二〇一六年四月、私は高校教師となって、鎌倉に戻ってきた。
レトロな電車の窓から見渡した湘南の空には雲ひとつなく、一色刷りのような淡いブルーが広がっている。
晴れ上がった空の下、藍色の海には白波が立ち、濃い緑色の江ノ島がぽっかりと浮かぶ。
線路脇には、新芽のついたシロカシの木。窓を開けて手を伸ばせば、その柔らかな黄緑色の葉に触れられそうだ。
『次は~鵠(くげ)沼(ぬま)~、鵠沼~』
電車はもうすぐ、高校生の頃に私が住んでいた辺りにさしかかる。
祖母の家があった方角に目をやってみるが、今はマンションらしき建物に遮られて屋根も見えない。
この辺も変わったなぁ……。
四年の歳月を感じ、しみじみと感慨にひたった。
『北鎌倉学園前〜。北鎌倉学園前〜』
母校のある駅の、セメント張りの狭いホームヘ降り立つ。
ホームからも海が見えるのだが、もう見慣れてしまっているのか、まだ冬物のセーラー服を着ている少女たちは友達との会話に夢中で、周りの景色には見向きもせず歩いて行く。
駅を離れ、視界が開けるとすぐ、懐かしいクリーム色の校舎が見えた。
この校舎は全然変わってないんだな。
手前には視聴覚教室や学生ホールなどの最新設備が整った新館、奥には教室が入った旧館。
私が見慣れない大人だからだろうか、正門から構内に足を踏み入れると、登校中の生徒たちが、こちらをチラチラ見てくる。
そう言えば、私も高校生の頃、校内で知らない大人を見つけると、呼び出された問題児の保護者か、はたまた不審者か、と思って見ていたような気がする。
生徒たちの視線を感じて、何だか緊張してきた。
ハル……。
私は心の中でその名を呼び、ジャケットのポケットに手を入れた。そして、指先でお守りを探すように、そこにあるはずの封筒の感触を探る。
それは、先月届いた二宮(にのみや)陽(はる)輝(き)からの手紙。家を出る時、迷いながらもポケットに忍ばせた私の精神安定剤のようなものだ。
この手紙の送り主、ハルと私はこの学校の同級生だった。今も毎月届くアメリカからの手紙で繋がっている私の大切な人…………。
(中略)
終業後のホームルームを見学した後、私は赴任したら真っ先に行こうと思っていた図書室へ向かった。
『北鎌倉学園』自慢の図書室は、広々としていて蔵書も多いことで有名だ。
入口を入ってすぐのカウンターに、おかっぱ頭の図書係が座っている。
「まだ、開いてる?」
「はい。今日は五時半までです」
生真面目そうな返事を受け取って、思わず壁の時計を見る。
「あと、三十分か」
その時計の針に急かされるように、奥のコーナーにある哲学書の棚へ向かった。
入り口の正面に新刊や話題の書籍コーナーができていること以外は、本棚の位置も私の在学中とあまり変わっていないようだ。
『マルティン・ルター名言集』
ずらりと並ぶ分厚い本の中から、迷わずその一冊を手にとった。本の内側に張り付けられている紙のポケットから、図書カードを抜いてみる。
やはり昔の宗教学者に興味を持つような生徒は少ないらしく、私がこれを手にしてから四年の月日が経っても、カードにはまだ五つほどの氏名しか並んでいない。
「あった……」
貸し出し記録の一番上にあるのは、【二宮陽輝】の名前。そして、そのすぐ下に【藍沢紬葵】と書かれている。
「ハル……」
そのカードを指先で撫でると、『つむ』と優しく呼ぶ声が鼓膜に甦る。
会いたいよ、ハル……。
懐かしいような本の匂いに包まれ、高校生の頃にタイムスリップしたような切ない気分に浸った。
第1章
『明日世界が滅ぶとしても………』