「八城さんは就職よね?」
「一応、そのつもりです」
つい最近までは天国に就職希望だったことは黙っておく。
でも実は漠然と「就職」を決めていただけで、希望する企業なんかは特に決めていなかった。
そこを突かれたら困る。
花純先生は箸でブロッコリーをつまみあげた。
「進学するつもりは本当にないの?」
「ない、ですね」
「勉強が嫌い?そうでもないか。成績は悪くないよね」
「嫌いではないです」
勉強は嫌いじゃない。
きっちり答えの出る数学とかは割と好きだったりする。どんなに複雑な問題でも、必ず答えが1つと決まっている。そういうのはわかりやすいから好き。
どれだけ悩んでも、ちゃんと答えが出てくれる。
だけど、国語はあまり得意ではない。
特に心情を読み解こうとする小説は苦手。
文章題は感情移入して解くものでないと教わっているけれど、どうしても読んでいると感情移入してしまうし、何よりもまず苦手意識が来てしまう。
「でもここの学校に入ったのは、大学受験を見越してじゃなかったのかな。多くの人はその様みたいだし」
「……もしそうなら、就職するという娘を父は止めるはずです」
「そうなのね」
そもそも私の入学動機は「環境を変えたい」で、大学受験は二の次だった。
どこも同じようなものだとは思うが、進学予定だった中学校には同小上りが大多数。
小学校で人間関係に失敗した私は、とりあえずあのぬるま湯から抜け出したかった。
結果的にここでも同じような理由で、上手くいかなかったわけだが。
花純先生は唸りながらご飯を咀嚼していたけれど、私は自分のおにぎりに手がつけられず、手のひらで転がして、包んでいたラップをいじっていた。
そこから会話が途切れて、黙々と食事する花純先生を箸運びを眺めていたが
「八城さん、明日から私と一緒にお昼食べない?」
「……私ですか?」
遊んでいた手を止めた。
突然の提案に、戸惑う。
「うん、そう」
「如何して、ですか?」
「私の話し相手かな。八城さんは大学受験ないから、早弁して先生捕まえるなんてことも……ある?」
「ないです」
「うん。それに……教室、居づらいでしょ?」
これが少し前なら、死にたいと決心して線路に飛び込むことをする前だったなら、うまくポーカーフェイスの下に隠して「そんなことありません」と躱すことができたはずだが、私はすぐには言葉をつなげなかった。
弘海先輩のことが頭を過ぎったから。
すっと胸のあたりが冷めて、むくりと憎悪が芽を出しかけたが、それは杞憂だった。
見かねて花純先生は、笑顔を作った。
「何となく察するのよ。高校三年生を受け持ったことはこれまで三回あるんだけど、三年生にもなると意識が高いというか、余裕がなくなるというか、自分に精一杯でね。成績順にクラスが分かれているわけではないから、ひとクラスには下から上まで満遍なく振り分けられるでしょ?そうすると、ちょっと怠けてる様に見える子がいると、気になってしまうみたい。しかもこれからになると、国立受験組には最大のストレスになるであろう私大推薦とか」
推薦受験と結果発表は年を越えるまでにわかることが多い。
なので二学期中に進路が決まる人も結構いる。そうすると、一月にセンター試験を控えている人間からすれば目障りだ。ストレスだ。本人に自覚がなくても、浮かれているのが雰囲気でわかるから。
しかも学校が掲げる「現役合格」という三年生の学年目標故、浪人回避に焦る人も出てくる。それで無理をして体調を崩したり、酷いと精神を病んだりする人も出てくる様で、教師はそういうことにも最大限気を使うのだと、来年30歳になる花純先生は言った。
「だから周りが八城さんのこと、あんまりよく思ってないこと分かっちゃうのよ。ごめんね、傷つけたいわけではないよ」
「分かってます。大丈夫です」
「どうかな?昼になると酒田先生ってふらっと何処かに行っちゃうし、話し相手が欲しいな、なんて」
内申あげるわよ、という声は弾んでいた。
花純先生は迷える子羊に手を差し伸べるような気持ちなのだろうが、私は素直にその手を取るには少し大人になってしまった。
以前なら「じゃあ、来ちゃおうかな」なんて無邪気に返しただろうが、私はもう昔のように担任をあだ名で呼んだり、タメ口をきいたり、馴れ馴れしく慕うタイプの人間じゃなくなった。
怖い、という感情が先立ってしまう。
優しくされると、怖い。
親切にされると、怖い。
親しくなると、怖い。
だって国語ゼミに来ていいなんて、逃げ場にしていいなんて、もしかしたら思っていないかもしれない。
ただの言葉の綾で、気にかけているということだけ伝えたいのかもしれない。
鎧を身につけていない私は、もう素直に好意を受け取ることができない。
まず相手を疑ってしまう。
「考えて、おきます」
だから私の答えはこうだ。
曖昧な返事にも関わらず、花純先生は恰も私が肯定を示したかのように笑顔で頷き「待ってるよ」と笑顔を向けて来た。
私は結局殆どおにぎりを食べられなかった。
授業中、お腹がなったりしたらそれこそ不興を買うので、無理やり具が梅のものだけ食べた。
ゼミ室を出て、三階に上がると賑やかな二階とは一変、途端に静けさが襲う。
一番奥の自分の教室まで行くのに他の教室の横を通り過ぎたが、殆どの生徒は着席し、机に向かっていた。
賑やかな食事の時間も、予鈴がなる前には終わっている。
一分一秒も惜しい、そんな雰囲気が漂っていた。
私の教室も同じようなもの。
締め切られた戸を引くと、ガラガラと大きな音が鳴るが、みんなもそんなことは気にしない。
私も気に留めずに自分の席に着き、次の教科の準備をする。
次の時間は古典。
教科担当は花純先生。
弘海先輩は、私がゼミ室にいる間に帰ってくることはなかった。
昨日アイロンまで当てたハンカチはポケットの中で、渡せずじまいになってしまった。
*
雨は憂鬱さと心の弱さを助長させ、ちょっぴり大胆にさせる。
一瞬の気の迷いだったと、自分の中で正当化させたいからかもしれない。
雨のせいだって。
夜のせいだ、とか、酒のせいだ、とかと同じように、雨の陰気な雰囲気のせいだって。
それに病んだついでなら、多少のことは許してくれるような気がした。
そんなことを思ったのは翌日、火曜日のこと。
担当教諭の病欠で、自習になった二時間目の英語の時間に、突然雨が降り始めた。
朝は青空が広がっていたのに、地上は一気に暗澹とした鼠色の雲に覆われてしまった。
周囲は課題プリントそっちのけで(提出の必要がないら)それぞれに時間を使っている。
私は、しとしとと降り続けている雨が一向に止む様子がないのを、頬杖をついて眺めていた。
バッグの底には折り畳み傘が突っ込まれてあったから、帰りは濡れる心配がない。
でも、今日の昼はどこで過ごそう。
今朝コンビニで買ったサンドイッチを次の休み時間に食べる。
そのあとは、いつも通り図書館で時間を潰そうと考えていたのだけれど、今日は委員会の集まりがあるとかで昼休みの使用を制限されてしまった。
トイレとか、体育館の隅とか、時間を潰す場所は探せばあるけれど、トイレは衛生的に悪いし、体育館は授業意外の高校三年生の出入りが一切ないから不審がられるだろうし、昼食時間に解放されている美術室は恋人同士の憩いの場だし、ということで適当な場所が見つからない。
窓に打ち付ける雨水が、水の筋を作りながら落下して行くのを追いながら、ふと国語ゼミが頭に浮かんだ。
昨日花純先生は「待ってるよ」と言ってくれた。
でもあの言葉が方便でないかどうかは知る術がない。
果たして本音だったのか。
よく先生は生徒を心配しているとかそんなこと言うけれど、本当にそうなのか。
もしそれを本気にして頼る生徒がいたら、先生は受け入れてくれるのか。
口ではなんとでも言える。
あの言葉を鵜呑みにできるほど、私は子どもではない。
でも、暫くひととまともに触れ合ってこなかったせいか、久しぶりに手を差し伸べられて、ほんの少し期待している自分がいるのも確かだった。
幸い私には、弘海先輩から預かったハンカチがある。
今朝もまたきいちゃんに頼もうかと思ったが流石に二回も頼むのは気が引けて、そのままスカートのポケットに入れっぱなしだった。
それを口実に国語ゼミを訪れて、花純先生がいるか確認してみよう。
昨日の今日だ。
もしあの言葉が本物なら、花純先生のことだからゼミ室にいるはず。
いなければ、体育館にでも行こう。
ギャラリーから下に続く階段は人通りも少ない、そこなら人目にもつかない。
そんな言い訳を携えて、お昼休みはサンドイッチの入ったランチバッグを持って二階に下がった。
中学生から高校生まで、いろんな人が行き交う中を、国語ゼミまで進む。
昨日と変わらずにそこにある鉄の扉。
二回ノックする。
「失礼します……」
声をかけながら重たい扉を押しあけると、奥の方に花純先生の姿はなかった。