最愛婚―私、すてきな旦那さまに出会いました

──あいつはそれが誇りなんだよ。生きる意味といってもいい。


カチカチとなにかが鳴っていて、なんだろうと思ったら、自分の歯だった。冷たい汗と震えが、全身を襲う。

久人さんの絶望、喪失感、すべての信頼が崩れた瞬間。

とても想像できるものじゃない。あえてするなら、果てのない闇が見える。


「久人さん…」

『あいつが帰ってきたら教えてくれる? 俺、行きそうな店とか声かけてみる。桃子ちゃんは家にいてね。あいつを絶対にひとりにしないで』


気づいたら電話は切れていた。

グラスの氷は解け、コーヒーの上に透明な層ができていた。

あんまりだ。

お義父さま、お義母さま、あんまりです。あなたがたが久人さんを選び、息子にしたんです。彼はそれをよすがに生きてきた。必要とされるままに、喜んで自分を全部投げ出して。

事情があるんでしょう、誰にだってあります。だけどあんまりです。

久人さんの目には、あなたたちしか映っていないのに!




どれだけ時間がたっただろう。

私は暗いリビングで、ひざを抱えてラグの上でうずくまっていた。

ライトを消したのはあえてのことだ。なんとなく、人が起きている気配がないほうが、今の久人さんが帰ってきやすいんじゃないかと思ったからだ。

私がいることで、彼が安心してくれたら一番なんだけれど。残念ながら私はまだ、彼にとってそこまでの存在にはなっていない。

携帯に触れると、液晶がふわっと室内を照らし、三時前だと教えてくれた。

まとまらない考え事をしているうち、こんな時間になっていたのか。

ローテーブルに、顔を伏せた。廊下のフットライトが、ガラスドアの向こうで淡いオレンジ色に光っている。

帰ってきますよね、久人さん。

ここがあなたの家です。

そう思ってくれていますよね。

そのとき、なにか気配を感じた気がして、はっとした。耳を澄ましても、家の中はしんと静まり返っているばかりで、物音はしない。
私は玄関へ向かった。足音を忍ばせて、そっとドアを押し開ける。

そこには、久人さんが立っていた。


「久人さん…」


私を見るなり、彼の瞳が揺れる。顔に浮かぶ、慙愧の念。

ドアを開けようとしていた様子がない。自宅の玄関の前で、ただ立ちすくんでいたのかと思うと、胸が痛んだ。

私はドアをいっぱいに開けた。


「お帰りなさい」


久人さんの足は動かない。スーツは着ているものの、ネクタイはどこかへ行っている。なにも持たず、空の両手を身体の横に垂らしている。

なにか言いたそうに、その目が私を見た。

唇が動く。


「ごめんね、桃」


消え入るような声だった。

彼が抱えたまま出せずにいる涙が、私のほうへ移ってきたみたいに、目の奥が熱くなった。口を開いたら泣きそうで、私は黙って首を横に振った。

ためらったまま、なかなか戸口をくぐらない久人さんに、両手を広げてみせる。しばらくそれを見つめていた彼は、やがて、やっと一歩踏み出し、私を抱きしめた。ドアが彼のうしろで、ゆっくりと閉まった。


「桃、ごめん…ごめん」

「大丈夫です」

「怖かったよね…」


ずっと屋外にいたのかもしれない。久人さんの背中は、薄手のスーツの上からでもわかるほど汗ばんでいる。

行き場所もなく、帰れもせず、こんな時間まで。

ひとりで、なにを考えていたんだろう。

桃、と小さな声で何度も呼んで、久人さんは私をきつく抱きしめ、肩に顔を埋めた。頭をなでて、ごめん、と絞り出すようにささやく。


「怖くなかったですよ」

「嘘だよ、だって桃、経験もないのに」

「久人さんですから、怖くはなかったです」


彼の胸に顔をすりつけると、私を抱く腕の力が強まった。
「ごめんね、ありがと…」


しがみついて、「大丈夫です」と伝えた。

こんなときなのに、私にまず、謝ってくれるんですね。

聞きたいことはたくさんあるけれど、今は我慢します、久人さん。

あなたが、帰る場所にここを選んでくれただけで、十分です。

お帰りなさい。




深く眠っている、久人さんの寝顔を見つめた。

家に上がるなり、『頭使いすぎた…』と急激な眠気を訴えた彼は、寝室まで行くのもやっと、服を脱ぐのもままならないほどで、最後は倒れ込むようにしてベッドに入った。

そういえば、久人さんの寝顔をここまでじっくり眺めたことって、ない。

目を閉じていると、印象が幼くなるな、と思いながら、ベッドの縁に腰をかけて、久人さんの髪を梳く。枕に半分埋まった顔が、その手を追いかけるみたいに、わずかに仰向いた。

もう一方の手で、樹生さんにメッセージを打った。


【久人さん、帰ってらっしゃいました。疲れたようで、すぐ眠りました】


瞬時に既読になり、すぐ返信が来る。


【よかった、ありがとう。早めに顔を見ておきたいから、俺も明日、そっちの会社に行くね】


わかりました、と返事を打ってから、少し考え、つけ足した。


【お義父さまとお義母さまにお会いする機会を作っていただけませんか?】


これにも、迷いを感じさせないスピードで返事をくれる。


【そうだね、任せて。また連絡するよ】


もう寝なさい、と続けてメッセージが来たので、【はい、おやすみなさい】と返した。返事が来ないことを確認し、また久人さんの様子を見る。

いつの間にか、彼は私の左手を握っていた。顔の前で、祈るように私の手を取って、身体を丸めて眠っている。

普段はもっと、のびのびと寝ているのに。私に片腕を貸して、ときにはそのまま抱きしめるみたいに腕を回して、ときには仰向けで。

目が覚めたとき、そういう久人さんが隣に寝そべっていると、ひとりじゃないんだと感じて、幸せになる。
今日は、いつもと逆。私があなたを抱きしめますね。

ふと、久人さんの眉間に力が入った。夢の中でも頭を使っているのかもしれない。頭をなでてあげると、ふっとそれが和らぐ。

私がいると、ちょっと気持ちがくつろぐとか、肩の力が抜けるとか。

いつかそう思ってもらえるようになりたい。

私、がんばります。


* * *


「来るなら来るって言ってくださいよ、樹生さん」

「おー、次原だ、久しぶり、元気?」


鬱陶しそうな表情を隠さない次原さんの背中を、樹生さんがバンバンと叩く。執務室の久人さんのデスクに腰をかけ、我が物顔だ。


「この間、電話で話したでしょ」

「なんだよ、態度悪いなー」

「だから、来るなら来るって…今忙しいんですよ、この会社、わかるでしょ」

「来るってちゃんと言ったよ、桃子ちゃんに」


指さされ、私は、「申し訳ありません」と次原さんに頭を下げた。まさかあのメッセージがアポの代わりだとは思っていなかったため、なんの社内調整もしていなかったのだ。

樹生さんは突然受付に現れ、『高塚です、次原呼んで』と受付担当に内線で申しつけ、一瞬社内を混乱させた。その彼が、「冗談冗談」と私に手を振る。


「もとはと言えば、悪いのは久人なんだから」

「俺がなんだって?」


そこへちょうど、久人さん当人が帰ってきた。

あまり寝ていないせいで、少し疲れて見えるほかは、普段と変わらない。さっそうと室内に入ってきて、デスクを回り込む。


「妻を振り回して、悪い夫だなって話だよ」

「俺も桃に振り回されてるし、おあいこ」


えー!

久人さんは引き出しからファイルを取り出すと、中をさっと確認して閉じ、そばでショックを受けている私ににっと笑いかけ、また出ていった。

本当に忙しいのだ。
樹生さんがなぜ突然この会社に来たか、理由に思い至らないはずはない。それでも謝るでもなく、自分は大丈夫だと主張するでもなく、歓待もしないけれど追い返しもしない。これがこのふたりの距離感なんだろうと、うらやましくなった。


「高塚さん、それキャリアの件でしょ? 僕も行きますよ」


閉まりかけたドアを再び開け、次原さんも出ていった。なぜか樹生さんもその後を追おうとしたので、どこへ行くつもりかと思ったら、彼は廊下を確認しただけで、そっとドアを閉めて戻ってきた。

手に持っている携帯が震えている。


「はい」


出ながら私に目配せをくれた。それでわかった、お義父さまとの面会の件だ。


「なんだって? どこに? ふたりとも?」


彼が険しい声を出した。雲行きが怪しいみたいだ。

少しの間、相手の声に耳を澄ましてから、「わかった」と彼は電話を切った。ふうと息をついて、私を見る。


「伯父さんのプライベートの秘書からなんだけどね。今週か来週あたりで時間をくれっていう話をしたんだけど、伯母さんとふたりで、本州を離れてるらしい」

「え…ご旅行ですか?」


そんな予定、あっただろうか。

久人さんたち家族は、互いのスケジュールをよく把握している。そんな大きな旅であれば、私の耳に入っていてもおかしくないのに。

樹生さんは、ソファの背に腰を下ろし、首を振った。


「息子に会いに行ってるみたいだ」

「え…」

「"本物の"ね。どうやら北海道にいるらしいよ。行ってすぐ会って、てわけにもいかないから、しばらく滞在して、時間をかけてるみたいだな」


そんな…。

探し当てて、さらに会いに行くほどの思い入れなの。そりゃ、会うために探していたんだと言われたら、そうだけれど。

でも、じゃあ、なんのために会うの。

久人さんは、どうなるの…。

そのとき、ノックもなくドアが開いた。樹生さんが弾かれたように立ち上がって、振り返る。その顔が蒼白になった。


「久人…!」


久人さんは静かな目つきで、私と樹生さんを見つめていた。







ふたりはちょっとの間、無言で見合い、すぐに樹生さんが顔をしかめた。


「お前、わざと出ていくふりしたな」


久人さんは悪びれずに「うん」とうなずき、室内に入ってくる。


「だって、なんか怪しかったからさ」

「全部聞いてたか」

「聞いてた。次原は先に行かせたから、聞いてないけど」


はーっと樹生さんが深々息をつき、顔を覆った。


「俺を出し抜くなんて…いつからそんな子になっちゃったんだよー」

「樹生こそ、いつになく俺の心配してくれるね。どうしたの?」

「お前がいよいよ危なっかしいからだよ、決まってんだろ!」


くすくす笑いながら、久人さんは樹生さんのそばを通りすぎ、自分のデスクに浅く腰をかけた。デスクの背後の大きな窓から、昼の光が彼を照らす。


「俺は大丈夫だよ」


樹生さんの顔が、わずかに曇ったのがわかった。

大丈夫、なんて。簡単に片づけてしまわないでください、久人さん。かえって怖い。抱えきれずに爆発していた、昨日の久人さんのほうが、よっぽど人間らしいです。


「大丈夫なわけないだろ」

「でも、現に大丈夫なんだよ、こうして職場にも来て、仕事もしてる」


手振りで、執務室の中をさっと示す久人さんに、樹生さんの眉間のしわは、ますます深まる。


「あのな、久人」

「父さんたち、よほど嬉しかったんだろうなあ。昨日の今日で、もう現地か」


私も樹生さんも、言葉を失った。

久人さんは、足首を軽く交差させて、くつろいだ様子で、口元は微笑んでいる。その口調には、自己卑下も自虐の色もない。
彼はふと窓のほうを見た。きつい日差しをシェードが和らげている。


「俺は用済みかな」


まるで、午後も晴れるかな、みたいな口ぶりだった。日常のなんでもない、ごくささいなことを話題にしたような自然さで、私は背筋が冷えた。


「久人…!」

「さ、仕事仕事」


樹生さんの声を遮るように、久人さんがパンと手を打ち鳴らした。


「といっても、ちょっと予定を変更したいんだよね。桃、悪いけど今日は、庶務のほうに回ってくれる? 必要があれば呼ぶ」

「はい…」

「樹生もヒマなら、俺を手伝う?」


からかいの声を向けられ、樹生さんはじっと黙り、やがて「ヒマじゃねーよ」とむくれ、サイドボードに置いていた鞄を取り上げた。


「俺のほうも、移籍前の身辺整理で忙しいんです。お邪魔しました」

「ありがとね、心配してくれて」


ドアに手を伸ばしたところで、振り返る。


「…そういうのは、心配の必要がなくなってから言うもんだ」

「信用ないな」

「久人、俺が一族の思惑に従って商社に入ってやるのはな、お前のサポートができるからなんだぜ。俺は正直、この時が来るのを楽しみにもしてた」


久人さんはなにも言わず、樹生さんのまっすぐな視線を、かすかに微笑んで受け止めている。


「俺を放り出すなよ」


言い捨てて、樹生さんは出ていった。

私は慌てて「お見送りしてきます」と久人さんに断り、あとを追った。
「樹生さん、あの、いらしていただいて、ありがとうございました」

「あいつ、やばい」

「えっ」


樹生さんがエレベーターのボタンを、叩きつけるように押す。いつも柔らかい余裕に包まれている彼が、いらいらと足を踏み替えている様子に、私は驚いた。


「樹生さん…」

「ぶっ壊れる寸前じゃないか。桃子ちゃん、あいつから目を離さないで」


硬い声。

私は緊張に身体がすくむのを感じた。


「はい」

「俺も伯父さんを尊敬してるけど、今回ばかりは…」


言葉を途中で切り、彼はエレベーターに乗り込んだ。私は習慣から、深々と頭を下げた。扉が閉まって、箱が動くのを感じても、顔を上げられずにいた。

ぶっ壊れる寸前。

久人さん、久人さん。

どうか、あなたの本当の価値に、はやく気づいて。




その日は言われたとおり、庶務のデスクで仕事をした。

心配で、たまに飲み物を持って久人さんの執務室に様子を探りに行った。彼はデスクで忙しそうにしていて、だけど彼らしく、たとえ電話中であっても、私の差し出した飲み物にお礼を言った。

そして必ず、次に行くときまでに飲み干しておいてくれるのだった。


* * *


翌朝、起きたら久人さんは家を出た後だった。

ファームへの出社はもっと遅くていいはずなので、どこか立ち寄る先ができたのかもしれない。

私も彼も、朝食をとらない。出る時間も違うし、お互い必要な時刻に起きて、自分の支度だけするのが常だ。
コーヒーだけでも、一緒に飲む習慣をつけておけばよかった。

そうしたら、起こしてくれたかもしれないのに。

ひとりきりのベッドで、そんなことを考え、ため息をついた。




「御園さん、高塚さんの今後のスケジュールって、変わりました?」


お昼前頃、庶務のデスクにいた私に、次原さんが自席から声をかけた。

出社したら、久人さんから【今日も庶務業務でお願い】とのメールが入っていて、かつ彼は午後にファームに来るとのことだった。

オフィススペースの端のほうに、庶務デスクはある。隣り合った島が人事部で、次原さんは普段、そこにいる。


「いえ?」

「おかしいな」


私は首をひねっている彼のもとへ行った。


「どうかなさいましたか?」

「いや、この方ね、高塚さんとじゃなきゃ取引を続けたくないってごねてた、ありがた困ったお客様なんだけど」


説明のとおり、微妙な口ぶりで、届いたメールを見せてくれる。そういうお客様は、実は多い。久人さんがこの会社を去るための"整理"で、もっとも手間取っているのは、その部分だったりする。


「この方がどうか…」

「高塚さん宛てに、来月のアポを入れてきてるんだ。その頃には高塚さんはもう動けないと伝えてあるはずなんだけど」


私は一瞬、なにかの手違いかと思い、確認の連絡をとりましょうか、と申し出ようとした。そしてはっと気がついた。

まさか…。




「うん、言ったよ。もう少しおつきあいさせていただけそうだって」


午後、出社してきた久人さんをすぐに捕まえた。彼は私が予想したとおりのことを、お得意さまに伝えていた。