涙をぬぐうこともせずに、僕は枕元に置いていたノートを手に取った。
【だれかの】。
昨日、かおるくんから預かったものだ。
表紙に書かれたこの文字は、僕が書いたものではない。
正確に言えば、僕だけが書いたものではない。
僕はノートを開く。
夢の中ではぼんやりとしていて見えなかった中身。
そこにあったのは、僕のただの落書きではなかった。
昼間の海、夕焼け空。
海の中にはイルカ。
夕焼け空には白鳥。
男の子や女の子も、いる。
僕が今まで描いてきた絵とそっくりだった。
右側に絵。
そして左側には、文章があった。
同じだ。
彼女の物語とまったく一緒。
僕がこの物語を読んで、絵を描くのは二回目だったんだ。
ノートには、今僕が森下さんに描いているものと、ほとんど同じ構図の絵が描かれていた。
物語の最後の場面はまだ彼女から渡されていないけれど、記憶を取り戻した僕は、もうその内容を知っている。
僕はもう一度、ノートを読み進めていった。
「あそこにうさぎがいるでしょう?」
女の子が、草むらをかけまわる一羽のうさぎを指さして言いました。
「うん、いるね」
「三つ目のあなたの素晴らしいところをこれから話すわ。これがさいごよ」
月のきれいな夜。
森の中に、男の子と女の子は立っていました。
夢ではない〝現実〟での男の子は、なわがとべるようになるために、友だちの力をかりるようになりました。
まず、なわの回し方のコツをクラスの友だちにおしえました。
こうして、男の子も少しとびやすくなりました。
あとは、ひたすらとびました。
友だちに見てもらって、引っかかったときの自分の
ようすを教えてもらいました。
それを聞いて、そこをなおして、またとぶ。
そのくり返しでした。
いままで、自分の力だけでがんばろうとしていてうまくいかなかったけれど、友だちの力をかりると、少しずつでもとべるようになっていたのでした。
この夢からさめたら、男の子は本番の日をむかえることになります。
男の子は、とにかく緊張していました。
そんな男の子に、女の子は男の子に伝えることがあったのです。
「あのうさぎはね、もともと弱虫で、うさぎのくせにジャンプ力もなくって、とってもどんくさかったの」
きもちよさそうに草むらを走る白いうさぎは、月の明かりにてらされてとてもきれいにかがやいています。
「そうは、見えないね」
そうよね、と女の子は笑いました。女の子の白いワンピースも、うさぎと同じようにかがやいています。
「むかし、どんくさいうさぎは人のしかけたワナにはまってうごけなくなってしまっていたの」
「かわいそう」
男の子は言いました。
「でもね、その日の夜、それは今日みたいに月のきれいな夜だったんだけどね。
わたしたちくらいの年齢の男の子がそれを見つけて、ワナをはずしてくれたの」
「よかった、助けてくれる人がいて。
優しいね、その子は」
男の子はほっとしました。
「その子はね、そのときこう言ったの。
『きみがとってもきれいな白色だったから、ぼくはきみを見つけることができたよ。
お父さんとお母さんからもらったその毛の色は、きみの宝物だね』って」
へえ、と男の子はうれしくなって思わず声を出しました。
「うさぎはね、それまで自分にはなんにもとりえがないって思っていたけど、その子のおかげで自分のいいところに気付けたの」
「なんか、ぼくみたいだ」
「そうね、あなたみたいね」
女の子はやさしく笑ってそう言いました。
「それから彼は、月のきれいな晩にはまた男の子に会えると思って元気に走り回るようになったの。
今までは走るのがきらいだったからぜんぜん早くならなかったけど、そうやって走り回っているうちに、うさぎは上手にかけまわれるようになったわ」
「できないって思いこんじゃってたんだね。
それも、ぼくみたい」
男の子は、だんだんうさぎが自分に見えてきました。
「それで、うさぎは男の子にまた会えたの?」
女の子はうなずきました。
でも、その表情はけわしいものでした。
「会えたんだけどね、そのときの男の子は、オオカミにおそわれているところだったの。
男の子はしりもちをついて、にげることができなかった」
「えっ! それで、うさぎはどうしたの?」
「昔のうさぎだったら、そんなときなにもできなかったと思うけど、
そのときのうさぎはただ男の子を助けることだけを考えて、オオカミに正面から体当たりをしたの。
すごいスピードだったわ。
とつぜんの大きなちからに、オオカミには、なにが起こったのかわからなかった。
それで思わず、男の子をおいてにげていったのよ」
男の子は、すごい、と思いました。
そして、それを口にも出していました。
「ものすごく、勇気のいることだよね。
うさぎはよくやったね」
かんしんしている男の子を見て、女の子は言いました。
「これで、あなたの素晴らしいところの三つ目がわかったと思うわ」
「……勇気」
男の子は、もう一度その言葉を口にしました。
「そう。
あなたの素晴らしいところ、さいごのひとつはそれよ。
実は、あなたは今までにも勇気を出してきたのよ。
自分でわかる?」
男の子は、今までの自分の行動を思い出していました。
「明日に向けてあなたが気付かなければならないことはそれよ。
あなたには勇気がある。
自分よりずっと大きな相手に立ち向かっていっちゃうくらいのね」
「……緊張をのりこえる勇気も?」
「もちろん。
あなたなら、きっと大丈夫」
女の子は、そう言うと急にゲホゲホとせきこみました。
「大丈夫!?」
男の子はかけより、彼女の背中をさすりました。
「ありがとう。
今までだまっていてごめんなさい。
わたし、実は病気なの」
「え……」
女の子のとつぜんの言葉に、男の子は大きなしょうげきを受けました。
「どうしたら、治るの?」
男の子は、涙声になって聞きました。
「治すのには、手術をしなくちゃいけないの。
でも、とってもむずかしいの」
むずかしいと聞いて、男の子のむねがチクリと痛みました。
「でも手術を受けなければ、長くは生きられない。だから決めたの。
わたしを助けてくれたあなたといっしょに、わたしも勇気を出そうって」
「僕、やるよ。ゼッタイに。
そして、優勝する。見てて」
男の子は、力強く言いました。
だから君も、がんばって。
「ありがとう。あなたならそう言ってくれると思ってた。
わたしもがんばってこの病気を治すわ。
うれしい。ほんとうにありがとう」
女の子の目にも、涙がうかんでいます。
「わたしの手術が成功すれば、明日、また会えるわ。
そのとき、今まであなたにかくしていたこと、教えるね」
とつぜん、男の子の周りに、木がらしがふきあれました。
そして、男の子は夢からさめました。
涙をぬぐってから、天井に向かって言いまし
た。
『ぼくが、きみのことを必ず助けるよ』