「それにこの物語は、僕にとっては他人事には思えないんだ。

だから僕は、この物語に絵を描きたいと思った」


この言葉を聞いて、私はずっと聞いてみたいと思っていたことを尋ねてみた。


「じゃあ……その人が、誰か知りたい?」


「え? ……う、うん。

そりゃ知りたいけど、どうやって知るの? 

名前も書いていないんだし、その人も知られたくないのかも……」


彼は、少なからず動揺している様子だった。

もしかしたら私がここで「それは私だよ」なんて言うと思ったのだろうか。


気付いていないふりをする日比野くんの前で、直接そうは言えなかったけど、私には考えがあった。

「簡単だよ。

ノートの持ち主に書いて聞けばいいんだよ。


表紙に【だれ】って書いてみて。


その人が教えてくれる気になったら、それに答えてくれるはずだよ」


「な、なるほど……」


彼は、表紙に小さく【だれ】と書いた。


私は彼の素直さに思わず「ふふっ」と笑うと、その【だれ】に続けて【かの】と書いた。

彼はその様子をぽかんと見ていて、そしてわざとらしく笑う。


そう。『誰かの』。


これは確かに誰かのものだ。


私たち以外にはそういうあいまいなニュアンスしか伝わらない。


でも、私たちにとっては特別な言葉だ。


彼と私が、勇気を出してお互いに一歩歩み寄った、

証だ。

それから私たちは、友達になった。


立樹くんは、私のペースに合わせてしゃべって
くれた。


そもそも、彼自身もあまりしゃべるのが早くはなかった。


ノートを交換する方法はあいかわらず図書室に隠すという方法だったけれど、お互いの物語と絵はしっかりと相手に届いている。


なんだか夢の中の自分に、近づけた気がした。


立場は、逆だけれど。


あるとき私は、

彼に『私がものを隠されたりすると次の日わかりやすいところに置いてあったりするんだけど、これは誰がしてくれてるんだろうって気になってるん
だ』


と「カマ」をかけてみたことがある。


彼は困った表情をしてから、ちょっと考えるそぶりをして、それから、

『持ち物に【だれ】って書いとけばその人も答えてくれるんじゃないかな』

と冗談ぽく言った。


そこまで言ってはぐらかそうとするのか。

そう思って私は少し呆れたけれど、それよりも彼が私に冗談を言ってくれたことが嬉しかった。


なんだか、心を開いてくれているみたいで。


私たちは、人目につかないときを選び、図書室でよく物語の話をした。

そしてあるとき私は、いつも書いている物語は今見ている不思議な夢がもとになっている、という話をした。


すると彼は興味を示したようで、『詳しく知りたい』と言ってきた。


でも、学校では十分に話せる時間はとれない。


そこで私たちは、〝だれかのノート〞を持って放課後に公園で待ち合わせることにした。


お互いの家が近所だということはもうわかっている。


私にとって友達と待ち合わせをするのは、初めての経験だった。


彼のほうが来るのが早かったようで、すでに公園にいた。


私はドキドキしながら手を振ってみた。



彼も、振り返してくれた。



……嬉しかった。

ノートは、立樹くんが図書室から持ってきてくれた。

ベンチにふたりで座ると、彼は新しく描いた絵を見せてくれた。

白鳥が、シベリアの上空を悠々と飛んでいる絵。


夕焼け空が本当に綺麗で、毎回感動している私がいる。


「ありがとう。

白鳥の表情がすっごくすてきだね」

私がそう言って足をパタパタさせると、彼も嬉しそうだった。


それから私は、彼にあの奇妙な夢のことをゆっくりと話した。

彼は私の遅い口調に苛立ったりせず、
興味深そうに何度も頷きながら話を聞いてくれた。


それが、なにより嬉しかった。


彼は、女の子の私が男子高校生になる夢を見たと言っても全然驚いていなかった。




もしかして彼も、夢の中で性別の違う自分になったことがあるのかもしれない。

その頃の私は、夢の中でサッカーの合宿に行っていた。


合宿中、初めて試合でゴールを決めて自信をつけていた。


そして合宿から帰ってきた翌日、あの女の子と会う約束をしていた。

ゴールの報告をしようと意気揚々と公園に向かうのだが、女の子はそこには現れなかった。

私は、もう彼女に会えなくなるのではないかと不安になった。


代わりに、以前も一緒に絵を描いた男の子から彼女の伝言を聞くことができた。

彼女から預かっていたというノートも見せてもらうことになる。


伝言は、『約束を守れなくて、ごめん』と、
『私の今の居場所は、あなたなら自分で気付けるはず』
というものだった。


どういうことだろう? そう思いながら、ノートを受け取るところで夢は終わってしまった。


そのノートの表紙には、【だれかの】と書かれていた。

この物語のタイトルを女の子から聞いたことはなかったけど、これが題名なのだろうか。


日比野くんと私が書いたものと同じ言葉で、本当に驚いた。


* * *


そんな夢を見た翌日、事件が起きた。


昼休み中、私がお手洗いから教室に戻るとき、教室の中がなにやら騒がしくなっていることに気が付き、速足で教室に向かう。


嫌な笑い声が聞こえるので、誰かがからかわれているのでは、と思った。



しかし入口から見た光景は、私の想像を超えていた。


「なあなあ見ろよこれ。図書室の本棚に反対になって入ってたんだけどよ」


「どれどれ? ……なんだか絵本みたいだな」


「タイトルは【だれかの】? 変なの!」



「誰だよ、自作の絵本なんて、ださいよな」


ギャハハハ、と下品な笑い声が教室に響く。


そうやって話す男子たちの手には、案の定、私たちの【だれかの】と書かれたノートが握られていた。

彼らは、私をいじめていた人たちだった。


私は教室のそんな状況に、愕然とした。


怒り、悲しみ、そして悔しさ。


いろんな思いが渦巻く。

男子たちは、回してそれを読んでは、大笑いをしていた。





……私がいじめられたり馬鹿にされるのは、いい。

実際、私は物語を読むことしか能のない人間だ。


でも、彼は違う。


いじめに困る私のことを助けてくれる優しさがあるし、彼が描く絵には見る人を幸せな気持ちにする力がある。

それ以外はちょっと不器用なところがあるけれど、それが彼のよさでもある。


その絵を描き始めたときだって、きっともう私の物だってことには気付いていたはずだ。


それをわかって、私に理解者がいるんだよというメッセージを伝えるつもりで描いてくれたんだ。

その気持ちに私は気づいていた。


立樹くんがいたから、私は心が折れることなく、学校に来れた。


それなのに……。




そんな大切な、立樹くんの絵を、馬鹿にするなんて、許せないーー