「帰ろっか」

 このまま二人でいたら、何だかいらぬことを言ってしまいそう。
 それにあまり遅くなると下校時刻になってしまい、誰かと遭遇しかねない。具合が悪くて早退した二人が、こんな所で揃って立ち話をしていたら怪しまれてしまう。

「うん」

 美濃部さんは屈託ない笑顔で頷く。その瞳は澄んでいた。
 眩しいのは、輝く太陽のせいばかりではなくて。
 私はいたたまれなくなって、別の話題を急いで探した。

「そういえば」
「ん?」

 場繋ぎ的に発してしまって、どうしようかとしどろもどろになりながら、結局捻り出したのはこんな言葉だった。

「トイレで何してたの?」

 すると、彼女の頬に朱が差す。
 意外な反応に、何だかまずいことを訊いてしまっただろうかと戸惑う。私も腹痛で籠っていただけに、同じように恥ずかしい理由だったのかもしれない。
 言いたくなかったら……だからそう続けようとしたけど、それより少しだけ早く、消え入りそうな声が辛うじて届いた。

「練習……してたの」
「練習? 標準語の?」

 先程の言葉を思い出して問いかけるけど、美濃部さんは首を振った。

「高校からこっちに移ってきたから、中学の友達は一人もいなくてね。だから、都会の高校生に見えるように頑張ったんだ」
「うん」
「だけどね、標準語がまだ完璧じゃなくて、口を開いたら馬鹿にされそう、そう思ったら怖くてみんなとおしゃべりできなかった」

 戻る前の、寡黙で孤高な美濃部さんを思い出す。そういう理由だったのかと、今漸く合点がいった。

「それで誰とも話さなかったの?」
「うん。だけどやっと話せると思ったときにはもうクラスには仲の良いグループができ上がってて」
「そっか、乗り遅れちゃったわけだ」

 彼女は頷く。

「それに、ちょっと攻めすぎた? みたいで、制服とか……髪とか……」

 加減が分からなかったと、太陽に透かすと金に近い茶色の髪を一房持ち上げ、ため息を吐く彼女。短いスカートから覗く脚も眩しい。

「孤高とか、全然そんなかっこいい理由じゃないし、怖いとか噂で聞くようになって、どうしたら良いか悩んでたんだ」
「……最初コケると、結構後々まで響くもんね」

 状況こそ異なるけど、まるで戻る前の自分のよう。クラス分けテストで大コケした私は、結局その後彼と一つも接点を持てないままだった。

「うん。だから、練習してた。明日こそは明るくおはようって言ってみよう、そう思って。明日こそは一緒にお昼食べようって声かけてみようって」

 寂しそうに笑う美濃部さん。私には、毎日それを実行しようとしてできない彼女の切なさもよく分かった。
 明日こそは藤倉君に声をかけてみよう、私だってそう思って過ごした日々があったから。

「凄く、凄く頑張ってくれたんだね」

 他人を馬鹿にしながら煙草を吸う生徒。普通、ううん、それよりもよっぽど内気な美濃部さんが、素行の悪い、しかも複数の人物と対峙するには、どれほどの勇気が必要だっただろう。クラスメイトにおはようを言う、それですら練習の必要な彼女が。
 いくら自分のことのように悔しかったと言ったって、所詮は他人事だ。
 勿論それも彼女を奮起させる一つの要因ではあったかもしれない。でもそれだけじゃない。きっと元来正義感の強い人。そして、ここぞというときには、とてつもない力を発揮できる人なんだ。

 私も彼女のようになれたら、心からそう思った。

 美濃部さんは、

「そうかな? ……うん、私にしては頑張ったかも」

 そう言って満足そうに笑った。

「明日から、朝会ったらおはようって言って。私も見かけたら言うから。それから、お弁当、一緒に食べよう」
「え?」
「私たち、どう見てももう友達でしょ?」

 彼女の足が止まる。

「いいの?」

 声が震えていた。

「ダメな理由がないよ」
「でも、突然入って迷惑じゃない?」
「そんなこと思う人いないよ。それにみんな本当の美濃部さんを知ったら、絶対仲良くなりたくなる!」

 お礼がしたかったからなのかは、自分でもよく分からない。学校に来なくなってしまった彼女を知っていたから、今度こそ楽しい高校生活を送ってほしい、あるいはそう思ったのかもしれない。
 でもこれだけははっきりしている。私はあのとき、彼女に惹かれてしまったんだ。人のために勇気を奮える、そんな純粋な魂を持つ彼女に。

 真珠の首飾りの少女、私は美濃部さんの中にあの絵を見たんだ。