「叶野先生っていうのは?」


 愛梨の質問に、鏡華の表情がぱっと輝いた。


「日本人のプリンシパルよ。世界で最も素晴らしいバレリーナの一人なの! 

公演の予定も、三年先まで詰まっているみたい。でもこのバレエ学校の出身だってことで、今回のコンクールに特別に来てくださったの!」


 鏡華はまるで初恋の思い出を語るように、幸せそうに目蓋を閉じる。


「あたしは叶野さんのバレエを見て、感動してバレエを習い始めたの。世界で一番尊敬している人よ」

「憧れの人なんですね。だから今回の大会で、優勝したいんですね」

「えぇ。それに今回の大会で叶野さんに認められれば、ハンブルグでトップのバレエ団に推薦してもらえるの。二度と訪れないような、大きなチャンスなの!」


 キラキラした顔で語る鏡華を見て、愛梨は顔をふにゃふにゃにして微笑んだ。


「鏡華さんは、本当にバレエが好きなんですね」

「好き……?」


 そう言われ、鏡華はずきりと胸が痛むのを感じた。



 ――好きなのだろうか。


 分からない。

 昔は、幼い頃は。自分が一番でいられた頃は、バレエが大好きだった。

 鏡華が踊ると、みんなから褒めてもらえた。周りの女の子は指をくわえて、羨ましそうに鏡華を眺めていた。

 家族も鏡華のことを誇らしげに話していた。自分はすぐに叶野さんのように、世界一のバレリーナになるのだと信じて疑わなかった。


 それなのにひかりが現れてから、大好きだったはずのバレエが、だんだんと苦痛に変わっていった。

 それでも今更辞められない。自分にはバレエしかない。

 学校の勉強は、ほとんどしなかった。そんなことをしている時間なんてなかった。


 同じ年頃の女の子たちが興味を持つ遊びも恋も全部捨てて、自分のすべてをバレエに一滴残さず注ぎ込んできた。


 バレリーナになるために、留学する決意だってした。

 海外に行くと決めた時は、輝かしい未来に憧れて、世界がキラキラしていた。

 それなのに今の鏡華は、暗い沼の中をもがいているようだった。

 いつの間にか手足にどんどん余計な枷が増えて、身動き出来ない。


 ひかりさえいなければ、自由に踊れる。ひかりさえいなければ、最初にバレエを知った頃のように、楽しく踊れる。

 そんな考えばかりが頭に浮かぶ。


 今更やめる選択肢なんてない。

 自分からバレエを奪ってしまえば、空っぽになる。

 だからもう、分からない。


 ――今の自分は、手放しでバレエを好きだと言えるだろうか?