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次の日。私は学校に行くことにした。
夏休みまであと一週間だし、本当はこのまま休み続けてしまったほうが楽だけど、そしたら夏休み明けの学校がもっと行きづらくなると思ったから。
もちろん4日余りで私への視線がなくなることはなく、校門を抜けた時点で「ほら、あの子」と指をさされてしまった。
こんな風に惨めな気持ちになると、やっぱりあの男や母への憎悪は増す。
きっとふたりは私がいなくなったことでもっと楽しい生活をしてるのに、私の時間だけが止まったまま。
教室の空気は居心地が悪くて、私は屋上へと逃げてきてしまった。貯水槽の日陰に体育座りをしながら、私は空を見上げる。
そこには大きな入道雲が浮いていて、なんだか天空の城でも隠れていそうな雰囲気。
そんなことを思える余裕があるのは、まだ昨日の余韻が残っているから。
――『サユもやる?』
あれは本当に不意討ちというか、かなりドキッとしたな。
そうやってヒロの中に私という存在が認識されてるってだけで、誰とも繋がりがなかった私が、誰かと繋がってるんだって思える。
と、その瞬間。タイミングよくヒロからメールが届いた。
【今日の7時に海に集合】
文は一行だけのシンプルなものだった。なんの主語もないけれど、昨日言っていた花火のことだって分かる。
私は初めて男の子にメールを返した。
【了解】
やっぱり可愛らしい絵文字なんて打つことはできなかったけど、約束事があるってことが、こんなにも孤独を消してくれるものだなんて、初めて知った。
そして、1日の学校を終えて下校の時間になった。
クラスメイトの視線の他にも見ず知らずな上級生たちにもどうやら噂は届いているらしく、わざわざ私の顔を見にくる人もいた。
すごくイヤだったけど、夜のことを考えたら、なんとか乗り切ることができた。
コンビニの前を通りすぎて、ふと奏介くんのことを思い出したけど、今日はいない。
ヒロの話では私のことを気にしてくれてたって聞いたし、メールや電話も返してないままだから、今日会ったら謝らなきゃ。
そんなことを考えながら、家へと歩いていると、ふと横断歩道を歩いている晴丘の制服が見えた。
晴丘男子校はこの近くだし、すでに何人かの生徒とすれ違ったけど、あんな金髪をした人はひとりしかいない。
「ヒロ――」と、思わず名前を呼びかけて、私の声はピタリと止まる。
ヒロの隣には、女の人がいた。
胸元ぐらいまである茶色い髪の毛は大人っぽいゆるふわ巻き。手足が長くてモデルみたいなスタイルは、背の高いヒロと並んで歩いていると、とても絵になる。
〝ミキ〟
以前、ヒロが電話で話していた人のことが頭に浮かんだ。
私はヒロと友達ってわけでもないし、親しいわけでもない。だからここでふたりの会話を邪魔してまで声をかけなきゃいけない用事もないし、なにより美男美女すぎてお似合いとしか言いようがない。
ヒロに彼女がいることは分かっていた。
私に恋愛経験なんてあるはずがないけど、あの整った顔を女子は放っておかないだろうし、うちのクラスメイトたち騒ぎ立てそうなほどのルックスをしてる。
だから、ヒロに彼女がいることは当たり前なのに……。
なんで私、ちょっとチクリとしたんだろうか。
日が沈んで夜になった。私は自宅から徒歩で海へと向かうと、砂浜にはすでにふたつの影が動いていた。
「サユちゃーん!」
まだ開封されていない花火の袋を持ちながら、奏介くんが手を振っている。「よう」とヒロからも軽い挨拶をされて、不自然に私は会釈だけを返した。
「サユちゃん、見て見て。花火いっぱい買ってきたよ」
奏介くんが見せてくれた袋の中には手持ち花火から打ち上げ花火まで様々な種類のものが入っていた。
「……あの、ずっと連絡返さなくてごめんなさい」
「はは、いいよ。そんなこと。元気そうで安心した」
奏介くんはそう言って人懐っこい笑顔を見せる。
安心したのもつかの間に、ヒロは砂浜にしゃがみこんで、なにやらブツブツと独り言を言いはじめた。
「ガス残ってんのに全然つかねーんだけど」
ジュッジュッとヒロはライターを擦っていて、どうやら火をつけるのに手間取ってるみたい。
「俺の使う?」と、奏介くんが自分のライターを渡す。なんでふたりともポケットにライターが入っているのかは、あまり詮索しないことにする。
奏介くんのライターを試しに擦ると、すぐにオレンジ色の明かりが暗闇で灯った。
ヒロはそのまま砂浜に立てられたろうそくへと近づける。そして火が移る寸前に誰かの着信音が響き渡り、確認したのはヒロだった。
ヒロは画面を見るなり、ライターから手を離して急に腰をあげる。
「ちょっと電話してくるわ」
そう告げたあと、ザザッとヒロの足音が私から遠退いていく。
ここでできない電話ってことは、彼女からだよね。
夕方に見かけたヒロの隣にいた女性は本当に綺麗だった。
きっと年上の人だと思うけど、艶っぽさが離れて見ていた私にも伝わってきて、自分がひどく子どもに思えた。
そんな気持ちが芽生えてからは、ヒロはああいう人がタイプなんだなとか、考えなくてもいいことばかりグルグルと思ってる。
「サユちゃん」
ハッと気づくと、奏介くんが目の前にいた。
「ヒロが戻ってくるまで座って待ってよう」と、砂浜に腰を下ろして、私も続くようにお尻をつける。
奏介くんとふたりきりの空間に心臓が無意識に速くなってしまった。ヒロがいる時は大丈夫なのに、いなくなると急に不安になるだなんて、本当に私は子どもみたいだ。
「サユちゃんさ、ヒロのこと気になってるでしょ?」
前触れもなく言われた言葉に、今は別の意味で心臓が大変なことになっている。
「え、な、なんで……?」
もっと冷静に返さなきゃいけないところを、私の動揺は隠せないほど声や顔に表れていた。
「分かりやすいなー」
奏介くんにクスリと笑われてしまった。
たしかにヒロのことは気になっている。あれだけ男という生き物に拒絶反応が出てたのに、ヒロの大きな身体や背中を無意識に目で追ってしまう。
だって触れられて怖いと思わなかったのも、自分から触れることができたのも、ヒロが初めてだったから。
「で、でも、気になると言っても全然奏介くんが思ってる感じじゃないですよ。ヒロには付き合ってる人がいるし」
そう、別にこれは恋愛感情じゃない。
「んー付き合ってる人?今はいないんじゃない?昔からヒロはモテるけど、いつも女なんていらねえって感じだよ?」
でも〝ミキ〟って呼んだ名前は聞き間違えじゃないし、一緒にいるところも見たから、奏介くんには言ってないだけなのかもしれない。
「まあ、男同士だとあんまり恋愛話はしないし、いつも俺が一方的に話を聞いてもらうほうが多いかな」
うん。なんとなく想像はつく。いつも奏介くんのお喋りにヒロが気だるそうにしながらも聞いてあげてるなって印象だったから。
「仲良しなんですね」
ふたりを見てると、学校にいるうわべだけで集まってる人たちとは違うって分かる。
「うーん、仲良しって言われると照れるんだけど。ヒロとはもう6年くらいの付き合いかな。同じ中学でね、俺が喧嘩吹っ掛けたらボコボコにされたの」
ボコボコにされたと言ってるわりには「あはは」と奏介くんは嬉しそう。
ヒロはなんとなく喧嘩が強いイメージは湧くけど、奏介くんが吹っ掛けたというところがあまり想像できない。
そんな心の声がどうやら顔に出ていたみたいで、「俺もそれなりに強いんだよ?」と続ける。
「ヒロと会うまでは負けたことなんてなかったし、俺を見るとみんな泣きながら逃げてくんだから」
本当かな?今のはちょっと盛った気もするけれど。
「ヒロに負けた時、悔しいって思えないほど、かっけーなコイツってなっちゃって。それから俺がヒロに付きまとってる感じなんだけどね」
そうやって素直に口に出せちゃうところがきっと奏介くんのいいところなんだと思う。
「……羨ましいです。私にはそんな友達はいないから」
いつも隠すことばかりで、自分をさらけ出したことなんて一度もない。
むしろ、受け入れてくれる人なんているのかな。
自分でも引くようなえぐい傷痕を、なんの躊躇もなく触れてくれる人が現れたら……って、私はなにを考えてるんだろう。
きっと私の身体は誰が見ても同じだ。
クラスメイトたちみたいに好奇の目をしながら、私から離れていくに決まってる。
「俺はサユちゃんのこと友達だって思ってるよ?友達になろうよ。それにヒロの恥ずかしいエピソードもいっぱい知ってるし、サユちゃんに特別に教えてあげる――」
奏介くんの言葉が言い終わる前に飛んできた蹴り。
「余計なこと言ってんじゃねーよ」
それは電話を終えて戻ってきたヒロだった。
「痛いな、もう!」
奏介くんは蹴られた背中を触る。
「うるせーな。お前はさっさと火の準備でもしてこい」と、ヒロは先ほどのライターを奏介くんへと返した。
「はいはーい」
奏介くんが座っていた腰を上げると、交代するようにヒロはその場へと座り、距離は奏介くんの時よりもだいぶ近い。
それでも、やっぱり私の心臓は静寂の海のように穏やかだ。
潮風に混ざり合うようにふわりとヒロの匂い。
きっとヒロは香水も整髪剤も使っていないのに、どうしてこんなに私の心を引き寄せるような香りがするんだろうか。
「なに話してたんだよ、アイツと」
「えっと、ヒロが奏介くんと喧嘩してボコボコにした話?」
「……ったく。そんな昔のことを」
もしかしたらヒロは自分の話を自分がいないところでされることがイヤなのかもしれない。
じゃあ、私がヒロに聞くことはアリなのだろうか。ゴクリと唾を飲み込んで私は声を出す。
「ヒ、ヒロの好きな色はなんですか?」
勇気をだして聞いたことは小学生みたいな質問。
「は?べつにないけど」
「じゃあ、好きな動物とか……」
「いねえ」
初歩的なことから知ろうと思ったのに失敗した。そもそも色とか動物とか聞いてどうすんのって感じ。
私のコミュニケーション能力なんて5年前で止まったままだから、距離の縮め方なんて全然分からないのだ。
「なら、お前の好きな色はなんだよ」
「へ?」
おうむ返しのように質問されてしまい、「あ、青かな?」と、とっさに答える。
「じゃあ、好きな動物は?」
「自分より小さいもの」
「好きな天気は?」
「暑くない晴れの日」
「血液型は?」
「A」
「誕生日は?」
「6月10日」
「じゃあ……」とまだまだ続きそうだったので、私は慌てて止める。
「わ、私はヒロのことを知りたいの!」
思わず出てしまった言葉に口を押さえたけれど、すでに遅くてヒロにクスリと笑われてしまった。
「じゃあ、同じこと聞いていいよ」
あ、って思った。
もしかしたら上手く質問できない私のためにヒロはわざと聞きやすいようにしてくれたんじゃないかって。
ヒロのおかげで私は3つ知ることができた。
ひとつはヒロの好きな天気も暑くない晴れの日だということ。
血液型も同じA型だということ。
そして唯一、違ったことはヒロの誕生日は5月30日。
私の生まれた10日前にはすでにヒロはこの世界にいて、産声をあげていたんだと思ったら、無性に嬉しくなった。
「おーい!火ついたよ」
向こうで奏介くんが私たちを呼んでいて、暗闇でゆらゆらとろうそくの火が揺れている。
まずは手持ち花火からと、奏介くんが手渡してくれたのはすすきと呼ばれる細長い竹の棒のもの。
先端に巻き付けられている紙に火をつけると、まるですすきの穂のように「シュー」と花火が吹き出した。
同じ種類の花火にヒロも火をつけて、噴射する色が白から黄色へと変わっていく。
……花火なんて、久しぶりにやった。
この火薬の匂いも充満している煙も、なんだか夏がきたって感じで。季節を感じることはできているだけで感動してしまっている。
奏介くんは花火を空中で回しながら絵を書こうとしていて、どうやらヒロの顔らしい。
「スゲー似てない?」と、ぼんやりと煙で浮かんできたのは、とても変な顔。
「それお前じゃね?」
「いやいや、ヒロでしょ」
「お前そっくりだよ。よかったな」
なんだか言い合っているヒロが子どもみたいで可愛い。
そういう一面もあるんだって知れたことと、ふたりのやり取りが面白くて、気づくと私は笑っていた。
すると、ヒロと目が合って、またクスリとされる。
「お前はそういう顔してたほうがいいよ」
……ドクンッ。
その眼差しが優しくて、私は泣きそうになった。
「じゃあ、次は打ち上げ花火しよう」と、奏介くんが準備をしはじめて、私たちは花火から距離をとる。遠くでその作業を見つめながら、私はやっぱりヒロの横顔を見すぎてしまう。
「ヒロありがとう。誘ってくれて」
じゃなかったら、私はまた味が感じないご飯を食べて、自分の身体を見たくないからさっさとお風呂に入って、夢の中であの日々を繰り返す。
そんな1日の終わり方をするだけだった。
「……また、誘ってくれる?」
ヒロはバイトで忙しいし、なにより彼女もいる。だから、こんなことを言うのは迷惑だって分かってる。