僕らはきっと、あの光差す場所へ



 ぎゅっと握り締めた拳しからスッと力が抜けていく。橘はケラケラと笑って僕を見る。でもわかる。その笑顔の中にほんの少し、悲しさが滲んでいることが。


「......ごめん」

「はは、春瀬ってば、真剣な顔しちゃって。隼人と関わりなんてなかったくせに、おっかしいの」

「......うるせーよ」


 ねえ、こっち来てよ、と橘がもう一度空いた右側のソファを手で叩く。僕はもう躊躇わずにそこへ足を進めて、橘の横へと腰を下ろした。案外柔らかくて、疲れている体ごと吸い込まれるように沈んでいく。


「ね、さっきの話しようよ」

「さっきの話?」


お互いソファに身を任せる。疲労からか僕の瞼は一瞬で重くなって、そのまま目を閉じた。手を伸ばせば届く距離に居る橘の存在を左側で意識しながら。


「春瀬はどんな子供だった?」

「まだ子供だよ」

「もー、そういう屁理屈はいいから!」

「どんなって、普通。今と変わんないよ。根暗で友達がいない、そんな奴」

「友達いなかったの?」

「うるせえなあ、いいだろ別に、いなくたって」

「ははっ、じゃあさ、わたしが一番だね」

「一番?」

「うん。春瀬の友達第一号。どう? 私じゃ春瀬の一号には勿体無いかなー?」


ケラケラと笑う橘の考えていることは全くもって意味がわからない。突拍子もない、きっと意味もない。友達一号、なんだそれ。


「......知らない」


えー、と隣で橘が甲高い声を出す。一度閉じた目を開けるのには勇気がいる。

友達、という響きが自分に向けて降ってくることが、僕の人生の中で今後あるだろうか。冗談でも、意味がなくても、ただ、今日一日限りだとしても。

ああ、本当に、不覚だけれど。

お腹のあたりがなんだかむずがゆいような、喉の奥がかゆいような、変な感覚だ。僕は単純なのかもしれない。いや、きっと、単純なんだろう。橘千歳に関わるまで知らなかった。


友達なんて言われて喜ぶような、まるで小学生みたいな奴になりたくないって、思っていたはずなのにな。



「……橘は」

「え?」

「橘は、どんな子供だったんだよ」


中3の夏、僕はこの町へやってきた。よくある親の転勤。父親と僕の二人暮らし。引っ越しには慣れていた。もう何度も経験したことだったから。

僕も橘も、中3からの互いしか知らない。もちろん、僕が橘にとってただのクラスメイト、あるいはそれ以下の存在でしかなかったことは十分にわかっているけれど。


「私? 私も今と変わんないよー」

「ふうん、小さいころから能天気だったんだ」

「え?! 今バカにした!? バカにしたよね!?」

「気のせいだろ」

「ちょっと春瀬、ヒドくない?! これでも学級委員とかやっちゃってたんだからねー?」

「橘が学級委員とか、そのクラス大丈夫かよ」

「ちょ、バカにしてるよね!? ねえ、バカにしてるよね?!」


隣で起き上がる気配を感じて目を開けると、橘が僕を見て「春瀬ってほんとイヤミな奴だよね!」と頬を膨らませている。僕はそれを見て思わず「ふ、」と声を出してしまって、右手で口元を覆った。けれど笑いっていうのは自分で止めようと思ってもうまくいかないらしい。


「ははっ、」

「もうー、そんなに笑うこと? 春瀬って案外笑いのツボ浅いよねえ。いっつも仏頂面してるくせに」


ばふん、と再び橘がソファに身を任せる。左側が沈んだのを感じて、僕はやっと笑いを抑えることが出来た。


「まあでも、なんとなくわかるよ。今でこそ室長なんてジャンケンだけど、小学生の頃は目立つ奴の特権みたいなもんだったもんな」

「そうなのかなあ、私は何となくやってただけだけど」

「なんとなくでやれるんだから、橘は目立つ奴なんだよ」



えー? と橘が声を唸らせる。セミの声が少しだけ静かになったと思うのは気のせいだろうか。


「小学生のときはよかったよねえ。何も知らなくて、純粋でさ。毎日楽しくて、夢は叶うんだって信じたりして。……楽しかったなあ。」


まるで今が楽しくないような物言いに、顔だけ左側を向けて橘を見る。天井を見つめながら話す橘がやけに近く感じた。


「今が楽しくないみたいな言い方だな」

「そういうことじゃないよー。純粋に、あの頃は何も知らなくて、ピュアだったなあって」

「……ピュア、ねえ……」

「なによー。またバカにしてるでしょ」

「いや、そうじゃないけど」


 純粋で、無垢で、ピュアだったんだろうか。巡らせる記憶の限り、僕は小学生の時から今まで、きっと何も変わってはいないんだろうと思う。

沈黙が続いて、突然僕の瞼はさらに重くなった。一度閉じてしまえばもう開かないんじゃないかと思ってまばたきを繰り返してみるのだけれど、やっぱり意識がどこか違うところにあるようで、うまくいかない。


「……春瀬は、夢、ある?」

「夢?」

「うん。小学生の頃言ってたような、純粋な夢。……ある?」


やけに真剣な橘の声と、セミの声が段々遠くなってゆく。閉じてしまった瞳はもう開けることはできず、ふわふわとした意識の中でかろうじて声を発す。


「……ないよ、夢なんか……」


そんな僕の言葉に橘は少しの真を開けて何かを言ったのだけれど、襲ってくる睡魔に勝てなかった僕の体はそのままソファに吸い込まれるように沈んで、意識はそこで途絶えた。






「———せ、春瀬!」


 どこか遠い意識の中で名前を呼ばれたような気がして、暗闇に一筋の光がさすようにうっすらと目を開ける。怠い体が細い手によってブンブンと揺らされていて、まだハッキリしていないぼんやりとした景色を回らない頭でなんとか理解しようとするのだけれど、どうもうまくいかない。


「春瀬ってば! 起きて! もう3時だよ?」


3時、という言葉に驚いて、自分でも驚くくらい勢いよく起き上がる。蒸し暑い小屋の中、薄汚いソファの上。だるい体、疲労した足。重い瞼、汗をかいた全身。意識が一気にハッキリしたおかげで、今日半日何をしていたのかまざまざと思い出した。僕の体をゆすっていたのは隣にいる橘のようだ。


「ごめ……寝てた、」

「ううん、私も寝ちゃってた。さっき起きたとこなの。時計見て驚いちゃって」


座ったまま眠っていたなんてどれだけ疲れていたのだろう。部活もやっていなければ体育の授業にも出ていない僕にとって、自転車の二人乗りで町中を回るのは相当体にきているのかもしれない。

長い前髪を右手で整える。寝ている間に横へ流れていないか不安だったからだ。


「一時間半くらい、か。寝てたの……」

「そうだね。座ってるうちに眠くなっちゃった」

「時間無駄にしたかもな」

「うーん、そうかもしれないけど……まあ、しょうがないよ。眠気には勝てないし」


困ったように肩をすくめた橘は、そのまま両腕を前に伸ばして伸びをする。僕も首をまわしながら立ち上がって、一時間前よりも随分と軽くなった足をのばした。



はー、とため息をこぼすと、横で橘がクスクス笑った。なんだよ、と橘の方を向くと、僕を見上げながらさらに笑う。


「春瀬なんて、授業中寝てるとこさえ見たことないのに」

「……今のは不可抗力」

「ははっ、おっかしいよねえ。ふたりしてこんなとこで寝ちゃって」

「疲れてたんだよ、しょうがない」


橘が立ち上がって、今度は両手を真上にあげた。体を大きくのばしたあと、スカートと腰に巻き付いた僕のカーディガンを綺麗に整える。ついでにポニーテールほどいて縛りなおす。揺れる長い黒髪が、差し込む光に反射して光った。


「……隼人ともよく寝てたなあ、ここで。話してるとふたりとも疲れちゃって。気づいたら夜なんてこともよくあった」


 懐かしい昔話をするみたいに、橘がしゃがんでソファをなでた。

 さっきまで自分が寝ていた場所が、本当は唐沢の物だと思い知らされる。橘の指先が大切そうにソファをなぞっているのを見ながら、ところどころにできたシミが涙の痕のように感じた。


 こんなことを今更考えるのはどうかと思うけれど、ここで過ごしたふたりの時間は、どんなものだっただろうか。


 橘が通常過ぎて何度も忘れかけてしまうけど、誰よりも大切な恋人が消えたんだ。こんな思い出深い場所にきて、何も思わないわけがない。当たり前だ。どうして気づかなかったのだろう。本当は橘だって、傷ついていることに。


そして、どうして気づいてしまったんだろう。
彼女の細くて長い指先が、震えていることに。


 少しだけ震えた、ソファをなぞる指先。ゆっくりとすべりおちるようなその動作は、まるで本当に大切な物を扱うようで、僕はどこからかこみ上げてくるものをグッとこらえた。

 当たり前だよな。僕には到底わかりやしないけれど、好きな人が突然消えたんだ。橘は変わっているし無駄に明るいけれど、動じないわけがなかったんだ。当たり前だ。どうして今更こんなことに気づいてしまったのだろう。どうして今まで気づいてやることが出来なかったんだろう。

 もしかしたら橘は、ずっと、いろんなものを抱えて押し込んで、唐沢への想いも箱にしまって、『いなくなった』ことを飲み込むためにこんな馬鹿げたことをしているんじゃないだろうか。『捜す』なんていう建前でしかないことを、思いついたんじゃないだろうか。

———クラスの中で一番、関わりもなかった僕を連れて。

都合がよかったのは、学校を抜け出すのに最適なのが成績が優秀な僕だったからじゃない。きっと、何も知らない、何も関係ない僕のような人間となら、一番『いなくなった』ことを飲み込むことが出来ると思ったんだ。


 後ろから声をかけることもできずにただ、彼女の背中とすべる指先を見つめることしかできない。なんて情けないのだろうと思う。今まで人と関わってこなかった僕は、こんなときにかける言葉すら何も思いつかない。

国語の成績がよくても、人間観察をよくしていても、何の意味もない。人の気持ちなんてわからないし、関わり方も慰め方も、僕は何ひとつ、知らない。






「……ごめん、なんか懐かしくなっちゃって。時間の無駄だよね。行こう」

「ああ……」


 長いようで短い沈黙をやぶったのは透き通った橘の声だった。半分笑いながら立ち上がって、また両手を上へとのばす。


「……ごめん」

「え、何が?」

「……色々」


なにそれ、意味わからないのー、と無邪気に橘が笑うから、余計に息苦しくなってくる。

何もしてやれない。何もできない。相手の気持ちも、自分の思いもよくわからない。僕ほど無力な人間が、他にいるだろうか。


「さ、春瀬、行こう。行きたい場所あったんだ、わたし」


行きたい場所———初めて自分からそう言った橘の声は清々しい。さっきまでソファをなでていた背中は幻なんじゃないかと思うほど。

それでいて、瞳は心なしか潤んでいたのを僕は見逃さなかった。僕に背中を向けている間に、必死に涙を、こらえていたのかもしれない。


———唐沢隼人はどうして、消えたのだろう。


当たり前のようで、何度も頭の中で打ち消した疑問が沸々と湧いてくる。橘千歳を残して、どうして、消えてしまったのだろう。

彼に消える必要なんて、理由なんて、どこにも、この世界のどこにだって存在していないはずなのに。


消えていいのは僕みたいな人間のはずなのに。消えたのが僕だったなら、橘に涙を流させることなんて、なかったはずなのに。











「あー涼しい! 最高ー!」

「めっちゃ暑いんですけど……」

「ねえ、溶ける! 溶けるから早く出して!」

「あーもうはいはい」


 あの小屋がある林を後にして、数分自転車を漕いだ。真昼間よりも暑さはやわらいでいたけれど、一時間も寝ていたせいで全身に汗をかいてしまって肌に張り付いた制服が気持ち悪い。

途中、橘がどうしてもアイスが食べたいと駄々をこねたので遠回りをしてコンビニへ寄った。店内はクーラーが完備されていて天国だったのだけれど、橘が急かすものだから数分しか滞在できなかった。

橘は好きだと言っていた100円のソーダアイス。僕もそれにしようと思ったのだけれど、橘の真似をしているみたいで癪なので120円のスーパーカップを買った。濃厚バニラ味。スプーンを二個頼んだ僕はもうちょっと橘に優しくされてもいいと思う。

それらふたつをビニール袋に入れて数分。近くの川まで自転車を漕ぐと橘は「ここ!」と言って僕を無理やり止めた。そのまま川沿いに植えられた木の下へ座り込んで、木陰で僕を手招いている。


「あー、やっぱちょっと溶けちゃってるよー! はやく食べなきゃ」


袋から取り出したソーダアイスはボタボタと溶けだしていて、橘はそれに舐めるようにかぶりついた。シャク、シャク、と夏の音がする。

僕はその隣でスーパーカップのふたを開ける。予想通り溶けだしたバニラアイスが溢れそうで、スプーンですくうというよりはカップに口をつけて溶けた部分を吸い込む。


「はーるせー」

「何。ひとくち?」

「えっ、なんでわかったの!」

「なんとなく。てか溶けるよ、ソーダ」

「うわわ、ちょ、やばいやばい」


慌てて食べかけのソーダアイスにかぶりつく橘を見て思わず笑ってしまう。それにつられて橘も笑うから、バニラアイスをのせたスプーンを手渡してやる。僕は橘に手渡したつもりだったのだけれど、橘は躊躇いもなくそのスプーンへと口を寄せた。


「おいっ、そのまま食べるなよ!」

「だって今これ手放したら溶けちゃうじゃん! てかバニラ美味し!」


そういう問題じゃないだろ。

せっかくもらってきたふたつめのスプーンは無駄になってしまったし、恥じらいも躊躇いもない橘の行動には時々ビックリさせられる。僕が単に人間と言うものに免疫がないだけなのかもしれないけれど。



「春瀬も食べる? ソーダアイス」

「いや、いい」

「えー? ほんとは食べたいくせに、照れちゃって」

「うるさい、てかまた溶けてる」

「うわ、もうっ、春瀬が自転車こぐの遅いからー!」

「人のせいにするなよ」


半分くらいになったどろどろのバニラアイスをプラスチックのスプーンですくいながら、ほんのり香るシナモンが心地いいな、と思う。そういえば、小さい頃よく行っていた喫茶店のバナナジュースもほんのりシナモンの味がして、あの独特の味がすごく好きだった。

小学一年生ぐらいの記憶だから、確かなものじゃないけれど。どこか懐かしくて、胸の奥が時々壊れそうになる、あの頃の、数少ない思い出。


「ああ、夏だねえ……」


ほとんどソーダアイスを食べ終えた橘が隣で木にもたれかかってそう呟く。

川のおかげか、この木陰はやけに涼しくて控えめな風がとても心地いい。昼間よりも静かになったセミの声と川が流れる水の音。周りに大きな建物はなく、あるのは田んぼや畑の間にぽつんぽつんと建つ小さな小屋だけ。

緑に染まったこの辺一帯とどこまでも広がる深くて鮮やかな青色の空。太陽は西に傾き、川辺の湿ったにおいが鼻をくすぐった。

夏。痛いほどの、真夏日。


「アイスの棒、ここいれたら」


すでに僕の食べ終えたカップとスプーンが入ったビニール袋を差し出すと、橘が自分のアイス棒を持ち上げて目を丸くした。


「ねえ春瀬! 見て! アタリだ!」

「は? あたり?」

「ほら、ここ、見て? 棒に〝アタリ〟って書いてある!」


目の前に差し出されたアイス棒を見ると、確かに『アタリ』というカタカナの文字と、その下にソーダアイスの笑ったキャラクターが描かれていた。


「こんなのまだあったんだ、最近食べてないから知らなかった」

「ね。私もびっくりだよー。なんか懐かしい感じしない? 棒付きアイスのアタリ付きって」

「小さい頃もそんなに頻繁に見かけてたわけじゃないけどな」

「え、ほんと? 私夏によく食べてたなあ。本当にたまにね、当たるんだよ、これ。お店に持ってくと、ちゃんともう一本くれるんだから」


嬉しそうにアタリと書かれた棒を持って立ち上がった橘が、川の方へと歩き出す。僕も荷物と自転車を木陰に置いたまま、その背中を追いかけた。



「わ、意外とつめたい!」


アイスの棒を川の水につけたと同時に、橘が嬉しそうに声を出す。ベタベタになっている棒を洗おうとしたのだろうけれど、それ以上に水の冷たさにテンションが上がっているらしい。

橘がはしゃいでいる間に靴と靴下を脱ぎ捨てて、制服の長ズボンを捲り上げた。片足を水面にすべらせると、ジャブ、と案外大きな音をたてる。

その音で気づいたのか、橘がこっちに振り返る。元々大きな目をさらに大きく見開いて僕を見て、心底驚いたような顔を向けるから「なんだよ」と言ってやった。


「だって春瀬が自分から川に入ってる……」

「ダメなのかよ」

「だって、あの春瀬だよ? 体育もやらなければ人と遊んでるところなんて見た事もない春瀬がだよ? 自分から私と遊ぼうとしてるじゃん!」

「いや、遊ぼうとは思ってな……」

「私も脱ぐ! あ、これここに置いといたら乾くよね? カーディガン濡れそうだから一旦はずすよ?!」


僕の話に聞く耳なんて持たず、心底嬉しそうに橘が靴と靴下を脱ぎ捨てた。

近くにあった大きな石の上に僕のカーディガンと洗った棒を無造作に置いて、僕と同じように川の水へと足をすべらせる。


透明で透き通ったこの川は町中につながっていて、水が綺麗なことがこの町の自慢らしい。これだけ田んぼがあるのだから、そりゃあ水も綺麗なんだろう。

つま先から伝わる水の温度はひんやりして気持ちがいい。汗をかいた全身からスッと気持ち悪さが抜けていくような感覚。

上を見上げれば西に傾いた太陽が、まだ眩しく僕らを照らしている。手を掲げてみるけれどやっぱり太陽光は白色だと思う。朝と同じだ。けれど確実に違うのは、僕と橘の関係と、僕の中にある気持ち。


橘が笑ってくれていたらいいと思う。

人と笑いあうことなんて忘れていた僕が笑えたんだから、橘はきっともっと輝いた笑顔を見せられるはずなんだ。

唐沢隼人を捜す———その行為が彼女の慰めになるのなら、そんな一日も悪くないって、やっとここにきて、僕は思ってるんだ。