ネクタイを結ぶ時間もなかったらしい、珍しくノータイだ。そういえば今度、ネクタイの結びかたを教えてもらおうと思っていたのを思い出した。


「行ってらっしゃい」

「うん」


慌ただしく靴に足を入れ、久人さんが振り返った。


「行ってくる」


唇に落とされる、優しいキス。ただの行ってきますの挨拶というには、ちょっと甘い。『ゆうべのこと、忘れてないよ』そんな感じのキスだ。

唇が離れてからも一瞬、見つめ合ってしまった。

わあ、なにこれ、恥ずかしい。


「…朝は、どちらに出社を?」


久人さんは少し言いづらそうに、「商社に」とつぶやく。

私は彼の手を握った。

その調子です。信じてください、あなたの居場所はあります。

あなたがあきらめてしまわないかぎり。

ためらいがちに、にこっと微笑み、久人さんは出ていった。

身支度の仕上げと、家の片づけをするためにあちこち動き回りはじめたときだった。インターホンが鳴った。

こんな朝から、なんだろうと慌ててモニターをのぞき、仰天した。


「お義父さま…!」




お義父さまとお義母さまは、旅装だった。スーツケースを引き、ふたりともスマートなカジュアルウェアだ。お義父さまはポロシャツにチノパン。お義母さまは機内でしわにならなそうな、シフォン素材のワンピース。

久人さんと行き違いになったことを知ると、玄関先で、そろって残念そうに息をついた。

お母さまが、女優さんみたいなサングラスを外す。


「ごめんなさいね、朝なら捕まると思って、こんな非常識な時刻に来たのに…」

「お上がりになってください。なにかお飲みになりますか?」

「いや、久人がいないのであれば…」