これを渡したからって何かが変わるなんて思わない。
でも。
それでも。
きっと菜乃花は笑ってくれる。
いまはそれだけでいい。
流れる景色がやけにゆっくりと見えた。
ーーー
ここのお店はオアシスのように心を落ち着かせてくれる。
家にいるよりずっと、居心地がいい。
明日は本でも持ってこようか。
迷惑かもしれないけれど、その方がゆっくり居座れるもの。
それに、棚の中には読んでいない本がいくつも並んでいる。
時間だってたっぷりあるんだから。
瞼に落ちる光に眩しさを覚えゆっくりと目を開ける。
温かかった。
布団にこもった熱とか、日差しの暖かさとか、そういうものじゃなくて。
別の何かが体の奥から私を温めた。
その温かさがなんなのか、私は知っている。
これはかなちゃんがくれたものだ。
全てを失って空っぽになった私を、それでも真っ直ぐに優しく包んでくれた。
何度も、何度も。
一生懸命に。
ああ、私はいまこんなにも温かい。
満たされている。
私の中にはかなちゃんが息づいている。
いつの間にかかなちゃんでいっぱいで空っぽじゃなくなってる。
こんなにも満たされている。
だけどいまここに君はいない。
失うまで気づけなかった。
この温もりも、私を満たす存在も。
あの時間にどれほど救われていたかも。
何一つ気づけなかった。
君は逃げることを知らないかのように、あんなにも真剣に伝えてくれていたのに。
その時に気づけなかった。
いつだって君は真っ直ぐに私を見てくれていたのに、私には自分のことしか見えていなかった。
あの時の私は周りなんて見ようともしてなかった。
違う。
そうじゃない。
私は気づいてた。
ちゃんと見えてた。
なのに逃げたんだ。
気づかないふりをして。
見えていないふりをして。
一人で勝手に壁をつくって。
涙が溢れた。
後悔して泣くことがこんなに辛いなんて初めて知った。
知りたくなかった。
できることならあの日、あの瞬間に戻りたいと。
そう、強く思った。
だけどいくら願ってみたってそんなことはできない。
時間はいつだって前にしか進まないのだ。
いくら後悔しても。
いくら望んでも。
過ぎてしまった過去に戻ることはできない。
あるのはいまこの瞬間と、それから君を失ったという事実だけ。
この温もりを知ってしまったのに、それに触れることはもうできないという事実が胸をきつく締め付ける。
だけどー
あまりにも苦しくて目を逸らしてしまいたくなる。
蓋をしてしまいたくなる。
この温もりをいつまで覚えていられるのか不安だ。
この気持ちはいつまで私を締め付け続けるのか怖い。
それでもー
温もりだけを残して、この気持ちだけ消えてしまえばいいのにと願ってしまうけど。
きっとこの温もりと気持ちは二つで一つで。
どちらかだけを残すことはできないのだろう。
それならー
これは自分でしたことだ。
自分で選んで自分で決めたことだ。
それなら私は目を逸らさず、この気持ちと共に生きていく。
ちゃんと上を向いて歩んでいく。
だってこの胸の痛みより、この温もりを失うことのほうがずっと嫌なんだ。
だから、あの時間を何度も思い出して刻み込もう。
だって、あの時間はかなちゃんがくれた大切な宝物だ。
あの時間を失くさないよう、失わないよう。
いまはそれだけを考えて生きていこう。
もう十分知っているから。
今度は絶対に見失わない。
失くさない。
失ってしまう辛さも苦しさも知れたから。
言い換えればそれは、とどめる方法を手に入れたのと同じことだと思うから。
ああ。
今日も空には雲が浮かんでるのかな?