飛びたがりのバタフライ


「っていうか、蓮、全然肌焼けてないじゃん。真っ白。どんな夏休み過ごしてたのー」
「言ってやれ言ってやれ。こいつクーラーの効いたコンビニにこもってたんだよ」
「えー、不健康だなあ。運動しなよ、運動。バスケ部が言ってたよー、今からでも蓮に入って欲しいって」

冗談じゃない。バスケ部なんか入ったらバイトする時間が減ってしまう。益美の言葉にバスケ部の根岸も「そうだそうだ」と同調する。

「やだよ」とそっけなく返事をしてすたすたと学校に向かって歩き始めた。

後ろから「ほんと、意地っ張りだねえ」とふたりが肩をすくめているのがわかったけれど、振り返らなかった。

校門をくぐると、グランドの脇にある道を通って奥にある校舎に向かう。

靴箱で上靴に履き替えて、二階の丁度廊下真ん中にある二年D組のドアを開ければ寒いほどの冷気に包まれていた。教室のエアコンが設定できる最低温度の冷気を最大風速で吐き出しているのだろう。流した汗が急激に冷えていく。

「おー、蓮! 相変わらず根岸と仲いいなあ」
「たまたま会っただけだっつの。気持ち悪いこと言ってんな、バーカ」

後ろの方の席にいた吉田(よしだ)が、大声で茶化しながら声をかけてきた。

クラスで一番調子乗りの、ある意味ムードメーカーのような男。一学期から毎朝同じような冗談を言って根岸との関係をからかってくる。本気で言っているわけではないのはわかっているけれど、いい加減相手にするのが面倒くさい。

げんなりした顔で応えていると、隣にいた益美が腕を絡ませてきた。

「やだー、根岸に蓮はもったいないんだから。そんなことになったらあたし大反対するんだから!」
「益美までなに言ってんだよ。そんなことにはなんねーよ」

呆れながら答えると、益美はキャッキャと子供のように口を大きく開けて笑った。調子を合わせるように笑いながら、さり気なく益美の腕をほどいて自分の席に座って鞄を置く。

益美は大事な友人ではあるけれど、あまりにもベタベタと触れてくるところは苦手だ。男女問わず、人に触れられるのは好きじゃない。益美はそんな気持ちに気付く様子もなく、傍に寄ってきて近くの椅子に座った。

「ねーねー今日部活ないからさ、放課後どっか行こうよ」
「あー無理、バイト」
「えー! 今日もなのー? たまには息抜きしないと倒れちゃうよ」
「もっと言ってやれ、益美」

ふくれっ面を見せる益美の奥から根岸が一緒になって文句を言い始める。うるさいふたりを無視して背もたれに体重を預けると、ぎし、と背もたれから音が鳴った。

一ヶ月半ぶりの学校は相変わらず騒がしい。

学校にはそれなりに友達もいるし、勉強だってそこまで苦手ではないから家にいるよりも好きだ。

けれど、バイトしているほうが好きだ。働けば働いた分だけ手元にお金が入る。お金が増える度に未来への道が作られていくような感じだ。潰れることのない、確実で安心な道が出来上がっていく。

今日は始業式なので午前中で終わるけれど、明日からはがっつり一日学校に拘束されることになる。働けるのは数時間。そう考えると学校なんてやめてしまいたくなる。

そんなこと出来ないからこそ、バイトをして今はお金を貯めることだけを考えているのだけれど。

「そういや聞いたか、蓮、益美」

ぼんやりと考えていると、斜め後ろの根岸が机に身を乗り出して話しかけてきた。

「なにを?」
「転入生がやってくるんだってよ」
「……へえ。珍しい。こんな時期に」
「その噂、あたしも聞いたけど本当なの? 今、高二の二学期だよ」
「本当らしいぞ。絶対ワケありだよなあ」
「親の転勤かもしれねえだろ、そこは」

いやいや絶対ワケありだ、と根岸は繰り返す。興味津々と顔にでかでかと書いてあった。

「で、このクラスに来るの? 男? 女?」
「いや、そこまでは知らねえ。バスケ部の奴が夏休みにここに親と一緒に歩いてる私服の奴を見かけたとかで。このクラスの担任としゃべってたらしいから、このクラスなんじゃねえ?」
「ふーん」

ワケありかどうかはわからないけれど、珍しいには違いない。どんな奴か興味はある。こんな時期に転入なんて、どんな事情にしろ大変そうだ。


その後チャイムが鳴り、生徒達は始業式のために体育館に集められた。校長の長々とした話を半分寝ながら聞いて、どっかのクラブがなにやら優勝だか準優勝だかで壇上に呼ばれたら拍手を送った。

小一時間ほどの退屈な式が終わって教室に戻るとすぐに担任の若松(わかまつ)が教室にやってきた。

三十代前半で、この学校では若いほうの教師だと思う。短髪で筋肉質、いつもジャージを着ていて一見体育教師のようだけれど、化学を担当している。

生徒からの評判は特に悪いわけではない。誰とでも友達のように話すところが好きだという奴もいるだろう。些細な悩みにも真剣に耳を傾けてくれる今時珍しい熱血教師だと信頼している奴もいるらしい。

けれど、個人的にはこの男の馴れ馴れしい口調が嫌いだ。
昔から顔の痣について教師に『どうしたの』と何度も聞かれた。その度に『喧嘩した』だとか『転んだ』と適当な言い訳でやり過ごしてきた。

『父親に殴られたから』なんて言ったことは一度もない。

そんなことを口にすれば〝子供が悪いから怒ってる〟だけの父親から今以上に殴られることは火を見るより明らかだからだ。

それ以上に、親に殴られるなんて恥ずかしいことを他人に自ら言いたくはない。

家以外でも惨めな思いをするなんてまっぴらだ。

常に『それ以上聞くな』と壁を作ったような態度で接していた。元々愛想がそんなによくないせいもあってか、いつからか〝素行の悪い生徒〟のように思われたらしい。顔に痣を作るだけで学校で問題を起こすわけでもなかったからか、誰もなにも言わなくなった。


一年で担任になった若松も、案の定『その傷はどうしたんだ』としつこく聞いてきた。

それだけならまだしも、こいつの場合は『親御さんも心配するだろう』だとか『問題が起きてからじゃ遅いんだ』と口にする。

心配しているかのように声をかけてくるくせに〝他校生と喧嘩をした〟と決めつけていたのが気に入らない。

おまけにやたらと体に触れてくるところも気持ちが悪い。

肩をつかんで『オレはお前達生徒が大事なんだ』と押しつけがましい正義を口にする。

そんな若松の〝親切心〟を今までの教師以上に無下に扱ってきたからか、二年に進級する頃には〝問題児〟扱いされて目をつけられている。

〝素行の悪い生徒〟だと決めつけて、ちょっと学校でガラスが割れただとか物がなくなったなんて話が出ると『お前がやったのか』と言い出すのだ。

偉そうな大人はみんな嫌いだけれど、その中でも若松は上位に含まれる。
なんでこの男が二年でも担任なのかと未だに不満だ。

若松以外の担任なら高校生活は今より二割増しくらいで楽しかったかもしれない。


そんな若松は、今日もランニング直後なのかと聞きたくなるほど顔をテカらせている。

後ろを見覚えのない生徒が俯きながらついてきていた。クラスメイト達は近くの生徒とこそこそと話ながらその生徒に視線を向ける。

前髪が鼻まで隠すほど長く、顔がよく見えない。
肩に掛かるくらいの髪の毛は、伸ばしているというよりも切らずに放置している、という感じだ。

体の線がやたらと細くひょろひょろで色気もクソもない。
身長はそこそこあるのに、痩せすぎているからかとても小さく見えた。いや、背が高いからこそ華奢に見えるのかもしれない。
なるほど、あいつが噂の転校生か。
〝ワケあり〟と言った根岸の予想は、当たっているようだ。

目元は見えないけれど常に頭や手足を動かしていて明らかに挙動不審だった。緊張しているのだろうか。

「は、はじめまし、て……か、と、遠山(とうやま)、観月、です」

若松が自己紹介を促すと、おどおどとした様子で名前を告げてぺこり、と頭を下げた。声はとても小さかった。

一番後ろの席まで俯きがちにおどおどとした足取りで向かうのを、クラスメイトが無言で見守る。

転校生は居心地悪そうに、誰にも挨拶することなく椅子に腰を下ろした。隣の席に座る益美は、興味津々の様子でちらちらと転校生を見つめている。今すぐにでも話しかけたいのを我慢しているのだろう。益美らしい。


担任が出て行くと、思ったとおり益美はすぐに転入生に声をかけていた。

「どこからきたの?」
「どうして転入してきたの?」
「前髪切らないの?」

それに対して転入生の遠山は「あ、あの、その」としどろもどろに答えている。ただ益美の質問の速度と転入生が答える速度が全く違うために会話はほとんど噛み合っていなかった。


「なーんか、暗い奴がきたなあ」
「そうだな」

斜め前の席に座っている根岸が、机に肘をついて後ろを振り返りながら声をかける。

「まあ、どうでもいいや。じゃあな」
「え? もう帰んのかお前」

帰り支度をして声を上げると、根岸が驚いた顔で見上げてきた。

「バイトだよ、バイト」
「お前本当に過労死でもすんじゃねえの?」
「そのくらいでするかよ。寝ずに働いているわけじゃあるまいし」
「蓮ならいつかやりそうなんだよ」
「……心配しすぎだ」

いつも軽口ばかりの根岸が、ほんの少し憐れむような優しい口調になった。

確かに金に困っていたら死にものぐるいで働いて死んでしまうかもしれない。けれど、それは今じゃない。今自分の手元にはそこそこの金がある。このまま安定した収入を得られるのならば、昼夜問わず働く、なんてことをする必要はない。

夢があり、それが一年半後に叶うのがわかっている今死んでたまるか。

「じゃあな」と最後にもう一度根岸に声をかけて教室を出て行こうとすると、背後から益美の「あ、蓮バイバイー! また今度出かけようね」という明るい声が聞こえてきた。

振り返り「おー」と返事をすると、益美の奥にいた転入生の姿が視界に入った。

ちろりとこっちに視線を向けている、ような気がした。
長い前髪が邪魔してはっきりと目が合ったわけではないのだけれど。

変な奴。そんな独り言を心の中で呟いて教室をあとにした。

バイト先は、学園前駅までバスで戻り、そのあと家とは違う方向のバスに乗り換えて五つ目のバス停で降りる。そこから歩いて数分の日本最大手のコンビニエンスストアだ。

根岸が以前コンビニバイトはやることが多すぎて割にあわないから他の仕事を探したほうがいいと言っていたけれど、慣れればラクな仕事だと思う。

一時間ごとに九百円、そこに交通費が加算される。
そんなに待遇がいいわけではないが、家から自転車で来ることもできるし、仕事にも慣れているので、できれば卒業までここで働きたい。

コツコツと、地道に貯めていければいい。

いつものように与えられた仕事を黙々とこなしていると、時間はあっという間に過ぎ去っていく。

いつの間にかシフトの交代時間が近づいていたらしく、入り口から大学生の大野(おおの)さんが「おはようございますー」と入ってきた。

学校もだけれどバイトも、終わる度に憂鬱になる。あの家に帰らなければいけないのだと思うと、気分が一気に沈んでしまう。

バックヤードからコンビニのシャツに着替えて大野さんが戻ってくると、バイト終了だ。

バックヤードに戻ってタイムカードを押すと、ため息が落ちる。死角になっている部屋の隅っこでいそいそと制服に着替えていると、ドアが開く音がした。

「あ、ごめん着替えてた?」
「あー、大丈夫です。今終わったところなんで」

オーナーがタバコを吸いにやってきたらしい。制服に着替えてひょっこりと顔を出すと「お、制服か」と珍しそうな表情を見せた。

「制服だとやっぱり印象変わるねえ」
「そーですか? んじゃ、お疲れ様です」
「はい、お疲れー」

ぺこりと頭を下げてバックヤードを後にする。そのままレジにいる大野さんにも「お疲れ様です」と告げてから店を出た。

自動ドアの先は湿気に包まれている。

まだ真夏のように暑い日が続いているけれど、日は一時期に比べると低い位置にあった。空は薄鼠色に染められている。

学校からこのバイト先までバスで通えるのが利点だ。
けれど、家までが遠い。

バスで帰ろうと思うと一度駅まで戻らなくてはならないので、三十分弱ほどかかってしまう。

歩いて帰るのと対して変わらないとなれば、歩くほうが楽だ。いや、どっちも面倒なのだけれど。学校帰りでなければ自転車ですぐなのに。

夏の夜はやたら明るい。そして住宅街にもかかわらず、この辺りは人の気配が少ない。その奇妙なチグハグ感。

みんな家の中にこもっているらしい。
どこかからか晩ご飯のカレーの匂いが漂ってくる。

その家は、カレーを食べながら家族団欒の時間を過ごすのだろうか。国民的アニメのお馴染みのシーンが脳裏に浮かぶ。

「帰りたくねえなあ……」

そんなことを想像していると、思わずぽつりと本音を零してしまった。

昨日までなら自転車で一気に家まで走って帰っていたから、あっという間だった。けれど、徒歩だとどうしてもいろんなことを考えてしまう。

数分歩いただけでじっとりと肌が汗ばんできて、カッターシャツがベトベトと貼りついて不快指数も上がるばかり。今までだって何度も歩いて帰っているのに、久々だとこんなに遠かったっけ、と思えてくる。

はーあ、と声を出してため息を落とし、とろとろとした速度で歩いた。

どこからか、ぎい、ぎい、と金属がこすれる音が響いてくる。

しばらく進むと、右手に小さな空き地のような公園があり、音はそこから聞こえていた。

ふと足を止めて視線を向けると、ブランコが前後に揺れている。


誰かが、いる。ゆらりゆらりと前後に動くブランコに乗っているやせっぽっちの体が公園のライトで照らされていた。

あいつは、確か――そう思い、公園に踏み入れるとじゃり、と砂が擦れる音が響く。

「……あ」

音に気づいたらしく、ブランコに揺られていた人物はゆっくりと顔を上げて視線をこっちに向けた。

間違いない、今日クラスにやってきた転校生だ。名前は確か、遠山。遠山、なんだったっけ。

近くまで歩み寄ると、遠山の長い前髪がやってきた風によってふわりと浮いて視線がぶつかった。

その目があまりに綺麗で思わず胸がどきりと跳ね上がる。

どうして長い前髪で隠しているのかと問いたくなるほど整った顔立ちをしていた。けれど、同時にどうして隠しているのかも、一目でわかる。

「なにしてんの、お前」
「……やっぱり、きみだったんだ」
 
こちらの質問には答えずに、遠山はひとりでなにか納得したかのような意味のわからないことを言う。

首を傾げると「いつもここ、通ってたよね」とさっきまで歩いていた道を指差した。

「こっちに越してきてから……いつも自転車であの道を自転車で走る姿を、見かけてたんだ……今日教室で見かけて、もしかしてって思って、た」

遠山はそう言ってへらっと口元を緩ませた。けれど、それは笑顔というよりも愛想笑いみたいなものに見えた。

変な笑い方。

「バイト帰りに通るから。っていうか、なにしてんのこんなところで〝いつも〟」
「……な、なにも」
「家、帰んないの? 制服じゃん、まだ」

遠山は俯いて「うん」とよくわからない返事をする。なんだこいつ。返事になってないんだけど。

長い前髪に、どもりがちな話し方、丸まった背。

どれもこれも変な奴を印象づける。学校終わってから家にも帰らずこの公園ですーっとブランコ漕いでいたとか、意味がわからない。

相当暇だなこいつ。

こういう奴とはかかわらないほうがいい。変に懐かれてややこしいことになりそうな予感がする。そういうのは面倒くさい――けれど。

「……それ、誰に?」
「え?」
「傷あるだろ。深いやつ」

とん、と自分の左瞼を指で差さした。さっき、風が吹いた時にちらっと見えた傷跡。

きょとんとした様子の遠山は、しばらくしてからハッとして自分の目元を手で隠して「な、なんでもな、い!」と慌てて俯く。

それがなんでもない態度であるはずがない。嘘が下手すぎる。

遠山の目の前にしゃがみこんで、右手で遠山の目元にかかっている髪の毛をすくう。その下には、戸惑いなのか羞恥なのか、それとも恐怖なのか、わからないけれど揺れる瞳が地面を見つめていた。

遠山の整った顔立ちに不釣合いなほどの大きな傷がそこにはあった。

額の髪の毛の生え際から左目の瞼まで伸びる醜いもの。切り傷と擦り傷が混ざった大きな傷跡は、まるで悪意の塊のように見えた。

おそらく幼い時のもので、処置がちゃんと施されなかったのだろう。ボコボコと膨れ上がって肌が突っ張ったようになっていた。せっかく綺麗な顔なのに、もったいない。

「痛そうだな」
「もう、痛く……ないよ」
「まあ、そりゃそうか」

くは、と笑ってみせる。それに安心したのか、遠山も微かに口端を持ち上げて笑った。やっぱり歪な笑顔だなあと思う。今にも泣き出しそうなのに、全てを諦めたようにも見える。

変な顔だ。

すっと手を引くと、遠山の目元はまた厚く長い前髪に隠れて見えなくなった。

「なんの傷?」

質問を投げかけると、遠山は俯いて前髪を整えた。返事を待つ間に遠山の隣のブランコに腰かけると、ぎい、と怪しげな音が鳴った。前後に動く度に、大きな音が響き渡る。遠くで犬が吠えているのが微かに聞こえる。

しばらくの間、遠山はなにも言わなかった。

そして、どのくらい無言だったのかわからないが不意にぽつりと、なにかを口にした。

よく聞き取れなくて「なに?」と聞き直すと、今度はさっきよりもハッキリとした口調で答えてくれた。


「死に損なった、証」


根岸がこいつのことを〝ワケあり〟だと言っていた。
それは正しかったのだろう。

『死に損なった』なんて言い出すくらいだ。
それは、死んだほうがよかった、と思ってるってことじゃないだろうか。

おまけにこんな場所でずっとひとりで時間を潰しているのだから家庭環境も複雑そうだ。

遠山はそれ以上なにも言わなかったし、なにか返事や反応をもらうことも期待しているようには見えなかった。

瞬きをしている間に消えてしまいそうな儚さが、こいつにはある。

それは、今も死にたいと思っているからなのだろうか。いつの傷か知らないけれど、そのときに死んでしまえばよかったのに、とずっと思っているのかもしれない。

「出来損ないと、死に損ない、か」
「……え?」

ぽつりと独りごちると、遠山が顔を上げる。

「別に」

そう言ってすっくと立ち上がり、遠山を見下ろしながら「下の名前なんだっけ、お前」と問うた。

「み、観月……」
「ああ、そうだ観月だ。なあ、観月って呼んでいい?」
「あ、う、うん! え、えっと……」
「蓮でいいよ。みんなそう呼ぶから。今日はさっさと帰んないといけないから、またな。お前もさっさと帰れよ」

手を軽く上げて「じゃ、学校で」と言葉を付け足すと、遠山――観月の口元が緩むのがわかった。さっきまでのぎこちないものではなく、思わず綻んでしまったような自然な笑みだ。

目元は見えないけれど、きっと笑っている。

「う、うん! き、気をつけて、れ、蓮!」

さっきまでと違う明るい声色にこっちまで顔が綻んでしまった。

なにに対して観月がそこまで嬉しそうにするのかはよくわからないけれど。

今までどんな生活を送ってきたんだろう、こいつ。相当悲惨な人生だったんじゃないだろうか。

今までならば、観月みたいな奴とはあんまり関わりたくないと思っただろう。自分のことで精一杯な毎日だ。他人の事なんて気にしていられない。それに、あいつと気が合うとも思えない。

けれど、こいつを放っておけないと思った。

顔がすごく好みだったから、というのもあるかもしれない。

長いまつげも、大きすぎない目も、色の白い肌も、さらっさらの黒髪も、細くて長い指先も。まるでマンガや小説から飛び出てきたような美しさだった。

クラスにも学校にも、あんな奴はひとりだっていなかった。目を離した隙に消えるように死んでしまいそうな儚さが、観月の美しさを一層引き立てているのかもしれない。

けれど、それだけじゃない。

あの醜い傷跡や観月の話から、ワケありであることには間違いない。

おそらく、自分の家庭環境とは比較にならないような体験をしているだろう。

そんな観月と一緒にいれば、自分はまだマシなんだ、今の状況は些細な事だ、と思えるから。そして少なからず共有できるなにかがあるんじゃないかと、そう感じたから。

今まで、そんな奴は周りにひとりもいなかったんだ。



ほんの僅か寄り道しただけなのに、家についた頃には日が沈んでいて景色は随分闇に包まれていた。

携帯を取り出し時間を確認すると家からの不在着信が五件も入っていた。留守番電話も残されているらしい。

家まではあと五分程で着く距離だ。今、電話やメールをするよりも気づかなかったことにしておくほうがいいだろう。

そう思い携帯をしまって足早に家に向かった。


「ただいま」

ガチャとドアを勢いよく開けて玄関に入ると、母が「遅かったのね」と心配そうに告げながら出迎えに来た。たかが十分程度遅くなっただけじゃないか、と悪態をつきたくなるけれど、それをぐっとこらえる。

「遅いから電話したのに出なかったからなにかあったのかと」
「ああ、そうなんだ。ごめん気づかなかった」

わざとらしくポケットから携帯を取り出して今知ったかのような顔をしてみせた。

四十半ばを過ぎている母は一見三十代に見える。
それは母の仕草や性格のせいだろう。

拗ねて口を尖らせる仕草、眉を下げて人を上目遣いに見るところ、父に、子供に依存する質。ひとりきりじゃ寂しくて死んでしまいそうにか弱い、いつまでも〝女の子〟の母。

そう、母は〝女の子〟なのだ。母は今もおままごとをやっていて、子供のことを人形のように思っている。

そう感じる度にいつも嫌悪感で胸が気持ち悪くなる。

心を落ち着かせるために鼻からすうっと空気を吸い込んで細く長い息を吐き出した。