見知らぬ男性の声がして、私は目を覚ました。
まず目に入ったのは、真っ白な天井。
ここはどこだろう。見覚えのない景色だ。
知らない男性が喋り、次によく知っている女性の声が聞こえてくる。お母さんの声だ。
首を左に傾けてみると、私が寝ているベッドのすぐ横でお母さんとお父さん、それと白衣を着た男性が会話している光景が見えた。
「命に別状はありません。脳にも異常は見られないので時間の経過とともに目を覚ますでしょう」
白衣の男性がお母さんたちにそんなことを説明していた。
それを聞いて、私は自分がどうしてこの場所にいるのかを思い出した。
そうだ、私は車に轢かれたんだ。
イヤホンをつけて、スマホ片手に歩くなんて、そりゃあ車に轢かれてもおかしくない。自分自身に呆れてしまう。
心配そうなお母さんの顔を見ると凄く申し訳ない気持ちになってくる。
私はこれ以上心配をかけまいと、ゆっくりとベッドから身を起こす。そして努めて平静に、
「おはよう」
とだけ言った。元気です、平気です、というアピールだ。
しかし、お母さんはそんな私に目もくれず、お医者さんに尋ねる。
「いつ目覚めるかはわからないんですか……?」
いや、起きてるじゃん! 今挨拶したよ!
心の中でそんなツッコミを入れながら、私はラジオ体操のようにできるだけ大振りに両手を振った。
けれど、反応はなかった。
「すみません。そこまではこちらもわからないんです。ただ、先ほども申し上げましたが脳に異常は見られませんので心配は要らないかと……」
お母さんのみならず、お父さんもお医者さんも、私をそっちのけで話し込んでいる。新手のいじめですか。
そりゃあスマホを片手に歩いていた私が悪いと思うよ、ちゃんと反省もしている。だから無視だけはやめて。
ムキになった私は行儀悪くベッドの上に立ち上がり、最大限に存在をアピールする。
けれど、やはりと言うべきか、反応はい。
いくらなんでも酷すぎる。これじゃあ私がひとりで騒いでいる可哀想な子みたいじゃないか。
耐え切れず、私はお母さんの肩に勢いよく手を置こうとする。
――しかし。
「……えっ」
手を伸ばした私は、思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
一瞬、何がどうなったのか全くわからなかった。
頭の中が真っ白になって、思考が追い付かない。
何秒か経ったあと、私は確かめるように、もう一度お母さんの肩に手を伸ばす。
そして驚愕した。
伸ばした腕が、お母さんの肩をすり抜けていたのだ。
手には何の感覚もなく、まるで煙の中に腕を突っ込んだような状態。
私は慌てて腕を引っ込めて、手の平をじっと見つめる。
指はちゃんと五本ついているし、生命線もハッキリ見える。握れば握った感覚があるし、幻でも何でもない。間違いなく私の手だ。
本当にこの腕が、お母さんの肩をすり抜けたというのだろうか。
ふと、指と指の隙間から自分の足元が見えた。
黒い制服のスカートから伸びる自分の脚と、真っ白なベッドのシーツ。そして――
「腕……?」
そこには管に繋がれた腕があった。どうやら誰かが寝ているらしい。
指と指の僅かな隙間から部分的に見えた腕は、色が白く、女性のものであることがわかる。
私は疑問に思った。
ついさっきまで私はここで眠っていたというのに、どうして人が寝ているのだろう。
私はベッドから退いてすらいないのだから、誰もここに寝そべることはできないはずだ。
じゃあ、この腕は誰の腕?
私は、管が繋がれた腕から視線をずらしていく。
肘、上腕、肩、首と、辿るように視線を移動させ、そしてその顔を見る。
……何となく、予想はしていた。
話しかけても誰も反応してくれないし、体に触れてもすり抜ける。
不自然を通り越して不可思議だもの。だから、信じたくなかったというだけで、予想自体はできていた。
私は、ベッドで眠る私自身の顔を見て、冷や汗をかいた。
臨死体験、もしくは幽体離脱?
予想はしていても、理解はしていない。私にはこの状況がまるで理解できなかった。
ベッドで眠る私は頭に包帯が巻かれている。
買った覚えのない薄ピンク色の浴衣はいかにも患者らしい印象を与える。
腕に繋がっている管は点滴用のものだろう。今まで入院した経験が皆無なため、多分という前置きが入るけれど。
眠っている自分と、こうして困惑している自分の姿を見比べてみると、ますますわからなくなってくる。
私の恰好はまさしく学校帰りのそれで、包帯や管がついているわけでもなければ入院用の浴衣を着ているわけでもない。
あまりの状況に気にもならなかったけれど、ベッドの上だというのにローファーも履いている。
制服も汚れ一つないし、もちろん傷も痛みもない。
すり傷だらけで眠る私と、幽霊みたいな私。
どちらが本体かと問われれば自信を持って前者だと答えられる。
段々と自分が置かれている状況が飲みこめてきた。
そして、飲みこめてしまったがために、焦る。
私はこれからどうなってしまうんだろう?
お母さんもお父さんもお医者さんも、私が見えていない。声すら聞こえていない。
この様子だと他の人も同様に、私のことを認識できないと思う。
だからこそ、並々ならぬ焦燥感に襲われる。
もしずっとこの状態が続いたら、そう考えるだけで背筋が凍り付く。
誰にも気付かれず、幽霊のように独り寂しく彷徨い続ける人生。そんなのは絶対に勘弁だ。
私は縋り付くように、もう一度お母さんに話しかけた。
でも、やはり返事はない。
お父さんもお医者さんも、誰一人として私に気付かない。
話をすることも、触ることもできず、自分がここにいるんだと気付いてもらうことすらできない。
理解すればするほど、自分の置かれた状況が恐ろしくなる。
私は不安と恐怖のあまり病室を飛び出した。
誰も私が見えていないという孤独な空間に耐えられなくなったのだ。
病院の廊下を全速力で駆け抜ける。
普通なら迷惑でしかないこの行為も、今は誰も咎めることはない。入院している患者さんも、付き添う看 護婦さんも、みんな私が見えないのだから。
走れば走るほど、人とすれ違えばすれ違うほど、誰にも認知されない自分が恐ろしくなる。
そして廊下の角を曲がった時に、友達とぶつかった。
いや、ぶつからなかった。ぶつかれなかった。
衝撃に備えてとっさに身を構えたのだけど、そんな必要はなく、私の体はあっけなく友達の体をすり抜けてしまった。
勢い余って地面に激突し、体中に鈍い痛みが走る。
けれどそんなことはどうでもよかった。
私はすぐに起き上がり、友人を見やる。
さっき私をカラオケに誘ってくれた子だ。普段からよく話しかけてくれるし、私にとってかけがえのない友達の一人。
どうやらお見舞いに来てくれているらしい。
この子なら、私のことが見えるかもしれない。もし見えなくても声くらいなら聞こえるかもしれない。
そんな淡い希望を胸に、声をかけた。
けれど友達は振り向きもせず、ただ無言で病院の廊下を歩いていく。
私は絶望した。
この子でさえ、私の存在に気付いてくれない。
本当はわかっていた。きっと私の期待は裏切られるだろうと。
すり抜けた時点で、無駄だと認めていればよかった。声をかけるだけ無駄だと諦めていればよかった。
そうすれば、私を無視して歩いていくこの子の背中をこんなに暗い気持ちで見つめることもなかったのに。
もう、うんざりだ。
誰かとすれ違うたびに、すり抜けるたびに、私は孤独と絶望に苛まれる。
人のいる場所はダメだ。そう思った。
私は急いで病院を抜け出し、全力で駆ける。
走って走って、呼吸を整えることさえなくひたすら走り続けた。
途中、何度も車に轢かれそうになったけれど、やはり私をすり抜けた。
もう限界だった。とにかく人がいるところに居たくない。
疲れ果てた私が見つけたのは、小さな山だった。
山と言っても本当に小さな山で、傾斜も緩やかだし、どちらかと言えば森のような感覚に近い。
ここなら迷う心配も、人と出会う心配もない。
私はすぐに山に入り、手ごろな切り株に腰掛ける。
「これからどうなるんだろう」
漠然とした不安が募り、そんなことを呟いた。
意味のない独り言だとわかってはいるけれど、吐き出すように何かを言わなければ不安で気が狂ってしまいそうだった。
人がいる場所に行けば孤独感に襲われ、人を避ければ不安感に襲われる。
さっきまでは走っていたおかげで誤魔化せていた思考も、今はもう誤魔化せない。
安心するためにここに来たのに、これでは本末転倒だ。
――怖い。
お医者さんはいずれ目を覚ますと言っていたけれど、それはいつ?
病室で見た私の顔は、すり傷のような小さな傷はあっても大きな怪我はなかった。
腕が変な方向に曲がっていることもなければ顔がへこんでいることもない。
じゃあ、何で目覚めないの?
木々の隙間から見える青い空を見上げて、私は大きくため息をついた。最近ため息ばかりをついている気がする。
町とは比較にならないほどうるさい蝉の声も、今となっては寂しく感じられる。
この際虫でも動物でもいいからお話したい気分だ。
眠っている時に耳元で不快な羽音を出す蚊も、今はどこ吹く風だ。
虫にさえないものとして扱われる悲しさは尋常ではない。
犬でも猫でも誰でもいい。誰か私に気付いて。
「寂しい……」
切り株の上で膝を抱え、顔を押し付ける。
目の奥が熱い。あぁ、涙が出ちゃうやつだこれ。
でも別にいいや、泣いたって喚いたって、誰も私に気付かないんだから。
悲しいまま泣いて怖いまま震えて、独りでここに座っていればいい。
もう諦めよう。自暴自棄にも近い感覚だけど、そう思えてきた。
――その時だった。
「お困りかな?」
すぐ近くから、そんな声がした。
風鈴みたいに涼しげな声。少年とも少女ともとれる中性的な声だ。
私はびっくりしてすぐに周囲を見渡した。
けれど人の姿は見えない。
聞き間違い……? それにしてははっきり聞こえたような。
「ここだよ、ここ」
そんな声とともに何かが私の太ももに触れた。
ちらっと視線を下にやると、真っ白な猫が小さな前脚を私の脚に乗せていた。
透き通るようなスカイブルーの瞳に、毛玉ひとつない整えられた毛並み。びっくりするほどの美人さんだ。
「……猫ちゃんだ」
「うん、違うよ」
猫ちゃんはちょっと不満そうにふんっと鼻を鳴らした。
何が違うんだろう?
どこからどう見ても猫だけど。
「猫じゃないの?」
「猫じゃないよ」
「猫だよね?」
「違うよ」
二度か三度くらい、そんな無駄なやり取りをしたと思う。
見た目は完全に猫だけど、本人が違うと言うのなら違うんだろう。よく考えたら猫が喋れるはずもないし。
得体の知れなさはあるけれど、話ができるのならこの際なんでもいい。
それよりも、猫じゃないと言うのなら何なのかが気になる。
「じゃああなたは――――」
「だから猫じゃねぇつってんだろ!」
猫ちゃんは声を荒げて私の脚を引っ掻いてきた。すごく痛い。
違うのに! 猫だよねって言おうとしたわけじゃないのに!
「ひどい……跡が残ったらどうするの!」
「うるさい! 猫じゃない!」
猫ちゃんは牙をむきだしてこちらを威嚇している。
でもいまひとつ怖くないというか、見た目が可愛いから余計愛らしく見えるような……。
とりあえず謝っておこう。
「ごめんね」
「うんいいよ。こっちこそ引っ掻いてごめんね? 大丈夫?」
うわ、なんという変わり身の速さ。
怒ったり心配してくれたり、ころころ態度が変わるところはまるで猫みたいだ。本人は違うと言っているけれど、段々わからなくなってきた。
ともあれ、機嫌を直してくれたみたいでなによりだ。
「ところであなたは誰なの?」
さっきは言う前に引っ掻かれちゃったけど、今度はちゃんと訊けた。
猫ちゃんは自慢げに鼻を鳴らし、透き通るような水色の瞳でこちらを見つめてきた。どことなく勝ち誇ったような表情がとても愛らしい。
「ボクは神様!」
「えっ凄い!」
「――――の、使いだよ」
「あぁ、うん……」
なーんだ、つまんないの。
…………ってあれ? 普通に凄くない?
もしかしたら私をもとの体に戻してくれるかも。
「神様の使いってどんなことするの?」
「神様のお使いだよ」
「お使いの内容は?」
「神様のお手伝いとかだね」
「そっか……凄いねー……」
うんうん、凄い凄い。尊敬しちゃう。それで、神様のお使いって何?
全然話が見えてこないよ!
この子はあれだ、ちょっと失礼かもしれないけど、ぽんこつだ。
具体的に質問しなきゃまともな答えは得られそうにない。
「例えばだけど、私をもとの体に戻したりもできるの?」
私の問いかけを聞いて、猫ちゃんは目を見開いた。
そして思い出したように言う。
「あ! そういえばそれが目的で君に話しかけたんだった」
「忘れてたんだ……」
うん、やっぱりこの子はぽんこつだ。
とはいえ、体に戻してくれるというのなら凄くありがたい。
「戻してくれるの?」
「うん。でもひとつ条件があるんだよね」
私はオウム返しのように「条件?」と返し、首を傾げた。
猫ちゃんは困ったような面倒くさそうな表情で鼻を鳴らし、言葉を続ける。
「そう、条件。君は今困ってるね?」
「うん」
「まだ若いのに大変だねぇ」
「いいから続けて」
「ごめんなさい説明します。条件っていうのはね、人助けをすることだよ」
人助け。それを聞いて何となくピンときた。
多分、助かりたかったら自分も人を助けろみたいなことだろう。
けれど、こんな状態で人助けができるとはとても考えられない。
私は猫ちゃん以外の誰にも見えないし、声も聞こえない。
ついでに言えば誰かに触れることさえできない。
椅子や机といった静止した物体には触れられるのだけど、それでも動かすことはできない。何なら石ころひとつ持ち上げられないと思う。
できると言えば精々、物に座る程度だ。
しかも、制止している物体に触れられると言っても、その物体が少しでも動いた途端にすり抜けてしまう。
実際、ここに走ってくるまでの間に何度か車をすり抜けたりもした。もし動体にも触れられるのなら、今頃五体満足でここには居ないはず。
要するに、今の私はただの幽霊だ。
生きているか死んでいるか、たったそれだけの違いしかない。
そんな私が果たして人助けなんてできるだろうか。
疑問に思うと同時に、それを口にする。
「助ける対象にだけ君の姿が見えるようにすればいいんだよ。それくらいはボクの力で何とかなるし」
猫ちゃんの答えは非常にシンプルだった。
どうやら最低限の支援はしてくれるらしい。
しかしそれはそれで問題があるような……。
「幽霊だ! って驚かれない?」
「いやー、ごめんね。そこは何ていうか、こっちの管轄外だからさ……上手く誤魔化してね」
うわっ、丸投げしやがった!
この猫ちゃんちょっと適当すぎじゃないかな。
「ほら、夜道に幽霊が現れた! とかって心霊現象よくあるよね。あれも君みたいな子がやっているんだよ。驚かせて違う道を通らせることで、その先で起こるはずだった事故を回避させてるの」
「な、なるほど……」
幽霊騒ぎでも何でもいいから、とにかく悲劇を回避させてあげればいいらしい。
ちょっと面白そうかも。
「わかった、人助けしてみるよ! それで、私は何をすればいいの?」
「んー、そうだね……」
「あ、具体的にね」
念のため、釘をさす。
この子なら今の問に「人助けをすればいいんだよ」と答えかねない。
さっきも同じようなやり取りがあったし。
「人助け」
ほらきた!
やっぱりこの子はぽんこつだ。
「……って言うと思ったでしょ」
「……ごめんなさい」
バレてた。
不満そうに鼻を鳴らし、猫ちゃんは黙り込んだ。
今回ばかりは本当に具体的な人助けの方法を考えてくれているらしい。
ぽんこつ呼ばわりしたのが少しだけ申し訳なくなってくる。
「ねぇ、不登校児って知ってる?」
蝉の寿命が来ちゃうんじゃないかってくらい長考した後、猫ちゃんはそんなことを尋ねてきた。
突然そんなことを言うのだから、思わず目を丸めてしまう。
若干動揺しつつも、私は首を縦に振る。
「よし、ならその不登校児を救ってあげて! どの子を救うかはこっちで決めるから!」
「不登校……」
その言葉を聞くと、ちくりと胸が痛む。
私が中学生の頃、突然学校に来なくなった子がいた。
その子の名前は九条彩月。
いつも明るくて誰にでも優しい、天使のような子だった。
とりわけ私とは仲が良く、家が近いということもあってよく一緒に遊んでいた。
だから、彼女が不登校になった時、誰よりも動揺したのは他でもないこの私だった。
心配になって電話をかけたりメールを送っても、彩月は適当に誤魔化すだけで一向に学校へは顔を見せなかった。
クラスのみんなで手紙を書いて送ったこともあったし、文化祭のような一大行事の前にはみんなで家まで行って「楽しいからおいで」と言ったこともある。
でも、ダメだった。
学校に来ないのは別にいい。もちろん、できることなら来てほしかったけれど、学校に来ないことよりも、学校に来なくなった理由を私は気にしていたのだ。
だから、悩みがあるのなら聞くと言って何度も電話した。
直接言いづらいのならメールでいいとも言った。
けれど、
「迷惑をかけたくないから」
そう言うばかりで、全く話をしてくれなかった。
きっと本心なんだろう。仲が良いからこそ迷惑をかけたくない。彼女がそう思っていたことくらい私にでもわかる。
わかるからこそ、つらかった。
私はあの子のことを親友だと思っていた。楽しいことだけじゃなく、つらいことや悲しいことも共有できる、そんな仲なのだと。
苦しんでいるのなら話だけでも聞いてあげたい。役に立てるのなら役に立ちたい。決して迷惑なんかじゃない。
何度も繰り返しそれを伝える。
それでも彼女の態度が変わることはなかった。
次第に、私の中に怒りが芽生えてくる。
これだけ歩み寄って手を差し伸べているというのに、彩月は私を信じてくれない。それが許せなかった。
だからつい、彼女にきつくあたってしまった。
「みんなが勉強してる間も家で楽ができていいね」
怒りに身を任せ、そんな皮肉のこもったメールを送ってしまった。彼女が家で何をしているかなど知りもしないのに。
一晩眠って冷静になり、私はすぐに後悔した。
朝一番に慌てて携帯を開き、謝罪のメールを送る。
一日中携帯を握りしめ、彼女からの返信を待ち続けた。
けれど、彼女からメールが届くことはなかった。
大切だったはずなのに。親友だったはずなのに。たった一通のメールでそれが崩壊してしまった。
後悔した時には、全て終わっていたのだ。
それ以来、私は自分をどうしようもないクズだと思うようになった。
漫画家の夢を諦め、友達を失い、進路さえ決められない。挙句の果てには事故に遭って両親に心配までかける始末。
そんな私が不登校の子を救おうなど、思い違いも甚だしいのではないだろうか。
「後悔、してるんでしょ?」
ふと、子供に言い聞かせるような優しい声色で、猫ちゃんが囁いた。
まるで私の心のうちを見透かしたような物言いに、心臓が跳びはねそうになる。
まさか、私の心を読んでいるのだろうか。
「仮にも神様の使いだよ? 君の過去くらい知ってるし、心も読める。だからこその提案」
そう言って私の顔をじっと見つめてくる。
最初に話しかけてきた時のようなお茶目な雰囲気も、ぽんこつさも微塵も感じられない。まさに神様の使いといったような神妙な面持ち。
「すごく後悔してるよ。今でもたまに夢で見るくらい。でも、私に不登校の子を学校に行かせてあげられるとは思えないよ」
「じゃあやめる? 人助けの内容はなんでもいいからね。苦しんでいる少年少女を見捨てて、後悔を払拭するチャンスもみすみす見逃すと言うのなら、他の案を考えてあげるよ」
「う……」
そう言われると凄く断りづらい。
確かにこれはチャンスでもある。
今度こそ不登校の子の救い、前を向かせてあげる。もしそれが成功すればきっとこの胸に絡みつく後悔も随分とマシになるだろう。
けれど、やはり不安なものは不安なのだ。
私が関わったところで果たして学校に行かせてあげられるのか……。
「うーん、勘違いしているみたいだけど、ボクは別に学校に通わせろなんて言ってないよ。救ってあげてとは言ったけどね」
私の思考を読んでいるらしく、言葉を発するまでもなく返答が返ってきた。
一体何が違うんだろう。救うのも学校に行かせるのも同じことのように思えるけれど。
「全然違うよ。学校に行かせるだけなら縄で縛って引きずればいいからね。大事なのは心の支えだよ」
「心の支え……?」
「そう、心の支え。不登校児っていうのは多かれ少なかれ苦しんでいるんだ。もちろん、中にはただの怠け者もいるけどね」
「じゃあ私は元気が出るように支えてあげればいいの?」
「うん、そういうこと。目的はあくまで心を救うことであって、学校に行かせることじゃないからね」
……なるほど。
不登校の子を救うと言うのだから、てっきり学校に通わせるものだと思っていた。
「じゃあ学校に行かせる必要はないの?」
「うん。学校なんて行かなくても生きていけるからね。救われた上で行かない道を選ぶのならそれはそれでいいと思うよ」
言われてみればそうかもしれない。
普通の大人なら、学校くらい行けと声を荒げるだろう。義務教育だからとか、将来困るからとか、そんな理由をつけて。
もちろんそれが間違いだとは思わない。
行かないよりかは行った方がいいに決まっている。
けれど、猫ちゃんはそういった価値観の押し付けではなく、あくまで本人の意思を尊重しているように思える。
ここにきて、ようやく猫ちゃんの優しさに気が付いた。
人助けの条件を不登校の子にしたのだって、私にチャンスを与えるためだ。
ぽんこつかと思っていたけれどそうじゃないらしい。
……このチャンスを、無駄にしていいのだろうか。
いいや、本当はわかっている。ここで逃げてしまえば私はもう取り返しのつかない人間になるのだと。
「ねぇ猫ちゃん。私、上手くやれるかな」
「君と相性のいい子を選んであげるから安心して。あと、猫じゃないからね!」
よほど猫扱いされるのが嫌なのか、肉球で太ももを叩いてきた。
その光景がまさに猫だったものだから、思わず笑ってしまう。
こういうお茶目な面も、きっと私を和ませようとしてやってくれているんだろう。
私は胸に手を当て、自分自身に問いかける。
もう一度前に踏み出す覚悟はあるのか、と。
答えはもう、決まっていた。
「猫ちゃん。私、やるよ。ちゃんとできるかはわからないけど、やれるだけやってみる!」
「それはよかった!」
猫ちゃんは感心したように言うと、今度は優しく前脚を乗せてきた。労っているつもりらしい。可愛い。
不安はあるけど、私なりに頑張ってみよう。
そして、元の体に戻れたらもう一度彩月に謝ろう。
「それじゃ対象の家まで瞬間移動させちゃうけど、心の準備はいいかな?」
「うん!」
私は覚悟を決め、深く頷いた。
途端に目眩がして視覚が奪われる。
あるのは耳に響く蝉の声と、夏の暑さだけ。
けれど、猫ちゃんが何かを呟いた途端、それも消えてしまった。
何秒かして目眩が収まり、視界が正常になった時にはもう、私は山にはいなかった。
日差しもなければ暑さもない。むしろ少し肌寒いくらい。
確認するまでもなく、ここが屋内なのだとわかった。
室内を見渡すと、まだ日が高いのにカーテンが閉められ、電気も消されていた。
タンスに本棚、そしてベッドなど、さまざまな家具が置かれている。しかし可愛らしいデザインのものは一つもなく、ここが男の子の部屋だというのがわかる。
外からは相変わらず蝉の声が聞こえるけれど、薄暗い部屋が夜を連想させるせいか不思議と煩わしいといった印象は受けない。
そして、その薄暗い部屋の机に、彼はいた。
中学二年生くらいだろうか、男の子にしては華奢な体型だと思う。まだ成長途中って感じだ。後ろ姿だけなら女の子に間違われてもおかしくない。
彼はこちらに気づく様子もなく、一心不乱に机と向き合っている。
……声をかけてもいいのかな。
猫ちゃんが言うには私のことも見えるし、声も聞こえるらしい。
触ることはできないけど、コミュニケーションをとるくらいなら問題ないはず。
突然声をかけるのだからビックリされてしまうだろうけど、驚かせない方法も思いつかないのでとりあえず声をかけてみることにする。
少しばかり緊張してきた。
猫ちゃん曰く相性はいいらしいので彼と関わる上での不安はない。でも緊張はする。
私は大きく息を吸って覚悟を決める。そして、
「こ、こんにちは」
若干吃りながらも当たり障りのない挨拶をしてみた。挨拶は人間関係の基本だからね。
彼は一瞬だけびくっとして、そしてゆっくりと振り向いた。
薄暗い部屋の中で、彼と目が合う。
華奢な体型に見合うような、可愛い顔だ。
思春期の男の子とは思えないような綺麗な肌で、余計な肉は一切ついていない。顔も頭も小さいのに見開かれた目はとても大きくて、それが余計に可愛らしい雰囲気を出している。
美少年という言葉がこれほど似合う少年は他にはいないだろう。
かっこいいというよりかは、可愛い。そういった顔立ちだ。もっとも、あと数年もすれば成長してハンサムになるのだろう。
ちょっとドキドキしてきた。
美形の少年に見つめられているからというのもあるけれど、彼がどんな言葉を返してくるのかが気になってしまう。
警察とか呼ばれちゃったらどうしよう。
彼は何を言うわけでもなく、ぼうっと私の顔を眺めるばかり。
沈黙の時間が凄く気まずい。お願いだから早く喋ってほしい。
私の願いをくみ取ってくれたのか、数秒ほど経って彼はようやく口を開いた。
私は一言一句聞き逃さないよう、彼のふっくらとした唇を注視する。
しかし、彼の口から出たのは、
「はぁ……」
言葉ではなく、大きなため息ひとつだった。
彼はそのまま何事もなかったかのように机に向き直ると、再び何かを書き始めた。
……え? どういうこと?
もしかして無視されちゃった?
しかも凄く迷惑そうな顔をしていた気がするんだけど……。
「こんにちは!」
リトライしてみた。
さっきは私の声が小さくてよく聞こえなかったに違いない。多分そう絶対そう。
「――って」
よかった、今度は何か言ってくれた。
しかし、声が小さくて上手く聞き取れなかった。
「ごめんね、もう一回言ってもらえる?」
申し訳なく思いながらも聞き返すと、彼は再びこちらを向いてくれた。
そして一言だけ呟く。
「帰って」
声変わりする前の可愛い少年の声で、そんなことを言われた。
……どうしよう、泣きたい。
いわゆる反抗期というやつだろうか。
可愛いお口からこんなに可愛くない言葉が飛び出してくるなんて思いもしなかった。
「ごめんね。でもちょっとお話を聞いてくれると――」
「ていうか誰? なんで勝手に入ってきてるの?」
今度は最後まで言わせてすらもえなかった。
……この子はあれだ、世間一般でいう礼儀知らずのクソガキだ。
事情があるとはいえ、勝手に侵入している私も私で礼儀知らずだから文句は言えないけれど。
「突然おしかけてごめんね。私は佐々木こころだよ」
内心傷つきながらも名乗ってみた。
クラス替えで自己紹介をするとき、必ずと言っていいほど噛んでしまう私としては百点満点をつけたいほど流暢な自己紹介だ。
けれど彼にとってはこの上なく不出来な自己紹介だったらしく、
「いいから帰って」
眉をひそめながら、あからさまに嫌そうな目を向けてくる。
そんな目で見つめられてしまっては本当に帰りたくなってしまう。来て早々心が折れてしまいそう。
相性がいいから大丈夫なんて言ったのは誰だ。大嘘つきめ!
でもここで挫けてはいけない。
割と、いやとてつもなく泣きたい気分だけど、今は我慢だ。
「とりあえずお話を聞いてほしいなぁ」
「僕忙しいから」
再び机に向き直る彼。
我慢しようと誓ったばかりだけど、我慢できる気がしなかった。
こうなったら強硬手段だ。
まずは何としてでも話を聞いてもらう必要がある。
私は彼の傍に駆け寄り、手を伸ばす。
接近する私に気がついた彼は咄嗟にこちらへ振り返る。その反応はむしろ好都合だ。
私は手を引くことなく、彼の胸に向けて伸ばす。
もちろん、触れないことはわかっている。
私の手は彼の胸をすり抜け、机の縁に当たる。はたから見れば彼の胸を貫通しているように見えるだろう。
でも、それでいい。
彼はすり抜けた腕を見て目を丸めた。信じられないものを見ているといった表情だ。
それもそのはず。私だって最初は何が起きたかわからなかったのだから。
「話、聞いてもらえるかな?」
努めて優しく、言い聞かせるように同意を求めた。
体がすり抜けるとあってはただごとではない。話のひとつくらいは聞いてくれると思う。
彼からの反応はない。完全に言葉を失っている。しかし放心状態というわけでもなく、ただただ戸惑っているといった感じだった。
やがて、私の腕と私の顔を交互に見て、彼はようやく首を縦に振ってくれた。
それを確認してから、私はここに至るまでの過程を大まかに話した。
といっても、説明したと言えば精々車に轢かれて幽霊同然になったということだけ。
不登校児――つまり、目の前の彼を救わなければ体に戻れないという部分は当然隠した。
体に戻るために人助けをする偽善者だと誤解されかねないし、そもそも神様の使いの存在を信じてもらえるかも怪しい。
最悪の場合、胡散臭い幽霊と思われる可能性すらある。
だから、私がここに居る理由はただ迷い込んだだけということにしておく。
事故にあって、魂だけになって、焦って走り回っているうちにここに迷い込んだ。そういう設定。
ひとしきり説明が終わると、彼は疑うような視線をこちらに向けてきた。
「それっておかしくない?」
そう言って、私の目をじっと見つめてきた。
思わず心臓が跳びはねそうになる。
大きくて澄んだ黒い瞳がじっと私の瞳を覗き込み、まるで全てを見透かされているような気分になる。
「お、おかしいって?」
まずい、動揺を隠せない。思いっきり声が震えてしまった。
その反応を見て、彼はますます疑うような瞳をこちらへ向けてくる。
「体をすり抜けるのはさっき見たから信じる。事故にあったのも魂だけになって焦ったのも本当だと思う。でも、どうしてここに迷い込んだの? 誰にも気付かれないのが怖くて逃げるように走っていたのなら、人がいる可能性のある民家には入らないよね」
……どうしよう、その通りすぎて何も言い返せない。
言われてみれば矛盾だらけじゃないか。自分のバカさ加減に呆れてしまう。だって他に思いつかなかったんだもの。
猫ちゃんみたいに何かの神様とか、その使いを名乗ろうにも制服姿だし。一瞬で女子高生だとバレてしまう。
「ほら、何となくというか……ピンときたというか……」
「何となくここを思いついて、何となく侵入して、何となく僕の部屋に入って、そしたらたまたま僕にだけ君の姿が見えた。そう言いたいの?」
うわぁ、要約されるともの凄く不自然だ。そりゃあ疑われるわけだ。
正直、中学生だから誤魔化せるだろうといった油断はあった。
でもまさか、ここまであっさり見抜かれてしまうとは思いもしなかった。
この子は賢い。
顔も整っているし、きっと勉強だってできると思う。
女の子にもモテるだろうし、こんな子が不登校なのはちょっと意外だ。
「……聞いてる?」
黙り込んで彼を観察していると、不満そうに首をかしげてきた。
呑気なことを言っている場合ではないのだけど、ちょっと可愛い。
「き、聞いてるよ? 不思議だねー、まさか何となく入った家に私が見える人がいるなんてー」
こうなったらもうこの設定をつき通すしかない。
ただでさえ怪しまれているのに、嘘でしたと言ってしまえば本当に追い出されかねない。
とにかく今はどんな形であれこの子とコミュニケーションをとるのが先決だ。
「ふーん……」
彼はなおも疑う素振りを見せる。
落ち着け私。ポーカーフェイスを崩しちゃいけない。
何秒か無言のまま顔を見合わせた後、彼はひと際大きく息をついた。
そして、
「まぁ、正直どうでもいいんだけどね」
そう言って彼は肩の力を抜いた。
釣られるようにして私も肩の力を抜く。
……助かった。
押し通すと言ったものの、このままつっこまれ続けたらいつかは必ずボロが出る。彼が粘着質な性格じゃなくてよかった。
それよりも、大事なのはこの先だ。
「それで、これからどうするの?」
彼がそんなことを訊いてきた。
今度は訝しげな態度ではなく、純粋な興味の色が見える質問だった。
この子を救う私としては、ここで言うべき答えは決まっている。
おそらく、いや、確実に嫌がられる。でも言うしかない。
「他に私のこと見える人いないし、迷惑じゃなければしばらくここに居たいなーって」
「うん、迷惑」
とてもつらい。
ここまでストレートに拒否されるとさすがにへこむ。
しかし今はそんなことを言っている場合ではない。
どうにかして納得してもらわなきゃ。
稚拙でもいいから、とにかく策を考えよう。
よし、まずは彼の羞恥心を煽る作戦だ。
「そうだよね、迷惑だよね。えっちな本とか見れなくなっちゃうもんね」
「今すぐ帰って」
「ごめんなさい冗談です見捨てないでください」
……ダメだった。
えっちな本など無いと言われれば、すかさず「じゃあ私がいて何も困ることはないね!」と言ってつけ込む作戦だったのに。手ごわい。
でも私は諦めないよ。
次だ次。
「女の子と話すのが恥ずかしいのかな?」
「別に」
よしきた、ここまでは予想通りだ。
要領はさっきと同じで、
「じゃあ別に困ることはないよね!」
こう言って断る理由をなくしてしまう作戦。
即興で考えたにしては天才的な発想だと思う。
「いや、普通に考えて迷惑。いくら体がないからって初対面の人の家に何日も居座るとか図々しいと思わない?」
「凄く思いますごめんなさい」
ダメでした。
どうしよう、つけ入る隙が全くない。私の辞書に難攻不落の文字が追加されそうな勢い。
仕方ない、こうなったら最後の作戦だ。
「お願いですここに居させてください!」
私は、恥もプライドも捨てて綺麗な土下座を見せつけた。
両手をハの字にして床につき、頭だけでなく体全体を前に倒すようにして深々と頭を下げる。
そして相手からの返事がくるまでこの姿勢を保つのだ。
昔茶道で習った作法をこんな形で使うとは思わなかった。
「はぁ……。いくらなんでもそこまでする?」
明らかに呆れた声。
本当に、心の底から迷惑がっているんだと思う。
でも、私はまだこの子のことを何も知らないし、この子も私のことを何も知らない。
この子は苦しんでいる。そして、私はこの子を救うためにここにいる。
ならば諦めることはできない。
それに、この子を見捨ててしまえば私は彩月に合わせる顔がなくなってしまうのだから。
「だって、誰にも気付かれない人生なんて寂しすぎるよ」
頭を下げたまま、顔も見ずにそう言った。
しばらくして、彼がぽつりとつぶやく。
「寂しい……か」
居つくことを許可するわけでも、否定するわけでもなく、何かを考えるように言って、彼は再び黙り込んでしまった。
何十秒経っただろうか、それさえわからないほど長い時間が過ぎていた。
その間、私は何も言わず、じっと彼の返答を聞くべく耳を澄ます。
もう一度帰ってと言われるのだろうか。
迷惑だからと拒絶されてしまうのだろうか。
そんなことを考えながらも、私はじっと待ち続ける。
そして、
「石丸亮」
脚がしびれてきた頃、彼が呟いた。
「え?」
思わず顔を上げて聞き返す。
それが誰かの名前だというのはわかる。でも、どうしてこのタイミングで?
「名前。僕の」
彼は私から目を逸らしながら、バツが悪そうに言った。
それから、
「しばらくここに居るんでしょ。だから自己紹介」
そう付け加えて、彼はそそくさと机に向き直った。
「……居てもいいの?」
あまりに突然だったため、理解が追い付かない。
念のため、もう一度確認する。
「邪魔だったら追い出すから」
彼は単調に言って、また何かを書き始めた。
その後ろ姿を見てようやく状況を把握することができた。
どうやら私は、ここに居てもいいらしい。
途端に嬉しさがこみ上げてくる。
「ありがとう!」
私は後ろから彼に抱きつこうとした。
――が、触れないことをすっかり忘れていた。
私は彼の体をすり抜け、勢いよく顔から机に衝突した。
鈍い音とともに顔面に痛みが走る。
「早速邪魔なんだけど……」
「ご、ごめんね!」
慌てて机から離れる。
危ない危ない。いきなり追い出されるところだった。気をつけよう。
それにしても、どうやって仲良くなればいいのだろう。この子を救う以前に、円滑なコミュニケーションをとれなければ話にならない。
猫ちゃんは相性がいいから大丈夫と言っていたけれど、今のところそんな節は全くないし、どちらかと言えば悪いとさえ思える。
このままじゃいけない。
何か、少しでも仲が進展するような話題を振らなければ。
「ねぇ、亮くんって呼んでもいい?」
「好きにすれば」
「私のことはこころって呼んでいいよ」
「嫌だ」
あっけなく会話が途切れた。
初対面の人と同じ空間にいて、なおかつ会話がないというのはとても気まずい。向こうはそんなこと思っていなさそうだけど。
「亮くんは何年生なの?」
「中二」
「そっかー、成長期だね」
「うん」
……どうしよう、全く会話が続かない。
亮くんはこちらへ振り返ることさえなく、淡々と何かを書き続けている。
あまりに適当な返事なものだから私の話をちゃんと聞いているのか不安になってしまう。
そういえば、さっきからずっと机と向き合っているけれど何を書いているんだろう。
「ねね、何書いてるの?」
会話も兼ねて、後ろから机を覗き込んだ。
「勝手に見ないで」
亮くんは咄嗟に紙を手で覆うが、成長途中の男の子の手では隠しきれず、いとも簡単に見ることができた。
しかし、見たと同時に胸の内に嫌な感覚が湧き上がってくる。
「おーすごい、漫画描いてるんだね」
口ではそんなことを言いながら、心の中はとても穏やかとは言えない状況だった。
漫画家という夢を諦め、ずっとそのコンプレックスを抱いてきた私にとって、目の前にあるそれはとても刺激が強い。
進むのを断念した道に今もなお人がいるのだと思うと、簡単に投げ出した自分がたまらなく情けなくなってくる。
もちろん、だからと言ってその道の人を妬んだりするつもりはない。
今でも漫画は好きだし、暇な時にはよく読んでいる。
ただ、もう自分で描く気にはなれないというだけ。
「見ないで」
亮くんは原稿用紙に敷いてあった緑の下敷きを抜き取り、原稿の上に被せる。
何で隠す必要があるんだろう。
一度は漫画を描いていたからこそわかる、この子は上手い。
子供にしては上手いだとか、中学生にしては上手いなんていう括りではなく、漫画業界の第一線に出しても活躍できるような、そんな上手さ。
「亮くんすっごく絵上手だね。漫画家さんなの?」
「違う」
「じゃあ漫画家さんになりたいの?」
「それも違う」
あ、違うんだ。
もったいない。こんなに上手いのなら絶対なれると思うのに。
そんなことを考えていると、亮くんは少しばかり照れ臭そうに続ける。
「なりたいんじゃなくて、なる。絶対に」
「おぉ……」
予想外の言葉につい息を漏らす。
「……なに? 悪い?」
私は慌てて首を横に振る。
悪くない、何も悪くない。
それどころか、かっこいいとさえ思う。
夢を夢のままで終わらせない。願ったからには必ず叶える。そんな決意が見てとれる言い方だったから。
「絵を描くの、好きなの?」
「……うん。僕にはもうこれしかないから」
一瞬、何かを躊躇したような表情を見せてから、力なくそう言った。
何故だろう、心なしか寂しそうにも見える。
好きだというのなら、どうしてそんな言い方をするのだろう。
亮くんの絵は十人が見れば十人ともが上手いと口を揃えるようなレベル。私がここに来るずっと前から努力していたのがひしひしと伝わってくる。
描えがかれたキャラクターの表情はとても活き活きとしていて、まるで魂でも宿っているような錯覚に陥る。あるいは本当に宿っているのかもしれない。
絵が好きでなければこうは描かけない。
だから含みのある言い方をした亮くんに少しだけ違和感を覚えた。
もしかしたら踏み込んでほしくない領域の話だったのかもしれない。
「凄いなぁ。いつから絵を描いてるの?」
一度話を振ってしまった手前、急に話を変えるのも申し訳ないので、深く踏み込みすぎないように注意しながら会話をしよう。
悩み事があるのならすぐにでも聞いてあげたい気持ちはあるけれど、それは私のエゴだ。私が彩月と疎遠になった原因がそれなのだから。
だから少しずつ心の距離を近づけて、いつか本人が話したくなった時に優しく聞いてあげるのが今は一番だと思う。
「絵を描き始めたのは幼稚園の頃。漫画家を目指し始めたのは小学校に入ってから」
それを聞いて納得した。
どうりで上手いわけだ。
それにしても、漫画の話を振った途端に口数が多くなったのは私の気のせいだろうか。
あまり踏み込まない方がいい話題だと思ったのだけど、意外とそうでもないらしい。
「ねえ、さっきの絵もう一回見せてよ!」
「やだよ。知り合って間もない人に絵を見せるのって何か恥ずかしいし」
「でも漫画家になったら顔も知らない大勢の人に絵を見せることになるんだよ? 私にも見せられないのに漫画家になれるのかなー?」
私が茶化すように言うと、亮くんはむっとした表情になった。
何も言い返せないのを悔しがるような、そんな表情。可愛い。
「ほら、早く早く!」
「わかった……。少しだけだよ」
亮くんが渋々と下敷きを退けると、私は食い入るように絵を眺めた。
少女漫画ばかりを描いていた私とは反対に、亮くんの絵はいかにも少年漫画といったものだった。
ローブを羽織った魔法使いが巨大な龍を討伐するシーン。
魔法を唱えるキャラの鬼気迫る表情が言葉では言い表せない緊張感を生み出していた。
「すっごい……! 亮くん天才だよ! 絶対漫画家になれるよ!」
「こ、これくらいは描けて当然だよ」
亮くんはさも当然のように言ってのけたが、私は彼の口の端が歪んでいるのを見逃さなかった。
これは褒められて嬉しいのを必死に隠している顔だ。
「亮くん口元がニヤついてるよ」
「ニヤついてないから。事故って目ん玉おかしくなったんじゃない?」
ムキになって張り合ってくる亮くんの態度は歳相応のそれで、私は密かに安堵した。妙に大人びていたものだから、こうして幼い一面を見ると可愛い弟ができたような気がして微笑ましくなる。
よかった、口は悪いけれど、根は素直な子みたいだ。
猫ちゃんの言った相性がいいという言葉の意味を少しだけ理解した。
この子となら、上手くやっていける気がする。
亮くんの家に来てから、初めての朝を迎えた。
同時に、私が幽霊同然の体になってから迎えた初めての朝でもある。
幽霊になった影響なのか、昨夜は一睡もすることができなかった。眠気さえ訪れない中、退屈を潰す術もなくずっと床で体育座りをしていた。
本棚には沢山の漫画があるというのにそれを手に取ることすらできないもどかしさ。物に触れないというのはこれほどまでに不便なのかと実感した夜だった。
時折こっそりベッドに近づいては眠っている亮くんの顔を眺めていたりもしたけれど、美少年の寝顔ですら私の退屈は誤魔化せなかった。
眠くなることもなければ空腹感に襲われることもない。
それだけ聞くと便利なように感じられるけれど、実際は苦痛でしかなかった。
亮くんを起こさないようにじっとしていたせいで体も凝るし、何か対策を練らなくては。
朝から元気な蝉の声を聴きながら、私は凝り固まった体をほぐすべく大きく伸びをした。
まだ部屋の電気は消えているけれど、黒いカーテン越しに差し込む朝日のおかげで十分に明るいと言える。いい朝だ。
欲を言えばカーテンを全開にして朝日を一身に浴びたいのだけど、残念ながら今の私ではこの薄いカーテン一枚さえ開けることはできない。
唯一開けることのできる亮くんは未だ夢の中。これではどうしようもない。
仕方がないから、カーテンの僅かな隙間から朝日を浴びることにした。
隙間から見える空は雲ひとつない。晴天だ。海のような青空がひたすら続いている。
ふと単純な疑問がわいた。
ここ、どこだろう?
猫ちゃんに瞬間移動させられちゃったせいで、ここがどこなのかわからない。
昨日のうちに亮くんに訊いておくべきだったかな。
真っ青な空を眺めるだけでは答えは得られそうにない。
私は答えを求め、視線を空から地へ落とす。
亮くんの部屋は大きな一軒家の二階にあるらしく、下を眺めればそれなりに街を見渡すことができた。
大きな建物や広い道路があるわけでもなく、どこにでもある住宅地といった感じ。
遠くの方には大きな建物がいくつも見える。
目を凝らしてみれば、私が住んでいる地域に建っている工場の看板が見える。どうやらあまり遠くはないみたい。一駅か二駅くらいの距離だろう。
別に近くても遠くてもいいんだけどね。ただ地元が近いと何となく安心感があるというだけの話で。
さて、現在地の確認が意外にもあっさり済んでしまったことでまた暇を持て余すことになった。
物には触れないから漫画も小説も読めないし、テレビだってつけられない。
だからと言って亮くんを起こすのも申し訳ない。
私にできることといえば、このカーテンの隙間から外を眺めるだけ。
でも、それじゃあ退屈はつぶせない。
私に小学生や中学が登校する様子を延々と眺め続けるような変態的な趣味でもあればまた違ったのだけど、残念ながらそんな趣味はない。
外では制服姿の小中学生たちが鞄を持って行進している一方、亮くんはというと、今でもぐっすりと寝息をたてている。
目覚ましすらかけていないのを見るに、登校する気は欠片もないらしい。
改めて実感する。本当に、この子は不登校なんだと。
あらかじめ猫ちゃんから聞いてはいたけれど、いざ学校を休む様子を見ると微妙な気持ちになる。行かなくてもいいのかなと思う反面、無理して行ってほしくないといったような、そんな複雑な気持ち。
それから、亮くんが目覚めるまで私はずっと窓の外を眺めていた。
とくに何かを考えるわけでもなく、道行く中高生を目で追うだけ。
時計の短針が完全に左を向いた頃には、中学生だけでなく、高校生の姿も見当たらなくなる。
亮くんが目を覚ましたのはその頃だった。
「あ、起きた?」
「ん……」
返事と呼べるか微妙な声を漏らし、亮くんはベッドから身を起こす。
まだ少し眠そうだ。
目をこすり、あちこちに跳ねた髪を手櫛で整える姿は毛繕いをする猫の姿を思わせてとても可愛らしい。
ずっと暇だったせいで、ただ亮くんが目を覚ましただけでもテンションが上がる。
それにしてもよく寝る子だ。
昨日は夜の十時頃にはもう寝ていた気がするから、十一時間くらいは眠っていた計算になる。
「まだ九時か」
「もう、じゃないの?」
「まだ、だよ。いつもは昼まで寝てるから」
凄まじい……。
成長期にそれだけ眠っていたら将来すごく高身長になりそう。
私もそれなりに寝る方だけど、それでも身長は百六十センチぴったり。
現段階で既に亮くんは私と同じくらいの身長だから、これからもっとたくましくなるに違いない。
「また寝るの?」
「寝ないよ。というか、つっこまないんだ」
「何を?」
「学校行ってないこと」
そりゃあ不登校なの知ってるからね。
ただ、この子には偶然迷い込んだって説明しちゃったから猫ちゃんから聞かされているってことは黙っておかないと。
しかし、そうなると何と答えればいいのか判断に迷う。
「私も今学校行けてないからねー」
あんまり答えになっていないけど、そう答えた。私が学校に行けていないことと、この子が学校に行っていないことは無関係だもの。
「……まぁいいや」
亮くんは一瞬だけ何かを言いたげな表情になっていたけれど、諦めてくれた。
私が微妙にずれた返事をしたことに気付いていたんだと思う。
追及を避けたのは寝起きで面倒だったのと、単にどうでもよかったからだろう。何はともあれ助かった。
学校行ってませんよ、不登校ですよ、って部分を前面に出されると反応に困ってしまうからね。
逆に、そこでこちらから質問をすればどうして亮くんが不登校なのかを知ることができるかもしれないけど、そんな度胸はない。
彩月との一件以来、どうしても人間関係では慎重になってしまう。
とはいえ、今はそれでいいとさえ思う。
きっとこれはデリケートな問題。下手に踏み込めば取り返しのつかないことになるのは目に見えている。
だから今は、亮くんとの日常を全力で楽しもう。
「今日は何するの?」
「そろそろトーンがきれそうだし、買い物にでも行こうかと思ってる」
学校には行かなくても外出はするんだ。いやまあ、いいことではあるんだけどね。少なくとも、引きこもっているよりかはずっといい。
「私も付いていっていい?」
「……いいけど、外ではあんまり話しかけないで。独り言喋ってる奴だと思われたくないから」
「わかった!」
「じゃあ準備してくるからここで待ってて」
そう言って、亮くんは部屋を出た。
亮くんはあまり私を部屋から出したがらない。
昨日も、亮くんが晩御飯を食べる時や、お風呂に入る時には「ここで待ってて」と言われた。
私の姿は亮くん以外には見えないし、声も聞こえない。だから私がこの部屋を出たところで問題はないはずなのに。
それでも、私が何気なく部屋のドアに近寄ると警戒したようなそぶりをみせる。
あからさまに、私がこの部屋を離れるのを嫌がっているのだ。
意図はわからないけれど、亮くんが嫌がる以上は無理に出ることはしたくない。そもそも自分では扉さえ開けられないのだけど。
亮くんが部屋に戻ってきたのは準備を始めてからちょうど五分後だった。
先ほどまでは手櫛で雑に寝かしつけられていた髪の毛はしっかりと整えられていた。逆に言えばそれだけなのだけど、それでもモデル並の美しさだ。
服装だって黒のズボンに白のシャツという非常にシンプルな組み合わせなのに、放たれる雰囲気はとてもお洒落だ。
元がいいから何を着ても似合うのだろう。心底羨ましい。
「早くして」
見惚れる私を急かし、亮くんはそそくさと階段を降りていく。
この部屋を出るのは初めてだ。
もしかしたら私を部屋から出したがらない理由が見つかるかもしれない。
申し訳なく思いながらも、私はあたりを見回した。
しかし、特に変わった物は見つけられなかった。
何かあるのではないかと疑っていたためか、あまりにも普通の光景に若干戸惑ってしまう。
二階は亮くんの部屋を含めて三つの部屋がある。亮くんの部屋が一番端にあり、廊下を歩いて二つの部屋の前を通り過ぎれば一階へ続く階段だ。
階段を下ると、すぐ左手側に玄関が見えた。右側に顔を向けると、長い廊下とこれまた幾つもの部屋がある。相当大きい家だ。
お父さんかお母さんの姿でも見えないものかと一階を見回す。けれど、人の気配はなかった。
代わりに、お父さんの趣味と思わしき野球のポスターが廊下の壁に大きく飾られていた。
結局、二階にも一階にもこれといったものはなかった。
「亮くんのお父さんってどんな仕事している人なの?」
炎天下の中、私は語りかける。
けれど亮くんから返ってきたのは言葉ではなく、視線。極めて迷惑そうな視線だった。外だから話しかけるなということらしい。
亮くんは一言も喋らないまま淡々と住宅街を歩いていく。
少しくらい喋ってくれてもいいのに。
私の姿が見えるのは亮くんだけ。だから外で話すと周囲の目には亮くんがひとりで喋っているようにしか見えない。それはわかっている。
でも、今は十時過ぎ。学生も社会人もみんな外にはいない時間帯だ。周囲に人の気配はないし、私を無視する必要はない気がする。
なので、ひたすら話しかける。
それでもやはり返事はしてくれなかった。それどころか、途中からは迷惑そうな視線すら向けてくれなくなった。
人の多い場所では無視されると予想はしていたものの、まさか人気のない道でさえ会話してもらえないとは……。
「ちょっとくらい話してくれないと寂しくて泣いちゃうよー」
なんてことを言っても無駄だろうなと思いながらも、言ってみた。
この子が無愛想だなんて承知の上だし、今更泣くようなことでもないんだけどね。
「……はぁ、面倒くさい人だなぁ」
「あ、お話してくれるの?」
亮くんは街中の酸素が全て吸われてしまうのではないかというほど深く息を吸って、そのまま深くため息をついた。
「いいけど、駅につくまでだから」
「やった!」
昨日といい今といい、どうやらこの子はしつこく言うと折れてくれるらしい。
何はともあれこれでお話ができる。といっても特に話したいことがあるわけではないのだけど。
しかしせっかくの機会を無駄にするわけにはいかないので、色々と訊いてみよう。
「亮くんは彼女いたこととかないの?」
「ない」
即答された。それも、恋愛には欠片も興味がありませんといったような、無関心な物言いだった。
「モテそうなのになぁ。告白されたことは?」
「あるけど、興味ないから振った」
「ドライだねぇ」
ちくしょう、なんて羨ましい子だ。興味がないから振るなんて恋人が欲しい人間からすれば贅沢すぎる選択だよ。
私なんて告白されたことはおろか、ろくに男友達すらいないというのに。
まあ、別に恋人とか男友達が欲しいってわけでもないんだけどね。
「そろそろ黙って」
亮くんは目線を前に向けながら言う。
釣られて見てみると、既に駅が見えていた。
平日の昼前ということもあって人の出入りは少ない。けれど全くいないわけでもない。
このまま話をすればすれ違う人たちから冷たい目線を送られることだろう、亮くんが。
それは可哀想なので言われた通り大人しくしておく。元から静かにするのを条件についてきたわけだし。
駅につき、券売機にお金を入れると亮くんは二人分の切符を購入した。
「二人分……?」
静かにしろと言われたものの、つい口に出してしまった。
確かに電車に乗るのは私と亮くんの二人。買った切符の枚数も二人分。計算としては合っているのだけど、今の私は幽霊のような状態だ。態々買う必要はない気がする。
亮くんは周囲に人がいないことを確認すると、小声でささやく。
「何かずるい気がするから、払う」
……感心した。というより、感動した。
なんていい子なんだろう。改札を素通りする気満々だった私とは大違い。
薄々思ってはいたけど、今確信を持てた。この子は真面目な性格だ。
口は悪いし態度は冷たい。でも、根底にあるのは優しさだ。
散々辛辣な態度を取られた割に平然としていられるのは、亮くんのそういった面を無意識に感じ取っていたからなのかもしれない。
「ごめんね、ありがとう。元の体に戻ったらちゃんと返すね」
「いいよこのくらい。電車来ちゃうから早く行こう」
「あ、うん」
若干急ぎ足で改札を抜ける亮くんの後を追い、私も改札を抜ける。
目的地はすぐ隣の駅。
時間にして五分か六分ほど揺られると、すぐに到着した。
亮くんが住んでいる地域は住宅地ということもあって、会社のビルや工場はほとんどない。
しかし一駅電車に揺られるだけでその景色は全くの別物になる。
私たちが今いるのは、高層ビルが立ち並ぶ都会の街。
巨大な建物を見上げる首が痛くなりそう。
「えっと、トーン買うんだっけ?」
「そう」
漫画を描く人間が言うトーンとは、大抵はスクリーントーンのことを指す。
絵の影になる部分や、髪の毛に貼ったりする網点状のシールのようなもの。
それを買うということは、行き先は文房具屋だろうか。
――数分後。
「こ、ここは……!」
私は、大量のアニメグッズが陳列する棚の前にいた。
文房具屋? なんのことやら。
ここはアニメ専門店「アニメイツ」。パッと見たところ、アニメの原作や同人誌など、アニメ関連のグッズが幅広く取り揃えられている。
果たしてこんなところにトーンが売っているのだろうか。
間違えてこのお店に来てしまったのかと亮くんを見やる。しかし、その足取りに迷いはなかった。
私も昔漫画家を目指そうとしただけあって、アニメや漫画は好きだ。でもこういったお店にくるのは初めてだったりする。
「トーン買うんじゃなかったの?」
「うん」
周りに人がいるせいか「うん」とか「そう」としか答えてくれない。
適当に相槌を打っているだけのようにも聞こえるから少し不安だ。
ふと亮くんが足を止めた。後ろをついていた私はぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。といっても、ぶつかることはないんだけど。
そんな私をよそに、亮くんは腰をかがめて棚を眺めていた。
見てみると、大量の文房具が商品棚に敷き詰められていた。
スケッチブックからコピック、果てはデッサン人形まで、絵にまつわるグッズがこれでもかと並べられている。
アニメや漫画のグッズが置いてある店としか思っていなかったから、少し驚いた。漫画グッズだけでなく、漫画を描くグッズまで取り揃えているとは恐れいった。
「あった?」
「あった」
半透明の黒い引き出しから何枚かトーンを取り出し、亮くんはレジへ向かった。選ぶ手つきに迷いがなかったあたり、何度もここで買い物をしていることがわかる。
せっかくだから亮くんがお会計を済ませるまでの間に店内を探検してこよう。
アニメ主題歌が収録されたCDやコスプレグッズ、果ては男の子同士が恋愛する漫画まで取り揃えられている。本当にアニメ関連のグッズなら何でも揃ってしまいそう。
ちょっと楽しいかもしれない。体に戻れたらお買い物をしに来てみよう。
でもこういうお店に一人で来るのは何だか気が引ける。
亮くんを誘っても絶対来てくれないだろうし、アニメに興味がある知り合いがいるわけでもない。
「買った」
そんなことを考えていると、突然背後から声をかけられた。
「うわ、びっくりした」
振り返ってみると、トーンの入った袋を持つ亮くんが立っていた。
気配もなく話しかけてくるのだから心臓に悪い。
「もういいの? 他に買うものとかないの?」
「ない」
きっぱりしてるなぁ。
そういえば、男の子は買うものを決めているからすぐにお買い物が終わるという話を聞いたことがある。私なんていつもふらふらと店内をさまようというのに。
お店から出ると、物凄い人混みにのまれる。
来るときもそうだったけれど、都会というのは本当に人が多い。密度が高すぎるせいで避けようとしても人をすり抜けてしまう。
例えすり抜けたとしても痛くも痒くもないのだけど、なんか嫌だ。
それに、こうも人が多いと亮くんが全く返事をしてくれなくなる。
会話はない。しかし足取りを見るに目的地は駅なのだと推測できた。もう帰るつもりらしい。
せっかく私の分まで余分にお金を払ってくれたというのに、一時間もしないうちに帰るなんてもったいない。
それに、私は亮くんともっと仲良くなりたい。
幸いこの街は色んなお店があるし、交流を深めるにはうってつけだ。
「ねぇ、亮くん。せっかくだから寄り道しない?」
……案の定、亮くんは無言だ。ひたすら人混みをかきわけ駅へと歩いていく。
このままでは帰る羽目になってしまう。それは何としても避けたい。
「お願い! どうしてもまだどこかで遊びたいの!」
「このまま帰るなんてもったいないよー!」
「遊ぼう! ねぇ! 遊ぼう!」
そんなことを何度も繰り返した。
すると、
「……はぁ」
軽いため息をひとつ。
それから亮くんはくるりと方向を変え、近くの大型ショッピングセンターに入っていった。やった、折れてくれた。
「ありがとう!」
ショッピングセンターの入口で、私は子供のように跳びはねた。
「それで、何するの」
ショッピングセンター内は外よりも比較的人が少なく、話してもいいと判断したのだろう、ようやく亮くんが口を開いてくれた。
「えっとね……」
私は深く考え込む。
しつこく誘ったのはいいものの、その実頭の中は空っぽだった。
私は自分で思っている以上に後先考えずに突っ走ってしまうタイプらしい。
こんな風に進路も決めちゃえればいいのに。それができないのだから人生は難しい。
それはそうと、本当に何をするんだろう。提案した張本人でさえ困ってしまう。
洋服屋さんを見てみたいけど、亮くんは興味ないだろうし、きっと退屈させてしまう。
そもそも今の私じゃ試着すらできない。
ゲームセンターや飲食店に行ったところで私は見るだけしかできないし。
というか今の私は何をやっても見るだけしか――――って、あれ?
そうか、見るだけだ! 閃いた!
「映画なんてどうかな!?」
我ながら名案だ。
これなら私も亮くんも問題なく楽しめる。
デートみたいで少し気恥ずかしいけれど、見終わった後に映画の感想を語り合うというのは少し憧れでもある。
話が弾めば仲良くなれるかもしれないし、まさに一石二鳥。
お金は元の体に戻ったら必ず返そう。
しかし、
「うん、却下」
私の名案はいとも簡単にはじき返された。
「なんで!?」
「めんどくさいし、興味ない」
……ああ、すっかり忘れていた。この子はこういう子なんだった。
そもそもショッピングセンターに来てくれたこと自体が私にとっては奇跡みたいなものだし、少し調子に乗りすぎていたのかもしれない。
でもそれとこれとは別だ。
面倒くさいからダメというのならどうしてここに来たの! 理不尽だ!
「じゃあ何ならいいの?」
「さぁ」
……このクソガキめ。
根は真面目でいい子だと思った私が間抜けじゃないか。断固抗議だ。
「亮くんはさ、漫画家さんになるんだよね?」
「うん」
「漫画家に必要なものって何かわかる?」
「絵の上手さと物語の構成力」
「そうだね。それもあるけど、私は好奇心が大事だと思うなぁ。どんなことでも興味を持って経験して、それを自分の作品に活かすの」
「……う、うん」
私の話を聞いているうちに、段々と亮くんの表情が真面目なものになってくる。
思った通り、漫画のことになるとこの子はどこまでも真面目で、どこまでもストイックだ。
これならいける。
「全然人生経験のない人が描いたお話と、経験豊富な人が描いたお話なら、どっちが面白いと思う?」
「……経験豊富な方」
「そうだね。だから好奇心は大事だよ。あれ? でも亮くんはどうなのかなぁ。面倒くさいからって映画を観たくないなんて言っているけど、それで漫画家になれるのかなぁ?」
わざとらしく煽るように言ってみせて、ちらっと亮くんの顔を見やる。
……どうやら私が思っていた以上に効果があったらしい。いつも無表情で淡々としている亮くんの顔に焦りが見える。
「わかったよ……。映画観に行こう」
「やった!」
この子の純粋さを利用するようで申し訳ない。でも私が言ったことも的外れではないと思うから許してほしい。
実際、私が漫画家を目指していたころは周囲の人からよくそんなことを言われたし、何事も経験というのは今でも何となく信じている。
「亮くんはどんな映画が観たい?」
「お任せする」
「そっかー、じゃあ恋愛ものとかどう? 亮くん普段そういうの観ないでしょ?」
「うん。じゃあそれで」
意外にも素直だ。よっぽど漫画家になりたいらしい。
賢いし、妙に大人びているけれど、時折見せる子供な一面は本当に可愛らしい。なんだかんだ子供なんだなと思うと悪態も許してしまえる。
でも、夢があるという点に関して言えば、私よりはるかに大人だとも思う。
進路さえ決められず、ずっと行き当たりばったりの生活を続けている私からしてみれば、夢に向かって一直線に進んでいく亮くんの姿はとても眩しい。
私も何かに夢中になれればいいのに。
そんなことをもう何年も考え続けた。
漫画家という夢を捨てずに今でも絵を描き続けていれば、そんなことも考えた。
そしてそのたびに、現実の自分が惨めに思えてくる。
だから、まっすぐ進む亮くんを見ると少しばかり胸が痛む。
私もこんな風になれたらいいのに。
「ほら、早く」
「あ、うん! ごめんね。やっぱり映画も二人分買うの?」
「うん」
「ありがとう、ごめんね。体に戻ったら絶対返すから」
「だからお金のことはいいって。気にしないで」
やっぱり、この子は優しい。
クソガキかと思えば優しくて、大人かと思えば子供っぽい一面もあって、亮くんと話すのは新鮮なことだらけで飽きることがない。
それはそれとして、お金は必ず返すけどね。嫌がっても絶対押し付ける。
そんなことを考えながら、私は先導する亮くんの後を追う。
さすがは都会のショッピングセンターというべきか、一階には大きな映画館があった。私の近所のショッピングセンターにはそんなものないというのに。
都会は便利だ。人混みで疲れてしまうのが唯一の難点だけれど。
しかし、いくら都会とはいえ今は平日の昼間、さすがに映画を観に来るお客さんは少なかった。
タッチパネルでチケットを購入する際、空いている座席を確認する。
やはりというか、予想通りというか、私たち以外のお客さんはいなかった。
上映時間まであと十五分もない。
周りを見てもお客さんらしき人は見当たらないから、貸し切り状態だ。
チケットを購入し、係員さんに一番シアターへ案内される。
私たちが買った座席は前から三列目のど真ん中。
最前列だと必然的に画面を見上げることになり、首が痛くなる。だからといって最後列にしてしまえばせっかくの大画面が小さく感じてしまう。
だから前列から三番目という位置取りが私の中では最高の位置だ。
そんな席を取れた上、貸し切り状態。更に言えば亮くんと観る映画。
必然的に私のテンションは最高潮に達する。
しかしシアタールームに入って、私はすぐに困惑した。
映画館の椅子は座の部分が背もたれの部分に密着していて、座るためには一度手で引き下げなければいけない。
そのことをすっかり忘れていた。
今の私は椅子どころか紙きれ一枚すら動かせない状態。これでは座ろうにも座れない。
亮くんに一度下げてもらったとしても、亮くんが手を離した途端にすり抜けてしまう。
制止している物体に触れることはできても、その物体が動いてしまえば強制的にすり抜けてしまうのだ。
座が背もたれにくっついた状態で無理矢理座るのも手だけど、亮くんの前でそんな恥ずかしいことはしたくない。
「どうしよう……私座れない」
「本当に面倒な人だなぁ」
席に座ってメロンソーダを飲みながら、亮くんは呆れたように言う。
それから、私が座れるように座を引き下ろしてくれた。
「映画終わるまで抑えとくから、早く座って」
「でも……腕疲れない?」
「漫画家はずっと腕を使って描くから、持久力はある……と思う」
「……ありがと」
本当になんなのこの子……優しすぎる。
突然こんなことをされたのだから思わずどきっとしてしまった。
普段冷たいくせにこういう時は優しいって、狙ってやっているんじゃないかと勘繰りたくなる。
私は速まる鼓動を悟られないように、ゆっくり腰を降ろした。
それを確認すると、珍しく亮くんの方から口を開く。
「恋愛映画かぁ、楽しめる気がしない……」
「あはは、亮くん少年漫画の方が好きそうだもんね。バトル系の方がよかった?」
「いや、こっちでいいよ。少年漫画にも恋愛要素はあるし」
上映前の長いコマーシャルをぼんやりと眺めながら、雑談を交わす。
昨日と今日で、とりあえずわかったことは一つ。
漫画やアニメの話になると、亮くんは沢山話してくれるということ。
それも凄く楽しそうに、活き活きとして話すものだから、何だかこっちまで愉快な気分になってくる。
周りに人がいなくてよかった。
もし人がいたら、きっと亮くんは周囲の目を気にして椅子を下げることも、こうして話をしてくれることもなかっただろうから。
とはいえ、さすがに私も上映中に話をする気はない。映画館で映画を観る時は静かに没頭するのがマナーであり、私のモットーでもある。
長いコマーシャルが終わると今度は上映前の注意事項が流れる。
頭がカメラになっているスーツ姿の男と、同じく頭がパトライトになっている男が独特な動きで映画の盗撮・盗聴を警告する。映画館ではお馴染みの映像だ。
それが終わるといよいよ本編が開始する。
結論から言うと、映画の出来は素晴らしかった。
絶対に結ばれないはずの二人が様々な困難を乗り越え、ついに結ばれるという結末には思わず涙してしまった。
「面白かったね」
「うん、面白かった」
あまりのクオリティに、楽しめる気がしないと言っていた亮くんも圧倒されたらしく、素直に映画の出来を褒めている。
てっきり意地を張って「普通だった」と言うと思っていたから、こんなに素直な反応をされると私が作者というわけでもないのに嬉しくなってくる。
この二日でわかったことがもう一つある。
この子は嘘をつかない。
面倒なら面倒だと言うし、面白いなら面白いと言う。
良くも悪くも素直なのだ。
裏を返せば私のことは本気で面倒くさがっていることになるから、そこは悲しいけれど。
それでも今は、よく喋ってくれる。
どのシーンがよかったとか、役者さんの演技力が凄いとか、そんな話を自分から進んでしてくれている。
普段は無口なだけに、それがとても特別なことのように感じられて、胸が温かくなる。
ショッピングセンターを出て、電車を降りるまでの間は話をしてくれなくなったけれど、それでも私は満ち足りていた。
亮くんと仲良くなりたいという想い。それが少しだけ叶えられたような気がした。
些細なことではある。でも、私にとっては大きな進歩だった。
「今度お出かけする時、また連れて行ってね」
改札を抜けた後、周りに人がいないのを確認してから私はそう言った。
「うん」
相変わらず短い返答。
けれど悪い気はしなかった。
小さく頷く亮くんはどことなく嬉しそうで、私のことを認めてくれているような気がしたから。