一月二日。朝五時半。
真っ暗な中ハナのリードを引っ張り河川敷を目指す。
流石にお正月二日目、いつもより断然すれ違う人が少ない。けどきっと生真面目な彼女のことだ、こんな日だって走ってる。たった三カ月弱だったけど、親友をやっていたんだもの。鞠のことはよく分かってる! 気弱になりそうな自分を鼓舞して、いつもより少しだけ早い鼓動を深呼吸で落ち着かせた。
遮蔽物のない空間を、我が物顔で風が通り過ぎる。身を切るような寒さに思わずリードを落としそうになって慌てて掴みなおした。縮こまりそうになる体を何とか伸ばす。そう、彼女はいつだって、美しい姿勢でまっすぐ前を見据えていたから。そうすれば丹田に力が湧いて、こんな私だって頑張れる気がした。
「ハナ、少しだけ付き合ってね」
前方に、願いを掛けた人影。
新しい記憶に焼き付いている彼女よりも、揺れるポニーテールが少しだけ長い。けど、根本は変わっていない。凛としていて、美しい。そしてそれだけじゃない。その中に、誰よりも人を憂い、思いやれる優しさが隠れていることを、私はもう知っている。
「美濃部さん」
彼女の視線が、通りすがりの通行人を認識するためだけに私に注がれる。でもそのタイミングを利用して声をかけた。震えてしまったけどこれは寒さのせいだ。だから大丈夫。
彼女の目が少しだけ見開かれ、走るスピードが緩んだ。
「おはよう。あの、私、西紅の一年D組、月島美麗です」
一気に自己紹介した。何で自分を知ってるのかって顔に書かれていて、まあ変質者には見えないだろうから大丈夫だと思ったけど、早く私を知ってほしかった。知って、それでやっぱり絶対もう一度友人になりたかった。
でも彼女はそれを聞くと、とても気まずげに目を背けてしまう。そして次の瞬間には、
「えっと、ごめんなさい」
それだけ早口で呟いて走り去ってしまった。
「あ……」
みるみる小さくなる背中。けど落胆はしない。だって、初日からうまくいくなんて思っていない。それにきっと鞠なら今頃、話も聞かず逃げるようにして去ったことを気に病んでいるような気がした。気になって、そして明日の朝もあの人はここへ来るだろうか、そう思い悩んでいるような気がした。
昼間は勿論藤倉君と勉強。図書館はまだお正月休みだから、交互にお互いの家を行き来することにした。と言っても三が日に勉強のためとはいえよそのお宅を訪れるのは気が引けて、暫くは私の家。
お母さんはあのお祭りの日と同じ、彼の誠実さとカッコ良さに喜色が隠せない。お父さんは複雑そうにしてたけど、人徳なのかやっぱり彼の人柄を好ましく思っているようだった。
厳しくする、なんて言ったけど、藤倉君はとても丁寧に分かりやすく教えてくれて、私をどこまでも頑張らせてくれる。一人で戦った西紅受験の苦しい日々を思えば、支えてくれる彼がいる今、夜中に襲い来る睡魔だって気合で跳ね退けられる。
再び憑りつかれたように机に噛り付く私を両親はとても心配していたけど、頑張らなければならない理由がある、と返せば、真剣な瞳に何か感じるものがあったのか、基本は静観してくれるようだった。
でも、両親の気持ちも今なら分かる。弱音を決して吐くことなくやり遂げた西紅の受験。それはそれできっと私を高める糧や誇りとなったことだろう。でもそれだけでは結局、自分のことしか見えていなかったのだ。だから今回は少しだけ甘えることも忘れない。助けてくれる人がいるから、今の私は大丈夫なのだと知らせてあげなくては。
「夜食に鮭のおにぎり食べたい」
ぽつりと零せば、お母さんは嬉しそうに笑ってくれた。自分が変われば、取り巻く環境全てが変わっていく。戻らなければ絶対に気付けなかった。だから私はやっぱり凄くラッキーだったのだ。
一月三日。
今日も今日とてハナの散歩。河川敷で待つこと十分、彼女は姿を現してくれた。
そしてその瞳には、昨日までとは違う、その他大勢ではなく私を“昨日の人物”として認識した色が浮かぶ。戸惑うように揺れていたけれども、私は構わず声をかけた。
「おはよう! あの、私ね、美濃部さんと友人になりたいの!」
直球勝負でいった。いろいろ考えたけど、まずは一番伝えたいことを真っ先に口にすることにしたんだ。私の願いはこれに尽きるのだから。
でもそれに、彼女は明らかな動揺を見せた。スピードは緩みかけていたが、そのまま走り去ってしまうようなら、今日はハナを引っ張って追うつもりでもいた。
「私あなたとここでよく会うの。この間はぶつかったりもして、ファーストコンタクトはもうばっちり!」
ちょっと自分でもよく分からなくなってきたけど、彼女の足が止まったから、ここぞとばかりに何でもいいから喋らせてもらう。
「いつも思ってた。こうやって一生懸命毎日欠かさず走るあなたが、本当に煙草なんか吸うのかって」
それにこれは本当のことだ。戻る前だって思ってたことだもの。
「でも意気地のない私は、そう思っても、クラスも違うし友人だったわけでもないし、どうやって声をかけたらいいのか分からなくて、結局いつも走り去るあなたの背中を見つめることしかできなかった」
彼女は耳に付けていたイヤホンを取ると、複雑な表情を浮かべる。
「あの……」
「なに!」
話してもらえたことが嬉しくて、つい身を乗り出してしまった。驚いたように一歩下がる鞠に、ここで逃げられてなるものかと喰らいつきたくなる足を、必死で道路に縫いとめる。
「私がやってないって、思ってくれてたの?」
おずおずと窺うように私を見つめる不安げな瞳。うん、私が初めて言葉を交わした頃の鞠と変わらない。
「最初からってわけじゃなくて、ごめんね。私美濃部さんのことそんなに知らなかったから、事件のとき驚いたけど、実は少し怖いと思ってた」
真実を話すのは勇気がいった。下手したら地雷かもしれない。けど、鞠には上辺だけじゃない、嘘偽りなく真摯に向き合いたかった。
「でも!」
俯きそうになる彼女の顔を絶対にそうなんかさせたくなくて、慌てて大声を張り上げた。道行く人が奇異の眼差しを向けてきたけど、そんなことどうだっていい。
「美濃部さんに自宅謹慎が言い渡された次の日だった。私ここであなたに会ったの。美濃部さんは、俯くことも瞳を伏せることもなく、朝日に向かって堂々と走ってた」
先程から上り始めた陽の光に、彼女が僅かに目を細めたように見えた。
「全身で、自分の身は潔白だって訴えてるように見えた。何も悪いことはしていない、だからそうやって堂々とお日様に顔を向けて走ってるんだと思った。
美濃部さん…………もう、高校には失望しちゃった?」
彼女が瞠目する。
戻った世界で、彼女に訊いたこと。もしこのまま謹慎になっていたらどうしてた?
少しずるをしたような形になってしまったけど、彼女はあのとき『失望した、がっかりした』と言っていたのだ。
「ありがとう。そういうふうに思ってくれてる人がいたなんて、全然知らなくて。
失望した……うん、確かにあの頃はそう思ってた。頭ごなしに怒鳴られて、信じてもらえなくて悲しかった。でも今はもうそういう理由よりも、こんなに休んじゃって行きづらい、の方が強いかな」
諦めたような哀しい笑顔が胸に痛かった。
いつだってどんなときだって私を励ましてくれた鞠。そのときに一番欲しい言葉をくれて、穏やかに寄り添ってくれた鞠。だから――今度は私が恩返しをする番だ。
「私、次必ずA組になる」
「え?」
「今はあんまり頭良くなくてD組なんだけど、進級試験で必ずA組になってみせる。私、美濃部さんに朝会ったらおはようって言いたい。お昼になったら一緒にご飯食べようって机くっつけたい。休み時間になったら他愛ない話で爆笑したい。私ね、好きな人がいてね、鞠と一緒に恋バナしたい」
共に過ごした日々が鮮やかに蘇って、最後は少しだけ感情が昂ぶってしまった。勢い余って鞠って呼んじゃったけど、気付いているだろうか。
ただ彼女はくしゃりと表情を歪めると、両手で顔を覆ってしまう。
「もう、遅い。出席日数、足りてない。わたすは来年、もう一度一年生だ」
思わず、え? と見つめれば、しまったというように口を塞ぐ鞠。涙の溜まった瞳は、可哀想になるほど動揺していた。
「鞠!」
でも私はそれが心底嬉しかった。だって、いつの世界でも鞠の方言を聞いたことなんてなかった。必死に標準語を練習していたのを知っている。だから尚更、取り繕うことを忘れるほど、今この瞬間、後悔してくれていると知ることができて嬉しかった。
思わず飛びついた私に、鞠は押し倒されて尻もちをついた。
「美濃部さん、私沼田に掛け合うから、必ず進級できるように説得してみせるから」
「え?」
道路の真ん中で座り込み抱き合う私たち。ハナがじゃれ合ってると思ったのか私の背中に飛びついてきて、体重を支え切れなくなった鞠は、遂に私とハナ共々寝ころぶ羽目になった。
「勉強、いっぱいしといて! 進級試験で一緒にA組になろう!」
力いっぱい鞠を抱きしめる。
「……うん、……うん、ありがとう」
「ワンワン!」
鞠の涙をハナが舐めて、私の涙をハナが舐めて。
涎ででろでろになった顔を見合わせてひとしきり笑った。やっぱりそれは、途轍もなく幸せな時間だった。
三学期の始業式。いよいよ決戦の日だ。
なのに……登校する私にはいくつもの不躾な視線が突き刺さり、そこここで囁き声が聞こえる。
すっかり忘れていたけど、藤倉君と付き合い始めれば、こうなることは予想できた。初詣に行って、毎日一緒に図書館で勉強して、誰にも見られていないはずがない。鞠にばかり気を取られて失念していた。
でもそう、いつか琴平さんが言ってくれた。堂々としてたら? と。
今の私は地味で冴えなくて頭が悪くて、あの頃とは正反対だけど、でも心は変わったもの。だから堂々としていよう。鞠の美しい姿勢を思い出して背筋を伸ばした。
「美麗」
振り返れば、朝日にも負けない眩しい笑顔の藤倉君が、私に向かって手を上げていた。途端に大きくなるざわめき。噂は本当だったのかと、落胆、嫉妬、様々な感情が渦巻きこの場を埋め尽くす。それはとても息苦しいものだったけど、私の背筋は曲がらない。
一緒に過ごすうちに、彼は私を名前で呼びたい、と言った。“うらら”と呼んでとはさすがに言えなくて、でも今はこの華美な名前もそれほど嫌じゃなくなった。美しく麗しい、外見がそうならばそれに越したことはなかったけれども、大切なのは内面だ、といつかの彼が言ってくれたから。私は美しく麗しい心を持てるように、この名前を呼ばれるたび努力しようと思えるようになった。
「おはよう」
立ち止まり、笑顔を返す。彼は本当にカッコよくて、私の顔はどんなに抑えようとしてもどんどん熱くなってしまう。
私を好きになったきっかけの話を、私は先日彼に聞いた。これは戻った過去でも語られることのなかったことで、そんなに小さい頃既に出会っていたなんて本当に驚きだった。しかも知らないうちに彼の進路まで私が決めていたというのだから、世の中何があるか分からない。
彼は繰り返す。あのとき俺の新しい扉を開き、未知の世界を教えてくれたのは美麗だった。だから俺も何か力になりたい、と。
気持ちはとても嬉しくて、でもそれは私の与り知らぬ所で起こった出来事。だからそれを理由に彼を頼るのは何か違う、私はそう思っている。だってそれはただのきっかけに過ぎなくて、その先たゆまぬ努力を重ねたのは他でもない、彼自身なのだから。
過去にこだわることなんてしなくても、私はこれから先どんな些細なことでも彼の力になりたいと思っているし、きっと彼だってそうだ。難しく考えることなく、ただそれで良いと思う。
「おはよう。結構騒ぎになっちゃったなぁ」
口ではそう言ったにもかかわらず直後に繋がれた手に驚いて、私はバッと彼を振り仰いだ。周りから小さい悲鳴が上がる。
「ちょっと、藤倉君?」
「藤倉、嬉しいのは分かるが、やりすぎるなよ」
突然かけられた声の出所を探せば、渡り廊下を歩く影森先生が、苦笑を浮かべてこちらを見ていた。
感慨深い気持ちが胸を満たす。とても素敵な先生だった。それはきっと今も変わらない。向けられる眼差しはとことん優しかった。
「月島さん、風邪はどう?」
「はい、お蔭様でよくなりました。終業式の日は、突然勝手に帰ったりしてすみませんでした」
近付きながら頭を下げれば、良いの良いの、とまた笑う。
「藤倉、良かったな」
「うん」
暖かい笑顔を向けられて、藤倉君は照れ臭そうにはにかんでいる。
「何の話?」
「純情少年の話」
「ちょっと!」
私は笑ってしまう。やっぱり二人は仲の良い兄弟みたいだ。
「困ったことがあったら、いつでも相談に来てね」
「それはもう俺の役目なの!」
拗ねたように突っかかって、先生といると藤倉君はまるで子供みたい。
「お前に相談しにくいことだってあるだろ?」
「え、あるの?」
先生の言葉に踊らされて、途端に元気のなくなる彼。堪えきれなくなって、私はとうとう声を上げて笑ってしまった。
「ないよ。でも今日私凄く頑張らないといけないことがあるから、藤倉君応援しててね」
私は一人じゃない。そう、いつだって一人じゃなかったのだ。
藤倉君は不思議そうな顔をしていたけど、繋ぐ手に少しだけ力を込めて、頑張れ、と言ってくれた。影森先生も、頑張れよ、と微笑んでくれる。
とてもとても大きな力が湧いてきた気がした。
「沼田先生、武本先生、今お時間宜しいでしょうか」
放課後、私は二人にもらった力が無くならないうちに職員室へと急いだ。今日は始業式。部活もなく、長い話をするにはうってつけの日だ。
藤倉君には用事があるから先に帰っていてほしい、とお願いしたんだけれども、今朝の“頑張らないといけないこと”だと察したようで、図書室で待ってる、と言ってくれた。
恐れていた嫌がらせも今の所受けていない。もしかしたらあのときのように藤倉君が何か策を講じてくれたのかもしれなかった。見えない所でも守ってくれる、そんな彼に私の心は益々暖かくなった。
「どうした?」
沼田はデフォルトの眉間に皺。武本先生は、体育の授業では教わっているものの影の薄い私のことだから、必死に誰だか思い出しているようだった。
「美濃部さんのことでお話したいことがあります」
そう告げれば、二人の顔は途端に険しくなった。
「進路指導室空いてます?」
武本先生がお伺いを立てれば、沼田は頷き席を立った。
「あっちで聞くよ、行こう」
武本先生は目を伏せる。その表情は鞠のことを憂いているように見えて、少しだけ安心した。
「――で、どういった話だ?」
扉が閉まると沼田は機嫌悪くどっかりと座り込み、私を睨む。忘れていた嫌な話題を蒸し返すな、そんな態度だった。
「とりあえず、座れ」
武本先生は沼田の隣に腰を下ろすと、私に椅子を勧めた。けどそれを断って二人の前に立つ。沼田を上から見下ろせる方が、強気に出られる気がしたからだ。
「美濃部さんはあの日、煙草を吸っていません」
お腹に力を入れる。さあ、勝負だ。
「――なに?」
椅子に預けた背を僅かに起こし、沼田の瞳が鋭く私を射抜く。武本先生は、驚いたのだろう。瞠目し、言葉を失くしたようだった。
「本当の犯人は、C組の西本さんとその友人です」
「ちょっと待て。それは本当か?」
思わずといったように、武本先生は身を乗り出した。
「本当です。見ていましたから」
嘘ではない。戻った世界で見たことだ。それにこれは念のため、毎朝会っている鞠にも確認済みだ。
「何故それを今言う? 何故それを今まで黙っていた?」
苛立ちを隠せないように、沼田の足が貧乏ゆすりを始めた。
「怖くて、言えませんでした。言えば私も疑われると思って。でも、やっぱりそれは間違っていたと思うから、胸に留めておくことができなくなりました。無実の罪で罰せられた美濃部さんの汚名を返上したい、今はそれしか考えていません」
「月島、美濃部とグルになって俺たちを謀ろうとしているんじゃないのか? おかしいだろ、今更」
威嚇するように荒げられた声が、私を苛立たせる。でもここは冷静にならなくては。感情的になったら、ただでさえ理不尽なことに関しては口の立つ沼田だ。すぐに丸め込まれてしまう。
「私が進言したことによるメリットは何でしょうか? 疑われるかもしれないリスクを冒しながらも進言するメリットとは?」
「じゃあ美濃部に脅されたんだろう」
信じられなかった。嘆かわしい、それが教職者の言葉? 話が通じなさすぎてもう呆れるしかない。私は武本先生へと視線を移した。
「当時、彼女がやったという証拠は何だったのでしょうか?」
「沼田先生が現場を押さえたんだ。そうでしたよね?」
「そうだ、俺が女子トイレに入ったときには、床に二本、まだ煙の上る煙草が投げ捨てられ、その向こうに美濃部が立っていた」
「彼女はやっていないと言いませんでしたか? 吸った人は別にいると」
「言ったさ。だが言い訳するやつはみんなそう言う」
「彼女の呼気は? 煙草の匂いがしていましたか?」
「確認するまでもないだろう! 証拠があるんだぞ!」
「二本、と仰いましたが。二本とも煙が出ていた」
「それがどうした」
「先生、煙草吸われますよね? 二本同時に吸うことってありますか? あったらそれってどんな状況なんでしょう」
武本先生が静かに目を閉じた。それは苦悶しているといってもいい表情で、恐らくこれは、当時も彼女を犯人だと決めつけるにあたっての懸案事項だったのかもしれない。二本吸うにしたって、一本吸って短くなってそれを消してから、二本目にいくだろう。同じ長さの煙草が二本床に転がるって、どう考えたって犯人は一人じゃない。
「そんなのは知らん。煙を多く吸い込みたくてやってみたんじゃないのか? 若いやつらってのはそういう意味のない冒険をしてみたくなるもんだ」
どうやっても自分の良いように解釈して、それが真実だと決めつけたいらしい。鞠はそうやって犠牲者になったのだ。
「先生は、美濃部さんの何をご存知なんですか?」
「は?」
「美濃部さんがどうして誰とも話さなくて、どうしてああいう制服の着方をしていたかご存知ですか?」
「何を言い出すかと思えば。決まってる、不良だからだろう」
馬鹿馬鹿しい、尊大に足を組み直し、沼田は鼻で嗤った。
とてもじゃないけど許せるものではなかった。自分が下した愚かな処分が、一人の人生を左右してしまったなんて露ほども思っていない、そんな態度なんて。
「美濃部さんは、去年の春に福井県から越して来たばかりでした」
突然何だ? 訝しげに目を眇める沼田に対し、武本先生は食い入るように私を見ていた。
「美濃部さんが住んでいた所はとても田舎だったそうです。方言も強くて、一生懸命標準語が話せるように頑張ってた。少しでもみんなと打ち解けられるように、みんなに近付けるようにって、制服もカッコよく着こなしてた。
……不良だからに決まってる? 決まってるわけないじゃないですか! 人にはそれぞれ、そこに至るまでのその人にしかない背景や理由が存在する。見た目だけで判断して、話も聞かないで頭ごなしに怒鳴りつけて、彼女が、純粋な彼女がどれだけ怖かったか分かりますか? 信用してもらえなかったことがどれだけ辛かったか分かりますか? 彼女は実験棟のトイレで、みんなに今日こそは話しかけてみようって、毎日必死に練習してた! それを、それを先生は全部全部踏みにじった!」
最後は感情に任せて捲し立ててしまった。でも普段影の薄い大人しい私が声を張り上げたことは、予想以上の効果があったみたいで、沼田も武本先生も呆気に取られたようにこちらを見つめていた。
「そんなもの、どこにも証拠はない」
やがてぼそりと零す沼田。何と言われようがこれは真実だ、捻じ曲げるわけにはいかない、そう言いたいみたいに、剣呑な瞳で私を見据える。
「じゃあ逆に訊きますけど、状況証拠以外で、美濃部さんが吸ったという決定的な証拠はあったんですか? 彼女は最後まで非を認めなかったのに、それを頭から嘘だと決めつけるだけの決定的な証拠はあったんですか?」
声高に私が唱えれば、項垂れた武本先生がため息と共に吐き出した。
「……それは、なかったと思う」
「美濃部さんは失望したそうです。頑張って苦労して、夢を抱いて入学した有名進学校が、こんな所だったなんてと。
沼田先生、先生は以前こことは正反対の、それこそ不良という名に恥じないような生徒が集まる高校にいたそうですね」
困ったことがあったらいつでも相談に来てね、今朝そう言ってくれた影森先生のお言葉に甘え、先程早速頼らせてもらって得た情報だ。
「それがなんだ」
憮然とする沼田。恐らく私が言わんとしていることを察しているのかもしれない。
「生徒のことを信じて全てを鵜呑みにするのが良い先生だなんて言いません。善人だけで世の中が構成されてないことだって知ってます。だけど、鞠が誰とも話さずああいう制服の着方をしていたことに理由があったように、不良になって悪いことをするようになってしまった人たちにだって、何かそうならざるを得ないきっかけがあったのかもしれない。
でも先生は、いちいち話を聞くのが面倒になって、その理由やきっかけに耳を傾けることをやめたんですよ。頭ごなしに怒鳴って、片っ端から処分すればそれこそ簡単でしょうからね」
不遜な物言いが逆鱗に触れたのか、とうとう彼は椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。
「自分のことを棚に上げていい度胸だな。お前ごときに何が分かる! 説教などされたくない!」
「ええそうですよ、本当のことなんて何も分かんないですよ! 口に出したって、それが真実かどうかは結局本人以外誰にも分かりはしない! それでも話を聞いて、生徒の心に寄り添って、何が真実かをしっかり見極めるのが教師の仕事じゃないんですか? だいたい他人のこと分かろうともしないくせに、何が分かるって何様ですか? 私だって、あんたみたいな頭の固い分からず屋に説教なんかされたくない!」
生まれて初めて目上の人に、こんな尊大な口をきいてしまった。でも、後悔はしない。だって沼田が変わってくれなきゃ、結局また第二第三の鞠が出るだけだ。せっかく鞠が登校してくるようになったとしたって、やってもいない罪を背負わされて、前科者という色眼鏡で見られるだけなのだ。
暫く二人して睨み合っていると、武本先生が大きく息を吐き「少し落ち着こう」と場を制した。沼田はそれに一睨みすると、そっぽを向いて腕を組み、どかりと椅子に座りこんだ。
「月島さんは美濃部さんと仲が良いのかな?」
「よく犬の散歩で朝会います。話すようになったのはつい最近ですけど、謹慎になった次の日から、美濃部さんは毎日欠かさず走ってます」
「そうか」
何か思うところがあるのか、武本先生は組んだ手の甲に頭を乗せて考えるように俯いてしまった。
「今更お前はどうしたいんだ」
こちらに目をくれようともせず、沼田は吐き捨てるように言い放つ。
「美濃部さんは出席日数が既に足りていませんよね? なので、私から先生たちにお願いがあります」
「お願い?」
「はい。疑わしきは罰せず、なのに十分な証拠を揃えず美濃部さんを犯人と決め付けた学校側に問題があると思ってます。そして、それを目撃しながら黙っていた私にも勿論問題があります。だから……馬鹿な私が次年度、A組に進級することができたら、美濃部さんを二年生にしてください」
「はっ、何だその交換条件は。筋がさっぱり通ってない! そもそも日数が足りてないのに進級なんてできるわけないだろう!」
「鞠はやってない! やってないのに決めつけて、彼女の未来を理不尽に奪った学校の責任は重いと思いませんか? 先生、鞠は必ずA組に進級します。進級試験、同じように受けさせてあげてください。
必ずお約束します。私は先生方が望むような有名大学を第一志望とし、残りの二年間、死に物狂いで勉強することを。全国模試の成績だって、満足する結果を残せるよう努力します。学校の評判を上げることに尽力します。だから、だからどうか、鞠を、美濃部さんを進級させてあげてください!」
マスコミに訴えて騒ぎを起こす、これも考えたけど、なるべく卑怯な手は使いたくなかった。騒ぎが起これば、また鞠の名が不名誉な形で晒されることになる。それよりも学校の評判が少しでも上がれば、冤罪により不登校になっていた生徒が進級するなんて、取るに足らない些末な出来事になりはしないだろうか? これが無い知恵絞って私が考えた打開策。
是の答えが聞けるまで、顔を上げるつもりはなかった。九十度に折り曲げた体、目をつぶってじっと待つ。
「顔を上げなさい」
答えない。上げない。言質を取るまでは。
ややあって、ため息が聞こえてきた。
「二人では決められない。学年主任の先生、校長先生や副校長先生にも聞いてもらわないとならない」
あともう一声欲しい。
「月島さんの言うことは分かった。当時の状況と、もう一度美濃部さんから話を聞いて、彼女の意志が尊重されるよう今度は必ず取り計らう」
「進級させてもらえますか?」
「そうなるよう善処する。担任として彼女を信じてあげられなかった責任は果たしたいと思ってる」
顔を上げた。
「ふん」
沼田は納得していないのか、不機嫌を隠そうともせず席を立った。これ以上はここで話しても先には進まないだろう。後は武本先生の言葉を信じるしかない。
「必要ならば、私も呼んでください。何度だって同じ話をします」
――根気よく努力せよ、さらば叶う。
普段占いはそんなに信じる方ではないけれども、これは意外とどんなことにも通ずる真理なのかもしれないと思ったから。
「うん。話してくれてありがとう」
武本先生は、そこで漸く頬を緩めてくれた。
鞠を信じきれなかったことに、先生ももしかしたら何かしこりのようなものを抱えていたのかもしれない。
「何をやってる」
扉を開けた沼田が、外に向かって語気を荒げた。
驚いて振り返れば、そこには藤倉君が立っていて。
「ど、どうしたの?」
声をかけたけど、彼は武本先生を強い瞳で見つめていた。
「先生、俺からもお願いします」
「盗み聞きとは趣味が良いな」
だけど先生は笑って、任せろ、最後に頼もしい言葉を残し進路指導室を後にした。
気付けば、ブラインドから差し込む光は、もう既にオレンジ色へと変化していた。
「いつから聞いてたの?」
「ほぼ最初から、な?」
「え?」
聞こえてきた予想外の声に目を向ければ、扉の陰から姿を現したのは、影森先生。
「先生に、美麗が何か変なこと訊きに来たって聞いて。それと沼田と何故か武本先生に連れられて進路指導室に入っていったって言うから、居ても立ってもいられなくなってさ。こっそりとこんな真似してごめん」
「う、ううん」
「途中何度も突撃しそうになる藤倉を抑えるの大変だったよ。月島さん、随分と威勢が良かったね」
いたずらっぽく笑う先生を見て途端に恥ずかしくなった。沼田にあんたとか言っちゃったし、勢いって怖い。
「いつの間に美濃部さんと仲良くなってたの? もしかしてあの河川敷?」
「え?」
一瞬見られていたのかとも思ったけれども、そういえば藤倉君はあの河川敷を通るバスに乗って学校に通っているんだった。それならば、朝練のある日に美濃部さんを見かけていてもおかしくない。
「うん。仲良くなったのは最近。ずっと思ってた。あんなに凛として綺麗に走る人が喫煙なんて本当にするのかって。それで思い切って話してみたんだ。そしたら本当に優しくて純粋な人だった。絶対にやってないって確信した」
「ということは、本当は現場を目撃してないのかな?」
先生の鋭い突っ込みに、思わずたじろいでしまう。戻る前の私はそう思っていた、そこを基準に話してしまったから、あんなに勢い込んで啖呵を切ったのに、何だかはったりをかましたみたいになってしまった。
「ええと、あのぉ……」
しどろもどろになっていると、別に言いたくなければ良いけどねって流してくれたけど……先生も人が悪い。それなら突っ込まないでほしかったと、つい恨みがましい視線を送ってしまった私は間違っていないはずだ。
二人並んで、長い影を引っ張りながら帰路に着く。今日はこんなに遅くまで残っている生徒もいなくて、とても静かだ。私たちはそれを良いことに堂々と手を繋ぎ、世界を眺める。ふといつか見た景色が思い出された。あのときは夏で緑も眩しかったけど、今は冬。街路樹は葉を落とし、眠っているかのようにしんと密やかだ。細く寒々しいシルエットだけが浮かび上がるけれども、それでもやっぱり美しかった。
「驚いた。美麗にあんな勇気があったなんて。凄くカッコよかったよ」
前を見据える彼。細められた瞳は何を見ているのだろう?
「あはは、……ごめんね」
聞かれていたのなら、もうばれているだろう。私がA組を目指したがった本当の理由が。
「何に対して謝ってるのか何となく見当は付く。でもさ、全部が全部嘘じゃないって信じていいだろ?」
当たり前だ。私は繋がれた手に力を込めた。
「勿論! だって、同じ高校に入りたくて西紅目指したんだよ。同じクラスになれたらもっと嬉しいに決まってる」
「うん。じゃあ謝らないで」
優しい眼差しが降りてくる。でも確認せずにはいられなかった。
「怒ってない?」
「心配になるくらいなら話してくれたら良かったのにって思うけど、話せない理由があったのかな、とも思う。神社で祈ってたのは、このこと?」
戻ったことなんて知るはずもないのに、藤倉君は何でも知ってるみたいに私の心を見通してしまう。千里眼みたいだ。
「うん。私ね、夢を見たんだ」
「夢?」
突然突拍子もない話をし出したのに、藤倉君は静かに耳を傾けてくれた。
「そう、夢。そこで私は結構頑張るの。藤倉君にも自分から好きですって告白するんだよ」
「ほんと? 我ながら羨ましい! 夢の中の俺は天にも昇る気持ちだっただろうなぁ」
はしゃいだように笑った彼に、救われた気持ちになった。
「そして私は、そこではA組なの。一緒に体育祭実行委員もやって、部活対抗リレーでも一緒のチームになる」
「美麗と一緒なんて楽しそう。俺張り切るだろうな」
「でも私はこけて迷惑を掛ける」
「何だって? 大丈夫だった?」
夢の中の出来事だと言っているのに、心底心配そうな彼に思わず笑ってしまう。
「藤倉君が肩を貸してくれて、影森先生の救護テントに連れてってくれるの。出場予定の騎馬戦を欠場してまで」
「うん、当然だな」
「ふふっ」
「楽しい夢だな。俺も見たい」
「そこで私は美濃部さんと凄く仲の良い友人なんだ。美濃部さんのことを鞠って呼んでて、美濃部さんも私を美麗って呼ぶの。彼女は可愛くて優しくて、私の恋を一生懸命応援してくれて。だから私は藤倉君に告白することができたんだ」
「そうだったのか」
「……だから助けたいと思ったって言ったら、笑う?」
「なんで? 笑わない。美麗らしいと思うよ」
笑みを浮かべたはずなのに、私の瞳からは涙が零れてしまった。
「凄く幸せな夢だったけど辛いことも結構あってね、でも今一番辛いのは、鞠が隣にいないこと。私を凄く慕ってくれて、いつも応援してくれた鞠が隣にいないことなんだ」
零れた涙を優しく拭って、藤倉君は私をそっと抱きしめる。
「そうか、でも、俺は隣にいなくて寂しくなかったの?」
「え?」
腕の力が強くなって、彼の胸に顔を埋めた私は、思ったよりも速いその鼓動に戸惑う。
「その夢、いつ見たの?」
ああ、私たちが付き合い始める前に見た夢、きっと彼はそうじゃないかと思ってるんだ。
「……うん、そうだね、最初に思ったことは、間違いなく藤倉君が遠い人になってしまったってことだった。いっぱい泣いたよ。切なくて苦しくて、どうにかなっちゃいそうだった。
今こうして鞠のことを考えていられるのは、隣に藤倉君がいてくれるからだね」
心に余裕ができたのは、藤倉君があの日私を絶望から救い上げてくれたからだ。
ありがとう、呟いて私も腕に力を籠めれば、羽宗、と彼が零す。
「え?」
「美濃部さんとは名前で呼び合ってたんでしょ? だったら俺も名前で呼んでくれないと」
「でもあれは夢だよ?」
「夢だって、美麗をここまで動かしたんだ。美濃部さんは侮れない!」
更に強く抱きしめられて、苦しいよって言えば、早く、と彼は拗ねた声を出す。女の子相手にヤキモチを焼くなんて、変なの。
「ふふっ。羽宗……大好き、ありがとう」
鼓動が驚くほど速くなって、隙間から彼を見上げれば、真っ赤な首筋が目に入った。
「それは今言ったらダメだろ」
掠れた声はとてもセクシーで、私の心臓もつられてどんどん加速した。顔もきっとそれに比例するように真っ赤になってることだろう。下手したら夕焼けだって真っ青になるくらいかもしれない。
ゆっくりと抱擁を解いた彼が、私の腕に手を掛ける。
「キス、していい?」
訊いてくるところが、律儀な彼らしかった。それじゃあますます緊張してしまうだけなのに。
ボンッて音がしそうなほど瞬時に首まで染まった私の反応を了承と取ったのか、彼は端正な顔を近づけると、触れるだけの優しいキスをしてくれた。
「ダメだ、もう帰ろう」
すぐにそっぽを向いて、でもしっかりと手を繋いでくれる。冬なのに汗ばんだその手が、彼の緊張を如実に物語っていた。
私は幸せを噛み締めながら、引っ張られるようにして歩き出す。
視線を上げ見据えた未来には、私の隣で楽しそうに笑う羽宗と鞠。そこに辿り着くまで、私はきっと何度だって頑張れる。一度できたのだ。もう一度、必ずできるに決まってる。
運命を変えてはいけないなんて、いったい誰が決めたのだろう? そんなものに、私はもう惑わされない。だって、私は私が描いた未来を掴み取るために、二度と諦めることはしないと固く心に誓ったのだから。