帰り道、学校が見えなくなった頃私は、ありがとう、と彼女に向かって口を開いた。

 結局影森先生の提案に乗り、私と美濃部さんは具合の悪さを装ってそのまま帰路についている。

「え?」

 今までの人生で一番のスリルを味わった、恐らくそんな私たち。美濃部さんは精神的に余程疲れていると見えて、二人で歩きながらもほとんど無言、聞こえるのは心なしか重い足音ばかり。
 だから私が急に話しかけたことに驚いたようだった。

「庇ってくれて、ありがとう」

 何度だって伝えたい。
 話したこともないクラスメイト。私だったら、きっとそんな勇気、他人にも近しい人のために奮うことはできない。

「それは私の台詞だよ」

 だけど美濃部さんは緑が萌える街並みを見つめながら、吹き抜けるそよ風のように優しく囁いた。

「でも、美濃部さんが庇ってくれたから。それがなかったら恥ずかしい話、私、助けたかどうか分からない」

 言ってからすぐ、私も同じように街並みに目を向けた。思わず出てしまった本音に、軽蔑の色が込められた瞳を返されるんじゃないかって、少しだけ不安になったから。

「違うの。そんな立派じゃないんだ」
「え?」

 でも聞こえたのは、予想もしていなかった弱々しい声。気になって視線を戻せば、彼女もこちらを向いていた。
 二人の足が自然と止まる。街路樹の下、頭上の葉が風にそよいでさらさらと鳴った。

「私ね、福井県から越して来たの。この春に」
「福井?」

 話が見えなくて、私は少しだけ首を傾げた。

「福井ってね、結構方言強くて、そうじゃない所もあるかもしれないけど、私が住んでたのは山間の凄い田舎だったから、標準語話せるようになるの大変だった」
「全然分からなかった。完璧な標準語だと思うよ」

 恥ずかしそうに俯く彼女。でも社交辞令ではない。

「いっぱい練習したから」

 そう言うと、今度ははにかんだように笑った。

「福井の田舎の中学生なんてさ、凄いダサくて。こっち来てびっくりしたんだ。きっと見たら驚くよ。クラスも一つで、しかも三人とかなの。私も本当に野暮ったくて冴えない中学生だったんだぁ」

 彼女の口から語られるのは、今とは正反対の姿。まるで――

 私の表情から、美濃部さんは考えを読み取ったようだった。苦笑を浮かべ頷く。

「私のことみたい、そう思った。自分が馬鹿にされてるみたいで悔しかった、それだけなの」

 苦笑のまま視線を落とす。木漏れ日が彼女の顔を照らして、一瞬目元が光ったように見えた。

「ううん、そうじゃないよ。それだけじゃ、できないよ」

 美濃部さんの横顔を見つめながら、だから私は断言した。

「え?」

 振り向いた彼女の髪が、太陽の光に煌めいて揺れる。

「だって言われてたの、私だよ。当の本人がいたんだから、私のが美濃部さんよりずっとずっと悔しかったはずじゃない。でもさ、煙草吸ってて、向けられた悪意が怖くて、怖気付いたの」

 今度は私が苦笑を浮かべる番だった。

「見つからないように必死に息を潜めてさ、もう聞きたくないって耳を塞いで、私は逃げてたんだ」
「でも私を助けてくれた。凄く嬉しかった」

 彼女の眼差しが強すぎて、思わず目を逸らしてしまう。
 私こそ、そうじゃないんだって、言われた言葉をそのまま返しそうになった。
 だって私は二度目なんだもの。変わろうと決めた、二度目。だから頑張れた。勇気も振り絞れた。一度目で一生懸命頑張るあなたとは違う――

 二度目なら上手くいく? おばあさんはそう訊いた。二度目ならきっと上手くいく、私はそう思った。実際、上手くやれていると思う。
 でも今、少しだけ胸が苦しい。
 だから何も言えなかった。曖昧に笑うのが精一杯。

 ずるい私には、過ぎた感謝だった。