「そういえばさ、あれ」
「え?」

 藤倉君は視線だけをスライドさせて、今度はそれを庭先へと向ける。辿れば、そこはカーポートの脇の小さな花壇。

「あの植物、何ていうの?」

 唐突に変わった話題に少々面食らったけれども、何故だか藤倉君はそれも愛おしそうに眺めていて、私は、どうしたのだろう、と彼を見つめながら答える。

「あれはね、クリスマスローズだよ。そんな名前なのに、クリスマスからだいぶ遅れて開花する残念な花なの」
「ははっ、そうなの? でもクリスマスローズなんて可愛い名前だね」

 そんな彼の返答に、私は苦笑を返すしかない。
 私の顔を見た藤倉君は、どうしたの? と首を傾げた。

「凄い名前……だよね。クリスマスの薔薇なんて、どんだけって感じ。でもね、実際咲く花は、驚くほど地味なんだよ」

 私はスマホの画面を操作しながら、花壇に植えてある品種と同じ花の画像を藤倉君に見せる。彼もそれを見て、少し困ったように笑った。

「これはこれで綺麗だと思うけどね」
「名前を知らなかったならね」

 私は、そっと風に揺れるクリスマスローズの葉を眺める。お母さんが水をあげてくれたのだろうか、いくつもの水滴が、夕日を浴びてキラキラと光っていた。

「でも、大事にしてるんでしょ?」
「え?」

 その言葉に驚いて、彼を見つめた。
 確かに大事にはしている。
 でも何故、それを知っているのだろう?

「あ、いや、大切そうに見てたから」

 すると、少しだけ慌てたように答えた。

「――ねえ、藤倉君。私の名前知ってる?」

 私は視線をクリスマスローズへと戻すと、ちょっと自嘲気味になっているだろう自分の顔を思い浮かべ、ため息を吐きたい気分でそう問いかける。

「え? 美麗、でしょ?」

 彼は出された質問には答えたものの、意図を計りかねているのか、端正な顔を傾げた。

「そう、美麗。この名前、どう思う?」
「どう思うって……綺麗で良いんじゃないかな?」
「ははっ、ありがとう。でもさ、私とは程遠いんだなぁ……」

 自分で言っておきながら、肩を落としてしまう。

「そうかな? 俺は思わないけど、月島はそう思うの?」
「だって、美しくって麗しいって、それこそどんだけって感じじゃない? どう見たって美しくも麗しくもないもん。超名前負け。私とクリスマスローズってさ、何だかそっくり」

 そう。これが、私がこの花を大事にしている理由。みみっちいことは百も承知。でも、この花を蔑ろにすると、自分もそうされたようで心が痛むんだもの。我ながら卑屈だけどさ。

 小さい頃は大雨が降るたびに、池のようになった花壇の中で流されやしないかと、この花に向かって傘を差してあげてたっけ。雹が降った日なんか、お母さんに何度注意されても、花が傷付くのが怖くて、この場を動けなかったことを思い出す。

「うーん……」

 そんな風に言われたら、答えに困るよね。私は苦笑してしまう。
 でも彼は、そうかなぁ? と顎に手を当て、真面目に考えてくれているようだった。

「美しいって顔だけじゃないでしょ? 一番大事なのは、俺は内面だと思ってる。
 それと麗しい。これはさ、どちらかというと月島なら……麗らか、うん、こっちかなと思う」

 我ながらうまいこと言ったとでもいうように、彼は自分の言葉に満足げに一つ頷いた。

「麗らか?」
「そうそう、春の陽射しみたいに麗らか。月島はさ、そんな性格だと思うよ」

 根暗で引っ込み思案だった私が? 麗らか?

「ほ、本当に?」
「うん。一緒にいるだけで勇気付けられて、自然と元気になる不思議な力がある」

 よっぽどあなたの方が、そう思える彼の笑顔と共に紡がれた台詞は、大地に落ちる一粒の雫のよう。時間をかけてじわじわと、心の奥底にまで染み込んでいく。
 思いやりの籠った言葉は、何物にも勝る心の栄養だ。私は彼から与えられたこの一言を養分に、また一つ前向きに頑張れる、そんな気がした。

「ありがとう」
「本当のことしか言ってない。お礼は要らないよ」
「でも、ありがとう」

 一見きざったらしく聞こえるこんな台詞をさらっと言えちゃう藤倉君は、本当にかっこいい。
 きっと彼は気付いてないんだろう。自分が発する何気ない一言こそが、どれだけ他人を勇気付けているのかを。

「――うらら」

 彼の口から唐突に出た言葉に、私は首を傾げる。

「え?」
「本当は月島って名字で呼ぶの何か他人行儀だから、名前で、美麗って呼んでいいかって今日訊こうと思ってたんだ。でも」

 言葉を切って、いったん唇を湿らせる。その仕種がやけに色っぽくて、私は酷くドキリとした。

「うらら。そう呼んでも良いかな?」

 柔らかくて穏やかで、なんて愛らしい呼び名。
 彼は、美麗という華美な名前を嫌った私を、優しく包み込んでくれただけじゃない。更にその先の温かい世界へと導いてくれようとしている。
 窺うように私を見つめるその瞳は、夕日を反射して、燃えるような赤にも見えた。

「ダメ? まだ誰も呼んだことのない、俺だけの特別な呼び方」

 心なしか熱を帯びたその瞳には、まるで魔力でも込められているかのようで。いとも簡単に、私の心を攫っていってしまうのだ。

「嬉しい。凄く。幸せすぎて、泣いちゃいそう」
「それは困るよ、うらら」

 彼は優しく、私を抱きしめる。
 あの日触った腕は、今までも今日も、見た目よりずっとずっと優しかった。