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 白露庵の長椅子に座り、大福を頬張りながら、愛梨は細い雨が降るのを眺め続ける。


 そんな成り行きで白露庵で働くことになった。

 昔、確かに彼と何かがあったのだ。


 だけど愛梨は忘れている大切な記憶を、結局思い出すことが出来ていない。

 そして彼も、何も話してはくれない。


「今日はなかなかお客さん、来ませんねー」

「そうですね」

「でも白露さんとこうやってのんびりするのも、たまにはいいかもしれませんね。ほら、昔だって、こんな風に……」


 ――昔だって、こんな風に。


 考える度に、どうしてか胸がずきんと痛んだ。


 忘れている。

 眩しい太陽の光、草の匂い、そこで出会った着物姿の誰かの姿。

 とても大切な、絶対に忘れてはいけないことを、思い出せない。


「……あれ?」


 気が付くと、頬をポロポロと涙が流れ落ちていた。


 今、何か。

 すぐそこまで、大切なことを思い出しかけたのに。


 温かくて、優しくて、安心する大好きな人のことを。

 理由は分からないけれど、零れた涙は止まる気配がない。


 そんな愛梨を見て、白露は呆れたように笑みを浮かべる。


「意地汚い娘ですね。そんなに自分の大福を食べられるのが気にくわないのですか。今度から、豆の一粒一粒に名前でも書いておきなさい」

「違いますよっ!」


 頬をごしごしと擦りながら、愛梨は八つ当たりのように大福にかぶりつく。


「なぜでしょう。私、とっても大切なことを忘れている気がするんです」

「……そうですか」

「すごくすごく、大切なことなんです。絶対に忘れちゃいけない、大切なこと」


 ひっ、と泣きじゃくりながら、大福をぎゅうっとかみ締める。


「だけど、何を忘れているのか、どうしても思い出せないんです」