、”ワニ”という意味になったからだった。多分、この名前のため、幾度となくこのギャグを言われていたのだろう。山登りで足を打って足が壊死して亡くなった。
就職(東京):
咲は地元、名古屋で就職活動をしたが、うまくいかなかった。父にフランス留学について相談すると、「一度は、就職してからにしろ」と言われた。確かに父は正しいことを言ったと今でも思う。結局、東京での就職が決まった。デパートで売っている有名ブランドの営業事務の職だった。意気地なしの同級生は「生き馬の目を抜く東京に行くなんて」と言っていたが、咲には今でも両目ともある。
父がアパート探しに付いてきてくれ、不動産屋の紹介で、埼玉県和光市のアパートに住むことになった。給与の三分の1を家賃に当てるという条件で探すと、東京は家賃が高すぎた。大家さんに指が欠けていたことと、父が愛人と間違えられた事、トラックが通るだけでアパートが揺れるような安普請だった事が記憶に残っている。大家さんの孫娘が時々咲宛の手紙を持ち出すような事もあった。
咲は、フランスデザイナーの部署に配属された。咲の月給の何倍もするニットのセーターが飛ぶように売れていて、いったい誰が買っているのか、理解しがたかった。一年働いて、お金を貯めてセールのセーターを買う人もいると聞いて、咲にはファッションのこだわりがないので、ますます不思議だった。魔力を持ったセーターらしかった。業務上、衣装を貸し出すので、芸能人の話もよく入ってきたし、先輩同僚には五十嵐淳子の従姉妹の五十嵐さんという女性もいた。ファッションショーの準備など面白いこともあった。
フランス留学:
咲はファッションに興味が持てないまま、一年は働いたが、バブルの日本に違和感を感じたのと、フランスに行きたい気持ちが抑えられなかった。ある日、休暇を取ってフランス領事館に相談しに行った。単刀直入に「お金がないけれど、留学したい。」と切り出した。お金がないのに無理と言われても仕様がない状況なのに、親切な男性の返事は、「日本の大学の学士の単位を書き換えて、編入できる。修士課程に留学しなさい」だった。フランスは生活費も学費も比較的安いとのことだった。勇気を出して求めれば、報われることもある。”アルケミスト”の主人公の羊飼いも、夢に向かって歩き始めたから、宇宙がそれを助けてくれた。そのノリである。
ルフロック夫妻:
早速、準備をしようと動き出すと、絶妙のタイミングで、大学時代のフランス人留学生の父親が出張で東京にやってきた。(毎年2回は東京に出張で訪れていた。)留学の意思を告げると、手伝うから自分の住んでいるクレルモン・フェランに留学しろと勧めてくれた。冬は寒く勉強しかすることがないから最高の条件だとのお墨付きだった。なかなか自分からは頼みにくいことだったので、願っても無いことだった。
ルフロック氏は奥さんのアメリカ人と共に、大学の手続きや寮の手配まで手伝ってくれた。彼の経営する会社(薬の特許関連)は韓国人留学生を定期的に受け入れていたので、慣れていたのも幸いした。ルフロック氏のアドバイスは、「フランス語が勉強したいなら、パリには絶対行くな。」だった。パリだと日本人が多く、日本語ばかり話すからだった。「フランス語ができる日本人はたくさんいるが、上手に話す日本人は少ないから、上手に話せるようになりなさい。」と励ましてくれた。
この夫妻は昔東京の上馬に11年住んでいたことから、親日家だった。大きなうちに住んで、咲の大学に留学していた息子のパトリックはアメリカの大学、長男は米軍で働いていて不在で、当時大学生だった娘のアンヌが咲を連れてクレルモン=フェランの街を案内してくれた。その後、長男はドイツ人と結婚し、パリ北部、次男はアメリカ人と結婚し、アメリカ、娘のアンヌもオーストリア人と結婚し、インつブルックに住むことになるので、国際的な家族だった。
留学生として:
フランスは、翌年1989年で革命の200年祭で盛り上がりを見せていた。言っていた通り、大学では、日本人には一人も出会わなかった。留学先の寮は女子寮で、アジア人は中国人(南京から来たフランス政府給付留学生で経済専攻だった)が一人、韓国人(済州島出身の自費留学生で、博士課程でパスカルの研究をしていた)が一人だった。フランス人は週末になると実家に帰ってしまうので、寮に残るのは外国人留学生だった。
寮の友人達:
隣の部屋がドイツ人だった。ラドカという名の彼女はチェコから亡命した両親がいた。活動的な女性で、彼女を通じてアンドレアという友人ができジョギングに連れ立って行った。また大学のコーラスで歌を歌ったり、いろいろなことをして過ごした。
中国人グループには、”メゾンシノワーズ”と言って、集える場所があったので、そこで一緒にご飯を作って食べたり、友好的に接してもらった。韓国人のグループにも入れてもらい、台湾人の絵描きカップルを紹介してもらい、絵を見せてもらったり、仲良くしてもらった。
クラスメートと先生:
咲はクラスメートのアルジェリア系フランス人、ナディアとナタリーの二人と仲良くなり、彼女たちにノートをコピーさせてもらって、なんとか授業について行けた。フランスでは、先生はほとんど白板に文字を書かず、授業中先生の言うことすべてを略語でノートしていくので、読めない箇所は教えてもらわなければならなかった。
担任の先生は言語学で有名な先生で厳しいことで有名だったが、咲は彼女によくしてもらった。咲は日本の大学では、成績がまずまずだったので、フランス語ができると勘違いしていた。担任から卒業間際に、「最近あなたのフランス語が分かるようになった。」と言われて、つくづく自分が過信していたことを自覚した。終了した修士は、通常一年で終了だが、咲はそれを二年に分けて、ギリギリで卒業した。
最初の彼氏:
咲は女子寮にいたので、男子生徒とは知り合う機会がそんなになかった。女子寮で電話の掛け方が分からず困っていたとき助けてくれたMという友人が兄のPを紹介してくれた。Pは咲と同じ年だったが、兵役から戻ってきたばかりで、友人が少なかったようで、コーヒーを飲みに行ったり、中華料理を食べに行ったりするようになった。当時、Pには別のガールフレンドがいたようで、最初付き合い出した時はPの家族も驚いていたようだった。
フランスでの就職:
卒業後は滞在許可証もなくなるので、咲はその当時付き合っていたPと別れるので悲しくて、抱き合って泣いた。ところが、運良く仕事が見つかった。咲にはキムという韓国人の知り合いがいた。この金は街を歩いていて、翻訳会社の人から声をかけられた。翻訳会社が探していたのは、日本人で翻訳のできる人だったので、キムは咲にその連絡先をくれた。
咲は翻訳会社を通じてあるタイヤ会社に就職した。この会社は日本のタイヤ会社と合併したところで、日本人の研修生が10人ほど勉強に来ていた。咲の仕事はこの研修生のために通訳をしたり、アテンドすることだった。咲以外にも2人初老のフランス人が日本語翻訳でいたが、この2人は読み書きは出来たが、しゃべることは得意ではなかった。
この部署には、翻訳を担当する外国人が他にもいて、アイルランド人(北アイルランド人)が2人、イギリス人が一人、ドイツ人が一人、フランス人が4人いた。フランス人でも外国に興味がある人が多かったせいか、とても温かく迎えられた。咲は中古のプジョーを買って、運転が好きではないにも関わらず、マニュアル車を運転して通勤していた。