それでも僕らは夢を描く

「ありがとね、亮くん。なんだか救われた気がする」

「別にお礼なんていらない。思ったことを言っただけだし」

「あはは、そうだね」

 相変わらず不愛想だ。
 いつも無表情だし、抑揚のよの字もないほど淡々とした口調。
 最初はその態度に緊張させられていたはずなのに、今となってはその冷たささえ温かく感じられる。他の誰の言葉よりも、深く安心できる。

「受賞するといいね」

「うん。もしダメでも諦めないから」

 亮くんの家のすぐ手前で、そんな話をする。
 締め切りは二日後、余裕は全くない。すぐにでも作業に取り掛かるべき時だ。
 猫ちゃんのおかげで、少しの間だけ手伝うことができる。
 今までは意見を出すくらいしか役に立てなかった私が初めて直接的な手助けを行えるのだ。
 私も亮くんもやる気に満ちている。
 反面教師になって背中を押すだけのつもりが、本当にいい気分転換になったのはラッキーだ。

「ただいま」

 鍵を挿しこみ、亮くんは扉を引く。
 それにしても大きな家だと思う。
 白を基調とした二階建ての一軒家。白は汚れが目立つ色なのに、驚くほど綺麗だ。まるで新品の白紙のよう。
 人工芝が敷かれた庭も大人数人でバーベキューができるくらいには広い。
 きっと裕福な家庭なのだろう。
 亮くんのお母さんにもお父さんにも会ったことはないから、一体どんな人なのかとても気になる。
 そう思ったからなのか、あるいは単に偶然なのか、開かれた扉の先には亮くんの母親と思わしき女性が立っていた。
 亮くんの母親というだけあって、綺麗な人だ。どことなく亮くんに似ている。
 しかし、心なしかやつれているというか、どこか覇気のない印象を受ける。

「亮、どこに行っていたの」

 亮くんのお母さんは、感情のない声でそう言った。喋り方までそっくりだ。
 唯一亮くんと違うのは、その声質。
 かすれていた。
 完全にガサガサというほどではないにしても、とても見た目の麗しさとは似ても似つかない疲れきった声だった。

「ごめん。ちょっと気分転換に散歩してた」

「いいから早く入ってちょうだい」

「……うん」

 家に入り、ドアを閉めたのを確認すると、亮くんのお母さんは大きくため息をついた。それから、

「今朝も言ったけど、離婚することになったから。どっちについてくるか早いうちに決めてちょうだい」

 そう言って、奥の部屋に入っていった。
 瞬間、私の中で全てが繋がった。
 元々、確信が持てなかったというだけで予想自体はしていた。
 大きな物音、激しい怒鳴り声。
 それらが導く答えはそう多くない。
 亮くん自身の口から聞くよりも先に、図らずも答えを得てしまった。

「…………そっか、わかった」

 既に部屋に戻った母親に対してなのか、それとも自分自身を納得させるためなのか、玄関に立ち尽くしたまま亮くんは静かに頷いた。
 私は、何も言うことができなかった。
 部屋に戻ると、亮くんはすぐに机についた。
 確かに締め切りは近い。だから漫画を描くのはわかる。激励したのも私だ。でも、今は緊急事態ともいえる状況なのではないだろうか。
 それなのに、亮くんは随分と落ち着いているように見える。
 私の両親はとても仲が良くて、今でも休みの日には一緒に出掛けたりもしている。
 もしその二人がいがみあって、離婚するとなればきっと私は立ち直れない。
 子供にとって両親の不仲というのは、人生を左右しかねない大きな不幸だ。
 それなのに、どうしてそこまで淡々と作業できるのだろうか。

「亮くん、さっきの……。いいの……?」

 たかが一週間程度の付き合いである私が口出しする問題ではないことはわかっている。でも、聞かずにはいられなかった。

「うん、いい。前からわかりきっていたことだから。気にしてない」

 そう言って亮くんは原稿用紙にトーンを貼りつける。

「貼るところ、間違ってるよ」

 普段の亮くんなら絶対にしない凡ミス。
 私の指摘を受け、亮くんはすぐに貼ったトーンを剥がす。
 私は確信した。
 気にしていないなんて、嘘だ。
 だって、その手は震えているのだから。

「気にしてないって、嘘だよね」

 なるべく優しく言いつつも、そう尋ねる。
 亮くんは剥がしたトーンを力いっぱい握り潰した。
 そして、

「……嫌だ。別れてほしくない」

 力なく言って、俯いた。
 原稿用紙の上に、一粒、二粒と水滴が零れ落ちていく。
 胸が締め付けられるのを感じた。
 同時に、大きな使命感に駆られる。

 ――この子を、助けたい。

「ねえ、亮くん」

「……なに」

「今まで何があったのか、聞かせてほしいの。もちろん無理強いはしないよ。でも、少しだけでも楽になるかもしれない」

 話したくないのなら、私もこれ以上は踏み込めない。
 誰にだって話したくないことの一つや二つは必ずある。私だって、亮くんに話すのを躊躇したくらいなのだから。
 でも、それでも、私は話した。呆れられるかもしれない、軽蔑されるかもしれない。そんな不安を乗り越え、勇気を出して全てさらけ出した。
 そして、救われた。
 だから今度は私の番だ。この子が苦しんでいるのを放っておくなんて絶対にできない。

「……迷惑かけたくない」

「迷惑なんかじゃないよ。力になりたいの。だから、苦しい時は頼ってもいいんだよ」

 努めて優しく、生まれたばかりの雛を暖かく包み込むように、私は亮くんに声をかける。

「本当に……?」

「うん。本当に」

「……わかった」

 亮くんは震える手で涙を拭い、椅子から降りて私と向き合うように座る。
 そして腫れぼったく、充血した瞳でまっすぐ私を見つめて、

「全部、話すよ」

 覚悟を決めたように、そう言った。
僕は、ずっと寂しかった。
 目の前にいる幽霊のような少女――佐々木こころに対し、今からそんなことを語るのだと思うと、少しばかり気恥ずかしい。
 それでも、僕は話そうと思う。
 彼女が僕に話してくれたように、僕も勇気を出して自分をさらけ出す。

「全部、話すよ」

 とは言ったものの、何から言葉にしていいのかまるでわからない。
 漫画を描く時は次から次へと言葉が浮かんでくるというのに。
 きっと僕は人と話すことに慣れていないのだと思う。いまいち要点を抑えて説明できる気がしない。
 だから、一から十まで、全てを話す。

「最初は、普通だったんだ」

 そう言って僕は記憶を辿る。遠い過去の記憶。唯一僕が幸せだった頃の記憶を。
 本当に、最初は普通だった。
 お父さんがいて、お母さんがいて、休みの日には家族で遊園地に行ったり水族館に行ったりした。近場の公園でお父さんとキャッチボールをすることもあった。
 ある程度裕福だったおかげで、広い家に住めて、欲しい物はなんでも買ってもらえた。恵まれていたと思う。
 そんな僕が漫画家を目指すようにったきっかけは、公園で彼女が話してくれたのと同じように、褒められたからだった。
 幼稚園が終わりお母さんに手を引かれて帰る途中、僕はその日描いた絵を見せていた。
 お母さんはいつも笑いながら、

「亮は将来漫画家さんになるのね」

 なんて言っていた。
 お母さんは僕が描いた絵を見ていつも喜んでくれた。
 それが嬉しくて、もっと喜ばせたくて、僕はどんどん絵の世界にのめり込んでいく。
 お父さんに至っては額縁を買ってきて僕の絵をリビングに飾っていた。あれは今思い出しても大げさすぎると思う。
 でも、嬉しかった。
 仲のいい両親に愛されて、風邪を引けばお母さんが看病してくれる。たまに怒られたりもするけれど、僕は両親が大好きだった。

「俺たちは運命の出会いをしたんだ」

 それがお父さんの口癖だった。
 休みの日にキャッチボールをしていた時も、そんなことを聞かされた。

「もう何回も聞いたよー」

 聞き飽きた話に耳を抑えたくなりながらも、僕はお父さんのグローブめがけて球を投げる。
 ぱん、とボールがグローブに収まる心地いい音が響き渡ると、耳を抑えなくてよかったなと思い直した。
 お母さんもお父さんも、結婚する前から苗字が同じだったらしい。
 石丸涼子と、石丸涼平。
 中学一年生の頃に出会い、ただ名前が似ているというだけで話すようになった二人。お父さんはそれを運命なんて言っているのだから大げさだ。
 僕の絵を飾った時といい、お父さんはどことなく豪快なイメージがある。
 お母さんもお母さんで、そんなお父さんとの出会いをどこか神聖視している節がある。似たもの同士というか、夫婦揃ってお気楽だった。
 でも、運命だと言うだけあって二人は本当に仲が良かった。
 どんな時も笑いあいながら、僕も交えてみんなで食卓を囲う日々。
 僕は家族が大好きだったし、お父さんもお母さんも僕を愛してくれていた。
 だから、ずっとそんな生活が続くのだと思っていた。



 幸せの終わりは、あまりにも突然のことだった。
 忘れもしない。それは僕が小学校に入ってすぐのこと。
 父が、肺癌で倒れたのだ。
 目の前で血を吐いて倒れるお父さんを、お母さんが泣き叫びながら抱き起こしていたのを今でも鮮明に覚えている。
 お父さんはすぐに入院した。
 それまで賑やかだった石丸家は、あっという間に静まり返った。
 幼かった僕は、癌という病気は絶対に治らないもので、一度かかってしまったら死んでしまうものだと思っていた。
 お父さんが死ぬなんて嫌だ。そんなことを考えて毎日のように泣いていた。
 けれど、不幸中の幸いだったのは、父の癌は病状の割にどこにも転移していなかったこと。
 手術をすれば助かる見込みは十分にある。
 僕もお母さんも、お父さんのことが大好きで、お父さんがいなくなるなんて考えたくもなかった。
 当然、お父さんは手術を受けることになった。
 結果は大成功。僕もお母さんも大喜びして、心の底から安堵した。
 お父さんも、

「お祝いに今度旅行に行こう」

 なんて言って嬉しそうに笑っていた。
 よかった、これでまた幸せな生活を送れるんだ。当時の僕はそんなことを考えていたと思う。
 僕は知らなかった。本当につらいのはそこからだということを。
 闘病中に失った体力と、社会的信用はそう簡単には戻らない。
 退院してすぐに、お父さんは今までの遅れを取り戻すために休日を返上してまで会社に通い詰めるようになった。

「無理する必要はないんじゃない?」

「自分の体が第一だよ」

 毎日のように、お母さんはそんなことを言っていた。
 しかしお父さんが会社を休むことはなかった。きっと僕たちに苦労をかけまいと意地になっていたのだろう。
 無理をし続け、日に日に痩せていくお父さんの姿を僕たちは不安げな眼差しで眺めることしかできなかった。
 やがて、仕事のストレスが限界に達したお父さんは、煙草を吸い始めるようになった。
 軽く嗜む程度だったお酒も自然と量と頻度が増え、いつしかお父さんは家にいる間は常にお酒を飲むようになっていた。
 会社の愚痴を言いながら酒をあおり、酔いつぶれる。
 目が覚めたかと思えば大声を出しながら家中を歩き回り、壁に穴をあけ、訳もわからずお母さんを殴る。
 そうして暴れるだけ暴れた後は寝室で泥のように眠るのだ。
 ショックだった。
 優しくて、それでいて豪快だったお父さんは、全くの別人に変わってしまった。
 運命の出会いをしたのだと、愛おしそうな眼差しを向けていた相手を躊躇なく殴り倒し、悪びれもせず自宅と会社を往復する毎日。

「パパ……落ち着いて……」

 ある日、いつものように暴れる父を僕は制止した。
 日に日に痣が増えていくお母さんを見ていられなくなったのだ。
 酔いが醒めれば、お酒をやめてくれれば、きっと元のお父さんに戻ってくれる。それまでは僕がお母さんを守る。
 そんな決意を胸に、僕は父の前に立ち塞がった。
 子供の力では抑えられないし、怖かったけど、大丈夫だという確証はあった。
 お父さんはどれだけ酔っていても僕を殴ることはなかったのだから。
 身をていしてお母さんを守れば何とかなると思っていた。
 事実、その日は僕もお母さんも殴られることはなかった。
 ……代わりに、殴られていた方がずっとましだったと思わされることになる。

「クソガキが、邪魔しやがって。こんな下手くそな絵描いてる暇があったら酒買ってこい!」

 怒鳴りながら、お父さんは額縁を地面に叩きつける。
 割れたガラスが飛び散ると、お父さんは中に入っていた僕の絵を拾い上げた。
 そして、僕のすぐ目の前で、それを破り捨てた。
 ……それまで、心のどこかでまだ期待していた自分がいた。
 仕事が落ち着いて、お酒を飲む機会が減ればお父さんは元に戻るのだと。
 酔っているから暴れているだけで、本当のお父さんは僕たち家族のことを大切にしてくれるんだって。
 けれど、破り捨てられた絵を目の当たりにしたとき、僕は悟った。
 僕の知っている優しいお父さんは、もう我が家にはいないのだと。



 父が寝た後、散らかった家を僕とお母さんは暗い表情で片づける。
 ガラス片を箒で集め、壁に空いた穴はポスターを貼って誤魔化した。

「ごめんね亮。お母さんがもっとしっかりしてれば……」

「ううん、大丈夫。お父さんだって仕事が落ち着けばまた優しくなるよ」

 思ってもいないことを言いながら僕は笑顔を作る。
 本当はすぐにでも泣きだしたかった。
 破り捨てられた絵を見るたびに、使い物にならなくなった額縁を見るたびに、僕の心は苦しみで満たされていく。
 それでも涙は流さなかった。お母さんに心配をかけたくはなかったから。

「亮は優しいね、ありがとう」

 お母さんは傷だらけの腕で僕を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。
 その震える手に包まれたとき、僕は誓った。
 僕だけは絶対お父さんのようにはならない、と。
 そのためには手のかからない子にならなければいけない。
 少しでもお母さんの負担を減らすんだ。
 それからはもっと絵を描く頻度が増えた。
 絵を描けばお母さんが喜んでくれるし、お父さんに絵を破り捨てられたことを気にしていないというアピールにもなったから。
 当然気にしていないわけがなく、絵を描くたびにつらくなる。
 つらいはずなのに、それでも絵を嫌いにならなかったのはお母さんのおかげだ。
 喜んでくれるし、褒めてくれる。だから絵を描くのは好きだ。
 勉強も頑張った。算数は凄く苦手だったけど、毎日遅くまで勉強をして、テストでは毎回百点を取っていた。
 学校から帰り、満点の答案用紙とその日描いた絵を見せる。僕にとってそれだけがお母さんを元気付ける手段だった。

「亮は凄いね」

 褒められるのは嬉しかった。
 お母さんはまるで自分のことのように喜んでくれて、そのたびに優しく僕の頭を撫でてくれる。
 僕はそれが嬉しくて、ますます頑張るようになった。
 ……それが、お母さんが僕を気遣ってくれていただけとも知らずに。
ある日、学校から帰ると妙に家中が荒れていた。
 父が酒を飲んで暴れるのは日常茶飯事だから、家が荒れていること自体に違和感はない。でも、まだ父が帰ってきていない時間帯に荒れていたものだから思わず首を傾げた。

「昨日ちゃんと片づけたはずなんだけどなぁ」

 ランドセルを部屋に置き、僕は階段を降りてリビングに向かった。
 そこで、信じられないものを目にする。

「もう嫌!」

 リビングでは、お母さんが泣き叫びながらテレビや本棚を蹴飛ばしていた。
 お酒を飲んだ様子はない。そもそもお母さんはお酒を飲めない。
 ならば、どうして暴れるのだろう。
 僕は理解が追い付かないまま、必死になってお母さんに抱きついた。

「お母さん! どうしたの!」

「放っておいて!」

 お母さんは僕を突き飛ばし、テーブルの上に置かれていたカップを壁に投げつけた。カップが割れる甲高い音が部屋中に響き、僕はびくっとしてしまう。

「もう……我慢の限界なのよ!」

 息を荒げながら、お母さんは泣き言を発する。
 なんとかして元気を出してもらわなきゃいけない。
 僕は必至で頭を働かせた。
 とはいえ、僕がお母さんを元気づける手段などひとつしかない。

「そうだ! 今日もテストで満点とったんだよ! 絵もたくさん描いたよ!」

 部屋から答案用紙と絵が描かれた紙を持ってきて、お母さんに見せつける。
 満点をとるといつも喜んでくれるから、きっと今回も褒めてくれる。
 すぐに落ち着いて、優しく僕を撫でてくれる。
 そう思っていた。

「そんなのどうだっていいわよ!」

 しかし予想とは裏腹に、お母さんはいとも容易く僕の言葉をはねのけた。
 僕の手から答案用紙と絵を乱暴に奪い取り、それをくしゃくしゃに潰すと、お母さんはそれをゴミ箱に向けて勢いよく投げつけた。
 ……どうして、そんなことをするのだろう。
 お母さんはいつだって僕の絵を喜んでくれていたのに。テストだっていい点をとれば褒めてくれたのに。
 なのに、なのに。
 ゴミ箱の縁に当たり、丸まった僕の絵は虚しく床に転がる。
 それを見て、僕はやっと理解した。
 他でもない僕自身が、お母さんに負担をかけてしまっていたのだと。
 喜ばせているつもりだった。
 でも、違った。
 僕がやっていたのは「褒めなくてはいけない」という強迫観念を母に植え付ける行為だったのだ。

「ごめん……」

 くしゃくしゃになって転がるゴミをあるべき場所に放り込み、僕は部屋に戻る。そして、声を押し殺して涙を流した。
 その日以来、母が笑うことはなくなった。
 暴れた父の後始末をすることもなく、家事もせず、壊れて何も映らないテレビを一日中眺めるだけの人形になってしまった。
 こうして、幸せだった僕の家族はバラバラになった。
 それからの日々は、ただの地獄だった。
 暴れる父の後始末も、家事も、全部僕が一人でやった。
 新学期になると学校に提出する雑巾も一人で用意した。
 お母さんが壊れたのは、僕のせい。
 だから、お母さんの分まで僕が頑張らなくちゃいけない。徹底的に手のかからない子にならなければいけない。
 本当は、もっと甘えたかった。
 テストでいい点を取れば褒めてもらいたかったし、休みの日にはみんなで旅行にも行きたかった。
 絵を描けば「上手だね」って褒めてもらいたかった。
 授業参観にも来てほしかったし、運動会で一緒にお弁当を食べたかった。
 でも、ダメなんだ。
 僕はいい子でいなきゃいけない。
 わがままを言ってはいけない。
 だから、全部我慢した。
 中でも、授業参観の日は特につらかった。

「帰りにアイスクリーム買ってあげよっか」

「うん!」

 優しそうな親と会話をするクラスメイトの幸せそうな顔が凄く羨ましくて、気が狂いそうになる。

「石丸くんのお母さんは来ないの?」

 無邪気に尋ねてくるクラスメイトを適当にあしらって、僕は一人で家に帰る。
 お母さんはね、来ないんじゃなくて、来れないんだ。
 壊れてしまっているから。
 そんなこと、言えるわけがない。
 運動会の日だって同じだ。
 家族でお弁当を食べる子を見ながら、僕は体育館の陰でひとりぼっちでお弁当を食べた。
 一緒に食べないかと誘われることもあった。
 でも、できなかった。
 優しい家族に囲まれて幸せそうに笑う子を見ると、嫉妬で気が狂いそうになる。その渦中でご飯を食べる精神力なんて僕にはない。
 僕はただ、生きるだけ必死だった。
 僕だけはしっかりしなきゃいけない。
 僕だけは壊れてはいけない。
 僕だけは、僕だけは――――。
 そんな強迫的な思考にとりつかれたまま、苦痛だけが心の中に降り積もっていく。
 それでも、泣き言は言わなかった。
 どれだけつらくても、どれだけ苦しくても、足掻き続けた。
 絵だって、必死に描き続けた。
 父も母も僕の絵なんて喜んではくれない。
 それどころか、二人ともまるでゴミのようにそれを扱う。
 でも、今更絵を嫌いになんてなれなかった。
 絵を描いている間だけは、漫画を描いている間だけは、幸せな過去を思い出すことができる。
 大げさに飾るお父さん、嬉しそうに褒めてくれるお母さん。
 もう壊れてしまった大切な家族。
 そんな記憶に縋りつく唯一の手段が絵を描くという行為だった。
 たったそれだけを心の支えに、僕は小学校時代を過ごしていた。
 正直、淡い希望もあった。
 ゴミのように絵を捨てられた後も、もっと上手くなれば喜んでもらえるのではないかなどと考えていたのだ。
 現実から逃れるため、そしてもう一度褒めもらうため。それだけのために僕は漫画家を目指し始める。
 そんな僕は学校ではいつも一人だった。
 声をかけてくれる子がいなかったわけじゃない。
 心配してくれる大人がいなかったわけでもない。
 手を差し出してくれる人はいくらでもいた。
 ……でも、そういう人たちには決まって家族がいた。
 そういう人たちには笑顔を向けてくれる仲間がいた。

「大変だね、大丈夫?」
「つらいことがあったらいつでも言うんだぞ」
「何かあったら助けるよ」

 そんな言葉を聞くたびに、はらわたが煮えくり返りそうになる。
 ……お前たちに、お前たちなんかに、僕の何がわかるというんだ。
 優しい家族に囲まれて、普通に生きていれば普通に生活できるようなぬるま湯に浸かってきたくせに。
 そんな人間が僕を救う? 冗談じゃない。
 信じられるわけがない。
 だから、僕は差し伸べられた手を握ることは絶対にしなかった。
 幸せな人間に、僕の気持ちが理解できるとは到底思えなかったから。
 本当に寂しい時や悲しい時、どうしようもなく泣きたい時に、誰にも傍にいてもらえなかった僕の気持ちは、彼らにはわからない。
 思い返せば、ただの嫉妬だったんだろう。逆恨みもいいところだ。
 でも、それでも僕は、誰も信じることができなかった。
 ボロボロになった心を無理矢理支え、独りで生きていた。



 小学校を卒業し、中学校に入学しても、家庭環境が改善することはなかった。
 もう、限界だった。
 病は気からとはよく言ったもので、中学に入ってからは慢性的な頭痛に苦しめられていた。
 いつまでこの地獄が続くんだろう。
 いつまで苦しみ続ければいいんだろう。
 そんなことばかりを考えていた。いっそ両親を殺して自分も死んでしまおうかとさえ思った。
 中学校も、僕にとっては地獄のような場所だった。

「あ、あの。石丸くん……。よかったら、一緒に帰らない……?」

 学校に行けば、話したこともない女の子に誘われる。時にはいきなり告白されることもあった。
 周りの男子たちからは羨ましがられたりもしたけれど、当の僕自身はそれどころではなかった。
 毎日生きるだけで必死だというのに、恋愛などできるわけがない。
 迷惑を通りこして、目障りだった。
 長い間人とのコミュニケーションを取っていなかった僕に、もはや人を信じる気力はない。そんなものがあるのなら、とっくに誰かに助けを求めている。
 長い苦しみの末に、僕の心は幸福な者を無差別に憎むだけの化け物になっていた。

「二度と話しかけないで」

 だから僕は、彼女らを突き放す。
 毎日友達と群れて、楽しそうに笑う彼女たちが本当に嫌いだった。
 突き放された彼女たちはみんな、示し合わせたかのように泣き喚く。その光景さえ目障りだった。泣き叫ぶ母の姿を思い出してしまうから。

「石丸! どうしてそんなことを言うんだ! 謝れ!」

 僕を怒鳴りつける生徒指導の教員も嫌いだ。声を荒げて暴力を振るう父を思い出すから。
 家にも学校にも、僕の居場所はなかった。
 誰も僕を理解してくれない。
 でもそれは自業自得だ。
 差し伸べられた手を振り払ったのも、僕を求めてくれた人を突き放したのも、紛れもなく僕なのだから。
 たまに、自分で自分が分からなくなる時がある。
 僕は孤独で寂しくて、ずっと救いを求めているのに、いざ手を差し出されたら払いのけてしまう。嫌悪感を抱いてしまう。
 そんな自分がたまらなく嫌いだった。
 誰も信じられず、暖かい過去に縋るためだけに漫画を描き続ける日々。
 しかし、運命はそんな僅かな安らぎすらも奪い去っていく。
思い出すのは中学一年生の秋。
 夏の暑さが過ぎ去り、段々と涼しい風が吹き始めた頃だ。
 その日、僕は線路沿いの道を歩いて下校していた。
 腰ほどの高さしかないフェンス一枚で線路と通路を仕切られただけの長い一本道。
 歩いていると遠くから踏切の音が聴こえ、すぐに電車が通るのだとわかった。
 ――それは、本当に前触れもなく、唐突に訪れた不幸だった。
 電車が近づくと同時に、僕のすぐ前方に立っていた男性が、待っていたと言わんばかりにフェンスを乗り越えた。
 そして、線路の中央に立ち尽くす。
 一瞬の出来事だった。
 電車の急ブレーキが間に合うはずもなく、男の肢体は車輪と線路に巻き込まれ、バラバラに飛び散った。飛び込み自殺だ。
 黒板を爪で引っ掻いたような本能的に不快なブレーキ音はまるでその男性の死体が悲鳴をあげているみたいで、すぐに鳥肌が立った。
 ……見てしまった。
 腕が千切れ、頭がつぶれ、首が切断されるその瞬間を。
 僕ははっきりとこの目に焼きつけてしまった。
 そして千切れて飛んだ男の腕が、僕のすぐ横のフェンスに引っかかった。
 瞬間、堪えきれない吐き気が腹の底から湧き出てくる。
 僕はその場で胃の中の物を全て吐き出した。
 生きている人間が、一瞬でただの物体になる。
 その光景は、あまりにも刺激が強かった。
 限界の限界、ギリギリのところで辛うじて保たれていた僕の心は、どこの誰とも知らない男の自殺によって、あっけなく壊された。
 どうして、いつも僕なんだ。
 父が病気になって、おかしくなって、あっという間に僕の家族はバラバラになった。
 それでもいつかは報われると思って足掻き続けていたのに、どうして僕ばかりがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
 家族がバラバラになっただけでなく、運さえ僕を見放すのか。
 ずっと独りで頑張ってきた。なのに、なのに……。
 運命はどこまで僕をあざ笑えば気が済むのだろう。
 瞼の裏に焼き付いた男の死に様が、何度も繰り返し頭をよぎる。
 家に戻った僕は、荒れ果てたリビングに一瞥もくれず、まっすぐ自分の部屋にこもった。そして、誰にも聞かれないよう布団をかぶり、静かに涙をこぼす。
 もう、疲れた。
 着替えも宿題も何もせず、暴れる父の怒声を聴きながら、静かに眠りにつく。



 翌日から、僕は学校に行かなくなった。
 頑張るのが馬鹿らしくなったのだ。
 足掻き続けたところで、苦い汁をすするのはいつも僕なのだから。
 もう、何もかもを諦めていた。
 一日中部屋に閉じこもり、時間の許す限り眠り続けた。
 涙で枕がかびるほど涙を流し、多くの時間を溝に捨てた。
 漫画もすっかり手につかなくなった。
 僕は認めた。自分の境遇を、救いの無さを。
 現実逃避をやめ、家族にくだらない幻想を抱くのもやめよう。
 無力感と絶望感に支配され、腐っていく自分の精神を僕はぼうっと眺めていた。


 ――僅かな光が差し込んできたのは、ちょうどそんな時だった。
 幸か不幸か、僕が引きこもるようになってから、お父さんが酒に潰れる頻度が目に見えて減ってきたのだ。
 家事をやらなくなった僕の代わりに食事を作るようになり、

「今まですまなかった」

 という手紙と共に僕の部屋の前に食事を置いてくるようにさえなった。
 僕や母の様子を見て、ようやく自分が何をしでかしたのかを理解したらしい。
 今までずっと、五年以上も暴れ続けていたことに少なからず怒りはあった。
 五年という歳月は、自分のやった行為の愚かしさに気付くには長すぎる時間だ。
 お前のせいで僕の人生はめちゃくちゃになったんだと言って殴りたくもなった。
 でも、それ以上に、僕は嬉しかった。
 もう諦めていたというのに、優しい父が帰ってきたのだから。
 そして、帰ってきたのは父だけではなかった。

「亮……」

 ある日、部屋に閉じこもっているとノックと共に母が訪れてきた。
 その名前を呼ばれるのは、いや、母の声を聴いたのは、実に五年ぶりだった。
 僕の名前、まだ覚えていたんだ。
 母が言葉を発したことよりも、そっちに驚いた。
 一日中何も映らないテレビを眺めるだけの母。髪の毛もボサボサ、お風呂どころか食事さえままならないあの母が、僕の名前を呼ぶなんて。
 てっきり認知症のような状態かと思っていた。

「どうしたの」

 驚きつつも返すと、

「ごめんね、亮」

 今にも消えそうなかすれた声で、そう言われた。
 何に対して謝っているのか、僕には全くわからなかった。
 たった一言の謝罪。それを口にすると母はすぐに一階に降りて行った。
 母が部屋を去っていく際、その背中を見た僕の心臓は何故だかはちきれそうなほど激しく脈打っていた。
 事態を飲みこめないという困惑、今頃になって謝ってきたことに対する怒り、そして――。

「久しぶりに、呼ばれた気がする」

 ――名前を呼ばれた喜び。
 その日以降、母は段々と言葉を話すようになってきた。
 きっと父がお酒をやめたのがよかったのだろう。
 父はすっかり元通りになっていた。
 母も元通りとはいかないまでも、ずっと元気になった。
 僕が諦めた途端に事態が好転したことに若干の腹立たしさはあったけれど、どうでもよかった。
 あれだけ望んだ家族が戻りつつある。
 その日、僕は久しぶりにペンを握った。
 家族の思い出に縋るという逃避行動のためではなく、自然と創作意欲が湧いてきたのだ。
 体はすっかりなまっていて、ベッドから机に移動するのさえ気怠かったものの、不思議と心は軽かった。
 今なら、褒めてくれるかもしれない。
 ふと、脳裏にそんな考えがよぎった。
 僕はずっと寂しかったのだ。褒められたいと思うのは当然のこと。
 一年のブランクがあるとはいえ、僕の絵は昔とは比べ物にならないクオリティだった。
 僕はすぐに一枚のイラストを仕上げ、それを持って一階へ降りる。
 そしてリビングのドアノブに手をかけた時、両親の話し声が聞こえた。

「もう、離婚しましょう」

 一瞬で、全身が固まった。
 ドアノブを握る手に力が入るけれど、ドアをあけることができない。
 引きこもっていた間に、ドアさえ開けられないほど筋力が落ちていたのだろうか。いや、そんなはずはない。
 原因は明白だった。
 僕は、怯えていた。
 このドアを開けると、取り返しのつかないことになるのではないかと、そんな恐怖が全身を硬直させていた。
 ……せっかく元通りになれると思ったのに、どうして?
 今なら、またみんなで旅行に行けるじゃないか。

「頼む、もう一度信じてくれ」

 ドアの向こうからは、父の縋り付くような声。
 僕は咄嗟に二階へ逃げた。
 父の言葉に対する母の返答が怖かったのだ。
 自分の部屋で、僕は手に持っていたイラストをじっと見つめた。

「やっぱり、僕にはこれしかない」

 父が回復し、母が話すようになってから、僕は改めて実感した。
 僕は家族が大好きだ。
 あの二人が離婚するなんて絶対に認めるわけにはいかない。
 そう思った途端、闘志が湧いてきた。
 僕にできることと言えば、漫画を描くことくらい。
 ならば、その漫画をとことん突き詰めてやろう。
 立派な漫画家になって、きっかけをくれたのはあなたたちですと、あの二人に伝えるんだ。
 お父さんだけでも、お母さんだけでもダメだったのだと、あなたたちは二人一緒じゃなければいけないのだと、そう伝えよう。
 そうすればきっと――――

「また、昔みたいに笑ってくれるかもしれない」

 僕の絵を飾って、家族みんなで笑いあえるかもしれない。
 僕は再びペンを握りしめた。
 幼稚園の頃は、絵を描けば喜んでくれるから描いていた。
 小学生の頃は、現実逃避のために絵を描いていた。
 ならば今度は、家族を繋ぎとめるために、絵を描こう。
 それから僕はくる日もくる日も漫画を描き続けた。
 階下から聞こえてくる母の怒声に急かされ、早く漫画家にならなければと、焦燥感に駆られる。
 父が離婚に反対している間に、成果をあげなければならない。
 僕にはもう、それしかないから。
「それが、今の僕」

 目の前でじっと話を聴く少女に対し、僕は全てを打ち明けた。
 差し伸べられた手を振り払ってきた僕が、初めて話してもいいと思えた相手。
 最初は本当に嫌だった。
 明るく振舞う彼女の姿はこれまで僕に救いの手を差し伸べてきた人たちと酷似していたから。
 僕の目の前に現れた時だって、すぐに追い出すつもりだった。
 けれど、彼女は他の人たちとは違った。
 一生誰にも気付かれない人生など寂しすぎる、そう言って僕に訴えてきた。
 ……僕は寂しいという言葉に弱い。誰よりもわかってしまうから、その気持ちが。
 そのせいで彼女を追い出すことができなかったのだ。
 それに、彼女には悩みがあった。
 暖かい家庭を持ちながらも、挫折した自分と必死に戦っていた。
 話を聞くうちに、彼女は他の人たちとは違うと思うようになっていった。
 だから僕はこうして彼女に全てを打ち明けることができたのだろう。

「亮くん……」

 彼女は目に大粒の涙をため、震えた声で僕の名を呼ぶ。今にも泣き出しそうな表情だ。
 それだけで、本気で僕のことを想ってくれているのがわかる。
 この人はちゃんと僕を理解してくれるんだ。
 だけど泣くのは少し大げさだと思う。
 そんな表情をされると、なんというか……僕まで泣きそうになってくるから。

「落ち着いて、別に泣くようなことじゃないから」

 そう言って彼女をなだめようとする僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。
 どうしてだろう。
 ただ話をしただけなのに、打ち明けただけなのに、なのに、凄く胸が苦しい。
 涙目で僕を見つめる少女の顔を見ると、心配してくれているのだとわかって目が熱くなってくる。
 その感覚が自分でもよくわからなくて、戸惑ってしまう。

「お、おかしいな……なんでだろう、苦しいような――――」

「亮くん」

 言い終わる前に、彼女は僕の名を呼んだ。
 そして、やや強引に僕の体を抱き寄せた。そのまま僕の顔を胸元に押し付けてくる。ただでさえ苦しいというのに、余計に息苦しくなってしまう。
 確か物には触れないはずじゃ……。
 一瞬、そんな疑問が頭によぎったけれど、すぐにどうでもよくなった。
 彼女は優しく僕を抱きしめ、そして耳元で囁く。

「今まで……よく頑張ったね」

 それを聞いた瞬間、全身が熱くなってくる。
 彼女はそっと僕の頭に触れ、ゆっくり僕の頭を撫でる。
 それを皮切りに、どんどん目の奥が熱くなって、思わず瞳から零れ落ちてくる。
 なんでだろう……。おかしい、こんなはずじゃないのに。
 何の変哲もない労いの言葉のはずなのに。
 優しく頭を撫でられただけで、ただ頑張ったねと言われただけで、何故だか涙が止まらない。
 一度溢れてくるとどんどん溢れてきて、止まらなくて、どうしたらいいかわからなくなる。

「頑張った……。本当に、ずっと頑張った……」

「うん……わかってるよ」

 ぎゅっと、僕を抱き寄せたまま、彼女は反対の手でずっと僕の頭を撫で続ける。
 そうやって優しい言葉をかけられるたびに、苦しかった想いが全部外に出ていくような気がして、とめどなく涙が溢れてくる。

「ずっと寂しかった、苦しかった、もう全部だめかと思った……苦しくて苦しくて、どうしようもなかったんだ……」

「大丈夫、私がいるよ」

 もう、感情を抑えられなかった。
 寂しい、悲しい、苦しい、つらい。ごちゃ混ぜになったそれらの感情が渦を巻き、言葉として彼女の胸に吐き出されていく。
 頭を撫でる優しくて温かな感触を感じながら、みっともなく泣き喚く。
 嗚咽を抑えられず、しかし抑えるつもりもなく、ただ涙を流して小柄な少女にしがみつく。
 服を汚すまいと鼻水をすすり、吐き出した感情のせいで息切れを起こす。
 それでも、彼女はずっと、優しく聞き続けてくれた。
 言葉にもならない感情の爆発を、優しく受け止めてくれた。
 今まで頑張ってきた全てが、手のかからない子でいるために押し込めてきた寂しさが、彼女に優しく撫でられるだけで満たされていく。
 次第に、熱かった瞼が重くなってくる。
 数年ぶりに感じる人の温もりに、その優しさに、今まで絶えず張り詰めていた緊張の糸がほぐされていくのがわかった。
 こんなに安心できるのは、いつぶりだろうか。
 少しだけ、休んでしまおう。
 全身に優しい温もりを受けながら、僕は静かに目を閉じた。

 ***

 目が覚めると、こちらを覗き込んでいる少女と目が合った。

「あ、起きた?」

「ん……」

 どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
 僕は静かに起き上がり、外を見やる。既に日は落ちており、墨ベタで塗りつぶしたような黒い空が無限に広がっていた。
 どうやら、随分と長い間眠っていたようだ。
 締め切り間際だというのに呑気なことをしたものだ。
 けれど、不思議と焦りはない。それどころか余裕すら感じる。
 今まで感じたことがないほどに胸が軽い。慢性的な頭痛も今は感じない。
 ずっと体の中で蠢いていた何かが根こそぎ吐き出されたような、そんな清々しさがある。
 そして、思い出した。
 目の前の少女にみっともなく泣きついて、顔中涙と鼻水だらけにした挙句眠りについたということを。恥ずかしい。
 ……穴があったら入りたいとはこのことだ。
 何食わぬ顔でこちらを伺っている少女からあわてて目を逸らす。このまま直視していると心臓がどうにかなってしまいそうだったから。

「物には触れないんじゃなかった?」

 恥ずかしがっていることを気付かれないように、かつ何も気にしていないような素振りを見せつつ問を投げる。

「な、何となくあの時は触れるような気がしたからかな~」

 彼女は露骨に焦りながらそう答えた。どう見ても挙動不審だ。
 時々、胡散臭いんだよなぁ。最初に会った時もそうだし、今もそうだ。
 何となく僕にだけ姿が見えるような気がしたとか、何となく触れるような気がしたとか、違和感だらけだ。
 間違いなく彼女は何かを隠している。
 とはいえ、悪意はまるで感じられないから別段気にもしていないけれど。
 ちょっと励ますだけで泣いたり、僕の話を聴いて抱きついてくるような人間が悪人とはとても思えないし。
 きっと幽霊にも色々と事情があるのだろう。
 だから突っ込む気は特にない。
 どうやら僕は自分が思っている以上に彼女のことを信用しているようだ。

「そうなんだ」

 そう言って彼女の嘘に納得したような素振りを見せると、彼女は心の底から安堵したような表情になる。本当にわかりやすい。
 そういう間抜けな部分があるからこそ信用できるのかもしれない。

「……さて、そろそろ描くか」

 僕はゆっくりと立ちあがり、椅子に座った。
 気分を入れ替えよう。
 締め切りは明後日。ほとんど完成しているとはいえ、出版社あてに配送する手間を考えると余裕があるとは言えない。
 でも、その前にひとつだけ――いや、ふたつほど彼女に言いたいことがある。
 緊張するし本当ならば言いたくはないのだけど、だからこそ言葉にしなければならないこともある。

「ありがとう」

 それがひとつ。そして、

「僕、頑張ってみる。お父さんとお母さんがもう一度仲良くできるように。漫画を描くだけじゃなくて、もっといろんな方法で」

 決意を口にした。それがふたつ目。
 今日、ついに離婚すると母に告げられた。
 もはや家族を繋ぎとめるために漫画を描くなどと悠長なことを言っていられる場合ではない。
 僕に残された時間はもうほとんどないのだ。
 それに、薄々気付いていた。
 僕が漫画を描くことでしか自分を主張できなかったのは、恐れていたからだ。お母さんたちと面と向かって話し合うことを。
 別れてほしくない。またみんなでやり直したい。そう訴える僕に対し、お母さんがどんな反応をするのか、それが怖くて僕は逃げるように漫画を描いていた。
 あの日、リビングの前で扉を開けられずに立ち尽くしていた時から、僕はずっと逃げ腰だったのだ。
 そんな弱気な僕とは今日でお別れしよう。
 僕は絵を描くのが好きだ。漫画家になりたい。だから漫画を描く。
 今はそれでいいんだ。そこに家族を結びつけるのはもうやめることにした。
 家族を繋ぎとめるのは漫画ではなく、僕だ。僕自身がやらなければいけない。
 これは決して揺るがない決意の表明。
 僕は彼女の目をじっと見つめる。

「うん、私もそれがいいと思う。ずっと見守るから、一緒に頑張ろ」

 彼女もまた、まっすぐ僕を見つめる。
 どうしてだろう、彼女になら思ったことを全て話せてしまう。いいことも悪いことも、包み隠さずに。
 彼女がいなければ、きっと僕は今でも逃げ腰のまま漫画を描いていたのだろう。
 本当に不思議な気持ちだ。
 最初は煩わしくて仕方がなかったはずなのに、今は心の底から彼女を頼りにしている自分がいる。

「ありがとう」

 一度や二度では足りないお礼を、僕は言う。
 僕はずっと救いを求めて足掻き続けていた。
 逃げ出したくて、でも逃げられなくて、僕の心は光さえ届かない海の底でずっと苦しんでいた。
 暗くて、冷たくて、息苦しくて、どれだけ足掻いても決して抜け出せない闇の中。そんなどす黒い気持ち悪さがずっと胸の中で渦巻いていた。
 けれど、今は違う。
 すっかり軽く、そして温かくなった胸に手をあて、ようやく気が付いた。
 僕はもう、救われているのだ――――と。

「どういたしまして」

 嬉しそうにはにかむ彼女に、僕も笑みを向ける。
 上手く笑えているだろうか、不審に思われないだろうか。以前の僕なら感じていただろうそんな不安は欠片もなかった。
 だって、彼女なら受け入れてくれるから。下手くそな笑顔も何もかも。
 だから僕は一抹の不安もなく笑うことができる。

「……よし」

 小さく声を発し、自分に気合いを入れる。
 そして僕は、ペンを手に取った。
「……できた」

 完成した原稿を封に入れ、亮くんは大きく背筋を伸ばす。
 時刻は既に真夜中の三時過ぎ。いつもは早寝をする亮くんがこんな時間まで起きているのは非常に珍しい。
 それほどまでに、この漫画にかける想いが強いということだ。

「お疲れ様! ついにできたね」

「うん。疲れたからちょっと寝る」

 既に眠気がピークに達しているのだろう、亮くんはふらふらとおぼつかない足取りでベッドまで歩くと、勢いに身を任せて倒れ込んだ。
 すぐに寝息をたて始める亮くんを一瞥してから、私は息を漏らす。
 なんだろう、奇妙な胸の高鳴りを感じる。
 私は亮くんが好きだ。だから、彼と話をするだけで、何気ない笑顔を見るだけで心臓が破裂しそうになる。
 けれど今感じている胸の高鳴りは、それとは少し違う感覚だ。
 机上の原稿を見やり、私はこの感覚を理解しようと試みる。
 亮くんが漫画を描いている時からずっと感じているこの高鳴り。
 彼がペンを走らせるたびに心の奥底から湧き上がってくる感情。
 この感情をなんと言葉に表せばいいのだろう。
 いいや、本当はわかっている。
 ただ、私は無意識のうちにそれを認めることを恐れているんだ。
 過去に一度味わった大きな挫折。その無力感が私の感情を必死に抑え込もうとしている。
 全ての努力が徒労に終わる悲しさ。自分など所詮ちっぽけな存在でしかないという虚しさ。それらがずっと私の脚に絡みつき、歩くのを邪魔してくる。
 私はこの想いを理解することを、もう一度足を踏み出すことを恐れている。
 だけど認めよう。
 亮くんが前に進むと決めたように、私ももう一度自分と向き合い、そして踏み出そう。
 大きく息を吸い、乱れた鼓動を綺麗にまとめ上げる。そして、強く、固く、決意する。

 ――もう一度、漫画を描こう。

 自分に特別な才能がないことはわかっている。
 私はどこにでもいる一般人で、運動も勉強も人並みにしかできない。
 そんなこと、この十八年間で嫌というほど思い知らされてきた。
 でも、それがなんだというのだろう。
 秀でた才能がなくても、特別じゃなくても、漫画を描くことはできる。
 努力が必ず報われるなんて都合のいいことは思っていない。努力というのはあくまで、成功を掴む確率を上げる行為に過ぎないのだから。
 才能の有無というのは確実にあるし、どれだけ頑張っても報われない人は絶対に存在する。誰がどんな綺麗ごとを言おうと、それが真実だと思う。
 でも、絶対に報われないとも限らない。
 成功するかどうかなんて、最大限努力した末にようやく判断できるのだから、せめてその域に辿りつくまでは描き続けよう。
 もし漫画家になれなかったとしても、その努力はきっと無駄じゃない。私が亮くんを勇気付けることができたように、決して徒労には終わらない。
 今度こそ、絶対に諦めてたまるものか。

「本当にありがとね、亮くん」

 私は、すっかり熟睡している亮くんの頬に手を伸ばし、そう呟いた。
地平線の向こうから太陽が顔を出す早朝、まだ薄暗い室内に大きなベルの音が鳴り響いた。
 何事かと思い音の出た方向へ首を向けると、音の出どころは亮くんの枕元に置かれた目覚まし時計だとわかった。
 こんな時間に目覚ましをかけるなんて珍しい。
 壁時計を見ると時刻はまだ朝の六時。亮くんが倒れるように眠りについてからたったの三時間しか経っていない。設定時刻を半日間違えてしまったのだろうか。

「ん……」

 亮くんは眠そうに目を開け、静かに目覚まし時計の頭を叩く。
 そのまま、今にも閉じてしまいそうなほど頼りなく開かれた瞳で目覚まし時計の針を見つめ、ゆっくりと起き上がる。
 設定時刻を間違えたわけではないらしい。

「おはよ、早いね。どこか行くの?」

「ん、学校」

「あ、学校かぁ。……ん?」

 学校? 今この子学校って言った?

「えっと、学校って、中学校のこと?」

「他に何があるの」

「ほぉー……」

 どうやら私の聞き間違いや勘違いではないみたい。
 漫画のことといい家族のことといい、物凄くやる気に満ち溢れているようだ。

「私も行っていい?」

「うん、ついてきて」

 亮くんはクローゼットから制服を取り出し、手で埃を払う。
 亮くんの制服姿を見るのは初めてだ。きっと凄く似合うのだろう。着る前からわかる。

「ねね、早く着て!」

「急かさないで。準備が先」

「はーい」

 亮くんは日課表を見ながらスクールバッグに教科書を詰め込み、慌しく準備を始めた。
 どうして急に登校する気になったのか訊きたい気持ちはあるけれど、やめておこう。きっと無駄な質問だから。
 このままじゃいけないという焦り、それと同時に現状を打開してみせるという固い決意。亮くんの瞳からはそんな強い意志をひしひしと感じる。

「準備できた」

 久しぶりの登校で緊張しているのか、支度を終えた亮くんの表情は若干強張っていた。

「大丈夫? ちゃんとハンカチ持った? 忘れ物はない? 教科書入れた? 車に気をつけるんだよ?」

「お母さんか」

「お姉ちゃんだよ」

「はいはい」

 少しでも緊張をほぐしてあげたくて、笑いを誘いもしないようなくだらないやり取りを交わす。心なしか緊張がほぐれたような気がして、何故だか私の方が嬉しくなる。
 それにしても、思った通りだ。亮くんの制服姿は目に多大な幸福感を与えてくれる。

「……じろじろ見ないで」

「いやーごめんね。あんまりにも制服が似合うから目に焼き付けておこうと思って」

「お世辞はいいから」

「むう、本心なのに」

 お世辞でも冷やかしでもなく、本当にそう思う。
 夏でも涼しそうな半袖の白シャツと黒いズボン。
 完璧な配色と亮くん自身の完成された容姿が相まってまるで違う生物なのではと思えるほどの美しさに仕上がっている。ずっと眺めていたいくらい。

「いいから早く行こう。遅刻する」

「あいあいさー!」

 部屋の扉を開け、階段を降りる。
 きっとその音で目が覚めたのだろう、私たちが一階へ降りると、階段の下で亮くんのお母さんが立っていた。
 たしか、涼子さんだったかな。
 お父さんの名前が涼平で、どちらも「りょう」がつくから覚えやすい。
 亮くんの名前もきっとそこからきているんだろう。

「亮、その恰好……」

 かすれきった声の涼子さんは酷く驚いた表情をしている。
 亮くんが学校に行くというのだから驚くのも無理はない。私だって今朝は凄く驚いたのだから。

「うん、学校だよ。お母さん」

 亮くんはお母さんの目を見つめて、ハッキリと言った。
 そして、強い口調で確認する。

「まだ離婚届は出してないよね」

「え、えぇ」

「……よし」

 お母さんの返答を聞いて安堵したのか、亮くんは僅かに息を漏らす。
 それから、

「僕が帰ってくるまで待っていてほしい。話したいことがあるから」

 そう言って、返答も聞かずに家を出た。
 日差しを遮る雲すらない空の下、亮くんは落ち着かない様子で足早に歩く。
 温められたアスファルトと頭上から降り注ぐ日光に挟み撃ちにされ、みるみるうちに汗が噴き出てくる。
 今年の暑さは尋常ではない。
 よほどの物好きでもなければこの暑さの下で歩きたいとは思わないだろう。道行く人はみんな汗を垂らして歩いていた。
 そんな猛暑とは反対に、私は涼やかで落ち着いた声で語りかける。

「亮くん」

「なに」

「久しぶりの登校で不安だろうけど、緊張しなくても大丈夫だよ。私が傍にいるから」

「うん、ありがとう」

 亮くんもまた、落ち着いた声で返してくる。
 内心、不安と緊張で穏やかとは言えない状態だろうに、それでも落ち着いた態度を見せてくるのは私に対する気遣いだろう。
 そんな優しさを持った少年が頑張るというのだから、応援しないわけにはいかない。
 学校に近づくに伴い、段々と道ゆく生徒の数が増えてくる。
 なんだか緊張してきた。
 本来なら全く関係ないはずの私でさえこうなのだから、亮くんの緊張は私の比ではないだろう。

「学校の中じゃ全然会話できないと思うけど、ちゃんと傍にいるからね」

「ん」

 朝練で校外を回る野球部の行列を横切り、私たちは校門をくぐる。

「おぉ、石丸じゃないか!」

 校門を抜けたと同時に、誰かが亮くんの名を呼んだ。
 その人物は大急ぎでこちらへ駆け寄ってくる。その様子から、亮くんが登校するのを心待ちにしていたことが伺えた。

「よく来たな! ずっと待ってたぞ!」

「おはようございます先生」

 紺色のジャージを着たいかにも体育会系といった雰囲気の先生はバシバシと力強く亮くんの背中を叩く。
 対する亮くんはいつも通りの淡々とした対応だ。
 少しだけ安堵した。
 昨日、亮くんは学校にも家にも居場所が無いのだと嘆いていたけれど、こうして歓迎してくれる先生がいるのは亮くんにとって心強いことだと思う。
 亮くんが孤独を感じていたのはきっと、こういった先生たちすら信用できないほど追い詰められていたからだ。

「久しぶりで不安だろうからな、何か困ったことがあったらすぐ言うんだぞ!」

「わかりました」

「つってもお前のことだからな~心配はないと思うけどな! 勉強は大丈夫か? ちゃんと家でやってるか? それから――」

「すいません、早めに教室に入ってみんなと顔を合わせたいので、お話は後でお願いします」

 しつこく話を振ろうとしてくる先生が面倒なのか、亮くんは半ば強引に逃げだし、足早に下駄箱に向かう。
 こういう時でも態度がブレないのは憧れてしまう。私なんて先生にぺこぺこしてばかりなのに。

「今の先生いい人そうだね」

「ん、一応担任だからね」

「亮くんって二年生だったよね」

「うん」

 上靴に履き替え、階段を昇る。足を前に突き出すたびに、少しずつ教室との距離が縮まっていく。

「緊張してる?」

「……うん、かなり」

「上手く馴染めるといいね」

「うん」

 亮くんが言うには、二階に上がって右折するとすぐに教室があるらしい。
 私たちは階段の踊り場で立ち止まると、緊張をほぐそうと深く息を吸う。
 あと十数段ほど階段をのぼるともう教室。ここが息を整えられる最後の場所だ。

「なんで君まで深呼吸してるのさ」

「私だって緊張してるもん」

 不登校の生徒が学校に行くという行為が、ただごとではないとわかる。
 何度か深く息を吸ったあと、私は確かめるように語りかける。

「……心の準備はできた?」

「……うん。多分」

「よし、なら行こう!」

 いつまでも踊り場に立ち尽くすわけにはいかない。
 私たちは意を決し、一段、また一段と階段を踏みしめる。
 二階へ上がり少し歩くと、既に教室からの声が聞こえてくる。
 男子も女子も入り混じった楽しそうな笑い声。
 覚悟を決めたと思っていても、いざその声を聞くと怖気づいてしまいそうになる。部外者の私でさえそうなのだから、亮くんはもう気が気ではないだろう。
 亮くんが不登校になったのは中学一年生の秋ごろ。
 二年生になってクラスが替わったため、亮くんが知らない子も沢山いるだろう。だから余計に緊張すると思う。
 ここを右に曲がれば、一組から六組までの教室が連なる廊下になっている。そして一番手前が亮くんの向かう一組の教室。
 気温が高いせいか、それとも緊張しているせいか、段々と嫌な汗が滲んでくる。
 幽霊みたいな体になっても汗をかくというのは凄く嫌だ。お風呂にも入れないし、べたべたして気持ち悪い。いつもは気が付いたら治ってるけど。
 あまりの緊張に思わず立ち止まる。しかし、当の亮くんはとっくに覚悟決めていたらしく、臆することなく右へ進んだ。

「あ、待って」

 置いていかれまいと私も後へ続く。
 閉められたドアのすぐ向こうに、クラスメイトがいる。私の心臓はもはや限界を超えて全身に血液を送り込んでいた。

「……あけるよ」

「……うん」

 短く呟く亮くんに対し、同じく短く返す。
 私の声を聞き、亮くんは扉に手をかける。
 ――そして。

「おはよう」

そう言って、亮くんは勢いよくドアを横に引いた。
ドアがレールを滑る音に反応したのか、それとも亮くんの声に反応したのか、クラス全員の視線が一斉に亮くんへ向けられる。
 そして、あれだけ私たちを緊張させた喧騒は、一瞬でどこかへ消えてしまった。
 教室にいた誰もが何も言わず、ただじっと亮くんを見つめる。
 誰一人動かない制止した時間。
 しかし、いや、やはりと言うべきか。その静止した時間を動かしたのは亮くんだった。
 クラス中の視線を一身に受けてなお、亮くんは物怖じひとつせず教室へ入る。
 一番後ろの窓際の席まで歩くと、静かに机の上に鞄を乗せる。その姿を、私を含めた誰もが目で追っていた。
 ……これは気まずいかもしれない。
 そんなことを考えていた時だった。

「おおー、亮じゃん」

 亮くんのすぐ前の席にいた男の子が、沈黙を破った。
 それを皮切りに、一人、また一人と亮くんに話しかける。

「よく来たなー」
「久しぶり」
「ちゃんと俺のこと覚えてるかー?」

 よかった、歓迎されているみたいだ。
 私たちが緊張していたみたいに、この子らも久しぶりに亮くんと顔を合わせたから驚いて黙っていただけらしい。

「うん、久しぶり。ちゃんと覚えてるよ」

 亮くんは丁寧に一人ずつ答えていく。
 昨日聞いた話を思い出すに、きっと亮くんはこの子らを信用していない。
 自分が苦しんでいるのに幸せそうに過ごす彼らをどうしても好きになれなかったと言っていた。
 でも、今の亮くんならきっと大丈夫だと思う。
 差し出された手を振り払ってきたあの頃とは違う。今の亮くんは勇気を持って前に進む力があるのだから。
 私は亮くんのすぐ左の窓、そのふちに腰掛けた。

「よかった。大丈夫そうだね」

 そう言って、にこやかに笑ってみせる。
 返事はないけれど、亮くんも同じことを考えているに違いない。だって、凄く穏やかな表情をしているから。

 ***

「それじゃあ次の問題を……そうだなぁ、せっかく来てることだし、石丸!」

 数学の授業中、担任の先生がふいに亮くんを指名した。
 容赦ない。
 普通は今までずっと授業に出ていなかった子を指名しないと思うんだけど。

「はい」

 私の心配をよそに、亮くんは黒板に綺麗な数式をえがいていく。全く迷いなく、堂々とした動きで。
 この子、本当に不登校だったの?

「正解だ! 凄いな~。家で勉強してたのか?」

「少しだけ」

 ……かっこいい。
 賢いなーとは思っていたけれど、ここまで賢いとは。
 ちなみに私は解けなかった。高校三年生なのに!
 亮くんが席に戻る途中、廊下側の席からひそひそと話す女の子たちの声が聞こえてくる。

「石丸くんってかっこいいよね」

「わかる。学校来てないのに頭いいとかやばくない?」

「ね、やばいよねー」

 うんうん、もっと褒めてもいいよ。
 自分のことじゃないのに何故か私が誇らしくなってしまう。
 息子を褒められて天狗になる母親の気持ちはこんな感じなのだろうか。

「さすがだね」

 席に戻ってきた亮くんに話しかける。
 一瞬だけこちらを見てきた後、亮くんは小さなため息をついた。そしておもむろにペンを走らせる。
 書き終わると、亮くんはこちらを見つつノートを指で叩く。
 見てくれ、という合図だろうか。

「授業中にこっそり筆談って楽しいよね! 私も中学の頃よくやってた!」

 亮くん以外に聞こえないのをいいことに、遠慮なく喋る。そして亮くんのノートを覗き込んだ。

『うるさいから授業中に話しかけないで。あとちらちら視界に入って邪魔だから後ろにいて』

 ……ごめんなさい、黙ります。
 私は申し訳なさそうに頭を下げ、教室の後ろに座り込んだ。
 亮くんめ、真面目ぶりやがって。
 私は亮くんが構ってくれないと暇だというのに。
 でも、上手く馴染めているようで安心した。
 ぼんやりと亮くんの背中を眺めているうちに数学の時間が終わる。
 次は英語だったかな。
 短い休み時間が終わり、英語の授業が始まるとまたも亮くんは指名された。今度は別の先生だ。
 ……案の定、亮くんは英語も完璧だった。
 先生に英語で問いかけられ、それをいとも簡単に英語で返す。そのたびに教室の端から女子たちの小さな歓声が聞こえてくる。
 亮くんの活躍は数学や英語にとどまらず、国語や社会、果ては体育に至るまで多岐に渡った。
 私は、体育館の隅で授業を見学している女の子たちの隣に座り、彼女らと同じように亮くんを目で追っていた。
 今日の授業はバスケットボール。
 亮くんがシュートを入れるたびに隣の女の子たちが騒ぎ立てる。

「やばい。超かっこいい」

「彼女とかいるのかな。いなかったら狙っちゃおうかなあ」

 いや、それはダメ。
 亮くんを褒めるのはいいけど、狙うのは許しません。
 先に好きになったのは私なんだぞ! と声を大にして主張したい。したところで何にもならないのだけど。

 ***

「いや~ひと安心だね。よく頑張りました! 偉い偉い!」

 帰り道、私は上機嫌で亮くんに話しかける。
 もしかしたら一番安心しているのは私かもしれない。
 亮くんは周囲に人がいないのを確認してから、

「うん、安心した」

 そう言って僅かにほほ笑んだ。
 ……あーもう、可愛い。
 いつもは笑わないのに、ふとした時に笑うから用心していないと心臓が弾けて心が根こそぎ奪われてしまいそうになる。もうとっくに奪われているけど。

「でもよかったの?」

「何が」

「クラスの子に一緒に帰らないかって誘われてたでしょ?」

「うん、いい。君と話す方が楽しいから」

「そ、そっかぁー。…………へへへ」

 落ち着け、落ち着くんだ私!
 いつもの亮くんみたいに無表情を心がけるんだ! 平常心を保たなくちゃ。
 …………うん、無理!
 好きな人に楽しいなんて言われたら嬉しいに決まっている。
 それにしても、

「君……かぁ」

 私は悩ましげに息をついた。
 思えば、今まで一度たりとも名前で呼んでもらったことがない気がする。
 もうそろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかな。せめて苗字だけでも。

「ねぇ亮くん、そろそろ名前で呼んでよ!」

「えー……」

 こら、あからさまに嫌そうな顔をするんじゃない。
 異性を下の名前で呼ぶのが恥ずかしいのはわかるけれど、もうそんなことを気にするような仲ではないはず。

「私たちもう仲良しだからいいでしょ! 呼んで!」

「んー……じゃあこころさんで」

「さん付けは何かよそよそしい……。呼び捨てがいいなぁ」

 やり直しを求める。
 もうお互い腹のうちを語り合った仲なのだから、佐々木とかこころとか、そんな適当な呼び方をしてほしい。
 諦めずに食い下がっていると、ついに観念したのか、亮くんは大きく息を吸った。そして、吸った量とは裏腹に消え入りそうなほど小さく、

「……こころちゃん」

 恥ずかしそうに、そう呟いた。
 こうも恥ずかしそうに呼ばれるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
 呼び捨てでいいと言ったのにまさかちゃん付けしてくるとは。
 これからずっとこころちゃんと呼ばれるのだと思うと気が気でない。嬉しさと恥ずかしさで頭がどうにかなってしまいそうだ。
 しかし照れるのも束の間、すぐに亮くんの顔から表情が消える。
 視線は真っすぐ彼の家に向き、その真面目な顔つきがこれから行う母との対談に備えてのものだと悟る。
 そうだ、呑気に名前を呼び合って照れている場合ではなかった。
 亮くんにはこれから、学校以上に大切なことがあるのだ

「お母さんとの話し合い、私も同席していいの?」

 学校への同伴は許されたものの、今回は紛れもなく石丸家だけの問題。
 果たして第三者である私が入り込んでいいものだろうか。
 いくら私が亮くんの事情を全て知っていたとしても、これは非常に繊細な問題だ。言葉選びひとつ違えるだけでこの子の人生が右にも左にも傾くのだから。
 見守りたい反面、それを躊躇する私がいる。

「……むしろ席を外すつもりだったの? 見守るって言ったのに」

 言って、亮くんは不服そうにこちらを睨んできた。
 その視線を受け、私はつくづく自分が情けない存在であることを痛感する。
 この子には、そもそも私を置いて話をするという選択肢が存在しないらしい。
 到底一人では抱えきれない問題に向き合う彼と、支えると言った私。
 そんな私の言葉をまっすぐに受け止めて、安心して心を預けてくれている。だからこそ、今になって腰が引けている私に不満そうな眼差しを向けているのだろう。
 実感する。この子の決意はとうに固まっていたのだと。
 この期に及んで怖気づいているのは、どうやら私だけのようだ。
 今しがた自分の口から飛び出た言葉に自分で呆れてしまう。
 確認するまでもなく、自信を持って傍にいればいい。それが私の役目なのだから。
 睨む亮くんの瞳を力強く見返し、私は改めて覚悟を決める。

「ずっと見守るよ。一番近くで、どんな時も」

 そう言って、精一杯笑ってみせた。

「うん、約束だから」

 亮くんもまた、笑顔だった。
「おかえり」

 かすれた女性の声が、私たちを迎え入れる。涼子さんだ。

「ただいま」

 靴を脱ぐと、二階へ続く階段に一瞥すらくれず、亮くんは真っすぐリビングへと向かう。一息つく気は欠片もなく、今すぐ話を始めるつもりらしい。
 リビングの戸を開けると、既に亮くんのお父さんも帰宅していた。
 話には聞いていたけれど、この目で見るのは初めてだ。
 清潔に整えられた短髪に、人のよさそうな垂れ下がった目じりが特徴的な男性。こうして見てみると、とても酒乱だった人とは思えない。
 けれど、続いて部屋に入ってきた女性の強張った表情を見ると、それは私の勝手な印象に過ぎないのだと理解する。
 昔は夕飯時に家族そろって囲んでいただろう大きな食卓に着き、亮くんは入口付近にいる二人を見やる。
 その視線を受け、二人も席につく。涼平さんは亮くんの隣に、涼子さんは二人と向かい合うように。
 広々とした長方形の木机はあっという間に窮屈そうな印象に変わる。
 私は亮くんの隣に立ち、緊迫した雰囲気を肌で感じ取っていた。
 まるで全員が警察に取り調べでも受けているかのような、誰一人歯を見せない重い空気。

「最初に言っておくけど、私はもう別れる気だから」

 その空気を切り裂き、より重々しく言葉を紡いだのは、涼子さんだった。
 開口一番の拒絶。実の息子、そして夫に対して言うにはあまりにも無慈悲な一言。しかし、これまでの彼女の苦悩が見て取れる発言でもあった。不愛想な語り口はやはり亮くんに通じるものがある。
 紛れもなく血のつながった家族。それが今、断ち切られようとしている。
 もちろん、それを許す亮くんではない。

「どうして?」

 亮くんは極めて冷静に母の胸中を探る。

「もう疲れたの。亮だってわかるでしょ? その人はずっと私たちを放って、家をめちゃくちゃにしたんだよ」

 見た目の麗しさとは似ても似つかないしわがれた声で、はっきりとそう告げる。
 その言葉を受け、涼平さんはぎゅっと拳を握った。
 けれど口を開くことはなく、じっと自分の言葉を飲みこんでいるようだった。きっともう、何を話しても無駄だと思っているのだろう。既に離婚が成立しかけている現状から考えて、諦めたと見るのが妥当だ。
 それでもなお拳を握り、歯を食いしばるのは、諦めていながらももう一度やり直したいという後悔があるからに違いない。
 その様子を見ているといたたまれない気持ちになる。

「でも、お父さんだってもうお酒はやめてる。暴れることもなくなった」

 そんな涼平さんの意志をくみ取り、代わりに言葉として置き換えたのは亮くんだ。
 亮くんはなおも言葉を続ける。

「お父さんだって、病気と仕事のストレスがあったんだよ。だからといって僕たちを傷つけたことを水に流すつもりはないけど、それでも、お父さんが後悔しているというのなら耳を傾けてあげてもいいと思う」

 とても中学二年生の男の子とは思えないような冷静な口調で淡々と想いを告げる。
 ここまで理路整然と意見を主張できる中学生などそうはいない。それは亮くんが賢いからと言うよりも、すらすらと話せてしまうほどに頭の中で話す内容を考えていたからだろう。

「確かにもうお酒は飲んでないし暴れてもいない。でも、この人がやったことが消えたわけじゃないの。亮はもう一度耳を傾けてもいいと言っているけど、私は嫌」

「お母さんは、お父さんのこと嫌いなの?」

「嫌いになっていたらもうとっくに出て行ってるわ。でも、それとこれとは別の話。嫌いじゃないけど、もう信じられない。だから別れるの」

 なんだか、少しだけわかる気がする。
 嫌いじゃない、でも信じられない。そんな想いを抱いたことはないのだけど、信じられないというのはつまり、不安を感じているということだ。それだけは、他の誰よりも共感できる。私はずっと自分を信じられず、不安を感じていたのだから。
 私は思い出す。漫画家を諦めて、自分の無力さに絶望して、私には何もできないのだと全てを投げ出していた頃を。
 自分を信じることができず、将来に漠然とした不安を感じていた。形は違うけれど、何かを信じられないことがどれだけ不安なのかは痛いほどわかる。
 私でさえ理解できる感情を、ずっと同じ家で暮らしていた亮くんが理解できないはずはない。
 けれど、ふと垣間見えた亮くんの表情は、笑顔だった。

「嫌いじゃない……か。よかった、ちょっと安心した」

 重力が何倍にもなったような重苦しい空気の中で、亮くんだけはどこかほっとしたような、柔らかな表情だった。
 そして言葉を続ける。

「嫌いじゃないのなら、きっとやり直せるよ。信用できないのはわかる。また同じことが繰り返されたら……そう考えると僕だって不安になるよ。それが間違いとは思わない。でも、僕たち家族に限ってはそれじゃあダメだと思う」

「……じゃあどうしろっていうの」

 亮くんの言葉に思うところがあるのか、あるいは痛いところを突かれてムキになったのか、しわがれた声に力が入る。
 その問いかけに対する亮くんの答えは、とてもシンプルで、今まで亮くんが発したどんな言葉よりも明るく力強いものだった。

「勇気を出して踏み出すんだよ」

 不安だからこそ頑張る。怖いからこそ前に進む。亮くんが言いたいのはきっと、そんな単純なこと。
 怖がって立ち尽くしていても状況は改善しない。そんな誰にでもわかる簡単なことを、誰にでもわかるからこそハッキリと言う。

「それができないから悩むんでしょ……」

 誰にでもわかるし、誰にでも言える言葉。涼子さんだって自分が逃げているというのは自覚していたんだろう、すっかり疲れきった声色にはそんな苦悩が込められていた。
 怖くても勇気を出さなければ状況は進まない。一方、勇気を出したくても怖くて踏み出せない。二人の意見はそこで食い違っていた。
 私にはそのどちらの気持ちもわかるし、どちらの意見も正しいと思う。
 過去の私なら、涼子さんの肩を持っていたに違いない。
 自分の無力さ、そして夢や目標を持つことに対する恐怖。そんな黒い塊を胸に抱えて生きてきたのだから。
 けれど、亮くんはそんな私を受け止めてくれた。悪くないと言ってくれた。それどころか、感謝さえしてくれた。
 亮くんは怖くて動けなかった私を認めてくれたんだ。
 だから私は、怖くて踏み出せない人間が間違っているとは思わない。もし間違っていると思ってしまえば、それは亮くんが認めてくれた私自身を否定することになるから。
 涼子さんが言った「できないからこそ悩む」。それは決して間違いではない。
 しかし、私は知ってしまった。勇気を出した先にある温かさを。自分なんてダメだと思う心を亮くんが救ってくれたあの時の気持ちを。
 だから、涼子さんにもその温かさを知ってほしい。

「亮くん、頑張って」

 私が小さく呟いたのを聞いて、亮くんは意を決したように言う。

「僕、今日学校に行ったよ」

 そう言ってぎゅっと制服の胸を掴んだ。

「すっごく不安だった。道で同じ制服の人を見かけるたびに心臓が張り裂けそうになったよ。怖くて怖くて、教室に入るのさえ苦痛だった」

「亮……」

「でも、頑張ったよ。このままじゃダメだって思ったから……。僕なりに勇気を出して、頑張って……そしたら」

 亮くんは大きく息を吸う。
 そして、

「すっごく、楽しかった」

 そう言って、亮くんは華やかにほほ笑んでみせた。
 心の底から満ち足りたような楽しげな言葉を受け、涼子さんの顔に戸惑いがあらわれる。