白露は薄い笑みを浮かべ、穏やかに頷いた。
「愛梨、いいことを教えてあげましょう」
「いいこと?」
白露の白くて大きな手が、愛梨の頬にそっと触れた。
愛梨は驚いて胸を高鳴らせる。
「とにかく働きなさい。馬車馬のように。そうすれば、すべて忘れられます」
「人の話聞いてました!? 私は忘れたいんじゃなくて、思い出したいんですよ!」
白露はカラカラと声をたてて笑う。
絶対に、何か隠し事をしている。愛梨は彼の横顔を睨みつけた。
いつか、全部を思い出す時が来るだろうか。
「白露さん。あの日、駅前で会った時。どうして私に、働かないかって声をかけたんですか? どうして私だったんですか?」
白露は湯飲みの梅昆布茶を飲み干し、ぽつりと呟いた。
「あなたなら……」
「私なら?」
白露は一瞬考えるように呼吸を置いたあと、また話し出す。
「あまり賢くなくて扱いやすそうだから、店番に丁度良いかと思ったんです」
「どうしてそうやって意地悪ばっかり言うんですか!」
ギャーギャー騒いでいると、いつの間にか雨が上がっていた。
カラリと晴れた空、朱い橋の向こうを、誰かが戸惑いがちに渡ってくる姿が目に入る。
「ほら、ちょうど客が来たようですよ」
「あ、本当だ。はいはいっ、今準備しまーす!」
愛梨は急いで湯飲みと大福の包み紙を片付ける。
席を立ったときには、彼女の横顔はもう白露庵の立派な店員の顔つきに変わっていた。