もはや表情を取り繕うことはできなかった。体は一気に緊張し、強張ってしまう。
 だってこのことについては、まだ誰にも話していない。親にも友人にも、階段から滑り落ちた、そうとしか言っていない。琴平さんに多少突っ込まれはしたが、明確な答えは返していない。なのに、どうして?

「何でそんなこと、訊くんですか?」

 自分でもびっくりするくらいの、酷く掠れて震える声だった。
 だってこれは、知られてはならないことだもの。何があっても。

 あの日、突き落とされた瞬間を藤倉君は目にしていない。もしそれが露見し、犯人が西本さんだと分かれば、自分のせいで嫌がらせを受けたと思うに決まってる。
 責任感の強い彼のこと、あれだけ私を守ると豪語しておきながら、約束を反故にしてしまった、そんな後悔に苛まれて自分を責めるに違いないのだ。

「責任、感じてるんでしょ? 藤倉の怪我に。だけど本当にそれは、月島さんが背負うべき責任なのかと問いたいだけだよ」

 心配そうに見つめる瞳が、後ろめたさに拍車をかける。
 私は何も答えることができなかった。
 だって、元を質せば、時を戻したことが全ての始まりなのだから。

「犬が逃げ出したことは藤倉から聞いた。不可抗力だとは思う。だけど、あのとき藤倉に止められなかった? 行くなって」

 言われて、おぼろげながら思い出した。
 確かに彼は平素では考えられないくらい声を荒げ、私を制止していた。
 そういえばその前だって、彼は何だか変じゃなかっただろうか。帰り道で唐突に、良からぬ奴が出てくるんじゃないか、なんて言ってみたりして。

 でもまさか、予知能力があるわけでもあるまい。いったいどうして?
 先生を見つめれば、複雑そうに眉を顰め、ため息を一つ吐いた。

「相談室で小耳に挟んだんだ。石段の上で行なわれる神社のお祭りに、月島さんを快く思っていない奴がどうやら行くらしいってな。だからあそこには、当日は念のため近付くなと藤倉に忠告した。相談室は秘密厳守だけど、相手はいつか痛い目みせてやるって、逆恨みからとことん月島さんを目の敵にしてる危ない奴だと聞いていたから」
「……え?」

 先生が、藤倉君にそんなことを?

「だって、楽しいお祭りに行くってのに、わざわざ嫌な思いしたくないでしょ? 
 月島さん本人に話そうかどうしようか、最後まで悩んでたんだ。でも俺が直接聞いたわけでもないし、確信の持てない情報を、ましてや悪意の籠ったそれを聞かせて、悪戯に怖がらせるのは良くない、最終的には藤倉がそう判断した。自分が気を付けてさえいれば良いってな。結果的にこうなってしまったけれども……」

 ということは……藤倉君は、私が誰かに突き落とされた可能性を、先生と同様既に疑っている?

「真実は月島さんしか知らないことだ。でも、あんまり自分を責めるなよ」

 最後に先生はそう言って、病室を後にした。

 藤倉君は、未だ私の病室に顔を出していない。
 それは、両足を怪我して歩けないからだと思っていた。でも本当は、そうではないのかもしれない。
 先程覗いた限りでは、体が何かの装置に繋がれていて身動きが取れないとか、そういったわけではなさそうだった。とするならば、以前の彼なら、車椅子なり何なりの移動手段を使ってでも、会いに来てくれていたのではないだろうか。

 藤倉君も事の真相に勘付いている、それはもう確信に近かった。
 だから、私に合わせる顔がないと思っているのだ。
 両親に、言わないでくれ、そう懇願していた彼の声を思い出す。それもきっと、自分のせいで突き落とされた私を、それ以上苦しめたくないと思ってのことなのかもしれなかった。

 それならやっぱり私から会いにいかなければ。そんなことは少しも気にする必要はないって、ちゃんと伝えなければ。
 口にしなければ気持ちは伝わらない、戻る前の私が何よりも痛感したことだから。

 思い立ったらすぐにと立ち上がりかけたけど、時計の針は既に六時半を指していて、運が悪いことに看護師が夕食を運んで来てしまった。
 夕食後に出歩くことが禁止されているわけではないけれども、藤倉君も個室だ。夜遅くに失礼するのは、世間一般的に見て常識外れのような気がして躊躇われた。
 それに万が一そこで藤倉君のご両親に会おうものなら、ただでさえ悪い私の心証は、地の底にまで落ちることになるだろう。
 私はこの決意を明日へと持ち越すしかなさそうな状況に、ため息を吐く他なかった。