必死で息を殺す。蹲る美濃部さんも、両手で口元を覆っていた。

「おい、誰かいるのかっ!」

 沼田のがなり声。入ってすぐ、足音が止んだ。床に捨てられている煙草を見ているのかもしれない。

 ――ドン。ドン。ドン……

 やがて、一つ一つ個室を確認して回り始めたのか、扉が押される音が次第に近付いてくる。
 そして遂に、私たちがいる一番奥の個室の前で、足音が止まった。
 上から覗かれたらアウトだ。鼓動が大きく全身を打つ。扉を通して聞こえてしまいそうだった。

「チッ。外へ逃げたのか?」

 下から覗いたのかは分からない。でも窓を開けたのが功を奏したか。
 この扉の中にはいないと思ってくれた?
 安心しかけたところへ、ドンドン! 強く扉を叩かれ足が滑りそうになった。美濃部さんが急いで支えてくれる。ミシ、と微かに音がした。

 ヤバい、バレた? 冷や汗が背中を伝う。

 時間にしてはほんの数秒、そんなものだったかもしれない。とてつもなく長く感じた痛いほどの静寂は、踵を返して遠ざかる沼田の足音で終わりを告げた。
 恐らくは煙草を拾う音。そしてそのまま、扉を開けて外へと出て行った。

 私たちは目を見合わせる。でも、完全に沼田の足音が聞こえなくなるまでは、そう思って身動きを取ることができなかった。
 やがて、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。
 それが合図のように、私たちは詰めていた息を吐き出し――どちらともなく吹き出した。

「凄い度胸」

 やっぱり可愛らしい声で美濃部さんが笑う。

「お互い様、かも?」

 至近距離で見つめ合い、もう一度二人で吹き出した。

「授業さぼっちゃったね」
「うん、初めて」
「私も」

 孤高の人、そんなイメージが良い意味で音を立てて崩れるほど、彼女は気さくだった。

「見てよ、まだ手が震えてる」
「ほんとだ。私も、見てよ」

 背中を向けると、

「ほんとだ、緊張、したね」

 パタパタ扇いでくれた。

「とりあえず、降りよっか」

 なんでかまだ蓋の上に乗ったままの私たち。

「降りよう降りよう。もう乗ってる必要なかったね」

 とは言ったけど、体が強張っていて思うように足が動かない。

「私たち、どんだけ緊張してんの」

 また笑ってしまった。


「……沼田、この窓見張ってたりするかな?」

 頭をぶつけながらもどうにか苦労して降りた私たちは、いざ出ようと扉に手を掛けたところで、開けっ放しになっていた窓が気になった。
 せっかくここまでして上手く隠れたのに、見付かりたくはない。扉を開けて出てしまえば、外から丸見えになってしまう。

 汚名を着せられて停学になった彼女。それを考えると、思いっきり隠れてしまったこの状況では、弁解をしたところで信じてもらえる可能性は限りなくゼロに近い気がした。

「沼田、次授業入ってたと思う」

 考える仕種も可愛い美濃部さん。普段とのギャップが凄くて、いつもの彼女はいったい? と疑問を抱いてしまうほど。

「C組、お昼の後現国だった気がする」

 沼田は現国の教師だ。授業を放ってまで、犯人捜しをする可能性はどのくらいあるだろうか?

「どうしよう、出る?」
「私たち、授業サボってる時点で、何となく犯人候補にされそうじゃない?」

 その言葉にヒヤリとした。

 確かにそうだ。進学校だけあって、サボる生徒自体が珍しい。恐らく後で事情を訊かれるはずだ。どこにいたのか、と問われたときに、私たちが実験棟付近で目撃されていたとなると、事態は不利になりかねない。アリバイ作りも必要だ。

「早くここから離れたほうが良いかもしれないね」
「うん」
「扉開けるね。できるだけ姿勢を低くして、しゃがんだまま窓閉めよう」

 見張られていたとしたら頭は見えてしまうかもしれないが、最悪顔は隠せるだろう。
 私たちはほとんど這いつくばりながら、窓の下に移動する。手が汚くなったけど、背に腹は代えられない。それに手なら、洗えば済む話だ。
 そのままの姿勢で腕だけ伸ばして、窓を閉めた。外を確認したい衝動に駆られたけど、それで顔を見られてしまっては元も子もない。

「どうする? アリバイ」

 念入りに手を洗ってトイレを後にする。勿論出るときも、左右の確認を怠らない。

「協力者を探すのが一番だよね、やっぱり」

 実験棟の廊下を壁伝いに歩きながら、泥棒か探偵よろしく足音を忍ばせ移動する。
 実験棟は文字通り、主に理科系の実験を必要とする授業のみで使われる棟だ。今の時間、一階はどうやら使用されていないようだった。

「心当たりは?」
「協力者の?」
「うん」
「うーん……」

 ん? 考えていて何か引っ掛かった。協力者――

『何か悩みがあったら相談に来てね』

 そして思い出した。沼田を、恐らくあまり快く思っていないであろう人物を。