大きかったはずのヒロが少しだけ小さく感じたのは気のせいじゃない。
ヒロは夏休みが明けてからずいぶんと痩せてしまった。私の前ではやっぱり強がるけれど、ご飯もあまり食べられないくらいヒロの身体は弱ってきている。
「大丈夫。大丈夫だよ、ヒロ」
私は何度もその言葉を繰り返す。次第に肩で呼吸していたヒロが落ち着いてきた。
「前と逆だな」
私の腕の中にいるヒロが何故かクスリと笑う。
「……逆って?」
「お前が夢にうなされてた時のこと」
過呼吸になって上手く息が吸えなかった夜。ヒロは私を抱きしめて自分の酸素を送ってくれた。
そして『大丈夫、大丈夫だから』と言って、朝まで同じベッドで眠ってくれたことは一生忘れない。
ヒロがいたから、私は苦しみを乗り越えることができた。
ヒロがいたから、私はたくさんの感情を取り戻すことができた。
だからこれからは私がヒロに返す番だと思っていたのに……どうして時間は止まってくれないんだろう。
「サユ。今なら戻れる」
ヒロがゆっくりと顔を上げた。
なにを言いたいのか、なにを言おうとしてるのか。ヒロの真剣な瞳ですべてが分かった。
「俺はお前を置いていなくなる。そういう悲しみをサユに背負わせたくない」
ヒロの濡れた視線がまっすぐ私を見つめていた。
ずっと強いと思っていたヒロの初めて見せた弱い顔。
「まだ戻れる。だからお前は俺のことなんて忘れて……」
「バカじゃないの」
ヒロの言葉を私は遮った。
まだ戻れる?今なら戻れる?
もう戻れないよ。こんなに心はヒロでいっぱいなのに、ヒロがいなくなるから離れるなんて、そんな選択肢は私にはない。
後戻りなんてしない。
この先、立ち上がれないような悲しみが訪れても。世界で一番大切な人との別れが待っていても。
私は、私は……。
「私はヒロが好きだよ」
好きで好きで、こんなに人を想うことなんてこれから先もないんだろうなってぐらい。
「なにがあっても傍にいる。ヒロが私をひとりにさせなかったみたいに、私もヒロをひとりで戦わせたりしないから」
「………」
「ヒロ、大好き」
その瞬間、ふわりと私の髪の毛が揺れたあと、ヒロがそっと頬に触ってゆっくりと唇が重なった。
一回目は戸惑うように。
二回目は恥ずかしそうに。
三回目はお互いの想いを確かめるようなキスだった。
そして私たちは自然とベッドへと移動した。
「いいの?」と、何度もヒロが聞いてきて私は小さく首を縦に振る。
ヒロが私のブラウスのボタンをひとつずつ外していって、鼓動がうるさいのは恥ずかしいことよりも、身体の傷痕を見せる怖さ。
でも、ヒロになら見せられる。
ヒロだから見てほしいと思えた。
「……けっこうひどいでしょ?」
ずっと隠し続けていた内出血を繰り返した痕。
露(あらわ)になった腕やお腹や背中。自分でもなかなか直視できない傷痕をヒロはただじっと見つめていた。
「ごめんね。本当は綺麗な身体をヒロに見せたかったけど……」
「綺麗だよ」
「え?」
「サユはすげえ綺麗だよ」
じわりと瞳に涙が溜まっていく。ヒロが傷痕にキスをするたびにどんどん過去に落としてきた心の欠片が集まってくる。
「ってか俺もサユに見せてないものあるんだ」
そう言ってヒロがTシャツを脱いだ。上半身裸になったヒロの左胸には大きな縦方向に伸びる手術の痕。
「俺もこの傷は誰にも見せたことない」
ヒロが私と同じように不安な顔をした。
「触ってもいい?」
「うん」
ゆっくりと私は手を伸ばしてヒロの傷痕に触れる。
手を添えるとドクンドクンと心臓の音が伝わってきて、こんなに愛しい気持ちになったのは初めてだ。
「ヒロこそ、いいの?また苦しくならない?」
「今はなってもいいよ」
ヒロがまた私に優しいキスをする。
「私たち傷だらけだね」
言いながら声が涙で詰まった。
「うん。でも痛くない」
「うん。もう痛くないね」
そして天窓から見える空が星でいっぱいになる頃、私たちはひとつになった。
お互いの傷痕に触れて、お互いに何度も名前を呼んで。これが最初で最後だということはヒロも私も分かっていた。
でも、暖かさも愛しさも今はなにもかもが同じで。
こんなに幸せな瞬間がこの世界にはあるんだって思ったら、また泣けてきて。
ヒロは目を細目ながら「好きだよ」と、涙にもキスをしてくれた。
次の日。私はヒロの腕の中で目を覚ました。目を開けるとすでにヒロは起きていて、どうやら寝顔を見られていたみたい。
「お、お……おはよう」
噛みそうになった私を見てヒロが笑う。
「うん。おはよう」
ヒロは大きなあくびをしながら身体を起こして大きく手を伸ばした。
ヒロと迎える朝は久しぶりのこと。なんだか昨日のことが夢のようだけど、ヒロからもらった愛しさが身体に残っていて胸が熱くなる。
「学校面倒くせーな。今日サボるか」
ヒロは冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを飲んだ。
「そんなことしたら美幸さんに怒られるよ」
「バレなきゃいいだろ」
「でも私今日数学の小テストがある」
「じゃあ、行かなきゃダメだな」
不良なのに、実は真面目なヒロのこういうところも好き。
「家に連絡した?心配してんじゃねーの?」
「うん。今してるところ」
昨日は無断外泊をしてしまったから今さらおばあちゃんにメールを打っていた。
今日帰ったら怒られると思うけど、昨日のことに後悔はないし、思い出すだけで胸がいっぱいになる。
「ヒロ、昨日はありがとう」
「なんで礼なんて言うんだよ」
「なんとなく?」
「バカ」
軽くおでこを小突かれて、こんなやり取りでさえたまらなく嬉しい。
もしかしたらヒロにムリをさせたかもしれないし、ヒロのことを考えれば正しい行動ではなかったかもしれない。
それでも、ヒロがしてくれたのにはたくさんの意味があって。
暖かさも嬉しさも喜びも愛しさも、私があとで思い出せるように。
鮮明に色濃く、私が寂しさで押し潰されないようにと、ヒロは私に愛をくれた。
「準備できた?」
「うん」
そのあと私たちは一緒に家を出て学校に向かった。
そしてヒロが倒れたのは、それから3日後のこと。
中央総合病院に運ばれたヒロは意識不明になったけれど、駆けつけたヒロのご両親や美幸さんや奏介くんの呼びかけに応えるように、なんとか一命は取り止めた。
でも、ヒロの心音を検査した医師からは『覚悟してください』と言われて、ヒロのタイムリミットはもう目の前まで迫っていた。
*
私は今日も学校帰りに病院へと向かった。
ヒロの病室は三階の西側。とても日当たりがよくて夕方のこの時間だと窓からいつも綺麗な夕焼けが見える。
病室の前に着いてドアをノックしようとすると、わずかに隙間が開いていて中にはヒロのお父さんとお母さんがいた。
ふたりは毎日こうして往復二時間をかけてヒロに会いにくる。私はすでに挨拶は済ませたけれど、あんなに緊張したことはないってぐらい声が震えた。
ヒロの顔はお父さん似で、優しいおおらかな性格はお母さん似。私は話の邪魔にならないようにそっとドアから離れた。
最初は3人の話も途切れ途切れで美幸さんが間にいないとすぐに沈黙になってしまったけど、最近はそんな心配がいらないくらい普通に話している。
10年前にご両親が移植を望んだことは間違いじゃないし、女の子の代わりに苦しんだヒロの気持ちも間違いじゃない。
そういう今まで話せていなかった時間を取り戻すように、今はしっかりとした親子の形になってきている。
「サユちゃん」
三階の休憩スペースに座っていると、美幸さんがお花を持ってやってきた。
美幸さんはいつも殺風景なヒロの病室を明るくしようと、こうして黄色や赤の鮮やかな花を買ってくる。
「ヒロの病室に行かないの?」
「今、ご両親と話してるのでお茶でも飲んでようと座ったところです」
「ごめんね。気を遣わせちゃって」
「はは、全然大丈夫ですよ」
美幸さんが私の隣に腰を下ろすと、前に会った時よりもかなりお腹がふっくらとしていて、ゆったりとしたワンピースの上からでもよく分かる。
「ずいぶんお腹大きくなりましたね」
「うん。なんか急にね。最近はよく動いたりもするよ。触ってみる?」
「いいんですか?」
私はそっと美幸さんのお腹に触れた。
「でも人に見られたりしてるとなかなか動かないんだよね。うちの旦那もいつもタイミング悪くて……」
「あ!」
美幸さんの言葉を遮って、思わず声を出してしまった。だって今手にポコッて感触が……。
「動いたね、今」
どうやら美幸さんも分かったようだ。
「わあ、なんか感動しちゃいます……」
美幸さんいわく動いたのは足らしいけれど、お腹の中で元気に動いてるなんて本当にすごい。
「サユちゃんのことが好きなのかもね」
「だと嬉しいですけど」
美幸さんはお腹を優しい表情で撫でながら、ぽつりと呟いた。
「でも複雑だよね。新しい家族が増えようとしてるのに、ヒロがこんな状態なんてさ……」
美幸さんはもちろんヒロの前では絶対に悲しい顔は見せないけれど、病室を出たあとはいつも糸が切れたように泣きそうになることは知っている。
美幸さんやご両親を見ていると、ヒロがどれだけ大切に育てられてきたのか分かる。
そして暖かな人たちに囲まれて成長したからこそ、ヒロはあんなにも心の優しい人なんだと思う。
「ヒロ、美幸さんの赤ちゃんが男の子だって気づいてますよ」
「え?」