行く当てもなくただ足の向くままに歩いていたつもりだったのに、気付けば駅まで来ていた。
高架下にある店舗は全て閉まっていて、いつもは沢山の人々が慌ただしく行き交うはずの駅前は閑散としている。
カラスの鳴く声や木々の揺れる音までよく聞こえてきて、まるで日本が滅亡する映画の冒頭シーンのようだった。
「さよならする旅か、なんか響きがかっこいいな」
能天気にそう言って、頭のうしろで手を組みながら口笛を吹く幸野君。
ハッキリしない掠れた音、下手くそな口笛が私の心を少しだけ和ませる。
「終電なら乗ったことあるけど、始発は初めてかも」
「私もだよ」
「なんつーか、終電より始発の方が酔っ払いのおっさんもいないし静かなんだな」
「うん、静かだね」
人の姿が殆どないからか、先の方まで見渡せるホームがとても不思議で、どこかの田舎町にある小さな駅にいるような感覚だった。
始発電車が来るまでの間、ホームにある青いベンチに腰掛けた。
なんとなく隣に座るのが恥ずかしくて、二人の間にある空白のベンチが私達の距離を物語っているようだ。
「私のことは?」
「ん?」
「私の印象も聞かせてよ」
浅く座り自分の足に腕を乗せた幸野君が、前屈みになって「うーん」と小さく唸る。
そんなに考えなきゃいけないほど印象にないのかな。
「バスケがすげー上手くて、毎日楽しそうにしてて、明るかった……って感じ」
「明るかった。過去形だね」
「おう、過去形だ」
そんな笑顔でハッキリ言われたら、否定する気にもなれない。
実際その通りだし、喋ったことがない幸野君にまで気づかれてしまうほどだったんだろうな。
少しの沈黙の後、始発列車が到着するというアナウンスが流れた。
立ち上がって辺りを見渡すと、いつの間にかホームには人がまばらに立ってる。
「電車乗るけど、いい?」
「何を今さら。乗るから駅にきたんだろ」
そう言いながら幸野君に右腕を引っ張られた私は、そのまま一歩うしろに下がった。
「黄色い線の内側って教わらなかったか」
「へー、そういう男っぽいことも出来るんだね。今の腕引くのとか、漫画みたいだったよ」
わざとからかうように言うと、幸野君は分かりやすく顔を赤らめて俯く。
「う、うるせー。さっさと乗るぞ」
電車の中は空いていて座れる場所はいくつもあったけど、私達はあえて座らずにドアの方を向いて立った。
窓を通して差し込む朝日がとても眩しい。でも、とても綺麗だ。
「あとさっき言い忘れてたけど、樋口の印象」
「なに?」
「浅木(あさぎ)と、仲良かったな……って」
その瞬間、強い日差しに目を細めながら、ゆっくりと幸野君から視線を逸らす。
仲良かった……。また、過去形だね。
道路を挟んで向かい合わせにある私達の家。
物心ついた時からいつも側にいた浅木香乃(かの)は、私の親友、幼馴染、家族、そのどれにも当てはまる存在だった。
「うん、そうだね……」
「浅木は途中から男バスのマネージャーになったじゃん?だからなんとなく気付いてたけど、お前らなんかあったのか?喧嘩ってわけじゃなさそうだけど」
喧嘩なら散々してきた。幼稚園の時は玩具の取り合い、小学校の時は約束を忘れてしまった時、中学では虐められていたことを相談されなかった時。
けれど喧嘩の数だけ、私達の絆は深くなっていったと思う。
でもそれはきっと、私と香乃が子供だったから。
そしてまだ、本気の恋を……知らなかったから。
あんなに素直だったのに、あんなに感情を剥き出しにしていたのに。
知らず知らずのうちに少しずつ大人への階段を上っていた私達は、人の感情に敏感になり、素直になることを忘れ、そして嘘をつくようになっていく。
大好きな香乃を悲しませたくない。でも、私の気持は行き場を無くしてしまったから……。
「樋口?大丈夫か?」
「あっ、うん、ごめん」
「なんか俺、余計なこと言っちゃたみたいで。ごめんな」
「ううん、いいの。幸野君に全てを話すって決めたんだから」
焼肉食べ放題の看板や屋根の上に乗っているよく分からないワニのオブジェ、電車の中から見える景色はすぐに移り変わってしまう。
あの頃は、景色なんて見てなかったな。
「この電車に乗らなかったら、〝彼〟が乗っていなかったら……始まることも終わることもなかったんだ」
全ての始まりは、この通学電車から……。
*****
*
「行ってきまーす」
トントンと靴を鳴らし家を出ると、目の前の白くて可愛らしい家が目に入ってくる。
眉をひそめながら振り返ると、ヒビが入って汚れた壁に茶色い屋根の小さな二階建ての一軒家。
香乃の家は一年前に建て替えたというのに、うちは今もボロいまま。
私もあんな可愛い家に住みたいな。
思わずため息をついて歩き出すと、向かいの家のドアが開き、いつもの高い声が聞こえてきた。
「行ってくるね」
玄関のドアを閉めてこちらを向くと、すぐに私に気が付いて大きく手を振った香乃。
顎よりも少しだけ長い位置で切り揃えられた艶のある黒髪に、黒目が特徴の大きな瞳は子供の頃からちっとも変わらない。
それに比べて、伸ばしっぱなしの前髪は目にかかるし、後ろの髪はようやく肩につくくらいまで伸びたけど、右側は寝癖で少し跳ねている。
一生懸命直そうとしたけど、頑固な癖毛は言う事を聞いてくれなかった。
私も香乃くらいの長さに切っちゃおうかな。
「おはよー奈々」
「おはよう」
私が香乃のいる方の道路に渡り、そのまま自然と駅に向かって歩き出すのが高校に入学してから変わらない毎朝の流れ。
「あ~あ、奈々と同じクラスだったらなー」
「え~?高校に入ってまで同じクラスなんて、勘弁してよ」
「なにそれひどーい」
わざと意地悪を言った私に奈々は頬を膨らませて見せたけど、こんなことで喧嘩になるような関係じゃないことはお互い重々承知だ。
「でもどうせなら三年で同じクラスになった方がいいかも。高校生活最後の行事盛りだくさんだし、修学旅行もあるし、卒業アルバムとかもあるし」
まだ入学したばかりだし、三年で同じクラスになると決まったわけでもないのに、嬉しそうに指折り数えながら歩く香乃。
そういう私だって、卒業式のクラス写真で香乃の隣に写っている自分を想像するのはとても簡単だ。
子供の頃からずっと、香乃と一緒に撮った写真は数えきれないほど沢山あるから。
駅に近づくにつれて人の数も多くなっていく光景も、さすがに見慣れた。
高校生になって初めて電車通学というのを経験し、二週間が経過した。
満員電車とまではいかなくても人が多い電車の中は本当に疲れる。
この時間でさえそう思うんだから、毎朝満員電車に何年何十年と揺られている働く大人のことを考えると、毎日ご苦労様と頭を下げたくなる。
入学からたった三日で自転車通学に変えようかと本気で迷ったけど、それはそれで四十分くらいかかるし、しかも坂道が多い。
部活の筋トレの一環だと思えばどうだろうと香乃に相談したけど、『私は朝からそんなに漕げないから無理』と大反対された。
だからしかたなく電車通学を続けていた。
そのはずだったのに。
ハッキリとは覚えていないけど、電車も悪くないかもと思い始めたのは、確か入学して一週間が過ぎた頃からだった。
毎朝決まった電車には同じ学校の生徒だけでなく、違う制服を着た学生も乗っている。
制服は様々でも、顔ぶれはほぼ一緒。
何も考えずに香乃とお喋りをしながら乗っていたその中で、私は〝彼〟を見つけた。
同じクラスの園田修司(そのだしゅうじ)。
いつも私達が乗る電車の同じ車両に、園田君は乗っている。
三両目に乗ると階段に一番近い場所で降りられるから私達は必ずそこに乗りこむけど、園田君もきっと同じ考えなんだろう。
髪の毛は日差しのせいで、教室にいる時よりも少しだけ明るい茶色に見える。
男子なのにハッキリした二重で、横顔が綺麗に見えるのも、きっと日差しのせい。
なんとなく気になってしまうのは、クラスメイトが毎朝同じ電車にいるからなんだ。
ただそれだけだと思っていたのに……、園田君がふと顔を上げた時、一瞬目が合った気がして私は咄嗟に俯いた。
心臓が勝手にキュッとなって、ソワソワして、破裂しそうなほどドキドキと揺れている。
うるさい。静まれ、私の心臓!
吊革を掴んでいない左手で、強くスカートを握りしめた。
目が合ったのは、気づかないうちに私の視線がずっと……彼をとらえていたから……。
あの胸のざわめきを感じた日から、私は毎朝園田君を探すようになっていた。
勿論キョロキョロと見渡すわじゃなくて、無意識に自然と。
でもクラスメイトなんだから挨拶くらい気楽に出来るはずなのに、未だに「おはよう」も言えていない。
入学して二週間、今日こそ言いたい。
だけど今までお互いほぼ無視状態だったのに、突然挨拶なんかしたらビックリするだろうか。園田君も、一緒にいる香乃も。
「ねぇ奈々、四組は委員会決めた?」
改札を抜けながら振り返って香乃が聞いてきた。
「まだだよ。今日決めるとか言ってたような」
「私なにやろうかなー。一番楽なのってなんだろうね」
「さぁ、結局どれだろうと楽な部分と面倒な部分があるんじゃないの?」
「奈々はいいよね、私と違って社交的だし、誰とどんな委員会になってもすぐに馴染みそう」
香乃の言う通り、子供の頃から私はどちらかというと明るく社交的で、香乃は大人しくて内向的な性格。
とは言っても私と一緒にいる時の香乃は言いたいことを割とハッキリ言うし、くだらない冗談も言って、似てない物まねだって披露してくれる。
学校でもそういう香乃を見せればいいのに、香乃いわく、それはまだ恥ずかしくて無理なんだそう。
「あっ、もう来たよ!」
階段を上がりきるのと同時に、ホームに電車が入ってきた。
そのまま一番近い場所に立ち止まろうとした香乃の手を咄嗟に握り、私は早足にホームを真っ直ぐ進んだ。
「疲れたからここでいいじゃん」
「駄目。三両目じゃなきゃ階段遠くなるでしょ!」
三両目じゃなきゃ、園田君に会えない。
息を切らして三両目のいつもの場所から電車に乗り、下を向いたままハァハァと乱れた息を整える。
ただでさえ寝癖なのに、余計乱れたかも。急いでサッと手で髪を撫でた。
呼吸が落ち着いたところでゆっくり顔を上げると、反対のドアに外を向いて立っている園田君のうしろ姿がすぐに目に入ってきた。
いつもはドアに寄り掛かりながら眠そうに俯いていることが多いのに、外を見てるのは珍しい。
今、園田君の目にはなにが映ってるんだろう。なにを考えているんだろう。もしかしたら、目を瞑ってるのかもしれない。
「奈々、ねー奈々聞いてる?」
「え、なに?」
「奈々はバイトしないの?」
「バイトね、したいけど無理かな。部活忙しいし」
「そっかー、だよね」
私達の会話は、二メートルくらい離れている園田君にも、聞こえるんだろうか。
「私バイトしようかなー、奈々が部活やってるとき暇だし。この前行ったアイスクリーム屋とか募集してないかな」
「あそこの制服なら可愛いし、香乃に似合いそうだね」
ごめんね、香乃。
香乃と話しをしながらも、私の意識はずっと、園田君に向いている。
ドアが開くと態勢を変えて、その度に見える横顔に胸の奥が熱くなる。
揺られること三十分で駅に着くと、同じ制服を着た生徒たちが一斉に電車を降りた。
階段を降りて改札を出て川沿いの道を進み、短い橋を渡って学校を目指す。
駅から十分、園田君のうしろをまるで付いて行くみたいに歩く私達。
電車に乗ってから学校に着くまでのこの時間が、なんだか幸せだと思える。
でも今日は、今日こそは挨拶しよう。
学校に近づくにつれて緊張で重くなる足取り、それに喝を入れるかのように一歩一歩力強く足を進めた。
同じクラスだから下駄箱で必ず一緒になるし、タイミングはいくらでもあるけど、香乃の前でいきなり話しかけたら香乃はどう思うだろう。
クラスメイトなんだから別に何も気にならないのか、それとも……。
「あっ!ヤバい、今日私日直だった!先行くね」
「え?あぁ、うん」
計ったように訪れた展開に、正直驚いた。
でもこれで、もう言い訳はできない。
園田君のうしろを歩きながら下駄箱に着き、上履きを手に取る。
他のクラスメイトと気軽に挨拶を交わす園田君の横で、緊張感マックスの私は上履きを履く単純な動作でさえぎこちない。
先に上履きを履いた園田君が私に背を向けた時、かかとを上げて一歩前に進み一瞬だけキュッと目を瞑って口を開いた。
「あの!園田君、おはよう」
早くなる呼吸を抑えるように、両手を胸の前で合わせて握った。
「……おはよう」
振り返った園田君は、少し驚いたように目を開いて返事をしてくれた。
だけど困った、この先の会話はなにも浮かばない。
ただ黙って見つめる私に向かって、園田君は頬を緩ませて笑った。
「教室、行こうよ」
「あっ、うん」
遠慮がちに半歩うしろを歩きながらも、喜びに包まれた私の目からは今にも涙が出てしまいそうだった。
「おはよー」
「おはよ」
教室に入るなり、園田君は大きな声でクラスメイトに挨拶をした。それにつられて私も声を出す。
「なんだよお前ら、同伴通学か?」
「なんだそれ、アホか」
からかうような声を軽くあしらって、真ん中の一番うしろの席に着いた園田君。
私はそんな彼の席を通り過ぎ、窓際の前から二番目に座った。
せめて私の席が園田君よりもうしろだったら、いつでも見られるのに。
学活が始まると、昨日の予告通り委員会決めが始まった。
先生が各委員会の名前を黒板に書きだしている。
「何にする?」
前の席のアユミが振り向いて聞いてきた。
「迷ってるんだよね。どんな内容なのか詳しいことはやってみなきゃ分からないし」
本当にどうしよう。とにかく図書委員だけは避けたい。
静かな空間でジッとしてるなんて絶対眠くなっちゃうでしょ。
園田君はなにをやるのかな。振り返りたいけど、出来ない。
「……えー、じゃあとりあえず立候補でいこうか。かぶったらじゃんけんな」
先生がそう言って一つ一つ委員会の名前を読み上げ、そのたびに手を上げた人の名前を書き込む。
図書委員って、意外に人気があるんだ。六人も立候補してるし。
あーもう、本当にどうしよう。風紀委員も絶対無理だし、そしたら残りは……。
「次、文化委員。誰かいるか?」
文化委員って、文化祭実行委員みたいなものだよね。
多分凄く面倒くさいだろうな、でも文化祭の時にだけ頑張ればいいんだから……。
意を決して手を上げた私は、他にいないかどうか確認するため、ゆっくりと教室を見渡した。
すると、うしろの方で伸びている手。その手を見た私は、思わず自分の腕を下げてしまった。
「なんだ樋口、やるのかやらないのか?」
「や、やります」
再び手を上げ、もう一人の立候補者の方を見ると、お互い確認するかのように合う視線。
「よし、他にいないなら文化委員は決定な。樋口と、園田っと」
黒板には文化委員の文字の下に並ぶ、私と園田君の名前。
文化祭はまだ先だけど、絶対に大変だということは分かる。それなのに、楽しみで仕方がなかった。