久人さんがちらっと私を見て、「昨日までは」とつけ加えた。

私は思わず、持ったままのスリッパを握りしめた。まるでそれと連動するように、久人さんの鞄を持つ手にも、力が入ったのが見える。

もしかして、久人さん。


「本当の、息子さんに会いに行っていたんですよね、無事に会えましたか」

「私たちは、本人でなく、彼を育ててくれた夫妻に会いに行ったんだよ」


目を伏せ、お義父さまは思いを馳せるようにつぶやく。


「彼らは、立派に育てあげてくれていたよ」

「…父さん、母さん」


その声は、玄関先というこの場に似つかわしくない真剣みを帯びていて、私を含め、たぶん誰もが驚いた。久人さんは決死の表情を浮かべていた。


「僕は、あなたがたに拾われた恩を、まだ返していない。一生をかけて、返したいんです。どうかその資格を、僕にください」


途中で遮られたら、もう続きを言えない。そう感じているような声だった。必死で、夢中で、久人さんが心の中を、言葉にしている。


「久人…」

「高塚の当主の座も、会社での役職もいりません。跡取りという立場も、取り上げてくださってけっこうです。でも」


浴びる視線に耐えきれなくなったみたいに、一度うつむく。けれどすぐに、顔を上げた。


「ひとつだけ、わがままを聞いてください」


言葉ほどに、声は決然とはしていなくて。

父親と目を合わせた瞬間、瞳を潤ませて。揺れた声で、久人さんは吐き出した。


「僕は、父さんと母さんの息子でいたい」


静かな声だったけれど、叫びだと感じた。

愕然とした表情で聞いていたお義父さまが、片手を伸ばす。

その手が、震える久人さんの頭を、そっと抱き寄せた。