「どうしたの?」
「え?」

 かけられた声に顔を上げれば、いつの間にか始まった体育祭は、いつの間にか午前中の種目を全て終えていて、いつの間にかお昼に突入していた。
 開会式も出場した種目も、確かにそこにいたはずなのに、全てが酷く曖昧。

 お弁当を広げてはみたものの、食欲はほとんど湧かなくて、私はさっきから少しも減っていない中身を見つめた。
 午後一で、練習を頑張った部活対抗リレーが控えている。
 楽しみだね、鞠がそう声をかけてくれたのに、私は素直にうんと言うことができずにいた。
 これじゃあ想いを伝えるどころではない。チャンスすら巡ってくる気がしない。

「はあ……」

 思わずため息が出た。

「どうしたの? 何か心配ごと?」

 一緒にお弁当を食べていた琴平さんからも心配されてしまう。

「う、ううん」

 彼を意識してしまってまともに話もできないの、なんてそんなこと、彼女には口が裂けても言えない。同じ人物に想いを寄せる者同士。でもきっと、琴平さんならこんなときの対処法、すぐに思い付くに違いない。
 私はもう一度零れそうになったため息を慌てて呑み込むと、味がほとんど分からないお弁当を必死で胃に押し込んだ。

『――部活対抗リレーに参加される皆さんは着替えを済ませ、十五分後に東ゲートにお集まりください』

 アナウンスが流れ、鞠が席を立つ。

「行こう」

 促されて私も腰を上げた。
 私はエプロンを付けるだけなのでここでもできるが、鞠は競技用のユニフォームに着替えないといけない。だから競技場に設置されている更衣室へ向かうことにしていた。

「頑張って!」
「頑張れよー!」

 あちこちから激励の言葉をかけられて、それが反って緊張を誘う。
 亀の歩み。一生懸命走ったってその程度の私の姿を、これからクラス全員に拝まれるのかと思うと、胃が痛くなる思いだ。無理矢理詰め込んだお弁当のせいもあってか、情けなくも嘔吐(えず)いてしまいそうになった。

 でも、藤倉君と鞠に励まされながら、何とか頑張った今日までの日々。鞠には速く走れるきちんとしたフォームを教わって、その通りに毎朝ハナを付き合わせながら自主練もした。タイムを計ってもらったら、僅かだけれど縮んでもいた。
 それに、彼と同じチームで走れる機会なんて、これから先もう二度と訪れないのかもしれないのだ。藤倉君と作れる思い出は、どれも、どんなものでも大事にしたい。

「行こう、練習の成果、見せつけてやろうぜ」

 私が『人』という字を掌に書こうとしていると、背中をドンと叩かれた。
 驚いて振り向けば、そこには藤倉君の姿。今朝発症した病は未だに胸に燻っていて、そんな不意打ちを受ければ、即座に悪化してしまう。
 声を出すことができなくて、代わりに何とか頷いた。

「緊張しすぎ」

 でもそれを緊張と取ってくれたみたい。
 今朝の不自然な態度を恐らく疑問に思っているだろうに、藤倉君はいつもと同じように私をリラックスさせようとしてくれている。
 苦笑を浮かべた顔は、どこまでも優しくて。

「大丈夫。大丈夫だよ。抜かされたって転んだって、俺が必ず取り返す」
「藤倉君……」
「なんて言っといて、俺が転んだらすげぇかっこ悪いけどな」

 照れたように頭を掻く、そんな姿に少しだけ肩の力が抜ける気がした。

「楽しもうよ、そういう種目」

 彼が指差すその先には、剣道部員の姿。胴着を着て、面まで被っている。しかも籠手を着けた手には竹刀が握られていた。

「大変そう……」
「うん、暑くて臭くて重くて、まさに三重苦。視界も悪いし、とてもじゃないけど走る格好じゃない」
「着たことあるの?」
「中学ん時、体育の授業で着たんだ。でも学校のなんてさ、みんなの使い回しじゃん? 誰の汗が染み込んでんのかって、あまりの臭さに友達と大爆笑」

 思い出したのかゲラゲラ笑う藤倉君を見て、私も思わず笑ってしまった。

「そうそう、そういう楽しい種目なわけだ」

 目尻を拭った彼が、そっと背中を押す。鞠がそれを笑顔で見つめていて、目が合うとガッツポーズをしてくれた。頑張ろうという意思表示か、はたまた、良い雰囲気になった私たちを見てか。

「ありがとう」

 二人とも、本当に大好き。
 思いを込めて笑顔を返した。