走り去るバスが全ての音を連れ去ったように、静寂だけが残された。

 彼女を見つめる。膝に顔を埋めていて、あの優しい瞳を見ることは叶わない。
 しかし、どうしてこんな所に? 一度家に戻った様子もない。もしかして、途中で具合が悪くなって動けなくなったのだろうか?

 俺は勇気を振り絞り、声をかけた。

「――――月島、さん?」

 瞬間、彼女はビクリとしたように見えた。でも、何故だかいつまで経っても顔を上げる様子がない。聞こえなかったということはないと思うけど、念のため、もう一度声をかけようかと近付く。
 よもや変質者と勘違いされているとは思いたくないが、ここは普段暗いから危ないと、親にでも言い含められているのかもしれない。怖がらせるといけないので、なるべくゆっくりと歩を進め、人一人分くらいのスペースを開けて止まった。

 もう一度声をかけようとする。だけどそれより少しだけ早く、月島さんが弾かれたように顔を上げた。
 驚いたけど、でも彼女の顔を見て、俺はもっと驚いた。

 月島さんは――泣いていた。

 心臓が途端にバクバクと激しく脈動し始める。
 人通りの少ない道……まさか、彼女の身に何かあったのだろうか? 一瞬にして嫌な妄想ばかりが頭を駆け巡り、俺は慌ててそれを振り払った。

「どうしたの? 大丈夫?」

 不用意な態度で怖がらせてはいけない。俺は彼女の目線と同じ高さになるよう跪き、できる限り優しく問いかけた。
 だけどそれを見て、彼女は更に辛そうに顔を歪めてしまう。

「ふじ、くら……くん……?」
「どうしたんだよ、月島さん」

 本当にどうしたんだよ? 見つめれば、彼女の顔は耐え切れなくなったようにくしゃりとなって、そのあまりの切なさに、俺の胸はますます締め付けられた。

 好きな女の子が泣いているのに、力になれないのか?

 思えば月島さんは、何だって一人で頑張ってしまう性分だった。西紅の受験だって、周りが安牌な私立へ流れる中、脇目も振らず頑張っていたのを知っている。
 そして合格発表の日、人目を憚らず泣く彼女を見て、俺の想像以上に、並大抵の努力じゃ成し得なかったことだったんだと悟った。俺だって勿論頑張ったけど、あんな姿を見てしまったら、軽々しく喜ぶ声なんて絶対にかけられなかった。

 全てを一人で抱え込む、きっとそんな不器用な性格。
 だったら――

 俺は躊躇いつつも、彼女を壊れ物のように、優しく抱きしめた。
 何が君をそんなに傷つけているのか、俺には分からない。けどその心が、少しでもこの温もりで楽になってもらえたら良い、そんな風に願いながら。
 そして、できれば俺を頼ってくれないか? 涙を流させているその辛くて重い荷物を、少しでもいいから分けてくれないか? こんな華奢な腕じゃ、すぐに押し潰されてしまう。

 一瞬、想いが届いたのかと思った。月島さんが、俺を抱きしめる腕に力を込めたのだ。
 途端、弱みに付け込んでしまいたい気持ちが湧き上がったけど、慌ててぐっと押さえつけた。今はだめだ、彼女が元気になるよう心を砕くのみ。邪心は捨てろ。

「ごめんね、藤倉君、ごめん……」

 月島さんは半ば俺に縋り付きながら、うわ言のようにそればかりを繰り返す。
 涙の原因は……俺にあるのか? 何度も紡がれる謝罪に、そんな疑問が湧き上がった。

「何で謝るの?」
「……酷いこと、しちゃったから」

 酷いこと? 考えを巡らせるが、一向に心当たりがない。そもそも、酷いことをされるとかそんなことの前に、俺は最近彼女に会えてすらいないのだ。

 ……まさか、それのことか?

「俺を、避けてること?」
「え?」

 俺はなるべく深刻にならないように、わざとおどけた不貞腐れ顔を披露する。
 でもそれは、彼女の謝る理由には合致しなかったようで、意外なことを言われた、そんな表情丸出しで俺を見上げてきた。

 違ったのか……じゃあ何だ? 

 心当たりを考えていると、月島さんが小さく震えた。それで気付く。
 彼女のコート、何のために持ってんだよ……。己の気の利かなさに、思わず頭を打ち付けたくなった。

「ごめん」

 謝りながらコートを羽織らせる。震える手が可哀想で、代わりにボタンを留めた。そのとき触れた指先があまりにも冷たくて、いったいどれほどの時間、このベンチで一人泣いていたのだろうと、また胸が痛んだ。

「そう言えば、どうして、これ?」

 月島さんはコートへと視線を向ける。

「影森先生が心配してたよ。急にいなくなって、どうしたのかって。熱高いのに、コートも着ないで鞄も忘れて、いったいどこ行ったんだって」
「それでわざわざ持って来てくれたの?」

 その言葉に、少しだけ焦った。俺が月島さんの家を知ってるなんて、よく考えたらおかしいよな。ストーカーみたいに思われたらヤバい。

「お、俺バス通で、ここちょうど通り道だから」

 慌てて弁解し、だから見掛けたことがあったんだと、そう解釈してくれるよう祈った。

「ありがとう、か、帰るね」

 だけど月島さんは鞄を引っ掴み、ここから逃げ出したいみたいに急いで立ち上がった。
 俺は自分の失言を悟り、更に慌てる。
 邪心は捨てたはずなのに、もう少し彼女と一緒にいたい、彼女と話したい、頼む、せめてもう少しだけ、そんな懇願にも似た思いが頭をもたげてきた。
 想いが天に届いたのか、これだけの寒空の下、コートも着ずに座っていた月島さんは、急な動きに対処できなかったようで、瞬間クラリとよろめく。
 俺はこれ幸いと、彼女を支えてみせた。頼りになる男、どうにかしてそう印象付けたかった。

「待って。家まで送る」
「え、いいよ」

 だけど彼女は、素気無(すげな)く断りの言葉を口にする。

「よくないよ。途中で倒れたらどうするの?」
「倒れないよ、平気平気」
「目の前でよろけられて、一人で帰す方がよっぽど心配なんだけど」

 何でそんな頑ななんだ? 俺は段々苛立ち始める。

「一人で帰れるってばっ!」

 でも彼女の方も、食い下がってくる俺にイラついていたのか、驚くほど大きな声で拒絶を示してきた。

 ……そんなに俺に送られたくないのかよ。

 ショックだったけど、何でいつも一人でどうにかしようとするのか、それが理解できなくて、そして何もできない自分が不甲斐なくて、間違っていると分かっているのに、少しだけ恨めしい目を向けてしまった。
 するとさっきの威勢は途端に鳴りを潜め、弱々しく俯いてしまう。
 直前の顔には、後悔の色が浮かんでいたように見えた。

「ご、ごめん。でも本当に大丈夫。それに、彼女に悪いよ。たとえ単なる親切心でも、他の女の子と二人で帰ったなんて、気分良くないよ」

 だけど次に紡がれたこの台詞に、俺の思考は酷く乱された。

「彼女って、何の話?」

 辛うじて、それだけどうにか口にする。
 俺に付き合っている女の子がいると、そう思ってるってことか? 何でだ? どうしてそうなった?

「え? だって今日」

 言いかけて、突然口を噤んだ。
 ……今日? っておいおい、そんな偶然ってあるのかよ! 
 頭を抱えたくなったけど、それで合点がいった。月島さんは、あの音楽室での出来事を目撃したのだ。

「まさか、見てたの?」

 よりによって、どうして彼女に見られなくちゃならないんだ。

「ごめん。たまたま……」

 がっかりしたように、更に俯く彼女。
 でも俺はその姿に、次第に喜びを感じ始めていた。
 もしかして、それで泣いていたのか? 俺が琴平と付き合っていると勘違いして? コートも鞄も忘れて飛び出すくらい悲しかった?

 今にも問い詰めてしまいたかったけど、ここでがっついて怯えられてしまっては元も子もない。まずは誤解をとくのが先決だと考え直して、俺ははやる気持ちを何とか抑えた。

「そうだったのか。でも、あれは月島さんが想像してるようなことじゃないんだ」
「え?」

 意外そうに見つめる彼女に、声を大にして言いたかった。
 本当に違う、信じてくれよ。誰に誤解されても、君にだけは誤解されたくないんだと。

「告白されたんだ」

 でもその言葉に、月島さんの顔はもはや蒼白と言っていいほど色を失くす。不謹慎だけど、そんな彼女に、俺の暗い気持ちは一気に吹き飛んだ。
 代わりに顔を覗かせたのは、いよいよ嬉しさを隠せそうになくなってきた、邪な心。

「待って待って。最後まで聞いてよ」

 さり気なく、でも逃がさないように月島さんの手を絡め取る。

「歩きながら話そう。風邪ひいてるのに、こんなとこに長居したらせっかくの冬休みが潰れちゃう」

 少しだけ表情の柔らかくなった彼女。やっといつもの優しい眼差しが見られて、俺の心は状況も弁えずに弾みだす。彼女も少しだけ握り返してくれたように感じて、俺はもう飛び上がらんばかりだった。

「付き合ってほしいって告白されたんだ。抱きつかれながら」

 だけどそう告げた途端、その表情はまた強張ってしまう。
 ああ、何でこうも言葉の選択が上手くいかないんだっ! 俺は頭をガリガリと掻いた。

「ごめん、バッグ持つ」

 すると月島さんは俺が持っていた自分の鞄に目が行ったのか、手を伸ばしてくる。
 でも俺はそれをひらりと躱した。だってこれは、家まで一緒について行くための人質だからね。

「けど断った」

「――――え?」

 分かる? ちゃんと聞いてる? 俺、告白を受け入れたことってないんだよ?

 彼女を見つめれば、その足はネジの切れたぜんまい人形のように、ゆっくりと動きを止めた。

「ちゃんと、断った」

 この意味、分かるでしょ? 

 俺も止まって、もう一度瞳を覗き込む。
 街灯に照らされ薄く膜の張ったガラス玉が、ほんの僅か、喜びの色を灯したように見えた。

 あと、一押し。

「……どうして?」

 月島さんも俺を、ひたと見つめ返す。

「好きな子がいるから。ずっとずっと前からね」
「――それは、誰?」

 その先の期待を乗せて、彼女の声が細かく震える。
 それが俺の脳を痺れさせた。

 今度は俺が、この上なく愛しい彼女に、溢れんばかりの想いを乗せて言葉を紡ぐ。

「それはね――」

 ああやっと、俺はこの子を捕まえられる。



〈了〉