イルカの絵を描き終える頃には、もう六月になろうとしていた。
 
通学中の電車の中で、塾の夏期講習の広告を見てそのことに気付いた。
今までそういう情報は気にならなかったのに、受験生になってからは嫌というほど目に入る。
 
森下さんの絵本の絵を描き始めてから、もう一カ月が経つ。
僕は森下さんと約束したとおり、きっちり一週間に一回のペースで絵を描いていた。
 
森下さんが転入した日から見るようになったあのリアルな夢は、その後も決まって 彼女の物語の絵を描き終えたときに見るようになっていた。
 
毎回、僕は図書室に向かい、奥の棚からノートを取り出し、その中に絵を描いている。
どうしてもその絵だけは見えない。ほかの景色ははっきりとしているのに。
 
そして、チャイムが鳴ると絵をもとの場所に戻し、早足で図書室を出ていく。
 


なぜこの夢を見るのか、僕にもまだわからないままだ。
週末、部活では予選の二試合目があったけど、僕はスタメンになるどころか、交代で試合に出ることすらできなかった。

悔しかったけど、今は森下さんに必要とされているから、となんとか自尊心を保っている自分がいた。
 

僕は、いつも月曜日に絵を描いたノートを渡していた。
彼女はそれを一度持ち帰り、 家で続きを書いて火曜日に持ってきて僕に渡す。
 
渡すのはいつも僕が朝練を終えたあとだ。

教室に人はたくさんいるが、僕らの席は 一番後ろの隣同士なので目立つことなくノートの受け渡しができた。
 
今日は月曜日。
彼女に絵を渡すべくノートを鞄に入れて学校に向かう。
朝練があるため僕はいつも早く家を出るのだが、登校途中で、ひとつ問題があることに気付いた。
 


そういえば、先週の金曜日に席替えをしたのだった。

僕は運悪く中央の列の一番前 で、彼女はその列の一番後ろ。隣だったからこそできた自然なやり取りが、できなくなってしまった。
 


どうしよう、いつ渡そうと不安に思いながら登校し教室に入ると、

すぐにその不安は解消されることになった。




「おはよう、日比野くん」
 
静かな教室に、森下さんがひとりで座っていた。

「おはよう、森下さん。早いね」
 
僕は驚きながら、目だけで時計と彼女を交互に見る。


「席、隣じゃなくなっちゃったから」

彼女はいたずらっぽく笑って、僕の席を指さした。

「僕もそれで、どうしようって思ってたんだ。ありがとう
「こちらこそ。いつもありがとう」  

このために、早く来てくれたんだ。

僕は彼女の気遣いを嬉しく思いながら、ノートを手渡した。


彼女はありがとう、と言ってそれを丁寧に両手で受け取り、早速絵を眺めた。
 
このやり取りは何回か繰り返したが、未だに緊張する。

僕は彼女がそれを見ている 間、決まって下を向いていた。


恥ずかしいし、彼女の反応が気になってしまうから。
 
そして彼女もいつもと同じように顔を上げて「ふふっ」と笑ってこう言う。


「ありがとう。今回もすっごく素敵な絵だよ」
 
言うことはいつも同じだけれど、一回一回にすごく気持ちが込められているのがわかって、なんだかむずがゆい。
 
そのひとことに、僕は毎回一喜一憂、もとい〝一喜一喜〞していた。
 
この時間に彼女といるのは新鮮だった。

隣だったときも大して多く会話をしていな かったのに、朝練が始まる時間まで、僕らはいつも以上に話をした。
 
多くは、物語の内容のことだ。
このとき僕は、勇気を出して初めて『主人公が自分に似ていると思う』と話した。

こんなことを言うのは恥ずかしかったが、森下さんなら受け止めてくれると思ったのだ。
 
彼女は、特に驚きもしないという様子だったが、少し嬉しそうにも見えた。

僕は、やっぱり言ってよかったと思った。


「物語の主人公と自分が重なって見えることって、あるよね」
 
そう言って森下さんは目を細める。

「私もね、小さい頃両親にたくさん絵本を読んでもらったんだけど、日比野くんみたいに感じることが結構あって。
自分の今の悩みと、主人公がぶつかってる壁が同じに 見えるって感じだった。そんなとき、主人公が壁を乗り越える姿を見てヒントをも らっていた気がするんだ」
 
それを聞いて僕は、すぐにこう答えた。


「それはもしかして、君のお父さんとお母さんが、そのとき君が抱えていた悩みに合わせて絵本を選んでくれていたのかもしれないね」
 

君、なんて呼び方をするのは初めてで、絵本の中の男の子に影響されているな、と こっそり思った。
 
彼女は、「そうかもね」と言って、また「ふふっ」と笑った。
 


その笑顔を見て僕は、なんだか温かい気持ちになった。


彼女が自分に笑いかけてくれるのが嬉しかったから。
そのときふと、僕の頭にあるひとつの考えが浮かんだ。  


│森下さんになら、記憶喪失のことや、両親のことを話せる。

むしろ、話したい。
彼女がこの話を聞いてどう思うのか、知りたい。



「……日比野くんの、家族のお話も聞きたいな」
 
そんなことを考えていたら、森下さんのほうから聞いてくれた。

彼女は上目遣いで、遠慮がちに僕を見ている。

どう切り出そうか考えていた僕は、心の中で彼女にお礼を言った。
 
僕は、森下さんに自分の境遇を話した。

両親を事故で亡くし、今はじいちゃんとふ たりで暮らしていること。
事故で頭を強く打ち、小学生の頃の記憶がすっぽりとなくなっていること。
 

彼女は、僕のたどたどしい説明を、うんうんと頷きながら、さえぎることなく聞いてくれた。


その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
 
記憶がないせいで、僕は両親のことで悲しみ、涙することはない。

だから、その涙は森下さんが僕の代わりに流してくれているように思えた。

そう思うと、僕も少し泣きそうになった。
 


森下さんが泣かなくてもいいのに、という気持ちと、僕に気持ちを寄せてくれているように思えて嬉しい気持ちが入り混じる。



「……記憶、戻るといいね」
 


今までその言葉を僕に言った人はたくさんいたが、心から言ってくれていると感じたのは、じいちゃんと相良以外では彼女が初めてだった。



「ありがとう。


……実は、自分の記憶なんじゃないかって思う夢を、最近見ていてね」



「えっ、それってどんな夢?」
 
彼女は興味深そうに僕の座っている方に身を乗り出した。
 
僕は、唯一の手がかりだと思っていたあのリアルな夢が、いつも同じことに辟易していた。毎回図書室で絵を描いているだけだったのだ。


そして、自分の記憶が戻ることをほとんど諦めていた。

その感情を伝えると、彼女は大きく首を横に振った。


「だめだよ、諦めちゃ。

忘れていても、確かに日比野くんが過ごしてきた大切な時間だから。

その中でしかなかった誰かとの出会いや、思い出があるはずだから」
 
そして、確信を持つ表情でこう付け加えた。





大丈夫。諦めずにいる限り、記憶が戻る日が必ず来るよ、と。  
一通り話を聞いた彼女は、静かに涙を拭いた。鼻の先が少し赤くなっている。 「日比野くんが小学校に上がる前で、なにか記憶に残っていることはないの?」

 
森下さんは、僕にそう尋ねた。
 
事故により失ったのは小学生の頃の記憶だけだが、幼さによりそれ以前の記憶もあいまいだった。

でも、森下さんに自分のことを伝えたい一心で、僕は記憶の引出しを 一生懸命に探した。

「うーん、僕が一番覚えているのは、両親と一緒に町の中を散歩していたことかな」
 
僕の住む町は、茶屋街や大きな美術館、日本庭園、一般の人も多く訪れる市場などがあり、散歩する場所には事欠かない。

もちろん、かおるくんと出会った公園にもよく行った。

この町は古い町並みも残り、伝統工芸や日本古来の食文化も継承されているので、年配の観光客が多く訪れている。


テーマパークとかそういったものはないが、 僕は小さい頃からこの町のことが好きだった。
 
僕は、両親と手をつなぎながら、いろんなところを見て歩いた。


季節の移り変わりを、肌で感じながら。

気に入った風景があると、僕は立ち止まって落書き帳によく絵を描いていた。


両親は、そんな僕を見守り、待っていてくれた。
 
そんなことを話しているうちに自分も懐かしい気持ちになってきた。


「なんだか日比野くんらしいね」
 
そう彼女は微笑みながら言った。


彼女は、幼い頃の僕の気持ちになっているのだろう。


安心し、とても満たされた温かい気持ち。

それをすべて入れ込んだかのような言い方だった。
 
その言葉と笑顔を見て、僕はあることに気が付いた。





ひとりで思い返すと孤独を感じるけれど、彼女のように優しい人と思い出を共 有することで、ひとりじゃないから大丈夫、と思えるのかもしれない。




「……うん。ありがとう」
 


やはり、彼女に話してよかったと僕は思った。




言いたいことはもっとあるはずなの に、なんだか胸がいっぱいになって僕はそれだけしか言えなかった。

「彼は、足手まといなんかじゃありません!」
 
男の子が職員室の前をとおりかかったとき、担任の先生の大きな声が聞こえてきま した。思わず男の子は、聞き耳を立てました。


「しかし、彼は何回やってもうまくとべないじゃありませんか。おかげで、先生のクラスの記録はちっとものびない。
ほかの組はもう百回をこえているというのに」
 
この声は、教頭先生の声でした。男の子のことを、けなしているようです。


「だからと言って、彼をはずすなんて、そんなことはできません!」
 
先生はそう言い返しました。

「私は、彼に『応援役をやらせてみては』と言っているのです。
応援だって、クラス にとって大切なことです。
はずすのではありません。
それに、『彼がいるから五年二 組の記録がのびない』と、おうちの方から苦情がきているのですよ」


「全員がとんでこその大なわとびだと思います。

彼ぬきでとんで、それでもし記録が のびて優勝したとして、彼やまわりの子どもたちは心からよろこぶことができるでしょうか。


そんなこと、できないと思います!」


先生の声は、ふるえていました。泣いているのです。
 



男の子も、むねがきゅうと苦しくなって、涙をこぼしました。

そして、頭の中には、ある映像がうかび上がりました。
 








あの、イルカです。
 

男の子は、夢の中で聞いたあの飼育員とイルカのことを思い出しました。
 


今の自分は、イルカと似ていると思ったのです。
 
ほんとうのところ、男の子は自分にはできるとは思えませんでした。

何度チャレン ジしてもとべなかったのですから。

あの女の子は男の子が自分を助けてくれたと言っていたけど、男の子はそのことをおぼえていないのですから。
 
でも、男の子はきめました。

できるという保証はないけれど、自分のためではなく、


あそこまで言ってくれる先生のためにがんばりたいと。
 


男の子は、前を向いて教室をめざしました。

僕はノートを一度閉じ、今までの物語を思い出していた。
 
夢の中で女の子が男の子に話してくれたイルカのエピソードは、男の子を勇気付けるための話だったんだ。

それが本当の話かどうかはわからないけど、それを聞いた男の子は同じような場面に遭遇し、イルカと同じように大切な人のためにがんばろうと心に決めた。
 
ここでノートは終わっていたけれど、これからきっと男の子はイルカがその芸を上達させたように、大縄を跳べるようになるんだろう。
 


僕は、部屋の天井をぼんやりと見上げた。


頭に浮かんだのは、森下さんの顔。
 
物語の中のイルカや男の子は、飼育員さんや先生のために一生懸命がんばろうとしていた。


僕は今、森下さんのためにがんばって絵を描いている。そのことは確かだ。
 



……でも、絵本の男の子やイルカとはなにかが違う。
 
彼やあのイルカは、『苦手なこと』をがんばると決めた。

僕が今がんばっているの は『得意なこと』だ。


サッカーから逃げるための言い訳として絵を描いているのだ。
 

それでいいじゃないかと思う自分もいるけれど、それで心に引っかかりを感じているのも事実だ。
 


近い存在だと思っていた男の子は、僕にとって遠い存在になっていた。

僕は自分で描いたイルカの絵を手に取って眺めた。
 
イルカは綺麗な海の中で悠々と泳いでいる。
 



僕は、このイルカのように泳ぐ自分を、想像することができなかった。

次の日の登校中、電車の中で僕は考え続けていた。自分が、あのイルカや男の子のようになる方法だ。


それも、サッカーの世界で。
 
そもそも、自分はなぜサッカー部に入ったのか。

その疑問に対する答えは、すぐには出てこなかった。


相良に誘われたから?
仮入部が楽しかったから?

どちらも合ってはいるが、ピンとこなかった。いったいなぜだろう?

考えごとをしていて、ふと気が付くともう教室に入っていた。

無意識でも自分がしっかり教室に向かっていたことに驚く。

「おはよう、日比野くん」

「えっ、あ、あぁおはよう」
 
そしてさらに、森下さんがそこにいたことにも驚いた。


なぜなら今日は水曜日だったからだ。

ノートは、昨日もらったばかりなのに。

「今日も早いんだね」

「うん、二日もこの時間に来てたら、こっちに慣れちゃって」


「へえ、すごいね」

 
こんなに早い時間に来てもすることもないだろうにと思いながら、彼女がいたことは僕を少し嬉しくさせた。


「日比野くんだって。毎日、朝練お疲れ様。

今日もこれから練習だよね」
 
彼女は時計をちらりと見たあとに、小さく頭を下げた。



その言葉を聞いて、なんだか僕は申し訳ない気持ちになってしまう。


「あ、えっと……」

「ん?」
 
返事をにごす僕に、彼女は不思議そうな顔をした。


「あの、それが『お疲れ』ではないんだ」



「えっ、毎朝練習してるのに疲れないの?」
 
彼女は、目を丸くして尋ねる。


「ううん、そういうことじゃなくて……ええと、



『お疲れ様』という言葉が合わない というか」
 
言いながら、僕は頭の中を整理していた。

彼女はきょとんとした表情でじっと僕を見ながら、

次の言葉を待ってくれている。



「……僕たちは好きでサッカーをしてるんだ。やらなくちゃいけないこととしてじゃなくて、好きなこととしてやってる。


でも練習のキツさのせいで、どうしてもその練習を『こなすもの』『やらされているもの』『大変なもの』だと考えがちになる。


そうなると練習に対して受け身になってさ、個人としてもチームとしても成長できなくなっちゃうんだ」
 

そこまで目線を落としながら話していた僕は、
顔を上げ彼女の方を見て言った。


「お疲れ様を言わないのは、

『自分たちがサッカーや仲間が好きだから』という理由で、

自分の意思で部活に取り組んでいることを忘れないようにするためなんだ」


「そうなんだ……」
 
彼女は、納得したようにうんうんと頷いている。


「それ、すごく素敵な考えだね」


「監督の考えなんだけどね。でも、僕たちはそれを聞いて、自分たちの意思で『お疲れ様』と言わないことに決めたんだ」
 

へえ、すごいなぁと言って、彼女は両手を胸の前で合わせた。


こんな話は彼女に とっておもしろくないと思うけど、
とてもまじめな顔で聞いてくれている。


「確かに、やらされてるって思うってことは、自分で自分の行動に責任を持たないってことだもんね。


自分は、自分の意思でがんばってるんだって考えること。それが大事なんだね」
 

彼女はゆっくりと、僕が話した内容を確かめるようにそう言った。

「なんだか、私も見習わなきゃって思ったよ。日比野くん、ありがとう」


「いや、僕は監督の考えを伝えただけだから」
 
照れくさくなり、僕は首の後ろを掻きながら答えた。

すると彼女は小さくかぶりを振って、ゆっくりと口を開く。


「でもその監督の話を受け入れて、実践したのは日比野くんの意思でしょ。


だから、 実際にその効果を実感してる日比野くんの言葉には説得力があったよ。

それに、私が何気なく言った『お疲れ様』を受け流さないで、

きちんと答えてくれたのも日比野くんの意思でしょう?

なんだかそれが嬉しかったよ」

取って付けたような言葉じゃなく、彼女自身が本当に心から思っていることを言ってくれているんだと感じた。


彼女の目はまっすぐ僕に向いていて、思わず視線をそら してしまう。
 
……彼女は、嬉しいとか、好きだとか、そういうプラスの感情を言葉にしてスト レートに伝えてくる。

その言葉は、僕が知らなかった自分の価値を見出してくれるものだ。


そんなとき、僕の中で言いようもない嬉しさが込み上げてくる。
 


プラスの感情は、言葉にして口にしたほうがいいんだ。彼女にならって、僕も自分 の今の感情を言葉にする。



「ありがとう、そう言ってもらえると……僕も嬉しいよ」

 
まだ気恥ずかしさもあるが、安心感もあった。


彼女は僕が言ったことを必ず受け入れてくれるんだと思った。