たしかに私は家に帰るつもりなんてない。今はおばあちゃんの顔を見たくないし、明後日のことを考えるだけでまた鼓動が速くなってくる。
今の私に帰る場所なんてない。でも、でも……。
「うちにいれば」
暗闇に落ちかけていた私を救ってくれるみたいにヒロの言葉が飛んできた。
「別に強制はしないけど、当てもなく野宿できるほど世の中甘くねーよ」
「で、でも迷惑じゃ……」
「迷惑なら電柱に座りこんでる女に声なんてかけねーから」
ヒロの不器用な優しさにまた涙が出そうになる。
本当に私はここにいていいのだろうか。
ヒロを疑う気持ちなんてないけど、今の私はひどくマイナス思考だから、心の中ではあの人たちみたいに厄介者だと思ってるんじゃないかって、考えてしまう。
「まあ、猫を一匹拾ったと思えば、俺にとっては全然大したことじゃねーよ」
「ね、猫……?」
たしかにご飯まで貰って、かなりなついている感じはあるけれど……。
「うちのアパート、ペット禁止だから爪は立てるなよ」
意地悪なヒロの顔に不覚にもドキドキしてしまった。
爪は立てないし、騒がないし、いい子にする。でも、ひとつだけ甘える前に聞かなきゃいけないことがある。
「……彼女は平気なの?」
私は恋愛経験がないから分からないけど、付き合っていれば家にだって出入りするだろうし、ヒロがいくら優しくても彼女がいるのに私を部屋に連れてきたり、〝うちにいれば〟なんて言ったらダメな気がする。
「は?なんの話?」
私の気持ちとは真逆にヒロがきょとんとしていた。
「だから彼女の話」
「いや、いねーし」
「嘘つかないでよ。私、知ってるから。ミキっていう人のこと」
「そりゃ、ミキのことは知ってるだろ」
ん?なんだかちっとも話が噛み合ってない。お互いになにを言ってんのって顔で少し沈黙になる。
「えっと、彼女の名前、ミキさんでしょ?」
確認するように私は聞く。
「だから彼女はいねーって。つか、どっから勘違いしてるか知らねーけど、ミキって奏介の名字だから」
……え?待って。頭が軽くプチパニック。
「アイツ三木奏介って言うんだよ」
「え、ええ?」
騒がしくしないと思ったそばから、つい大きな声が出てしまった。ヒロは「……たく」と呆れた表情をしているけど、ずっとミキさんが彼女だと思ってたから、まだ信じられない。
「で、でも奏介くんの名字〝馬鹿〟じゃないの?」
「は?」
「だって前にヒロのスマホに奏介くんから電話がかかってきた時に馬鹿って……」
「ぷっ」
私は真面目に言ったのに、ヒロがいきなり吹き出した。
「あはは。だからお前勘違いしてたの?つか、今までアイツの名字馬鹿って思ってたんだ。くく、ヤバい。つぼった。腹いたい」
ヒロはお腹を抱えてケラケラと笑っていた。
「も、もう!ヒロが奏介くんのことを変な名前で登録してるからでしょ」
失礼がないように、うましかさんかもと考えていた自分が恥ずかしい。
ヒロはまだつぼに入ったままで、ずっと笑っている。
「ちょっと、笑いすぎじゃない?」
こっちは顔から火が出るほど赤面してるっていうのに。
「くく、悪い悪い。すげえ面白くて。久しぶりにこんなに笑ったわ」
人差し指で涙まで脱ぐっているヒロがちょっと可愛いって思っちゃったから許す。
「でも、じゃあ、前に一緒に歩いていた人は?」
偶然とはいえ盗み見したみたいで言いたくなかったけど、この際なんでも聞いたほうが恥ずかしい勘違いをしなくて済むと思って。
「私、学校帰りにヒロが女の人と並んで歩いてるの見ちゃったの」
「ああ、姉貴だよ」
「え、お姉さん?」
「女と歩くなんて姉貴ぐらいしかいねーし。なに、それで俺に彼女がいるって思ってたんだ」
「……はい」
奏介くんのことといい、お姉さんのことといい、色々と先走りすぎて本当に穴があったら入りたい気分。
「直接俺に聞かないから勘違いするんだろ。今度から疑問に思ったことはすぐ聞け。アイツと姉貴をごっちゃにした存在を彼女だと思われてたなんて、普通に気持ち悪い」
「ごめんなさい」
「いや、なんでお前はすぐ責められてるみたいな顔すんだよ」
「……だって」
「面白いよ、お前。ついでにそんなくそみたいな勘違いしてたなんて普通にバカで可愛い」
「……っ」
私はヒロの顔が見れなくなって不自然に前髪を触る。
可愛いなんて、ヒロはそんなこと言わないタイプだと思ってたから不意討ちすぎるっていうか……。
誰かに可愛いなんて言われたのはヒロが初めてだって言ったら、また笑われてしまうだろうか。
「ってか、なんでそんなところに突っ立ったままなの?こっちに来れば」
ヒロがそう言ってソファーを指さす。
私は本当に借りてきた猫みたいにちょこんとヒロの隣へと座る。ふたりがけのソファーは自然と距離が近くて、動くと肩が当たりそうになってしまう。
ただでさえヒロの匂いがする部屋なのに、隣に座ったら余計に香りが強くてクラクラしそうになった。
「そんな固くならなくても、取って食ったりしねーから安心しろ」
ヒロがぽんぽんと私は頭を撫でる。
ヒロは私の事情なんてなにも探らない。
どうして家に帰りたくないのとか、ご飯を食べただけで泣いたことも本当はきっと美味しかっただけじゃないって分かってるはずなのに……。
「ヒロは、なにも聞かないんだね」
聞かれても答えられないことだらけだけど。
「お前が話したくなったら話せばいいことだろ」
ああ、本当にヒロはズルいな。
そうやって弱い私をすぐに受け止めてくれる。
あれだけ疼いていた傷痕が今はとても静かで。
癒えることなんてきっとないだろうけど、やっぱりいつかすべてを打ち明けたいと思うのはヒロみたいな人がいい。
ううん、私はヒロがいい。
*
次の日。私はヒロのベッドで目を覚ました。
昨日はあのあとお風呂と寝る用のスウェットまで貸してもらってしまった。
サイズの大きいヒロのスウェットは袖を捲ってもブカブカで、やっぱりヒロの匂いが濃い。
「まだ寝ててもよかったのに」
ヒロが洗面所から出てきて、すでに部屋着から私服に着替えていた。
……図々しく泊めてもらったんだからヒロよりは早起きしようと思ってたのにな。
「昨日、身体大丈夫だった?」
ヒロは昨晩ソファーで寝た。もちろん私は床でもどこでもいいって言ったんだけど、『お前はベッドで寝ろ』とヒロに押しきられてしまったのだ。
ヒロは身体が大きいし、絶対ソファーでは寝苦しかったはず。
「平気だよ。俺3秒あれば寝れるし」
たしかにヒロの寝落ちは早かった。
こっちはお風呂から上がったあとも気恥ずかしさが残っていて、適当にテレビでも見てていいよと言われ、ヒロがお風呂に入ってる間、リモコンだけは握りしめていたけれど、よく分からない政治のニュースをぼんやりと眺めてしまったぐらい。
ヒロは10分ほどでお風呂から出てきて、その濡れ髪にドキッとしたことは秘密。
それからヒロは髪の毛もろくに乾かさずにソファーへとダイブ。
風邪ひくよなんて注意をする暇もなく、ヒロは子どものようにそのまま眠ってしまった。
「っていうか、寝癖ついてるよ」
私はヒロの右耳の横を指さす。ヒロはいつもちゃんとしてるイメージだから寝癖なんてつかない人かと思ってた。
「ああ、いつもいつも」
「髪の毛乾かさないで寝るからだよ」
「ドライヤーなんて面倒くせーじゃん」
ヒロは部屋の隅に置かれている組立式のパイプハンガーへと向かう。
そこには洋服がかけられている他に収納ボックスもあって、その中には帽子がたくさん積まれていた。
「帽子、好きなんだね」
「うん。寝癖も隠れるし」と、ヒロは黒色のキャップを被る。こんなにも帽子が似合う人なんてヒロぐらいじゃないだろうか。
「俺、バイト行くからこれカギな」
投げられたカギを私はうまくキャッチした。自分の家以外のカギを見たのも預けられたのも初めてだ。
出掛けていくヒロを追いかけるように玄関へと向かい、これじゃ本当にペットみたい。
「……あ、あのさ……」
「ん?」
スニーカーを履くヒロが振り返る。
「私、今日もここにいていいのかな」
ずっとなんて思ってない。ただあのふたりの存在を感じる内は絶対に家には帰れないから。
自然と手の中にあるカギを私はぎゅっと握りしめる。
こんな出先に言うなんて、ヒロにすがっているように見えてしまっただろうか。もっと明るく、ヒロが気兼ねなく断れる雰囲気にしなきゃいけないのに……。
「いたいだけいれば」
「え?」
「戸締まりだけはちゃんとしろよ」
パタンと、閉まったドア。
私が弱すぎて、ヒロが優しすぎて、グスンと鼻をすすった。
ヒロがいなくなった部屋はとても広く感じた。
とりあえずベッドの布団を綺麗に整えて、部屋の掃除でもしようかと考えたけれど、私が掃除なんてしなくてもホコリひとつない。
ヒロはいたいだけいればいいと言ってくれたけど、ヒロのバイトが終わるのを待つだけじゃただのお荷物だ。
昨日は勢いのまま家を飛び出してきたから、お財布も持ってきてないし、着るものだってない。これから必要になる最低限のものだけは、取りに戻ったほうがいいかもしれない。
私がヒロの家を出たのは10時過ぎ。ちょうどおばあちゃんが買い物などで出かけてる確率が高い時間帯を選んだ。
出掛けるならと、ヒロが駅までの道のりをざっくりと紙に書いてくれたおかげで、私は馴染みある場所へとたどり着くことができた。
そこからはいつも通っている道を歩き、家が見えてきた頃に私は深呼吸する。
大丈夫。あのふたりが来るのは明日だ。今日を逃せば10日間はここへは近づけない。
あまり音を立てないようにそっと玄関を開けた。玄関に鍵はかけられていなかったけど、中におばあちゃんの気配はない。もしかしたら、近所の人の家にでも行ってるのかも。
私はすぐに2階へと上がって、クローゼットに入っていたボストンバッグを取り出した。このバッグはこっちに引っ越す時に使ったものだ。
元々私の私物なんて、このバッグに入りきるぐらいの荷物しか持ってきていない。私はまた半年前のように洋服や日用品を詰めていく。
こうやって人目を盗んでバッグに色んなものを乱雑に入れてると、泥棒にでもなった気分だ。
えっと、あとは洗面所にある洗顔と歯ブラシと……。
「サユ?」
突然、名前を呼ばれてドキッとする。
振り向くと、開けっ放しのドアの前におばあちゃんが立っていた。
「なにしてるの?」
おばあちゃんの視線が私のボストンバッグへと向く。
……せっかく鉢合わせしないようにしてたのに。
「昨日は帰ってこなかったでしょ?」
私はおばあちゃんの言葉に、ゆっくりとバッグのチャックを閉める。
『度が過ぎたしつけをされていたことは知ってる。それがサユにとって苦痛だったことも、寛之さんに馴染めなくてあまり関係がうまくいってなかったことも分かってるわ』
昨日言われたことが頭に浮かぶ。
全然分かってないのに、分かっていると断言されたこと。あんなことを言われて平気な顔して『ただいま』なんて帰れるぐらい強かったら、私はこんなに苦しんでない。
「……暫く、友達の家に泊まるから」
「……友達って?」
「家に連絡がいくようなことはしないから大丈夫だよ。じゃあね」
「……サ、サユ」
引き止めるようなおばあちゃんの声を無視して、私はそのまま家を出た。
軽い荷物だけなのにボストンバッグがずしりと重く感じたのは気のせいじゃない。