この業界は、甘党が一定数存在する。
 私も甘党の1人である。

 甘党と言ってもいろいろな種類の人が居ます。自分の基準が普通で、皆がそうだと思って行動している人がいました。
 ケーキが大好きで、昼飯に20cm超えのホールケーキを食べる人がいました。そして、少し残念な事に、この人物は頭のネジが数本入れ違いになっているのか?なくなっているのか?原因はわかりませんが、昼飯にホールケーキを食べるのは”普通”だと思っていたのです。

 そんな人物なのですが、困った癖も有ったのです。
 仕事で行き詰まったり、上司に怒られたりすると、自傷行為では無いのですが、自分の腕をナイフやカッターで斬りつけるのです。リストカットではありません。皮膚を切るくらいなので、血が滲むくらいなのですが、周りから見たら不気味な状況である事は間違いないのです。それを、会社の給湯室やトイレで行うのです。

 何度か、その現場を”上司”と見た事がある人は、”またか”で終わるのですが、その時は少し事情が違っていました。

 その人物=矢島(仮称)としましょう。

 矢島さんが、腕を切っていた場所は、会社の給湯室だったのです。
 またタイミングが悪い事に、その年にはいった新人が研修明けで戻ってきていたのです。

 1人の女の子が、矢島さんに気がついて、気を利かせて”手当”をしようとしたのです。手当をしたわけではありません。”手当をしましょうか?”と声をかけただけです。その女の子は、新人の中でも可愛いと言われていた子でした。
 私たちも気がついて、女の子を止めようとしました。手当の必要がない事や、矢島さんのもう一つの悪い癖が出てしまう事を恐れたのです。

 しかし、そのときにはもう遅かった。手当をしようとした行為だけで矢島さんには十分だったのです。

 完全に惚れしてしまったのです。完全にのぼせ上がってしまったのです。

 普段、仕事以外で女性と話をしない人が、女性から声をかけられて、その子が可愛い女の子です。”大丈夫ですか?手当をしましょうか?”の言葉だけで十分だったのです。このときに、全てが始まって、全てが終わってしまったのです。
 その場に居た事情を把握している者たちは頭を抱えます。

 会社が新人の女の子と矢島さんのどちらを優遇するのかはわかりきっていました。
 新人の女の子が辞める事になるだろうと・・・。矢島さんは、悪い癖があるし、人間的にも問題がある人ですが、仕事の面。それも、とある汎用機のエミュレータを使った試験(テスト)では、右に出る人が居ないというほどの人物なのです。名指しで仕事が来るような人を会社が擁護しないわけありません。
 1人で2~3人分くらいの仕事量を平気でこなしているのです。多少の問題が有っても、会社が手放す理由がありません。モンキーテストなのですが必要なテストなのです。

 そんな矢島さんが惚れてしまった新人の女の子は、悪いことに会社の寮に住んでいたのです。それほど大きな会社ではないので、実際には寮が有るわけではなく、マンションを数戸借りている状況だったのです。
 簡単に言えば住所がすぐに解ってしまう状況だったのです。

 矢島さんがストーカーになるような事が無いように皆で監視していました。
 監視期間で、多少の問題行動は有りましたが、ストーカーにならなかったので、皆が胸をなでおろしていました。経験から、矢島さんは3ヶ月くらいで熱が冷めてしまうので、仕事が忙しくなってくると仕事を優先します。そして、今週を乗り越えれば来週からテストが始まるので、矢島さんはフル回転になるはずです。その間は大丈夫となるのです。そして、テスト期間が終了すれば、女の子の事も忘れてくれていると思えるのです。

 しかし・・・。木曜日に事態が動きました。
 女の子がなれない業務から体調を崩して熱を出して休んでしまったのです。矢島さんは、その事実を知らないはずでした。来週から始まるテストの打ち合わせの為に、現場に出ていたのです。

 金曜日になっても女の子は体調が悪い状態が続いて、無理をすれば会社で出てこられると言っていたのですが上司の命令で金曜日も休む事になったのです。

 その会社はタイムカードで出欠を管理していませんでした。
 プログラムで管理していました。出勤場所が変わる人が多いために、タイムカードは無駄になってしまうからです。誰が休んでいるのか、誰が現場に出ているのかは、簡単に判明しません。
 私たちは勘違いしていました。新人は現場に出ないので、社内で作業をしているので、所属が決まるまではタイムカードが支給されるのです。そして、女の子もタイムカードを使っています。矢島さんは、女の子のタイムカードが押されていない事に気がついてしまったのです。

 そして、私たちが仕事をしている時に、財布を持って外出してしまったのです。

 私のデスクにある電話が鳴った時に、矢島さんの姿がない事に気がついたのです。
 この電話は社員しか連絡してこない番号です。朝と夕方はかかってきますが、昼過ぎにかかってくる事は多くありまえん。

 私が電話に出ました。
 女の子からでした。

「体調が少し良くなって、食事に出かけようと思ったら・・・」
「どうしました?」

 かなり怯えている様子です。

「や、矢島さんが、マンションの前に、部屋の前に・・・居ます」
「え?」
「なんか・・・ケーキが部屋の前に置いてありました・・・。怖いです。どうしたらいいですか?」
「え?」
「ああああぁあ・・・上がってきました。ドアの前で、ドアの前で立っています。怖いです。怖いです。どうしたら」
「わかった、今から行く、いい。絶対に部屋の中に居て、外に出ないようにして!」
「はっはい。はい。絶対に出ません。早く来てください。あぁぁなんで、ドアの前に居るの!!」

 インターフォンを押すわけでも、ドアを叩くわけでもなく、ドアの前に立っているようです。
 インターフォンのカメラの前でただ、立っているだけのようです。

 私たちは数名ですぐに女の子の寮に駆けつけます。
 10分くらいで到着できます。

 矢島さんは、チャイムを押すわけでもなく、扉の前に立っていたのです。
 なぜ、そんな事をしたのかわかりません。女の子の部屋の前で、私と数名が目撃したのは衝撃的な光景でした。

 矢島さんは、推定体重150kgの巨漢です。しかし、身長が150cmを少し超えるくらいなのです。その人物が、扉の前で大きな大きな花束とケーキと思われる箱を1つ持って(2つは足元に置いてありました。3つ買って持っていったようです)立っているのです。
 ニコニコするのでもなく、真顔で・・・ただ立っているのです。直立不動です。微動だにせずに、ただドアを見つめながら立っているのです。
 そして、ケーキを切るために必要になると思ったのでしょう、花束を持っている手には、剥き身になっているナイフが握られていました。

 あの当時でも、私たちが発見しなければ警察が呼ばれる案件です。
 私たちが駆けつけて、矢島さんを確保して、女の子は体調が悪いから、矢島さんが居ると落ち着かないから帰りましょうと言って連れ帰りました。それから、二度とこんな事をしてはダメだと言い聞かせます。解ってくれたとは思います。

 確認する必要がなくなってしまったのが残念です。
 女の子は、週明けに辞表を提出しました。会社としては違う部署に移動を提案しましたがダメでした。そこで、協力会社に移動する事になったのです。女の子は、その会社でしっかり仕事をしていると話を聞きました。寮もしばらくは使っていいという事にしたようです。

---後日談
 なんで、矢島さんはチャイムを鳴らしたり、ドアをノックしたり、しなかったのでしょうか?

 本人に聞きました。
「体調が悪くて寝ていると、チャイムやノックは迷惑になると思ったから、起きて物音がするまで待っていようと思った」
 だそうです。

 矢島さんは、ケーキを3ホール持っていったのです。
 1ホールくらい食べるのは普通だから、体調悪いときには甘い物が欲しくなる。だから、ケーキを3ホール買っていったという事です。花束は、お見舞いだから、花束は当然持っていく物だと思っていたそうです。

 何かが間違っていると思うのは、私が愚かなだけなのかもしれない。
 そう考えさせられる事件でした。

 IT会社には悲しいすれ違いから産まれる喜劇があります。
 この話しも、そんな悲しいすれ違いから産まれた喜劇です。

 私の勤めた会社に、前園という某サッカー選手と同じ名字を持つ男性がいました。
 本人の自己申告なので、どこまで本当なのかわかりませんが・・・
 彼曰く
 ・小中高校と主席だった
 ・主席だった為に、友達が居なかった
 ・旧家なのでそこそこの資産がある
 ・兄が居て、兄が跡継ぎになる事が決まっている
 ・兄に疎まれて家から出て生活している
 ・バイクの腕には自信がありレースに出た事がある
 ・大学生の時にレースにはまって彼女を作らなかった

 前園氏という男は、自分を売り込むのが下手なのかもしれないと思った。
 酒の席で、素面の状態で言われても、酔っぱらいが正確に反応できるはずがない。

 真実がどこに有るのかわかりませんが、唯一わかる事があります。友達が居なかった事と、大学時代どころか30半ばになるまで女性とも男性とも付き合った事がないという事です。
 これは、酔っぱらいが直接聞いて確認しているので間違いないでしょう。

 対人スキルが低い前園氏なのですが、自分が童貞だという事を頑なに否定します。
 実際に経験があろうがなかろうが、別に仕事上は問題はありません。しかし、童貞である事は否定し続けます。これに関しては、後日わかった事なのですが、童貞であったのは間違い無いようです。ただし、会社に入ったばかりの頃に、客に”おっぱいパブ”に連れて行かれて、そこで経験したと言いはったのです。店の名前を聞くと、本番をしているような店ではなく、()()なおっぱいパブだったので、嘘である事がわかったのです。

 前園氏にも春が訪れようとしていました。
 会社が新しい部署を作って、その部署のリーダーに前園氏を指名したのです。まだ本格参入の前段階の実験的な部署ですが、優秀だと自分で思っていた前園氏にとっては千載一遇のチャンスだったのです。
 なんと言っても、部署のメンバーは3名を除いて、自由に決めていいと会社側から言われていたのです。
 立ち上げ当初は部署のメンバーは前園氏を入れて6名になる予定です。

 1名は前園氏
 もうひとりは、この部署の営業を務める人物。もうひとりは、この営業を務める人物が他の部署から引き抜いてきた私。
 この3名は決定していたのですが、他3名は未決状態だったのです。

 そこで前園氏は、元いた部署に話をして人を回してもらおうと考えたのですが、人手不足な部署なので回せる人が居るわけではありません。
 前園氏は何を思ったのか、元々の部署で部下だった者を強引に引き抜いたのです。

 その部署のトップは、営業と私と仲が良かったので、前園氏の行いを苦情という形で受理したのですが、私がその部署のヘルプを行う事で矛を収めてくれたのです。それを、自分の手柄だと言い始める前園氏。この辺りから、かなりウザくなってきたのです。

 部署の立ち上げから1ヶ月も経とうとしている時に、あと二人も決まったのです。
 しかし、両者ともその部署で戦力になるとは思えません。いろいろ前園氏は言い訳をしていたのですが、1人は新人の女の子。もう1人は、前園氏の違う部署に移動になった元部下だったのです。

 そして、残念な事に前園氏は、対人スキルも皆無なので、対女性への対応もできない状況なのです。

 まず、新人の女の子を贔屓し始めます。
 当然です。何もできない子を引っ張ってきた人に責任を取ってもらうのです。しかし、それが裏目に出てしまいました。新人の女の子は、自分が贔屓されている事を認識して、前園氏にやめてくださいというのですが、前園氏はそれが本心からなのか、私たちがプレッシャーをかけたからなのか判断できません。
 そして、私たちが新人の女の子にプレッシャーをかけていると判断して、私たちに辞めるように”皆の前”で説教を始めるのです。

 唯々諾々と営業と私は話を聞いています。何を言っても無駄なのはわかっています。
 最後には、自分が如何に新人の女の子をフォローしていたのかを語りだしたのです。逆効果だという事がわからないのでしょう。

 翌日、新人の女の子は、営業と私に詫を入れて、前園氏に辞表を提出したのです。

 前園氏は引き留めようと必死です。
 別の部署の部長が出てきて、辞表は撤回させて、新人の女の子を引き取る事になったのです。後で話を聞いたら、営業が裏で動いたようです。その時の貸しが高くついたのですが、それは別の話です。

 前園氏は、自分が悪いとは一切思っていません。
 自分の事は優秀な人間だと思っています。確かに優秀な人物だと思います。1人で行う仕事はそつなくこなします。ただ、何度も書いていますが、絶望的に対人スキルが無いのです。従って、私や部下に仕事を出す事がうまくできないのです。
 そして、先の新人の女の子に対する事でわかったのですが、人の気持ちを汲み取る能力が著しく欠落しています。残念な事に、これは前園氏だけの現象ではありません。IT業界で優秀だと言われる人ほど、この現象が現れます。
 そして、決定的なのは、優秀だと思われる人や優秀だと思っている人ほど、人との交流が少なくなっていきます。そして異性との出会いも極端に減っていきます。

 童貞で、年齢=彼女いない歴で、仕事は優秀で、人付き合いができなくて、対人スキルが欠落している前園氏ですが、好きな人ができたのです。
 そう、この部署には前園氏を除いて、妻子持ちの営業。彼女持ちの私。同じく彼女持ちの部下(私から見たら先輩筋)。そして、前園氏の元部下の女性です。

 前園氏は、前にも書いたとおり仕事に関しては優秀だと言える能力を持っていました。ですので、前園氏さんが選んだ道は女性に1人では難しい分量の仕事を割り当てることなのです。そうする事で、女性の手に負えない仕事を、前園氏が手伝って頼りになるところを見せると言う状態を作り上げようとしたのです。

 前園氏らしいアプローチです。この作戦は一見うまくいきそうだったのですが、大きな誤算が発生したのです。
 前園氏もかなりの分量の仕事を持っていたのですが、無理にできる男を演出しなくても、しっかり仕事をこなしていれば十分だったのですが、自分が考えた演出の為に、手伝ってあげる行為が必要になり、手伝ってあげる事で自分の価値を上げようと考えたのです。

 嬉しい誤算もありました。それは、二人だけの残業時間が増えたのです。他のメンツは、私を含めて、人の仕事を手伝って残業するなんて馬鹿らしいと考える人間でした。人の仕事を手伝うという発想は持ち合わせていません。私たちは、リーダーがそんな感じなので好き勝手始めます。出社時間もあやふやになって居て、夕方から出勤して、次の日の朝まで作業をする様な事を行い始めます。しかし、前園氏は女性と二人っきりに慣れる時間が増えると思って容認していたのです。

 前園氏は、女性と二人っきりになる、幸せ時間を手に入れたのです。

 しかし、この幸せは、別の幸せを呼び寄せていたのです。
 女性は、仕事が多くて、残業も多くなって来て、上司(前園氏)は手伝ってくれるのだが、上司が担当している仕事が多いのはわかっています。思い悩んだ女性は、別の部署に居る同期に相談したのです。相談した事は問題にならなかった。当然ながら相談された同期は仕事の内容に関しての助言はできません。やっている事が違うので当然です。しかし、前園氏や女性が担当している仕事の配分が傍目にも異常な事はわかります。それを、その同期は先輩筋にあたる営業に相談したのです。そして、営業が乗り出して問題ない分量の配分にしてしまったのです。

 そして、発生した悲しいすれ違い・・・。

 前園氏は、自分の存在意義を求めて、女性の仕事を増やした。自分の存在をアピールしたかった。
 しかし、女性は、そんな前園氏さんを見て、自分の存在意義を考えてしまったのです。考え抜いた結果、別の部署に居る同期に相談してしまったのです。

 そして、その女性は、自分の存在意義を、前園氏の部下としてよりも、同期の恋人への存在意義にかけかえてしまったのです。あとでわかった事ですが、この女性は年齢=彼氏なし。本人申告の処女だったのです。そして、相談された同期も同じく年齢=彼女なしの童貞だったのです。

 女性は、前園氏の恋心には気がつかないまま、同期の恋人としての存在を確固たる物にしてしまったのです。

 その後は、可哀想(笑いをこらえるのに必死)で見ていられませんでした。

 仕事中に聞こえてくる二人の会話が痛々しくてたまらないのです。

 特に前園氏が痛々しくて・・・。仕事中には止めてほしかった。

 同僚は、笑いをかみ殺して、私に詳細に会話の内容を教えてくれました。

 この時点になって、前園氏は、アプローチ方法が間違っていたことに気がついたのです。でも、すでに手遅れだったのです。
 そして今まで(本人曰く)挫折を知らない人だったので、自分の恋心を隠そうとしなくなりました。自分がこんなに好きなのだから、相手も優秀な自分を好きになるはずと思っていたようです。
 しかし、女性は 同期への愛情が体中から溢れ出ています、前園氏の言葉には耳を傾けようとはしていませんでした。

 世の中にはいろいろなダイエット方法があります。
 それも、新しい理論(ダイエット)が産まれて、試されて、また新しい理論(ダイエット)が産まれる。私たちが行ったダイエットは、それらの物とは違いました。意図してダイエットをしようとしたわけではありません。

 一緒に仕事をしていたメンバーの全員が、10キロ以上の減量に成功しています。
 100キロ超えの人間から、60キロ位しかなかった人(女性を除く)まで様々ですが、全員がダイエットに成功しています。

 その驚異的なダイエット方法は・・・・。



 精神的に追い詰められた状態で仕事を続ける事でした。
 納品まで3ヶ月。通常なら余裕のある職場です。実際に、仕事は余裕がありました。

 ただ、場所が山奥に作られている周りにまだ施設が建設されていない病院だったのです。

 感のいい人ならわかると思います。
 山奥に作られる病院は、私が知る限り二種類です。

 この病院も二種類のどちらかです。
 そして、周りに何もない事や、建設中の病院ではありますが、旧システムが稼働しているので、病院業務には支障はありません。そのために、病院は稼働しているのです。建設中なのは、入院患者のための施設ではなく、患者の付き添いやお見舞いに来た人向けの施設なのです。

 そして一番大事な事は、この病院が最寄りの交通機関から2時間程度歩かなければ到着できない事なのです。車で20分以上の移動が必要です。駐車場の数も少ない事から、病院のスタッフも麓で駐車場を借りて、車に乗り合って来るほどです。
 システム屋向けの駐車場なんて用意してくれるはずがありません。

 そこで、システム屋が取った方法は・・・。
 病院に寝泊まりするという事です。当初、その話を聞いた時には施設側が拒否すると思っていたのですが、問題なく許諾されてメンバー23名全員の宿泊が承認されました。これがダイエット(悪夢)の始まりです。

 病院です。
 それも、お見舞いに来た人が泊まっていける施設を用意している最中ですが、宿泊施設があります。
 食堂はありません。風呂も大浴場があります。寝られる場所が有るだけです。
 そして、洗濯機もありますので、洗濯も可能です。

 無いのは、食事をする場所だけです。
 病院ですので、入院患者の食事を提供する場所がありますが、あくまで入院患者用です。

 システム屋は、何か行うにしても最後の最後になります。
 売店もありますが、23人全員の胃袋を満たすほどの物量ではありません。

 システム屋が外部で缶詰状態になるような場合は、カップ麺などの保存が効く物を大量に買いこんでおいて、消費していくのですが、病院側から止めて欲しいというお願い(命令)が出てできませんでした。

 そのために、23名は交渉の末・・・。病院食の試食という名目で食事の確保に成功したのです。

 しかし、病院食です。
 栄養士が付いています。好きな物が食べられるわけではありません。名目とは言え”試食”なのです。

 簡単に言えば、しっかり管理された食事を3食摂取するのです。それも決まった時間に・・・。

 食事の問題は解決されました。
 しかし、ここにはもう一つ問題があります。

 感のいい人ならお気づきでしょう。
 システム屋の作業する場所は、地下になる事が多いのです。この病院も地下にコンピュータルームが設置されていて、その中での作業になっています。AS400が基礎システムで動いていて、DB連携用にWindowsNT4.0サーバが数台動いています。
 あと、23台の端末と補助端末があり、他にも複合機が数台あり、旧システムに繋がる端末まであります。

 冷蔵庫とはよく言った物です。
 それだけの端末が常時動いています。暑くなってしまうのを、クーラーで強制的に冷やすのです。
 エアコンの設定温度は、”エコなにそれ?おいしい物?”と言わんばかりの12度設定なのです。4月切り替えに向けての作業なので、この時は1月・・・。一般的なオフィスでは暖房に設定しているはずがここでは冷房設定で丁度良かったのです。

 話が横にそれました。
 病院で地下にある施設を思い浮かべてください。主に置かれる施設は2つです。

 その施設の横で作業を行っているのです。頻繁に使われるような場所ではなかったので、良かったのですがそれでも、時折運び込まれては、泣き叫ぶ声やすすり泣く声が聞こえてきます。
 SAN値(精神力)がゴリゴリ削られていきます。

 作業は順調です。18時間ほど毎日作業をしていれば間に合う計算になる位で落ち着いています。

 4時間の仮眠と食事と風呂で2時間・・・。それ以外は、仕事をしています。

 この状態で、3ヶ月過ごしたのです。食事は十分とはいえないが取れている。寝ることもできる。
 しかし、監禁生活です。ストレスは溜まっていきます。しかし、ストレス発散などできるはずもなく、黙々と仕事を続けるしかありません。

 そこで考え出された、ストレス発散方法は、階段の上り下りでした、案外やってみると解るのですが、いろんな所の筋肉を使うのか、疲れます。そのおかげで、仮眠時間が少なくても、身体のリフレッシュは難しいのですが、頭のリフレッシュができます。

 風呂の時間だけは皆が心の底からリフレッシュできる時間だったのです。

 管理された食事。
 軽めだけど毎日の運動。
 短い睡眠時間。
 SAN値を削られるストレスマックスな環境。

 これだけ合わされば、ダイエットが容易できる事がわかりました。
 一番ダイエットできたのは、100キロ超から55キロまで痩せた男性です。
 この男性は既婚者でお子さんも居たのですが、3ヶ月間ほぼ家に帰らなかった。帰っても、夜に帰って次の日の朝には家を出る生活でした。その為に、いきなり50キロ近く痩せてしまって、別人のようになってしまったのです。
 奥さんは喜んでいたようですが、小さかったお子さんが”知らない人が居る”と言って泣き出してしまったようです。こんな些細な喜劇がアチラコチラで発生した業務でしたが、皆が、結構健康的にダイエットできたのは間違いありません。

 良かったと言えば良かったのかもしれません。

 ただ、もう2度とあんな仕事(生活)はしたくない。その時のメンバーの一致した見解です。


 あるプロジェクトにヘルプで入った時のですが、その現場は徹夜が続いている。よくある炎上案件でした。

 メンバーはすでに限界を超えています。
 限界を突破しているのも当然なのです。徹夜が続くのが日常になっていたのです。幸いな事に、その現場は使える風呂が近くにありました。着替えを洗濯出来る場所もありました。そのために、長期滞在を行っているメンバーが多かったのです。私たちヘルプメンバーは、メインでメンバーに休息を与えるためにやってきたのですが、そう簡単にメインメンバーが楽にならないのがIT業界です。
 問題だらけのプロジェクトのプログラムをいきなり渡されて、プログラムが組める人間などいません。パフォーマンスを発揮するには、正確な引き継ぎが必要になるのですが、引き継ぎをするくらいなら、自分でやったほうが早いのもこの業界では常識になっています。
 そのために、ヘルプメンバーを増やしてもメインメンバーの仕事が減るわけではないのです。

 それでは、何のためにヘルプメンバーを投入するのか?
 簡単に言えば、会社に対する言い訳です。そして、メインメンバーに週に一度か二度でも帰る時間を与えるためなのです。

 そうしないと死人が出ても不思議ではない状況になってしまうのです。

 人は、睡眠を取らないとダメな生物です。イルカのように、半分の脳を休ませるような起用な睡眠はできません。
 それは、歴史が証明しています。今まで、睡眠を取らなかった人は居ないのです。”産まれたばかりで死んだ子は寝ていない”とか誰も幸せにならないツッコミの必要はないです。人は、寝ないとダメなのです。

 しかし、徹夜が続いているメンバーたちは、自分が寝ている感覚が無くなっているのです。

 どうなっているのか?

 簡単です。気を失っているのです。「落ちる」柔道などの格闘技で使われますが、IT業界で「落ちる」は、寝落ちを示すか、サーバがダウンするか、どちらかを示す場合が多いです。そのために、デバッグをしていた隣の人間が急に動かなくなっても驚きません。
 居眠りを”船をこぐ”とか言いますがそういうレベルでは無いのです。
 キーボードやマウスを操作する音がしていたのに、急にしなくなったり、立ち上がって急に倒れ込んだり、ジュースを持ったままの状態で動かなくなったり、休憩場で死んだように寝ているのをよく目にします。
 その場合には、危険がなければそのままにします。居眠りではないのです。居眠りは、徐々に動作が緩慢になっていくのでわかります。
 「落ちる」のは、いきなり動作が停止するのです。それこそ、知らない人が見たら”死んだ”と判断するかもしれません。

 落ちた人間たちは、本人は起きているつもりになっている場合が多いので、おかしな状況になってしまいます。
 会社も事情が解っているので、ヘルプのヘルプを導入します。炎上案件では愚策です。人を投入してもうまく回りません。

 落ちる場所が増えるだけです。
 最初のメンバーだけなら、良かったのですが、ヘルプが入ってきて余裕ができた。そこに新たなヘルプが入る。第二陣は、本当のヘルプです。雑事を行ってくれるのです。それこそ、プリンターから打ち出された資料を持ってきたり、テストデータを作ったり、雑事をこなしてくれます。しかし、そうなると、メインメンバーは動かなくなります。落ちる頻度は減るのですが、落ちるタイミングが悪くなります。
 会議中に落ちてくれればまだ良かったのですが、会議が終わって、戻る階段の途中で意識を飛ばしてしまったのです。
 階段を転げるように落ちました。衰弱した身体には耐えられるダメージではありませんでした。

 階段で落ちた男性は、”事故死”扱いになりました。

 傍観者を決め込んでいたよその部署にも飛び火します。
 ヘルプを出している部署も、2週間や1ヶ月の約束でヘルプを出します。しかし、”返してくれ”と言えない事象が発生してしまったのです。そのために、ヘルプを出した部署もよほど余裕を持っていた部署を除いて、飛び火します。

 フロアー全体に火が燃え広がり、全社的な大火になるまでさほど時間が必要はありません。

 傍観者たちも火中なのです。

 ”明日は我が身”
 この言葉が、誰よりも解っているはずなのに、傍観者で居られると思ってしまった他の部署は、火が大きくなる前に消化に協力していれば・・・。

 日常の一幕がドラマチックになってしまう。

 私が居る職場(部署)は、リーマンショックの影響は少なく、軽症で終わった。堅実にやってきたおかげだと考えていました。単純に特殊な技術を使っている部署の為にオンリーワンだったためだ。
 他の部署からの流入は、使っている技術が特殊な関係で、すぐに人員の補充は行えない。
 しかし、万年人手不足だったのだ。

 そんな世間では、リーマンショックでの傷跡が痛々しかった頃に、私の部署に人員を出している外注会社があったのですが、その外注会社で人員整理が始まったのです。理由は、よくある話で、業績不振です。私の部署に来てくれている人たちは、会社の意向として継続して欲しい旨は伝えてあります。私の部署に来てくれている人たちは、人員削除の対象になっていない状況だったのです。

 その外注会社から来ていた主人公君がこの話のメインです。
 この主人公君は、入社一年目ですが優秀な人間です。不慣れな事はありますが、十分戦力として数える事ができました。もちろん、私の部署からは、主人公君も”キープ”で、二年目からは単価のアップ交渉を受けると伝えていました。

 しかし、この主人公君は、確かに優秀な人間だったのですが、繊細な心を持っていたようです。主人公君の上司(外注会社の使えないクズ)が人員整理された時期から、ちょっとおかしくなってしまった。

 作業が詰まっていた週末。
 主人公君を含めて土曜日と日曜日に出勤してきて貰いました。火が付いたわけではなく、海外からの返事を行う必要があるので、土日を使って問題点の洗い出しを行うのです。
 私たち職場の人たちは、各々の作業を行いながら、外注会社で人員整理されたクズの使えない奴の話をしていました。外注会社の面々も解っていた話なので、内部の事情を含めて教えてくれていました。クズは会社のポケットに手を突っ込んでいたようなのです。人員整理で首にしたのは会社からのせめてもの情けだったのです。
 その上司は私の居る部署の仕事はしていなかったのですが、外注会社の窓口をしていて、よく作業場所に顔を出します。仕事ができない人だとは思っていたのですが、出てくる話は酷い物ばかりでした。

 外注会社の他の部署は人員整理が始まっていたようです。
 主人公君の同期も入社当時は20名だったのですが、6人にまで減っていたのです。

 雑談をしながらの作業はいつもと同じです。
 昼になって空いている食堂で昼を食べて、食休みをしている時には、主人公君は普段を変わりなく話に参加していました。

 食休みを終えて、午後の作業分担を決めていた時に、主人公君の一年先輩のスマホがなりました。
 どうやら会社からのようです。席を外して、電話をしてきて、帰ってきた表情は暗く沈んでいました。

 主人公君の先輩の同僚が3名と主人公君の同期が1名、今月末で退社すると決まったようです。依願退職の形にはなりますが、首になったのです。

 それを聞いた主人公君は、明るく
「ダメな事はダメ、何をしても変わらない」

 と話を始めたのです。
 それだけではなく、その同期との思い出を明るく話しだしたのです。

 この辺りで様子がおかしいと皆が感じますがもう手遅れでした。

 主人公君は、急に立ち上がって

『僕の幸せはどこにあるのだろう』

 皆が驚いた、真面目で通していて、私たちがシモネタ的な話やふざけた話をしている時でも、話に加わるわけでもなく、笑って聞いていた人物が、急に大声を上げて叫んだのです。
 驚く私たちを無視して、主人公君は言葉を続けます。

『そうだ!幸せの青い鳥が居ないからいけなのだ』

『だから、僕は何時までたっても、幸せになれないのだ』

『そうだ、青い鳥を探しに行こう』

 そういって、主人公君は、その場から出口に向かって行ったのです。走るわけでもなく悠然と歩いていったのです。私だけではなく、その場に居た全員が固まってしまいました。何が起ったのか解らないまま、主人公君を見送ってしまったのです。

 出口の扉を叩く主人公君。私たちはお互いの顔を見て、主人公君が冗談を言っているわけでもなく、本気で探しに行ったのだと理解したのは、主人公君がエレベータに乗ってしまった後でした。

 急いで追いかけましたが、簡単に追いつけません。
 私たちも、開いたエレベータに乗り込みます。主人公君が全部のエレベータを呼んでくれていたので、すぐに乗れました。

 22階建てのビルで、12階で一度エレベータを乗り換える必要があります。
 12階で、主人公君に追いつきました。しかし、押さえつけようにも、簡単に振りほどかれてしまうのです。

 やっと取り押さえられた私を含めた二人の男性を、主人公君は引きずって歩き始めたのです。

 主人公君は、小柄で160cm にも満たない身長で、体重も成人男性の平均を下回っています。

 12階のエレベータの前で、私たちを振り払ってエレベータに乗り込んでしまったのです。

 そして、1階から悠然と出ていってしまったのです。
 私たちは、主人公君が正面の門から出ていくまで、何が発生したのかが飲み込めなかったのです。
 主人公君の、心のストッパーがはずれてしまったのです。

 職場には、日曜日でも沢山の人たちが出社してきます。知り合いを見つけて、主人公君を探したのです。まだ、スマホがあるからと言って、主人公君の捜索は困難をきわめました。
 10人以上で、職場の周りに詳しい人たちで探しても、見つからなかったのです。

 警察にも連絡したのですが、それから、結局数ヶ月の間、主人公君は見つかりませんでした。

 主人公君は、当時主人公君が借りていた部屋にも帰ってきていませんでした。

 主人公君は、青い鳥を探して旅立ってしまったのです。

---後日談
 この主人公君は、警察の捜査でとある県の病院にいる事がわかりました。家族を田舎から呼び寄せて、社その病院まで迎えに行きました。
 落ち着いては居るのですが、やはり仕事関係の事を連想する物を見ると、情緒不安定になってしまうので、主人公君はそのまま、親元に帰る事になりました。幸いな事に、親御さんは理解のある人で、同じ仕事をやっていた同世代の私が平然としていたので、『主人公君が向いていなかったのだろう』と、理解を示してくれました。

 その後、主人公君がどこで何をしているのかは知りません。親元に帰った次の年は、年賀状も届いたが、それ以降は、連絡もなく、私たちも知ろうとしませんでした。

 元気にやっていてくれる事を、主人公君の信じる神に祈る事にしました。

 無事、青い鳥を見つけてくれていれば良いのですが・・・。

 ITバブルが世間を席巻していた時、実は、IT会社には不況の波が訪れていた。
 世間が感じていたバブルは、”ITを語った商社のバブル”だったのだ。この世の中は、”商社”が儲かると金が回るように思われているが、IT関連の商社の場合には、上が儲かればそれだけ下が圧迫されるのだ。ゼネコンと同じ図式になると考えて貰えれば良いだろう。

 私が在籍していた職場にも、歪んだ”バブル”が押し寄せてきました。
 今では、珍しくない”企業内企業”として運営していた会社でした。それまでは、親会社からの資金投入でうまく回っていたのです。

 親会社の屋台骨が傾き始めます。
 簡単な話です。企業内企業としてやっていた部署の切り離しを始めたのです。非生産部門を必要ないと切り捨てたのです。裏方で、テスト部門や外部との折衝を行っていた場所や、コールセンターの役割を持っていた部署を外注に出し始めたのです。
 親会社は、IT商社との繋がりを求めて、商社からの執行役員を招き入れたのです。それが崩壊の始まりでした。つぎに行うのは、体質改善という名前の資金投入が始まります。いくつかの銀行から融資を受けて、融資の見返りとして銀行出身の者を更に執行役員に加えます。
 そして、数字だけで部署をパージし始めます。企業内企業だったので、簡単に話しが進みます。お情けの融資を渡して終わりです。

 私が属していた”企業内企業(部署)”は対象にはなっていません。システム開発を生業にしていて、ほぼ唯一と言っていいほどの特殊な隙間技術を持った集団なのです。
 そんな部署にも、リストラの噂は流れてきています。

 こんな状況の中で、主人公君は精神を壊していきました。
 真面目だった主人公君は、会社のやり方が間違っていると憤慨していました。しかし、主人公君は私と同期のいわゆる新人と呼ばれる経歴なのです。
 入社3年目で、部下は居なかったが、オンリーワンに近い技術を持つ特殊な集団に配属される程度の力は持っていました。主人公君も、同期の中では自分が一番優秀だと思っている状態だったのです。
 その優秀な自分が、会社に苦しめられている同期を救えない状況に精神を蝕まれていったのです。

 最初は、言動の不一致が目立つようになってきたな程度でした。
 それから、仕事中に会社や上層部の悪口をブツブツ言うようになってきました。

 ある休日出勤の日、主人公君は腕から血を流して出社してきたのです。

 自傷行為を行ったまま。それが当然であるかのような顔をして出勤してきたのです。
 私たちは慌てて、救急箱で応急処置をします。

「何をした?」

『え?あっ僕は、僕が許せなくて罰しただけだから、気にしなくていいよ』

「はぁ罰した?なんで?何をした?」

『え?カッターで、僕の罰を刻んだだけで、迷惑はかけないよ?』

 ネジの数本が飛んでいるような感じです。
 どうやら、会社のトイレで持ってきたカッターで傷を付けたようです。

 真面目な彼は、上司の命令には服従します。しかし、同期である私は自分よりも下だと思っていて、何を言っても聞きませんし、逆効果です。
 上司が出社してきて、やっと手当を受けたのですが、上司は彼を帰しました。仕事にならないと判断したのです。

 しかし、この上司の判断が間違っていました。

 翌日も、次の日も、彼は出社してきました。
 自傷行為はしていません。トイレに入る前に、誰かが付き添っていくのです。手荷物を持っていれば、上司が命令して手荷物を没収します。

 主人公君は、真面目な性格です。どこかに行く時に、上司に許可を求めるという命令を忠実に実行します。
 上司がタバコ休憩に入った時には、喫煙所まで上司に許可を求めに行きます。

 そこで、上司と先輩が話している内容を聞いてしまったのです。

 主人公君の蝕まれていた精神は崩壊の一歩手前まで来ていたのです。そして、その話が、主人公君の最後のプライドとなっていた枷を壊してしまったのです。

「次の仕事から、主人公を外すか?」

「そうですね。俺としては、主人公よりも()が欲しいです。()は、真面目では無いのがいいです。俺に近い感じがします」

「たしかに・・・。()が一番、ここの水に合っているだろう」

「はい。主人公は真面目ですが、次の仕事には向きません。ギリギリの案件ですからね」

「わかった。チーム編成を考える」

「すみません。お願いします」

 主人公君は、この話を聞いてしまったのです。
 同期の中では、優秀だと自負していた主人公君のプライドは砕け散ったのです。

 普段は、私に話しかけるようなことがない主人公君が私の後ろに立って、話し始めます。
 正直な感想として、怖かったです。いきなり刺される可能性まで考えました。

 しかし、主人公君の行動は私の想像できる物では有りませんでした。

『ねぇあそこから僕を狙って、何か飛んで来ているのだけど?あれが何か解る??』

 主人公君は、部屋の隅を凝視した状態で、私の耳元で囁いたのです。
 後ろを振り向けないほど近くで、私が使っているディスプレイには主人公君の顔が映っています。薄ら笑いを浮かべた顔は恐怖を掻き立てるのには十分な表情です。椅子の背もたれを掴んで、押し込まれているので、立ち上がることも出来ません。肘掛けが邪魔で横にも逃げられません。

 主人公君はニヤリと笑います。
 私がディスプレイに映る自分を見ているのを認識したのでしょう。話を続けます。

『ほら、見えるでしょう。あそこから黄色の光が僕まで来ているのよ?君が命じているのでしょう?』

 主人公君は1線を越えてしまったと感じました。
 椅子を押し出そうにも、押し出せない。彼は本気なのです。目が本気(まじ)のです。彼の声から抑揚が消えます。機械音のように平坦な声で、耳元で囁くのです。私の背中にはなんとも言えない汗が吹き出して来たのです。

『あれをやめて。僕には解るよ。あれを命じているのは君でしょ?君が、僕の才能を妬んでやらせているのでしょ?』

『ねぇ僕が何をしたの?優秀なのが気に入らないの?なんで僕ばかり攻撃するの?ねぇ・・・。ねぇ・・・。(意味が判断出来ない言葉の羅列)』

 まわりを見渡しても、周りには聞こえない様に囁いているので、周りは気がついていません。周りには、同期私に内緒話をしているように見えたようです。
 その時なのです。

 主人公君が・・・『(解読が不明な絶叫)』を発して、壁に突進していったのです。すごい音が部署に鳴り響きます。主人公君は頭から血を流して倒れます。

 それから、私も事情が掴めないまま、その場で立ち尽くしていると、上司と先輩が戻ってきました。

 倒れた主人公君を見て、救急車を呼びます。

「遅かったか・・・」

「そうですね」

 上司と先輩は、主人公君の異常性を感じて、療養を進めようと思っていたのです。

 到着した。主人公君を乗せて走り去る救急車を見送ったのですが、私はディスプレイに映る主人公君の歪んだ顔が脳裏に焼き付いて離れません。

 私が、次に主人公君の名前を聞いたのは、二日後でした。
 主人公君は、運ばれた病院を抜け出して、行方不明になってしまったのです。

---後日談

 主人公君は、その後、とある県の病院にいる事が解り、家族を田舎から呼び寄せて、上司と先輩と関係者で、病院まで迎えに行きました。

 落ち着いては居るのですが、やはり仕事関係の事を連想する物を見ると、情緒が不安定になってしまうのです。
 主人公君はそのまま、親元に帰る事になりました。幸いな事に、親御さんは理解のある人で、同じ仕事をやっていた私が無事なのだから、『息子が向いていなかったのだろう』と理解を示してくれました。私には迷惑をかけたと謝罪の言葉を残してくれました。
 上司も先輩も、親御さんと相談という名前の苦情を覚悟していたので、そうならなかった事を単純に喜んでいました。

 その後、主人公君がどこで何をしているのかは解らない。親元に帰った次の年は、年賀状も届いたが、それ以降は音信不通になってしまっています。

 元気にやっていてくれる事を、主人公君の信じる神に祈る事にしました。

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