昼過ぎに来るお客さんにとっては『昼ごはんじゃないの?』って思っていたのもたしかだし。
憮然とした顔で雄也は口を開いた。
「その人の新しい一日のはじまりに食べる食事が朝ごはんだ。自分の中で勝手に作った常識に当てはめるのは悪いクセだぞ」
「・新しい一日のはじまり・? じゃあ昼に食べるのも朝ごはん? それって一般的に見るとおかしくない?」
よくわからなくて尋ねると、夏芽ちゃんもうんうん、とうなずいてくれている。
「まったく」
つぶやいた雄也が、嘆くようにため息をついてから口を開いた。
「起きて最初に食べるごはんだから朝ごはんなんだ。この店は、一日のはじまりを応援するために存在しているんだ」
言われて気づいた。この話は、この間聞いたばかりだった、と。
雄也はここに来る人が元気に一日を過ごせるように、温かい朝ごはんを提供しているんだ。
「それにだ」と、咳ばらいをしてから雄也は言う。
「時間は人それぞれだ。昼前に起きて朝ごはんを食べる人だっているんだ。お前ら人間の悪いクセは、多数決で一般常識を決めたがることだ」
自分だって人間のくせに、と思ったけれどもう雄也は洗い物を再開している。
夏芽ちゃんに目をやると、聞いているのかいないのか、ぼんやりと宙を眺めていた。まるでお父さんとの思い出の中にいるみたい。
やっぱり、家から逃げ出して来ているのかもしれない。ひょっとしたら、新しいお父さんになる人が怖いのかも。新しく家族になった人からしいたげられる、ってニュースもたまに見るし……。
ひょっとして暴力とか─振るわれてるんじゃ……。
さっきも、なにかが『怖い』って言ってたし、そういう事態も十分考えられる。
てことは、そういう理由も十分考えられる。
「そろそろ行こうかな」
想像が走り出している私に、夏芽ちゃんの声が届いた。
「あ、はい」
見るとすっかり食べ終わっている。
「ごちそうさまでした」
と、手を合わせている表情にさっきまでの悲しみは見られなかった。
するっと立ち上がると、スカートのポケットから五百円玉を取り出そうとしているので待った。
私の手にそれが載せられるときに気づいた。
「あ……」
夏芽ちゃんの手に切り傷がいくつかあった。まだ新しいようで絆創膏がいくつも並んでいる。
「夏芽ちゃん、それ……」
思わず声に出した私に、サッと手を引っこめると、
「それじゃあ行ってきます」
わざと明るく声に出してから店を出てゆく。
悪い想像がまた頭で生まれている。
遅れて外に出ると、もう夏芽ちゃんは自転車に飛び乗っているところだった。
どうしよう、どうしよう!
頭の中でぐるぐるとさっきの夏芽ちゃんとの会話、手首の傷が早送りで映し出される。
「またね」
自転車に飛び乗った夏芽ちゃんは勢いよくこぎだそうとするので、
「待って!」
つい叫んでしまっていた。
─キィ。
ブレーキの音がして止まった夏芽ちゃんは、前を向いたまま片足を地面についた。
考えがまとまらない。
なんて伝えればいいのか、こういう状況になったことがない私には、その答えは見つかりそうもなかった。
だから、私はさっき雄也が言っていた言葉を思い出して、自分の願いを夏芽ちゃんに伝えることにした。
「今日が夏芽ちゃんにとって・新しい一日・でありますように」
「ふ」
軽く笑う声が聞こえ、振り向いた夏芽ちゃんの顔には笑顔が浮かんでいた。
「……ありがとう。行ってくるね」
「いってらっしゃい」
見送りながら思った。
どうか、彼女が笑顔でいられますように、と。
朝六時に開店するこのお店のピークは七時くらい。
出勤前の常連さんたちが次から次へとやってくるので四席しかないカウンターはすぐに満席になってしまう。が、朝の忙しい時間のせいか、回転が速くて待っているお客さんが出ることはなかった。
適度な忙しさがしばらく続くと、やがてポツポツとお客さんが続き、十一時を過ぎたころには数人が訪れる程度だった。
夏芽ちゃんが学校に行ってしまってから、ようやくお客さんが途切れた午後。
「ねぇ」
と雄也に声をかけるが、まったく反応がない。
声をかけたのに聞こえなかったふりで、奥の洗濯機がある部屋へ行ってしまった。
しばらくして醤油の瓶を持って出てきた雄也の前に通せんぼのように立った。
「今日の夏芽ちゃんのことなんだけどね」
「休憩していいぞ」
「そうじゃなくて、今朝の夏芽ちゃん」
話を聞こうともせず、強引に私を押しのけると、
「余計なことはするな」
と、低音ボイスで言ってくる。
「だって、あの手首の傷を見たでしょう?」
ずっとあの残像ばかりが頭に浮かんでどうしようもなかった。『怖い』と言っていたのが、精神的にではなく肉体的な理由だったとしたら……。
けれど、雄也はうっとおしそうな顔を隠そうともしない。
「ほら、これ」
渡されたのは『出納帳』と印字されているノートと大量の領収書だった。
「休憩後からそれをまとめてくれ」
「え? これ全部?」
だって、レシートは文庫本くらいの厚さになっているし。
「社員だから当然だ」
「げ……」
「急いでやってくれ」
って、こんなにたくさんの量、いつからやってなかったのだろう?
途方に暮れそうな量の領収書やレシートに、がっくりと肩を落とす。
「買い物行ってくる」
たすき掛けを解きながら雄也が言った。
「ねぇ、夏芽ちゃんの─」
「今は仕事をしろ」
ぴしゃり、と言って雄也は出ていってしまった。
「……はい」
納得できないままひとりつぶやくと、ひとつため息をこぼす。
雄也のいない時間は、初めはお客さんが来たらどうしよう、と心配していたけれどそれは杞憂であることを学んだ。普通のレストランならこみ合いだす時間なのに、ここはほとんどお客さんは来なくなるから。
来たとしても、みんな慣れているのか座って雄也の帰りを静かに待ってくれる。
左端の席で寝ているナムとふたりっきりの時間。
今日のまかない食は、夏芽ちゃんも食べていたおにぎり。
ゴボウと牛肉の甘辛煮は品切れらしく、シンプルな白米のおにぎりが湯気を生んでいる。
おにぎりは適度な塩加減で絶品だった。握りたてで中に入っている鮭の切り身まで息で冷まさないといけないくらい熱い。ほんと、感心するほど温度にこだわっている。
「鮭、食べる?」
尋ねても目も開けやしないナム。お腹は満たされているらしい。
スマホを見るとお母さんからのメールが一件。さすがに実家に強制送還することはあきらめたらしく、だけどしつこく就職先を尋ねてくる。今来ているメールもそういう内容だった。
今のところこの仕事が自分に向いているかは不明のまま。覚えることだらけでまだ自分としっかり話し合いをしていないまま毎日が始まり、そして終わってゆく。
ただ、早起きが得意な私には合っているようには思うんだけどな。
「出納帳かぁ……」
たくさんあるレシートの束を見るとため息が出てしまう。正直、経理の仕事はやったことがない。大学も文学部だったし。
前は出納帳をつけていた人がこの店で働いてたのかな?
てことは、あの紙に書いてあった『穂香』という人?
離婚したから、やってくれる人がいないのかな……。
そこまで考えて、ぜんぶ私の想像だと気づいた。こうして思考が突っ走るのは昔からの悪いクセだ。
「それにしてもこんなにレシートをためるなんて……」
恨めしそうにそれを眺めていると、
「あら。ひとりなん?」
扉からひょっこり顔を出したのは、園子さんだった。
「いらっしゃいませ」
立ち上がって挨拶をすると、
「休憩中やろ。そのままでええで」
ピンクのワンピースを揺らしながら園子さんはドカドカと入ってきた。だいたい昼ごろに訪れる園子さんも皆勤賞クラスの常連さんだ。
年齢は五十歳を超えたくらいだろうか。厚化粧にきつくあてたパーマ、そしてどこで売っているのか疑問な派手な服装、極めつけはその関西弁……。
まさしくテレビでたまに見かける関西のおばちゃんそのものだ。
もっとも本人は、『これは奈良弁やないで、大阪弁や』と言ってはいるが、その違いがよくわからない私にとっては、関西に住んでいることを実感させる人物だ。
「雄ちゃんは買い物?」
カウンターの中から湯呑を取って座った園子さんは、勝手にお茶を入れつつ尋ねた。
「はい。園子さん、今日はいつもより早いんですね」
「やめてや。園子さんって呼ばないでって頼んだやん」
「はぁ、でも……」
目上の人をそう呼ぶのは毎度抵抗を感じてしまうわけで。
「年を感じさせんといてや。園子ちゃん、でええねんって」
ガハハと豪快に笑うので、
「はぁ」
曖昧にうなずきながら「失礼します」と少し冷め出しているごはんの続きを食べることにした。
園子ちゃんはジュースのようにお茶を飲んでは「あー生き返る」とか「おいしいなぁ」とか言っていたが、やがて、
「あ、そうや。今日いつもより早く来た理由を聞かれてたわ」
と、今さらながら思い出した様子。
「早く目が覚めたんですか?」
「そんなとこ。最近はあんまりお客さん来ないから店も早く閉めるやろ。お金はないけど睡眠時間だけはしっかりとれるねん」
あっけらかんと言った。
園子ちゃんは夜のお仕事をしている、とこの間言ってたっけ。ここで食べるごはんが、彼女の朝ごはんなのだろう。そういう意味では、今朝の雄也の説明も納得できる。
多数決で一般常識を決めてはいけない、ってことか。
「お店、ってスナックとか?」
「まあな。ちっちゃい店やけどな」
へぇ、と改めて園子ちゃんの顔を見た。明るい人柄だから、楽しそうな店なんだろうな。
「って言っても、観光客相手やないで。うちは一見さんお断りの店やからな。ここと一緒や」
そう言いながら店内を見回して赤い唇で笑っている。
「一応、うちの店は『奈良町通り』に面してるけどな」
「そうなんですか」
「まぁ『奈良町通り』っていっても、この辺りには同じ名前の通りが何本もあるんやけどな」
一週間通ってもまだ慣れることはなかった。いくつも『奈良町通り』があるからややこしいのだ。
「この店は道に迷わないと来られないような場所ですもんね」
「もともとは『平城京』の道筋をもとに造られたらしいわ。江戸時代には産業の町として栄えたらしいで」
「そのころからあるんですか?」
言いながら、それもそうだと納得した。古い家がたくさん並んでいる通りだから歴史も古いはず。
「元興寺ってあるやろ?」
「あ、少し先にあるお寺ですよね」
一度迷ったときに横を自転車で走り抜けたことがある。
「元興寺の周りはそうとう栄えててな、たくさんの店が軒を連ねていたらしいわ」
「そうなんですか」
「でも、元興寺が中世以降に衰退したんやって。で、お店があったところに町屋と呼ばれる民家が立ち並んだのが『ならまち』っていうんや」
「だから広いんですね」
「相当な広さやし、観光名所になってからはどんどん広がってる気がするわ。外人さんからしたら古い町並みは珍しいんやろうな」
それだけ歴史のある町で仕事をしていることがなんだか不思議だった。うれしい、とかじゃなく異世界に紛れこんだような感覚。
特に歴史に興味がない私なんかがいいのかな、と気おくれしてしまう。
「でもここは、ならまちはずれやもんな」
突然園子ちゃんが口にした言葉に、ハッとしてその顔を見た。
「ならまちはずれ? それってどこかで聞いたことが……」
言いながら思い出した。この会社の名前だ。けれど園子ちゃんはそのことを知らないらしい。
「奈良町通りのはずれに位置するから、雄ちゃんは『ならまちはずれ』って言葉使ってるわ」
「どうして『ならまち』という平仮名表記の町なのに、通りの名前だけは『奈良町通り』っていう漢字の名前を使っているんですか?」
以前、さまよっているときに感じた疑問を尋ねてみると、園子ちゃんは首をかしげた。
「たしか、都市景観形成地区になってるらしいわ。それからひらがなで書くようになったんやけど、その前からあった通りの名前はそのまま漢字で使ってるみたいやで」
「都市景観……えっと」
「詳しくは知らん。んなの、どっちでもかまへん。ここが長い歴史の流れの中で大切にされている場所には変わりないからな。まぁここは、道に迷ってたどり着くような店やけど」
ニカッと笑う園子ちゃんに、
「そういうことなんですね」
うなずきながらも、私は夏芽ちゃんを思い出していた。
それは雄也があの日私に言った、『ならまちのはずれにある店だからこそ俺は、迷って道からはずれた人たちの背中を後ろから押してやりたいんだ』という言葉を思い出したから。夏芽ちゃんも雄也が言うように、重い荷物を背負って過ごしているのかもしれない。
今ごろ夏芽ちゃんは学校でちゃんと笑えているのかな?
悲しみに負けて気持ちが迷子になっていなければいいけど。
まかないごはんを食べ終わるころ、園子ちゃんが、
「それ帳簿?」
と、右側に置かれている出納帳を見つけて尋ねてきた。
「らしいです」
「雄ちゃんらしいな。全然やってへんやん」
あっけらかんと笑う園子ちゃんに、
「そうなんですよ。私に全部やれ、って言うんですよ」
と、唇をとがらせた。
「それも雄ちゃんらしいわ」
ふと、さっき考えたことを尋ねてみたくなった。
昔からの常連だ、といつも自慢している園子ちゃんならなにか知っているかも。
「このレシートってすごい量たまっているじゃないですか」
「たしかにな」
「前は、この帳簿をつけている人がいたのですか?」
「え?」
なぜか驚いた顔をした園子ちゃんは、すぐに笑顔を取り戻すと、
「さぁ、どうやったかいな」と、首をひねってお茶をガブッと飲んでいる。
あからさまに動揺してる。下手な役者でももっとうまくごまかすだろうに。
「あの、柏木穂香さんって─」
さらに本質に迫ろうと口を開いたときだった。
「なんだ来てたのか」
入口から雄也がひょっこり顔を出したのであわてて口を閉じる。
「遅いやん。早く朝ごはん食べさせてーや」
ホッとしたように園子ちゃんは文句を言う。
「ああ」
そう言ったあと、雄也が私を外に手招きした。
「野菜洗ってくれ」
「はい」
戸の外に出て、両手に抱えた野菜を受け取ると、そのままベンチの横についている蛇口から水を出す。
冷たい水でほうれん草、そして絹さやを洗った。袋に入っていないところを見るとまた誰かにもらったのだろう。私にできる数少ない仕事のひとつだ。
しっかり洗ってから備えつけの竹かごに入れて店内に戻る私に、
「わざわざ外で洗わせるんかいな。雄ちゃんは綺麗好きやな」
園子ちゃんがイヤミっぽく言うと、雄也は「は?」と眉間にしわを寄せた。
「綺麗好きとかそういう問題じゃない。飲食店に食中毒は命取りだろうが」
「食中毒ってなんで?」
「えっとですね」
きょとんとしている園子ちゃんには私から説明をする。
「土には大腸菌が含まれているので、それを厨房に持ちこむのを避けているわけです」
同じ質問をしたときにあきれた顔で説明された内容だ。雄也は肯定するわけでもなく淡々と調理にとりかかっている。
「まあそれだけしっかりお店を切り盛りしてるってわけやな」
ガハハとまた笑った園子ちゃんは、出された食事を驚くほどの速さで食べ終わると、お茶をガブガブ飲んで世間話をしだした。
途中で雄也がタオルを洗いに奥に引っこんだので、またふたりきりになる。
さっきの質問の続きは、さすがにできない。
厨房の奥には雄也の居住スペースがある。お店用の洗濯機はすぐ裏にあるし、いつ顔を出すとも限らない。
と言うか、さっきの園子ちゃんの反応がおかしかったことで、何気ない質問もタブーに触れる内容だと悟った。聞いてはいけないことなのだろう。
私も社会人になったことだし、こういうことも理解しなくちゃね。
「さ、帰ってお店の買い出しに行かなくちゃ」
よいしょ、と立ち上がった園子ちゃんは五百円を支払うと、来たときと同じように風を起こしてドカドカと出口に歩いてゆく。
急ぎ足で追いつき、
「ありがとうございました」
と、見送ろうとしたとき。
「詩織ちゃん」
小声で園子ちゃんが耳打ちした。
「はい?」
つられて声をひそめると、園子ちゃんはしばらく迷ったように口を閉じてから言った。
「さっき言ってたやろ。柏木穂香、って名前」
「はい?」
これはまずい展開かもしれない。
ひそひそ声で話さなくてはならないような秘密の話だとしたら聞かないほうが無難だろう。
私の想像が正しければ、雄也と穂香という人は離婚している。あの無愛想だもの、その推理はけっこう真に迫っていそう。
だけど、せっかく働き始めたのに余計なことは知りたくなかった。
「あ、別にいいんです。ちょっと気になっただけですから」
情報をシャットアウトしようと手を横に振るけれど、園子ちゃんの口は堅くはないらしい。
一度だけ店内を振りかえってから、私を外に連れ出すと長いつけまつげが引っつくくらい顔を寄せてきた。
「これ、私が言ったって言わんといてよ」
「私ほんとにもう─」
「妹さんなの」
園子ちゃんの言葉にぽかん、と口を開けたまま時間が止まった。
妹……。
「へぇ、そうだったんですか……」
柏木穂香さんは雄也の妹の名前だったのか。じゃあ兄妹でこの店、というか会社をやっているんだ。
「でも、もういない」
静かに言った園子ちゃんの顔を見た。
「いない?」
聞いちゃダメだとわかっているのに、好奇心に負けて聞きかえしてしまった。うなずいたその顔にいつもの笑みはなかった。
「雄ちゃんがこの店をやってるんは、妹さんのためなんや」
そう言うと「じゃあ、またな」足早に帰ってゆく園子ちゃん。
「あ……。待ってください」
「なんや」
振り向いた園子ちゃんに、すう、と息を吸った。
「今日が園子ちゃんにとって・新しい一日・でありますように」
「はは。ありがとうな」
軽く手を上げて去ってゆく後ろ姿を見ながらも、頭の中は初めて知った情報に混乱したままだった。
出納帳をつけながらお客さんを待つ午後。
あと三時間で今日のお店は閉店。カウンターに座ってレシートをトランプゲームでもするみたいに並べてゆく。
無造作に重ねられたそれらは、日付順にするだけでもひと苦労だ。ここのところこればっかりやっているけれど、いっこうに減る気配のないレシートにうんざりしてしまう。
雄也はさっきから厨房の丸イスに座って本を読んでいるようで、ひと言も発さない。
「ねぇ」
声をかけてみても返事はなし。
「あのね、夏芽ちゃんのことなんだけどね」
夏芽ちゃんの手首の傷を見てから一週間が経っていた。
あれからしばらくこの話題はしないようにしていた私。どうせ口にしてもシャットアウトされるだろうから。
でもあの日以来、夏芽ちゃんは悩んでいる顔を隠すことはなくなってきていた。ぼんやりと考えこむことが多くなり、その変化ははたから見ても明らかだった。
雄也も感じているのだろう、チラッと私を見てくるが遮ることはしなかった。
「夏芽ちゃん、大丈夫なのかな? 最近おかしいでしょう」
「……知らん」
ようやくの返事もそっけない。レシートを持っていた手を休めて私は雄也を見る。
「この間、夏芽ちゃん『怖い』って言ってた。それに手首に傷があったよね。それってもしかして……」
言いながらゾクッとした。
考えられるとしたらひとつしかない。あの日以来ずっと考えていた答えを口にした。
「家庭内暴力を振るわれているんじゃないか、って」
言葉にすると本当のことのように思えた。そう、きっと夏芽ちゃんは新しいお父さんから虐待を受けているんだ。
ニュースでしか見たことのない出来事がこんな近くで起こっているなんて。
きっと怖くて悲しいだろうな。
中学生の女の子にそんな思いをさせているのなら、なんとかしてあげたい。
夏芽ちゃんだって悩んでいるからこそ、あんな表情になっているんだし。
だけど雄也は、
「余計なことはしないほうがいい」
とだけ言って本から目を離さない。
「でも、でもね」
「読書中」
話をする気はもうないらしく、さっきよりも奥のほうを向いてしまう。
知れば知るほどに雄也は他人に興味がないようにしか思えない。毎日のように来てくれているお客さんなのに、まったくの無関心とはあきれてしまう。
「夏芽ちゃんはまだ中学生なんだよ。あんな小さい子が悩んでいるのに、なんとも思わないわけ」
「突っ走りすぎなんだよ。詩織、少し落ち着け」
「落ち着くって、そんなこと言ってられないでしょ。今日も学校から帰ったら、夏芽ちゃんは新しいお父さんに暴力を振るわれるかもしれないのに」
「それはただの妄想だろ」
頭にだんだん血が上っているのか熱くなってきている。こんなに冷たい人だったっけ? 私が傷ついていたあの朝、手を差し伸べてくれたと思っていたのは勘違いだったの?
「冷たすぎるよ」