おばあさんの言ったことはよく分からなかったけど、寧ろ今までできちんと理解できたことがあっただろうか? 考えることは早々に放棄した。

 背もたれに寄りかかり、蛍光灯を見つめる。中には虫の死骸だろうか、点々と黒い染みが見えていて、点いているのが不思議なくらい埃まみれだった。でも暗闇に目が慣れてしまっていたせいか、そんなものでも直接見れば驚くほど眩しくて、目を何度も瞬かせてしまう。
 すると反動で、目尻に溜まった涙が流れ落ちていった。

 明かりを点けたくらいで、元気になるとでも思ったの? 文句の一つでも言ってやればよかった。

「――ハックション!」

 心の中では悪態を吐きながらも、寒空の下、風邪をひいたこの体は盛大なくしゃみと共にブルリと震えた。鼻水も出てきて、まるで戻ったあの日のような酷い有様。いや、違うか。今日は正真正銘、あの日の続きなのだ。

 半年ほど過ごした幸せな日々は、もう全て消え去った。
 考えてみれば、彼と付き合ったのは、一ヶ月にも満たなかった。でもそんな短かったなんて思えないくらい、両手でだって抱えきれないほどの素敵な思い出ばかり。

 けどもう二度と、昨日の続きが訪れることはない。

 鼻の奥がツンとして、慌ててティッシュを探した。しかしコートはおろか、鞄すら手元にないことにこのとき漸く気が付いた。

 そうだ、あの日私は学校を飛び出して来たのだった……。

 上履きから靴に履き替えていたことが奇跡のように思えるくらい、とにかく二人から離れることに必死だった。
 両手で体を掻き抱く。寒さだけじゃない、何もかもが堪えた。


 膝を抱え、どのくらいの時間そうしていただろうか。
 ふと、俄かに光が射した。どうやらバスが来たようだ。こんな寂れた停留所でも降りる人がちらほらいるのか、暫くすると何人かの気配が通り過ぎて行った。

 バスの中から、恐らくは運転手だろう。

「乗りますか?」

 そう訊かれたけど、私は首を横に振った。程なくしてバスは走り出す。

 再び、辺りは静寂と闇に包まれた。
 この蛍光灯だけが、唯一の光。そう考えると、少しはおばあさんに感謝しても良いような気がしてくるんだから、私はもう末期だ。

「――――月島、さん?」

 ………………え?

 誰もいなくなったと思っていたバス停で、突如私に降り注がれた声。

 初めは、彼を思うあまり遂におかしくなった私の頭が聞かせた幻聴かとも思った。だって、この世界では私にかけられるはずもない声だったから。
 だけど視界に、黒のローファーが現れる。
 弾かれたように顔を上げれば、脳内でだって鮮明に描き出せる彼と寸分違わぬ姿がそこにあって、驚いたように目を見開いた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 途端に心配げな表情になり、私の前に跪く。その姿が、体育祭で足を手当てしてくれた彼と重なった。
 よく見れば、手には何故か私のコートとバッグを持っていて。

「ふじ、くら……くん……?」
「どうしたんだよ、月島さん」

 ――うらら。

 今度はそう呼んで、心配そうに私を見つめる彼が重なる。もう二度と呼んでもらえないその名前に、今の他人行儀な呼び方に、私は堪らなく切なくなった。
 彼の両足は何事もないように私の前で膝を折っていて、その事実が嬉しいはずなのに、ちっとも喜べない。それもまた、酷く哀しかった。

 時間が経ったら、いつか喜べるようにするから……ごめんなさい、今だけは許して……
 祈るように目を閉じた――そのときだった。

 ふわり、と、優しく大きな暖かさに包み込まれたのだ。
 何が起こったのか咄嗟には理解できずに、身体が硬直する。
 でもそれは、甘美で懐かしいあの感触。嗅ぎ慣れた、あの匂い。

 何で? どうして? 
 言葉を交わしたのだって、この世界ではいつ以来だろう? 思い出せないくらい昔で、こんな抱擁を交わすような親しい間柄でなんてないはずだ。

 都合の良い夢でも見ているの?
 それなら……少しだけ、お願い、あと少しだけ、覚めないでいて…………

 私は、藤倉君の背に手を回した。
 ビクリとした彼。けどその直後には、更に強く私を抱きしめ返してくれた。

「ごめんね、藤倉君、ごめん……」

 今度は私が、壊れたレコードのように繰り返す。
 もらうだけ幸せをもらって、何も返せなかった。思えば、私ばかりが良い思いをした日々だった。
 最後には涙まで流させてしまって、私は彼をどれほど傷付けたのだろう。どれほど振り回したのだろう。

「何で謝るの?」
「……酷いこと、しちゃったから」

 この世界の彼には通じるはずもないのに、私は懇願してしまう。どうか許してほしい、と。

「俺を、避けてること?」
「え?」

 でも彼の口から発せられたのは、思いもよらない言葉。
 思わず顔を上げれば、彼の瞳は、何だか拗ねているようにも見えた。
 離れた距離が寂しくて、急に心も体も寒くなった気がする。
 小さく震えた私に、藤倉君は「ごめん」そう言うと、コートを着せてくれた。

「そういえば、どうして、これ?」
「影森先生が心配してたよ。急にいなくなって、どうしたのかって。熱高いのに、コートも着ないで鞄も忘れて、いったいどこ行ったんだって」
「それで、わざわざ持って来てくれたの?」
「お、俺バス通で、ここちょうど通り道だから」

 彼は慌てたように続ける。
 そんな焦らなくても大丈夫なのに。勘違いなんてしない。私の家を知ってるのだって、理由はもう知っている。
 それにあなたには……
 そう思ったらまた涙が溢れ出しそうになって、私は慌ててバッグを引っ掴んだ。

「ありがとう、か、帰るね」

 私は急いで立ち上がる。でも思ったより体は疲弊していたようで、一瞬クラリとよろけてしまった。
 藤倉君はそんな私を難なく支えてくれる。

「待って。家まで送る」
「え、いいよ」
「よくないよ。途中で倒れたらどうするの?」
「倒れないよ、平気平気」
「目の前でよろけられて、一人で帰す方がよっぽど心配なんだけど」

 なかなか引き下がってくれない彼に、イライラが募り、ついカッとなってしまった。

「一人で帰れるってばっ!」

 言ってからすぐに、しまったと思った。でももうそのときには、彼は口を引き結んでいて、怒っているようにも見えた。

「ご、ごめん。でも本当に大丈夫。それに、彼女に悪いよ。たとえ単なる親切心でも、他の女の子と二人で帰ったなんて、気分良くないよ」

 ――ああ、言ってしまった…………

 自己嫌悪。吐きそうになるため息を、必死で呑み込んだ。
 余計な一言を言った。風邪のせいか、戻って来たばかりのせいか、心が弱っていて理性が上手く働かない。
 私は一つ深呼吸をして、どうにか自分を落ち着かせようと試みる。

 それなのに。

「彼女って、何の話?」

 藤倉君は困惑した様子で私を見つめてくる。その顔は、何かをとぼけている、そんな風には見えなかった。

「え?」
 どういうこと?
「だって今日」

 そこまで言って、また失言したことに気付く。
 口を開けば墓穴を掘る。今日はもう、一言もしゃべりたくなかった。

「まさか、見てたの?」

 趣味が悪いと非難されるかと思ったけど、その声は予想に反して戸惑うように揺れていた。

「ごめん。たまたま……」
「そうだったのか。でもあれは、月島さんが想像してるようなことじゃないんだ」
「え?」

 じゃあどういうこと? だってあの状況で、それ以外、どういうシチュエーションが考えられる?

「告白されたんだ」

 その言葉に、頭を殴られたような衝撃が走った。付き合ってるから抱き合ってたわけじゃない、告白されて、イエスの抱擁、そういうこと? 
 何よ、結局は絶望に変わりないじゃない。

「待って待って。最後まで聞いてよ」

 でも彼は少しだけ苦笑を浮かばせると、私の手を取る。

「歩きながら話そう。風邪ひいてるのに、こんなとこに長居したらせっかくの冬休みが潰れちゃう」

 自然にさり気なく。だから私はつい、心地好い手にされるがままになってしまった。不謹慎だけど、幸せだと思ってしまったのだ。またこうして手を繋げるなんて、思ってもみなかったから。
 最後の思い出にと、藤倉君の温もりを掌いっぱいに感じた。

「付き合ってほしいって告白されたんだ。抱きつかれながら」

 聞いた瞬間、温かくなりかけていた手が、またその温度を失う。

 そう、クリスマスが、記念すべき日になるというわけね。

 力が入ったのが分かったのか、彼は、少しだけ困ったように頭を掻いた。
 その手に私のバッグが握られていて、ずっと持ってもらっていたことに漸く気付く。私は慌てて手を伸ばした。

「ごめん、バッグ持つ」

 なのにそれは、ひらりと躱されてしまった。

「けど断った」

 そしてさらりと、紡がれた言葉。

「――――え?」

 でもそれは私にとって、最も重要な言葉で、今度こそ足は止まってしまった。

「ちゃんと、断った」

 手の繋がれた私たちは、一人が止まればもう一人もおのずと止まるわけで。
 振り向いた彼と見つめ合う恰好になり、視線の強さに驚いた。逸らすことは到底不可能。

 何故それを、私に宣言するの?
 そうやって言われてしまえば、どうしたって都合の良いように解釈したくなるじゃない。
 あなたが好きなのは、小柄で優秀な女の子のはずではなかったの?

「……どうして?」

 私も彼を、ひたと見つめ返した。
 瞳が語る真意を、一言も聞き漏らさないように。

「好きな子がいるから。ずっとずっと前からね」

 彼の目が細められる。

「――それは、誰?」

 震える声。
 もしかして私は、夢の続きを見ても、許されるというの?

 すると彼は、いつかのように、この上なく優しく微笑んだんだ。

「それはね――」