君が涙を忘れる日まで。



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鼻に付く独特な香り。


重い瞼をゆっくりと開くと、真白な天井と蛍光灯の眩しさに、再びキュッと目を瞑る。



「……な!奈々!?」



もう一度目を開けると、お母さんが心配そうに目を潤ませて私の顔を覗き込んでいる。



「……え?お母さん?」


「お母さん?じゃないわよ!よかった……どこか痛い?お母さんのこと分かるわよね?」


私の気持はとても落ち着いているというのに、いつものんびりしているはずのお母さんが、何故か凄く焦っていた。



「どうしたの……?」


自分の置かれている状況をすぐに把握することが出来ず、横になっている体をゆっくり起こそうとした時、突然襲ってきた強い痛みに顔を歪めた。


「痛っ!なに?足痛い……」


「足だけ?他は大丈夫?今先生来るから」


先生……?


その言葉に、初めて私は周りをぐるっと見渡した。


白い壁に囲まれた部屋には大きな窓、右を向くとテレビが置かれていた。


「ここって……」


「軽い脳震盪と足の打撲だけで他に異常はないって言われたのに、あんた中々目を覚まさないからみんな心配して……」


止まることのないお母さんの言葉に耳を傾けているけれど、なんだか現実味がなくて心がフワフワと落ち着かない。


お母さんって、こんなに早口で喋れるんだ。



先生が来て一通りの診察を終えると、明日また検査をするけれど恐らく大丈夫だろうと言われた。


再びお母さんと二人きりになった病室。

そういえば今何時なんだろうと時計を探す。


「お母さん、今って何時?」

「ああ、そうね。えっと」

お母さんは鞄から、長年使っているガラケーを取り出した。

「もうすぐ十一時になるわよ」


十一時……。

薄いカーテンが掛かっているけど、窓の外は明るいようだ。


「あのさ……私、事故に合ったんだよね?」

「なに言ってんの、まさか覚えてないの?本当に大丈夫?もう一度先生呼んで……」

「あー、大丈夫大丈夫。ごめん、ちょっと混乱しただけだから」

「本当に?それならいいんだけど」


どうして病院にいるのか、それは覚えている。

何かが爆発したかのような大きな音も、体に受けた衝撃も。



でもあれは……夢、だったんだろうか。



「昨日の夕方、病院から連絡が来た時は心臓が飛び出るかと思ったわよ。でも命に別状はないし、怪我も酷くないって言われてようやく安心できたんだから」


夢にしては、全てがとてもリアルだった。

掴まれた腕、冗談を言う声や怒鳴り声。

頬に触れた手も、薄れていくその顔も……。




「あんたがこうやって大きな怪我もなく無事でいてくれたのは、幸野君のお陰ね……」






「……え……今、なんて……」







頭の中の白いモヤが、次第に溶けていく。


手が震え、呼吸が乱れると、体がぐらぐらと揺れているような感覚に陥った。



夢なんかじゃない。

私は確かに、彼と一緒にいた。



最後に聞いた声。


私の話をずっと真剣に聞いてくれた彼の眼差し。


始まりはまだ薄暗い空の下で、私は……私を見下ろして。


その前に、私は……。



全ての時間が頭の中で巻き戻されていく。



雨上がりの蒸し暑い空気の中、私はあの日……。








 *








  ***



「奈々、本当に大丈夫?」

眉間にしわを寄せ、不安そうに何度も同じ言葉を繰り返す香乃。

「大丈夫だってば、この時期はいつものことだし」


雨の季節が近づいてくると、昔から時々偏頭痛に襲われることがある。

一度病院に行ったけど、特に問題はないとのこと。

そんなに頻繁に起こるわけじゃないから私も気にはしていない。

本人がそうだというのに、香乃はいつまでたっても私の頭痛に敏感に反応してくれる。

まぁもし逆の立場なら、私も心配して大きな病院で精密検査を受けて来いと言っただろうけど。



「ちょっと休めば大丈夫だし、それプラス今日は生理だから、それもあるかな」

「それならいいけど。もう一回病院行ったら?」

「そうだね、そうするよ」


私がなにを言っても香乃の心配が治まらない時は、こうやって安心するような言葉を返すのもいつものことだ。


「それよりほら、みんな行っちゃったよ」


頭が痛いという理由で、体育の授業は休むことになった。

先生には保健室に行くと言ったけれど、恐らく頭痛薬を貰ってベッドに横になるだけだし、最初から保健室に行く気なんてない。


私は教室にひとり、窓から校庭を眺めていた。




女子は体育館で、男子は校庭か。

今日はサッカーかな?


視線の先、校庭ではジャージ姿の男子が二ヶ所に分れ、真ん中にいる男子の足元にはボールがある。

先生が笛を吹くと、一斉に動き出す男子。


私はボールを追うわけでもなく、目まぐるしく動き回る男子の中で必死に彼の姿を探した。


最初に電車の中で見た時より少しだけ髪が伸びていて、染めてないって言った髪の色は、太陽の光で自然と茶色く見える。


入部した頃に比べたら、初心者だとは思えない程バスケはかなり上達した。

でも、サッカーは苦手なのかな。


ドリブルをしようとボールを蹴ると足からすぐに離れてしまうし、シュートなのか分からないけど、思い切り蹴ったボールはとんでもない方向に吹っ飛んだ。


そんな修司の姿に、私は思わずクスッと笑う。


失敗しても下手でも一生懸命で、とても楽しそうに大きな口を開けて笑う修司。

こうして遠くから見ているだけで、それだけでいい。

私の気持が伝わらなくても、女子の中では仲のいい友達。そう思ってくれるだけでいいんだ。


彼女の幼馴染というだけで、あなたの目に映る回数が他の子よりも少しだけ多ければ、幸せだと思えるから。



修司のことを目で追っていると誰かが転んだのか、みんなが一箇所に駆け寄っていく。


試合が中断したところで、私はようやく校庭から視線を逸らした。






二年になってもうすぐ一ヶ月。

香乃と修司がいる教室にも、だいぶ慣れてきた。


自分の気持を消し去ろうと決めたのに、同じクラスになってしまった時は本気で神様を恨んだ。

でも香乃のことを思えば……そんなのはとても些細なこと。


こうして自分の席に座っていても、見なければいいんだから。


香乃を避けていた時の胸の痛みに比べれば、香乃と一緒に笑い合える方がましだ。

笑ってた方が……。



誰もいない教室のはずなのに、真っ直ぐ前を見ていると、彼の背中が見えてくるようだった。


授業中、顔は見えなくても彼の顏を思い浮かべるのはとても簡単で、今黒板の文字を真剣に見てるんだなとか、肩を揺らして笑ってるとか、隣の席を見て……微笑んでるなとか。


そう思う度に、私の心は曇っていく。



私は席を立ち、いつも見ている二人の席の間に立った。


自分が苦しみたくないからって、私は一度香乃を傷つけた。

もう二度と香乃を悲しませないと、傷つけないと誓ったんだ。



でも……。



どうかほんの少しだけ、本当の気持を吐き出してもいいですか?





黒板の前に立った私の手には、白いチョーク。





どうか……たった一度だけ、この瞬間だけでいいから……。






私は……。












  *


お昼休みを迎えた頃には頭痛も治まってくれたから、なんとか部活には出ることが出来た。

体育は休んでも、部活は絶対休みたくなかったから。

これがいわゆる病は気からというやつなんだろうか。


今日は男バスはトレーニングルームの日だから、女子が体育館の半面全部を使うことができる。


体育館の四分の一で練習することが多いからか、半面使える日はとても貴重だ。

それに、男バスが体育館にいないということは、練習にも身が入る。


もうすぐ三年生は引退。
今までみたいに個人的な感情に流されていたら、十人いる二年の中でスタメンを勝ち取ることは出来ない。

頑張らなきゃ。



「奈々、だいぶ調子戻ってきたみたいじゃん。一時はスランプっぽかったけど」

「はい、なんか上手くいかなくて悩んでたんですけど、最近は絶好調です」

先輩の言葉にそう返事をし、スリーポイントの位置からシュートを放った。


「ここだけの話し、奈々が入ってきた時は三年のみんなかなり焦ったんだよ」

「えっ?」

「中学からやってただけあって上手かったし。私達が引退した後部員を引っ張るのは確実に奈々なんだから、頑張ってよ」

小声で伝えてくれた先輩の言葉が嬉しくて、思わず泣きそうになってしまった。


「はい、ありがとうございます!」



教室では無理だけど、体育館では二人がいてもいなくても、部活に集中しよう。

この場所でボールを触って汗をかいている時だけは、嘘をつかなくて済むから。






部活が終わって着替えを済ませ校舎を出ると、地面が少し濡れていることに気付く。

部活中に雨降ったのかな?吹く風が少しじめっとしている。


学校を出た所で一度スマホを確認すると、いつものように香乃からLINEが入っていた。


[部活終わったかな?お疲れさま]

送信時間は今から三十分前、男バスの練習が終わってすぐ送ってくれたんだろう。


香乃は、前よりも頻繁にLINEを送ってくれるようになった。

どこか私に気を遣ってるんだと気付いていたけれど、それを聞くことすら出来ない。


スマホを鞄に入れ、再び歩き出した。


十七時半を過ぎてもまだ空は少し明るくて、薄くオレンジ色に染まっている。

日が落ちるのが遅くなってきたな。
でもこれから梅雨か、私の嫌いな季節だ。


二年生が終わるまで、あと約十ヶ月。長いな。


三年生になったら、二年間同じだった修司とは多分クラスが離れる。

そうしたら、今よりも気持ちは楽になると思う。

だけど卒業式を迎えた時、私は心から笑って香乃と写真を撮ることができるんだろうか。

正直全然想像できないけど、もしかしたら新しく好きな人とかできるのかな。


そうなってくれたらいいのに。





橋を渡っているとその先にラッキーロードが見えて、チクっと胸が痛む。


川沿いを歩いていると、嫌でも思い出す。

考えたくないのに、勝手に頭に浮かんできてしまう。

なかなか話しかけられなくて、その背中を追いかけるようにして歩いているだけで、幸せだと思えた通学路。


卒業までの間、私はずっとこんな気持ちのままこの道を歩かなければいけないんだろうか。


それとも、いつか消えてくれるのかな……。



駅が見えてきたところで、駅前の大通りの赤信号で立ち止まった。

香乃はもう帰ったかな。修司と一緒に……。


俯き地面を見ていると、視界に入っていた周りの人達の足が一斉に動き始めた。

少し遅れて歩き出した私は、ようやく顔を上げる。


けれど横断歩道を半分渡ったところで、私は足を止めてしまった。


「……あっ」


信号の先の通りを歩いている、香乃と修司を見つけたから。


私より先に帰ったはずなのに、どこか寄り道をしていてこれから電車に乗るんだ。


立ち止まっている私の横を、足早に通り過ぎる人の陰。


このまま横断歩道を渡ったら、二人に会ってしまう。このまま渡ったら……。


私に気付いた香乃が、笑顔で『一緒に帰ろう』と言ってくる姿が頭に浮かんだ。


二人きりで帰るはずだったのに、私が邪魔をしてしまう。


その時修司は、どんな顔をするだろう。

いつもみたいに穏やかな笑顔を浮かべるのか。


それとも、残念そうな顔を……。



私は右足をゆっくりうしろに引いた。